強迫性障害の全貌

強迫性障害の知識の普及 Link Free

強迫行為のタイプ分け/敏感な人は気が休まらないので、強迫観念が浮かびやすい/テレビに汚染される/悟りで強迫症は治せる?/強迫性障害の苦痛を和らげるために

強迫とは不快なことに、とりつかれて、それが離れなくなってしまう状態。
敏感な人は、ストレスを感じやすが、強迫症の人は、その上、ストレス耐性が低いことで、ストレスが残りやすく、そのストレスと結び付いた思考、感覚、記憶、感情、気分、情動などにも強迫される。
そういう強迫状態の苦痛から、そうならないようにと、危害回避が過剰となり、確認強迫などの様々な症状が出るが、強迫状態は付着状態でもあるため、(耐えられない嫌なことの)付着恐怖として、汚染恐怖や感染恐怖などにもなりやすい。

強迫性障害の人は、過敏性によって、強迫状態になりやすく、その苦痛の対処で強迫行為をしないといけなくなってしまう。
こういった強迫行為と、強迫行為に見えるその他の繰り返し行動を区別しなければならない。

過敏型強迫行為・・・刺激に敏感なことで生じる強迫観念の対処として行われる。
強迫観念には、違和感などの感覚的な不快感(強迫感覚)も含まれ、一見、無意味に見えるが、(特に子供の場合)不快な感覚に強迫されての行為である場合が多い。
敏感な人は、刺激への反応が長く残るので、ストレスへの反応自体にも強迫され、その反応で浮かぶ思考や、その体験の記憶そのものや、反応としての感情や気分にも長々と強迫されやすい。
憂鬱な気分に強迫されれば、ネガティブ思考に強迫されるが、その憂鬱感が現実への過敏性によるものでなければ、強迫行為は起こらない。
うつ病だけの人は、抑うつ症状で憂鬱であるから、ストレスに敏感になってしまうのであり、強迫性障害の人は、ストレスに敏感であるから、憂鬱感(抑うつ症状)にも慢性的にとりつかれてしまう。
強迫性障害の人は、うつ病にもなりやすいが、うつ病の人は、(元々は敏感でない人も多いので)、強迫性障害になってしまうことは少ない。
強迫性障害うつ病には、本来のうつ病の症状だけでなく、強迫症状自体のストレスによる憂鬱感や、神経に触れることを避けての不活発状態も重なっているので、根本に過敏性の問題がある限り、普通のうつ病よりも治し難い。

欲求型強迫行為・・・行為によるシックリ感、安心感、完全感など、それ自体にとらわれて、繰り返す行為。
そういった欲求が強いことで、(そうでない状況だと)不快な思いが浮かびやすい。
そういう不快感さえ感じずに、「こうでないといけない」「こうあるべき」という強いこだわり自体にとらわれる場合もあるし、習慣化された行動へのこだわりが強まることもあり、完璧主義、きれい好き、几帳面といった性格的な偏りだったり、単に癖で繰り返す行為も含める。
こういうタイプは、強迫行為を人に見られても気にならなかったり、むしろ強迫行為でしていることを人に話そうとする人が多いようです。
病的レベルであっても、強迫性パーソナリティ障害とか、行為依存症、あるいは自閉症的なこだわり行為なので、強迫性障害ではないが、強迫性障害に含める場合は、強迫行為先行型もしくは欲求型強迫症などとして区別する。

例えば、完璧主義的なきれい好きは、汚れへの恐怖があるから、きれいにするのではなく、きれいにしていたいから、汚れへの恐怖が強まり、完璧に掃除しようとして苦労する。
この場合の汚れへの恐怖とか、しなければならない掃除は、完璧主義的な欲求が引き起こすのであり、恐怖が引き起こすのではない。

違和感に弱いことの反動で、安心できる行為への欲求が強まり、症状が悪化する場合は、混合型であるが、この場合も、行為への欲求が原因で、違和感に弱くなっているわけできないので、欲求さえ抑えれば治るということではなく、違和感に弱い過敏性が強い限り、その反動での欲求は抑え難い。
混合型も強迫観念先行型なら、あくまで苦痛の対処として、行為を求めずにはいられなくなってしまう状態なので、本来的な意味での欲が強いわけではなく、強迫行為先行型の強迫行為とは真逆の症状です。

強迫観念ではなく、強迫感覚による行為の場合は、違和感の対処としての強迫行為を、社会的に役立たせることができる可能性はあるが、強迫観念の解消としての行為は、本人だけの感覚での苦痛の対処なので、他の人には役に立たず、社会の中では単に無駄な行為になってしまう。

普通の強迫症(強迫観念先行型)は、強迫行為を求めているのではない(欲求的な行動ではない)からこそ、行為での苦痛も強く、強迫行為を回避しようとする。

過敏性の強迫観念は、欲求的行動の反動で浮かぶわけではなく、ストレス反応で、欲求や思考に関係なく浮かぶのです。
強迫行為自体も苦痛なので、その行為がストレスになって、強迫観念が浮かび、その対処として、回避が過剰になります。

例えば、汚染恐怖の人は、強迫行為としての洗浄や洗濯は過剰にしないといけなくなってしまうが、本来はそれさえもしたくはないことなので、それ以外の部屋の掃除などが(汚れへの恐怖で)なかなかできない。
恐怖の対処としての行為なので、掃除をすることで汚されることになれば、それを洗浄しないといけないので、掃除をすることそのものが恐怖となり、その恐怖に対する強迫行為として、掃除の回避をしないといけなくなってしまう。
重度の強迫症の人は、様々な刺激に弱く、そのストレスを対処する行為自体の刺激にも弱いことから、セルフネグレストのようにもなりますが、強迫の苦痛で、ほとんど何もできなくなり、そうするしかなくなってしまうのです。

それらを含めて考えれば、強迫行為の時間が長いほど、重症という考えは間違いです。
重症の場合、強迫行為の回避が増えるし、強迫行為先行型であると、強迫行為は長くなりますが、強迫症的な苦痛の対処行為ではないからです。

精神病型強迫行為・・・過敏性による苦痛の対処でもなく、欲求的反復行為でもなく、こだわり自体にとらわれるわけでもなく、まったく無意味に同じことを繰り返す行為。
何にも強迫されず、強迫感覚や強迫観念もないので、強迫性障害ではない。
精神病の人に多いが、アルコール中毒患者などでも見られる。

軽い認知症でも、習慣化されたことでの安心感にとらわれて、(変化を恐れ)こだわりが強くなったり、忘れっぽくなって、不安が強まり、確認が増えたりすることもあるが、過敏性の問題ではないので、強迫性障害にはなり難い。
モウロクすることで、気になってしまうことは減り、こだわりも弱まるが、それはそれで、別の問題があります。


強迫症は説得で治せるか?

その説得しようとしていることを、本人はすでに分かっているのですが、その思考に関係なく、過敏性によって症状が出てしまうのです。
過敏性の強迫観念やそのストレスの対処としての強迫行為は、考えとか心掛けに関係なく、症状が出てしまうので、説得や対話でもコントロールできないのです。

敏感だと気が休まらないから、ストレスが気(神経や脳)に停滞したままになり、現実のストレス反応のダメージやそれによる強迫観念も消え難くなります。
こういう症状は、考え方が原因ではないので、考え方では治せません。

逃げるから怖いんだという考えは、強迫症状の苦痛を無視しています。

そもそも回避したり強迫行為をすることで、強迫観念が浮かぶわけではないし、癖で強迫行為をしているわけでもないのです。

例えば、汚染恐怖の人は、触られるのを「避けているから」、他人に触れらると強いショックを受けるのではありません。
人触れらると強迫症状の苦痛が出て、それに耐えられないから、触られないようにしているのです。
避けている(逃げている)から、怖いわけではなく、接触を避けること以前から、症状の苦痛が実際に危害としてあるので、だからこそ、避けるのです。

汚染恐怖や不潔恐怖や感染恐怖などの強迫観念が慢性的にあっても、多くの場合、発達障害(AD/HD)が土台にあることもあり、人に触られるのを避けるという注意が(油断したり忘れやすいことで)できない時もあるし、注意をしているつもりでも、急な接触だと避けられない時もあります。
油断しやいのは、ボーっとすることで、できるだけ刺激を意識しないようにしたり、刺激に反応しないようしてしまうからですが、気を付けたり注意をし続けるのは、神経を消耗するので、神経過敏の人には続けられないことも理由です。

汚染恐怖の人は、特に過敏で汚れを意識しやすいことで、汚れること自体が普通の人よりも多いのですが、強迫観念がその汚れの付着を強めますから、洗浄にも時間がかかります。
それが苦痛で、過剰な注意が増えますが、注意することは神経を使いますから、敏感な神経の人は注意が苦手なのです。
できれば、注意したくないのですが、過敏で刺激に弱いとそういうわけにもいかず、注意しないといけなくなります。
ですが、注意をしているつもりでも、注意が苦手なので、うまく注意しきれずに、余計に汚されることが増えてしまいます。

過敏性で、汚れを感じやすい上に、その汚れを避けることが苦手なので、汚れてしまうことが多くなってしまうのです。

実際に刺激に敏感であることで、一般的には些細なことでも実際に(本人には)危害になりますから、生理反応的に、それらを気にしてしまい、嫌でも注意をしなければならなくなります。

神経過敏→神経質ではなく、過敏であるから意識的に(性格として)神経質にすることが困難なのです。
それを神経質な考え方の癖の治療(森田療法認知行動療法)で治せるわけがありません。

過敏性によって強迫観念が浮かびやすいため、その苦痛を防ごうとしているのですが、思考力は正常ですから、注意が苦手なことも自覚できます。
注意がうまくできないことで、慢性的な警戒心や心配や不安が強まり、余計に苦手な注意をしないといけなくなり、それが苦痛で、そうしなければならない状況を回避するようになります。
当然、回避しているから、苦手なのではなく、苦痛だから、回避するのですが、そういう回避も注意をすることですから、結局、気が休まらずに、神経が消耗して疲れやすくなります。

こういう神経疲労を、昔は神経衰弱と言ったようですが、強迫症の症状がそれを引き起こして、神経疲労が余計に強迫症を悪化させます。

強迫観念の汚れの場合、(現実の汚れの)イメージとか考えですが、強迫観念が離れないことで、その汚れも消えなくなります。
感じる汚れなので、視覚的に見えるかどうかではありません。
通行人がすれ違いに接触してきたり、並んでいたら急に後ろの人に少しでも接触されたりすると、汚染恐怖の強迫観念が離れなくなって、強迫行為をしないといけなくなってしまう強迫症状が出ます。
その症状の苦痛で、人に触られるのを避けるだけでなく、共用のイスなどの公共物への接触による間接汚染なども避けないといけなくなります。
汚れると、その苦痛が離れないからです。

避けていることが原因となって、強迫観念が浮かぶなら、触られるのを避けなければ、確かに、強迫観念も消えますが、触られるのを避けていなくても、接触されれば症状が出るのですから、避けていること自体が原因となって、強迫観念が浮かぶわけではないのです。

認知行動療法などでは、その点を勘違いしています。

強迫症状の苦痛が強まることが原因で、そうさせるストレス対象を避けないといけなくなっているのです。
これが過敏性の強迫症で、考え方が原因ではありません。
行動が問題となって、強迫観念が浮かびやすいわけでもないので、こう考えさせて、こうさせるという認知行動療法はまったく無意味です。
強迫観念は、考え方や行動の癖が原因ではないので、考え方や行動だけを修正しようにも、強迫症は治せないのです。

行動としてどうこうするから、強迫観念が浮かぶわけではないし、癖で強迫行為をしているのでもないので、表面的に、症状の対処としての強迫行為の仕方をどうこうしようとするだけでは、強迫症は治りません。

根本的原因の神経過敏を無視しては、治せるわけがありません。

森田療法の教祖は、強迫症の人は、神経が過敏になっているわけではないと言いますが、その根拠の1つとして、神経衰弱に効果があるという療法や迷信療法など、何をやっても治せなかったからだと言います。
しかし、昔も今も器質的な神経過敏を治す療法はないので、何を何年しようと治らなくて当たり前です。

森田自身の神経質による完全主義によって、治せないから、治せないことの原因(器質的な神経の過敏性)を除外して、神経質という治しやすい病気を作り出し、強迫症のみんながそうであるかのようにして、治せると言い出したのです。

森田は、仏教や禅の思想などに共感して、悟りを得たつもりになり、森田療法を考え出しました。
治そうとしないことで治るという大発見をしたつもりで、それを精神医療に持ち込んで有名になりたかったのですが、そもそも病的完璧主義による誇大解釈で仏教を理解できていなかったからこそ、(妄想として)悟りを得られたのです。
その妄想的勘違いで考え出された理論は、絵空事であって、現実には通用しませんから、その理論に合わせて、強引に現実(実際の病気)を変えることで、認められようとしたのです。
神経質(現実反応ではなく、完全に心の問題での苦痛)であれば、それは通用したので、強迫症の症状も神経質であることにしたかったのです。

森田療法は病気の強迫症の治療法ではなく、治せないことを治そうとすることでの苦痛を減らすことです。
神経質の場合は、治そうとすることでの苦痛しかないのかもしれませんが、過敏性によって、ストレス耐性の低い人は、その元の苦痛で症状が出るのですから、治そうとしなくても、その元の苦痛は消えません。
それも消そうとせずに、あるがままにすればいいと言っても、過敏性によって、それに耐えられないからこそ、強迫症状が出るのだし、元々から、治そうとする(消そうとする)ことでその苦痛が生じているわけではないので、森田療法の言う治そうとしないことで治すという理論はまったく通じません。
苦痛が消えなくてもそれを放置して、他のことに取り組めば良いというのは、ただの我慢であり、療法ではありません。

前回書きましたが、何らかの欲求が強いことで、その反動として不安になって、強迫観念が浮かぶわけではありません。
気のせいの精神症状も確かにあることはあるのですが、そういう心理的な不安状態や神経質を治すことと、過敏性の強迫症状を治すことは全然違うので、当然、森田療法で本来の強迫症は治せません。

認知行動療法でも、強迫行為をしないといけなくなったら、それを我慢する。そうすると、強迫行為を止められる。としていますが、それができない病気が強迫症なので、そうできるなら、強迫観念ではなく、(未来的なことへの)不安を抑えるための行為をしているのです。
そういう不安は、強迫行為をしなくても、それがすぐには起こるわけではないので、我慢もしやすいのですが、汚れのように、すでに実際に起こってしまったことでの(現在の苦痛による)強迫観念は、それ自体の不快感や屈辱感だけでなく、(それが汚れと感じられる原因になった)過去の記憶への嫌悪も重なっていますから、強迫行為をする前から、実際のことでの苦痛がすでにあるわけです。
それに重なって、汚染されることで「こうなってしまうかも」という未来への不安や恐怖も結び付いているのであり、(未来的なことへの)不安だけが強迫観念だと誤解すると、強迫症の理解はできません。

強迫観念が(未来的なことへの)不安だけという人もいるのですが、その場合でもその不安が強迫観念化して消えなくなってしまう苦痛や、それによって、強迫行為をしないといけない苦痛は、(未来的なことへの)不安が実際に起こらなくても、現在のこととして実際に起こっている苦痛なのです。
そういう症状による苦痛に耐えられないので、強迫観念を浮かばせるような状況の現実が(本人には)実際に危害になってしまうのです。
強迫行為をすること自体も症状の苦痛なのに、それをしないければ問題ないというのは、治療ではありません。
それをしなければ、強迫観念の苦痛が残ってしまい、それは放置していれば消えるような不安ではないからこそ、強迫観念というのですから、強迫観念であれば、放置ができないのです。
放置できないことを、何分か放置していれば、消えるというのは、治療ではありません。

何分かで消えるような普通の不安と、不安による強迫状態は違うのです。

恐怖症と強迫観念の恐怖は変わらないという人もいますが、恐怖と、恐怖による強迫状態の違いを理解できていません。

普通の不安や恐怖による精神症状の場合、それを感じるストレス対象から離れれば、基本的には問題ないのですが、強迫症の場合、その不安や恐怖が強迫観念となって残ってしまいます。

過敏性によって、嫌な感じが残ってしまうからですが、不快な感情が消えなくなれば、その対象も、当然、思い浮かんでしまいます。
不安や恐怖や嫌悪だけでなく、怒りを感じたこととか、そういう不快なこと全般が(トラウマになって)忘れ難くなります。

その不快な思考や記憶、そしてその感情自体にも神経が長々と過敏反応してしまいますから、頭でどう考えようと、そういった嫌なことが全般が離れ難くなります。

そういうのが強迫状態なのです。

身体醜形障害(醜形恐怖症)という病気は、周りから見れば、それほど醜くないのに、本人的には(自分のことを)醜いと思い込んで、過剰に気にしてしまう病気ですが、これも基本的には過敏性の精神症状です。
ただ、強迫性障害の場合は、それ以外にも何らかの強迫症状があるのが普通で、自分のことだけではなく、グロテスクな物事全般に恐怖して、その物事に感染してしまい、洗浄強迫などが起こります。
強迫症であると、不潔恐怖、汚染恐怖、感染恐怖、醜形恐怖などが起こりやすいのですが、不幸な物事全般への感染恐怖がある人も多いようです。
強迫症状によって、そういったことで実際に危害を受けて不幸になり、その状態に強迫(付着)されますから、洗浄するのですが、それが苦痛でそういうことへの不安や恐怖が続きます。

そういった強迫観念と妄想の違いは簡単に区別できます。
妄想の場合は、不安や恐怖を感じるとしても、それを感じさせる対象自体が非現実のことなのです。

例えば、コロナ妄想のように、妄想状態の人が、コロナがどうこうと言っている場合、現実のコロナのことではなく、妄想化されたコロナのことなのです。
現実のコロナが元(妄想の情報源)になっていますが、それが妄想に取り込まれて、現実から切り離されているのです。
本人の頭の中だけのことであり、現実は無関係なのですが、聞いてる人は、現実のことを言っているのかと思えますから、変な人に見えるのです。
本人は現実と思っているというよりは、統合失調や認知症で、現実を把握しようとしないので、頭の中ことを言っているだけなのです。

強迫観念の場合、現実に対する感じ方の強さの違いはありますが、現実のことなのです。
頭の中だけの非現実にとらわれる妄想とは違い、現実のことに対して浮かぶ思考が過敏性によって強迫観念になり、それにとらわれます。
統合失調していませんから、現実はしっかりと把握できての上で、強迫観念が浮かびますから、本人は、それが自分だけの思いであることは分かっています。
頭の中のことと、現実の区別も当然ありますが、現実に反応した頭の中のことなので、感受性の違いから、一般的ではなくても、本人の感覚では、現実のことで、実際にも現実なのです。
その苦痛な思いが離れなくなって、耐え切れずに、強迫行為をすることになります。

妄想の場合、頭の中のことと、現実の区別がないので、妄想によって、様々な異常な症状が現実側に表面化します。
強迫観念は現実のことへの反応で浮かびますから、それを解消しようと、現実行動の強迫行為をしないといけなくなりますが、現実のストレス反応でそうなってしまうので、そうすること自体は正常なのです。
強迫観念や強迫行為は、過敏性によって、一般的ではありませんが、強迫観念の場合、自分の内側だけの症状であり、自分だけの苦痛の対処として強迫行為をすることになります。
ですから、(話さない限り)表面的にはほとんど他人には分からない病気で、だからこそ理解され難いのです。
身近な人なら、巻き込みなどで、変であることがなんとなく分かるかもしれませんが、強迫観念の悩みは本人にしか分かりませんし、通常、重症であると他人との共同生活や集団行動が困難になり、社会的に孤立します。

強迫観念は、妄想ではないので、妄想を抑える薬では治せませんし、ただの不安症状ではないので、不安を抑える薬も効きませんし、心理が原因ではないので、心理療法も通用しません。

単に、不安が強いということなら、回避的生活(引き篭もり)ができますが、不安が強迫観念となってしまうと、引き篭もっても不安が消えないので、その思いを消そうと、強迫行為をしないといけなくなってしまうし、過敏である限り、日常の些細なことで強迫観念が浮かぶので、引き篭もっても症状は続きます。

過敏性(過剰に敏感な反応)によって、気になったことが気になったままになり、考え事が止まらない状態にもなりますが、ひきこもってもそれは止まりません。
しかし、躁状態や妄想状態で興奮して思考が活発化することは、全然違うことで、躁状態や妄想状態ではストレスに強くなっているので、そういう考え事で悩みませんし、興奮して、現実を把握できなくなり、実際にはあり得ないようなことでも信じ込んでしまいます。

強迫の人は、自閉も統合失調もしませんから、不安としていることが、ほとんどありえないことなら、それを他人に言われなくても、その前に本人はそう思っています。

ですが、その普通の思考と並行して、強迫観念としては、ありえるように思えてしまい、その思いは、普通の思考よりも強迫性が強いので、自分の意志ではコントロールできずに、半面思考で、ほとんどありえないと分かっていても、その強迫観念がある限りは、どうしてもありえるように思えてしまいます。

それが実際に起こらないにしても、そう思えてしまう強迫観念が続くこと自体も苦痛ですから、そうならないように、強迫行為をするのです。

認知行動療法などでは、不安に思っていることが起こらないと分かれば、患者は安心できるかのように言っていますが、起こらないと分かっていても、強迫観念によってそう思えてしまう症状自体も苦痛なのです。

例えば、ニュース番組で、病気の情報を知り、その病気のことが頭から離れなくなって、(病気への恐怖強迫や感染恐怖や情報汚染などの)強迫症状が出たとします。
その病気になっていなくても、強迫症状による苦痛がトラウマとなり、その苦痛が強まったり、またそういう苦痛が起こらないようにする為に、ニュース番組自体とか、テレビ自体を見れなくなってしまうのです。
この場合、病気そのものだけではなく、その病気への恐怖での強迫症状自体も苦痛なのです。
その危害(症状の苦痛)を与えたのが、ニュース番組なので、この場合のストレス対象は病気そのものだけではなく、その情報を見せ付けてきたニュース番組になりますから、その病気だけではなく、ニュース番組(その病気の情報や同様の恐怖を煽られる情報)も避けるのです。

その症状自体は、実際のことですから、現実の苦痛です。
強迫観念も妄想ではなく、現実の何かでの思いですから、現実を変える強迫行為をすることで、その現実反応の強迫観念も弱まるのです。

不快な情報を避けて、テレビなどが見れなくなってしまうのは、PTSDでも起こりますが、PTSDの場合、トラウマのみが原因であり、強迫観念がないので、それで汚れたりすることもなく、洗浄などの強迫行為は起こりません。
PTSDは普通の人に起こる病気ですが、強迫性障害の人の場合、過敏性の問題があるので、些細なことでもトラウマになり、PTSD症状の上に、強迫症状が重なって、PTSD症状も重度になります。

実際には害のないテレビを避けるなんて、妄想でとは考えるのは間違いです。
それは強迫症と言う病気そのものを無視しています。
テレビによって、強迫症状が出るのですから、本人にとっては実際に害が強いのです。

そういった強迫観念がコントロールし難いのは、意識的に思考することではなく、不快な感情がそれを浮かばせるからで、神経過敏であると、不快に感じたことがショックとなって印象付いて長引いてしまう分、強迫観念も浮かんだままになってしまうのです。
自分で意識して考えていることではないので、自分の考えでは変えられないのです。

ただ、過敏性と、ストレス耐性の低さだけではなく、一旦気になったことが、頭の中で繰り返されてしまう状態になっていていることも強迫に関わっています。
そのリピート現象自体は嫌なこととは限らないので、強迫観念ではありませんし、そうなっては困ると思っているから、思い浮かんでしまうわけでもないし、楽しいことでもないので、欲求があっての願望でもありません。

おそらく、ショック体験の記憶や強迫観念の反復想起によって(そういう想起に巻き込まれて)、他の記憶や思いや、たまたま印象に残ってしまったことなどが、反復しやすいの脳になってしまうのではと考えています。

それが起こる1つの理由としては、ショック体験の記憶や強迫観念の反復想起が浮かび続けてしまうので、それを意識しないようにと、それではない何かの思いとか、考え事とかが(頭の中での強迫行為として)自然に浮かんで、なかなか止まらなくなってしまうのです。

精神病的な無意味な繰り返しとか、単に考え方の癖で、頭の中で同じことの繰り返しが起こりやすいのではなく、ショック体験の記憶や強迫観念が強く浮かばないようにしているわけで、これも強迫症状なのです。

その症状があるので、余計に、過敏性によって印象付いたことも、頭の中に何回も浮かんでしまったり、繰り返し確認などの衝動の反復にも繋がっているようです。

同じ心配も何度も浮かんでしまうので、特に緊張する状況だと、やろうとする物事に時間がかかったりしますが、これは、マイルールへのこだわり自体にとらわれる緩慢とは別のことです。

刺激に弱い人は、心を静かにさせたいので、周囲から見ると、落ち着いていて、時にボーっとしているようにも見えます。
強迫症でもそうなのですが、内面的にはいろんな反応で慌ただしいので、その刺激を和らげようと、落ち着かせているのです。

HSP・HSCのような感覚過敏な人も、ボーっとしているから、敏感になってしまうというよりは、ボーっとすることで、周囲からの刺激を弱めようとします。
無意識に現実の刺激を避けているのでAD/HD的なミスに繋がることもあり、HSP・HSCだと、AD/HDにもなりやすいのです。
それを防ごうと注意過剰になって、強迫症状にも繋がりますから、強迫性障害には、HSP・HSCもAD/HDも多くいます。

上にも書きましたが、強迫性障害だと、注意ができているのではなく、注意が苦手だから、注意過剰になってしまうのです。
いろんな刺激を弱めようと、ボーっとしながらも、様々な刺激や強迫観念が邪魔して、ハッと気付いて、いろんな注意をすることになります。
覚醒と鎮静が混ざっていて、丁度良い状態にはなかなかなれません。
心を落ち着かせようにも、刺激への過敏性で、刺激回避ができずに、完全な現実逃避もできませんから、中途半端な寝ぼけ状態のようにもなって、自然と思考や記憶も反復しやすくなります。

自閉や統合失調や解離は、症状自体が自然と現実からのストレスを避けますから、強迫観念が残りません。
そういう症状自体で神経過敏や感覚過敏になってしまうこともなく、簡単な刺激へのオーバーなリアクションは、自閉していることでのその刺激への過集中とか、統合失調の妄想状態による過剰反応であり、実際の神経過敏や感覚過敏とは別のことです。
陰性症状の場合、刺激に鈍感になっているから、ボーっとするのであり、ボーっとしていることで、簡単な刺激には敏感になってしまう面もありますが、単にボーっとしていることでの反動であり、実際には神経過敏ではありません。

本当に敏感だと、刺激への反応が内側に向かって、内面では強い衝撃を受けますが、表面的にはオーバーなリアクションができません。
ストレスを表に発散したりも内面での対処できないので、処理されないまま神経に長々と停滞してしまいます。
そこには不快な感情があり、その感情は強迫観念と共に消えなくなりますから、その苦痛を強迫行為で対処するわけです。

統合失調や解離は症状自体が現実のストレスを避けるので、強迫行為も起こりません。
そのかわり、統合失調や解離の症状によって、現実面に鈍感になり、妄想状態になったり、現実からストレス対象が切り離されること(現実のストレスの放棄)で、現実の一部を思い出せなくなったりします。

強迫症では、そういうストレス対処の症状が出ないので、現実のストレスや強迫観念が解消できずに、強迫行為で対処するのです。
ストレス回避で空想に入り込もうにも、現実への不安や刺激によって、意識が現実に戻されてしまうし、嫌な記憶を忘れることができずに、PTSDにもなります。

反復思考に関しては、それが何であれ、不快な感情が起こらないなら、頭の中で何回繰り返されようとそんなに邪魔になりませんから、放置できるのです。

強迫観念の場合、必ず何らかの嫌な感じをともないますから、放置ができませんし、放置してもなかなか消えません。

うつ病の自殺願望はストレス回避で浮かぶのですから、強迫観念というよりは、頭の中での強迫行為的な症状です。
強迫行為と同じで、できれば、そうしたくはないが、(うつ状態とか人生の苦痛とかの対処として)そう思えてしまう状態なので、元になっている(憂鬱にさせる症状も含めて)ストレスがなくなれば、そう思わなくても済むのですが、うつ状態によって、ストレスがなくならないので、何度も頭の中に浮かんでしまうのです。
元になっている(憂鬱にさせる症状も含めて)ストレスがなくなれば、本当はしたくないことなので、願望でありながらも、それが怖かったりして、そうできないことでも苦しむのです。
うつ病であると、そういった苦しみのストレスの対処ができないので、自殺願望として頭の中で仮の強迫行為をするのですが、実際の強迫行為と同じで、それが繰り返し浮かぶことも苦痛なのです。
そうしたくなくても、そう思いたくなくても、そうしたいと思わなければならない症状が続くこと自体が苦痛だということです。

強迫行為と同じで、ストレスへの反応ですから、自殺願望を思い浮かべなければ良いということにはなりません。
(現実や症状での)ストレスが続く限り、そうしないといけなくなってしまいます。
うつ症状やそれと結び付いている現実のストレスが原因なのですから、それを解消するしかありません。

ストレスの少ない環境にして、しばらく休むことが大事なのですが、うつ状態の内面症状が気が休まらずに、それもできませんので、これもなかなか治療が難しいのです。

ただ、うつ病の場合は、元々は健康で普通の人も多いので、元々からストレス耐性のある人でしたら、しばらく療養すれば回復します。

強迫症の人も大抵は、鬱になりますが、強迫症は、ストレス耐性の低さから、不快な感情などが続きやすい病気なので、一旦うつになってしまうと、そのうつ状態にとらわれてしまい、普通の人のうつ病よりも治しにくくなります。

強迫行為はストレスの対処なので、適度に強迫行為をしないと、逆に悪化してしまうのですが、過敏な分、ストレスが多くなり、過剰に強迫行為をしないといけなくなって、ストレスの対処によっても、ダメージを受けてしまうのです。

実際にストレスを対処するには、ストレスが強いほど、かなりのエネルギーを使いますから、環境調整などをしようにも、ストレスに弱い人はなかなか困難なのです。

うつ病は不活発になりますから、強迫行為をしなければならない状況の回避が増えますが、過敏性の問題があり続けるので、回避的生活でも、強迫観念が浮かびやすく、どれだけうつ病が重症化しても強迫行為という過剰な行為をしないといけなくなります。

そのことから、重度のうつ病ではないようにも見えますが、重度のうつ病の症状に重なって、強迫症状が続く感じなので、うつ病だけの人よりも、苦痛が多くなり、そのことで、鬱が治りません。

強迫症うつ病を強めますが、うつ病によって不快な感情やネガティヴ思考が強まり、強迫観念が悪化するので、強迫行為も強固になります。

日頃から我慢できることは我慢している上での強迫であり、そうしないと生活できないのですが、我慢すればではできていたことも、気力の低下から、我慢ができなくなってしまいます。

その中には、一般の人には我慢の必要のないことや、むしろ普通なら楽しいことも多いのですが、ストレス耐性が低いことで、耐えられることの基準とか、刺激によるストレスの(苦痛の)程度が一般とは全然違うので、社会にいれば、普通の人よりもストレスを受けることが多くなり、それらを我慢する無理が続くことで、鬱や強迫も悪化して、我慢が困難になったり、何かしようにもどうしてもできないことが増えてしまうのです。

単に嫌だとか怖いとかなら、我慢もしやすいのですが、特に汚染の強迫症の場合は、普通は汚れないことで、自身やその場所一帯が汚染されたりもしますから、そうなれば、全身洗浄とか、洗濯とか、(汚れが落とせなくて)捨てたりとか、汚染された場所(汚染区域)の回避なども増えてしまいますから、強迫観念が離れない苦痛と、強迫行為の苦痛も含めて、そういう症状の苦痛を起こさせる対象が危害になって、それを生理反応的に回避するのです。


汚れとはなんでしょう?

何が不安で、何がどの程度怖くて、何が嫌なのか、そういうことは、人それぞれですが、気にならないことは、強迫観念にもなりません。

強迫観念が消え難いのは、不快な感情が結び付いているからで、例えば、汚れても、その汚れが嫌でなければ、強迫観念にはならないのですが、うつで、ストレス耐性もさらに低下するので、余計に刺激に弱くなり、不快な感情が浮かびやすく、汚染恐怖の人は、汚されることも増えます。

何がどの程度汚れなのかも、人それぞれの基準があり、それは汚れに対してどういう反応が出るかで決まります。
どんなに汚れても嫌でないならば(不快な感情が起こらないなら)その汚れは気になりませんから、汚れではなくなり、洗浄もしなくて済みます。
周囲の人からは汚れているように見えても、その人には何も苦痛はありません。
本人の範囲では、汚れの無い人とも言えますが、そうすると清潔でもないのです。

うつ病で、汚いとは思っていても、洗うことが億劫で、汚れたままにしてしまう場合、そのことに不快感を感じるかもしれません。

うつ病の人は、不活発な状態になりますが、陰性症状と違って、したいことができないことに苦痛を感じるのです。

汚染恐怖の人は、うつ病で、どれだけ億劫でも、汚されると不快感が強烈に強まり、それが消えなくなりますから、どうしても洗わないといけなくなり、汚されることが大変なストレスになります。

統合失調症では症状で鈍感になり、不潔な状態にもなりますが、本人は苦になりません。
病気でなくても、どん感な人は、他人への共感力が無いので、自分の基準でしか物事を考えられず、全てがそうなのだと思い込み、統合失調症では現実への理解力も低下しますので、妄想にもとらわれやすくなります。

自閉症統合失調症には独り言も多いのですが、統合失調症の場合、鈍感性によって、現実の把握力や理解力も無くなり、妄想で思い浮かんでいることを何でも言うようになります。
それを現実だと思っているというよりは、現実なのか非現実なのかの区別もできないのです。
それを聞いて不快に思う人がいたり、変な人だと思われても、共感力がなかったり、周囲のことを気にしなくなっているので、迷惑をかけていることに気付けないのです。
特に陽性症状の場合、興奮して鈍感になっていますから、普通なら不快に思う言葉を使うことにも本人はストレスを感じないのです。
この鈍感性によって、本人は平気でも、周囲は迷惑を受けるのです。

逆に過敏性が強いと、一般的には些細な刺激で本人だけ苦痛を受けて、強迫症状が出たりもするのですが、(普通の人は過敏ではないので)周囲の人は、同じ状況で同じ体験をしても平気なのです。
強迫症の場合、考え事は止まらなくなりますが、周囲にだけではなく、自分自身にも敏感なので、何か言えば、自分で聞くことになりますから、特に不快を感じるようなことは言えませんし、他人からそれを聞くのも耐えられないのです。
そもそも感覚から入ってくる様々な刺激に過敏反応してしまうので、見た感じ気性の荒い人とか鈍感な人、汚い人などを避けます。
強迫観念を煽られるような言葉や文字を見聞きできなかったり、そういった視覚や聴覚情報でも(物質的な汚れと同じように)汚れてしまう人もいます。

それが情報汚染です。

日本は外国からすると清潔らしいのですが、強迫症の人からすると、そうでもありません。
特に情報による汚れや暴力に鈍感になっていて、精神的なことでも汚れてしまう強迫症の人だと社会適応できなくなっています。
恐怖、不安、嫌悪、そういったことを引き起こす情報を垂れ流しにするのは良くありません。
そういった不快な情報にも感染してしまう病気が強迫性障害なのです。

情報汚染というのは、不快な映像、音声、会話、文字などが汚れとして付着して汚染されることです。
ただそれは、現実の何かが、思考上で考えやイメージの形の強迫観念(表象幻覚)として付着するのであり、真性の幻覚のようにありありと見えているわけではありませんし、自分だけそう思えること(他の人はそう思えないこと)が分かっている、恐怖対象が非現実ではない(妄想は対象そのものが非現実にある)という点で、一見、妄想的であっても、普通の強迫観念です。

マスメディアで汚染される症状がある人もいますから、病院などの待合室からは不快な内容の新聞、雑誌などを撤去してください。
それらは共用物ですから、感染症(接触感染)対策としても撤去が一番です。
テレビを置く場合は、テレビ番組の垂れ流しではなく、環境映像や癒し系の映像などを流してください。
テレビ番組の内容(言葉、映像など)で汚染される人の身にもなってください。
強迫症だと、雑誌の表紙などでも汚されてしまうのです。

電車内の広告、駅などの貼り紙等も、無理やり見せ付ける物ですから、過敏性の精神障害者に配慮して恐怖や不安を煽るような内容の物は止めましょう。

視覚的暴力も普通の暴力と変わりません。
病的に敏感な人は、そういうことでもトラウマになり、強迫症にもなります。

敏感な子供達が、精神障害にならないようにするためにも、体にも心にも衛生的で優しい社会にするべきです。


強迫行為は症状なのか?

強迫行為をすることにも苦痛がありますから、症状ではあるのですが、実際には現実のストレスやそれと結び付いた強迫観念などの対処であり、一時的な治療行為です。

強迫性障害で病気なのは、強迫観念のほうであり、強迫行為を止められなくなってしまう病気と考えてしまうと、依存症などの止められない行為との区別があいまいになり、治療のアプローチもうまく行きません。
強迫性障害ではない病気の治療法で、強迫性障害を治せそうすることになってしまうのです。

強迫観念の対処として、強迫行為をするのですから、強迫行為をしなくなっても、強迫観念の苦痛は残ったままなのです。

その苦痛は、放置していれば、消えるということではなく、そうならないから強迫観念になって、それに耐えられるストレス耐性がないからこそ、強迫行為をしないといけなくなってしまうのです。

通常は強迫行為よりも強迫観念のほうが苦痛なのですが、強迫行為も苦痛ですから、その苦痛が起こるようなストレス状況を回避するようになります。
しかし、日常的な些細なことで強迫観念が強まるので、回避し切れませんし、ストレスの少ない環境にいても、内面症状として強迫観念は続きます。
回避行為自体もそうしたいのではなく、ストレス反応ですから、それにも苦痛があり、それで何かをしようとするのですが、何かをすれば、頻繁に強迫症状が邪魔するのです。

ストレスフルな生活よりは、ストレスが少ないほうが悪化し難いのですが、何もしないことも何かすることもその中間も、過敏である限り、どこにでもストレスがあり、どうやって生きようとしても、その環境レベルでの強迫症状が続くのです。

過敏だから強迫観念が浮かび残りやすく、その対処として、強迫行為をするのです。
強迫観念が先にあり、強迫行為をすることで、強迫観念が浮かぶわけではないので、強迫行為を止めれば強迫症が治るということではありません。

強迫行為をするほど、その安心感を求めて、益々、強迫症状が悪化するという考えは間違いです。

安心感を求めて強迫行為をしているのではなく、ストレス耐性が低いことで、苦痛に耐えられずに、そういう実際の危害への生理的反応として強迫行為をしているのです。

人は、痛みを感じれば、その痛みを何とかしようと対処するようになっています。
それは安心感を求めてする行為とは別の話で、ストレスに対して反射的に行われる正常な生理反応です。

例えば、痛み止めを飲んで、その痛みを消して、安心できたからといって、どこも痛くないのに、また痛み止めを何度も飲もうとするでしょうか?
もしその痛み止めで、幸福感とか爽快感が得られるなら、そうするかもしれませんが、そうでないならば、飲んでも意味がないので、依存することはありません。

もし何度も痛み止めで痛みを消したとしても、痛いから飲むのですから、そのことで余計に痛みを感じやすくなったりもしません。

強迫行為自体も、それで対処をしようとする苦痛が無ければ、それをしたからといって、安心できるわけではないのです。
それは楽しくもないし、幸福感とか爽快感が得られることでもありません。
むしろ、苦痛で、やらずに済むなら、やりたくないことなので、強迫行為自体に安心を求めることはできませんし、初めから苦痛が無いなら、わざわざ繰り返そうとはしません。

安心感を求めていなくても、危害のあることはそうならないように避けようとするし、実際に苦痛で耐えられないことは、その痛みを消そうとします。
人間の仕様として、そうするようになっているのです。
敏感な人は、その程度が一般とは違うことで、正常な反応が過剰になって症状になってしまいますが、本人としては正常な生理反応なのです。

ですから、強迫行為をするほど、強迫観念が浮かびやすいという考えも間違いです。
強迫行為をする前から、強迫観念があるので、強迫行為をすることによって、強迫観念が浮かびやすいのではありません。
強迫行為をするしないとは無関係に、強迫観念は過敏性によって浮かびやすいのです。

強迫行為をするほど悪化するという考えは、依存症での行為と強迫行為の区別ができていないのです。

欲求的行動とかの快楽を得るための行動は、止められないにしても、それをすること自体には苦痛が無いので、強迫行為ではないのです。
その場合の苦痛は、それができないことでの苦痛であり、行為を本当は止めたいという気持ちがあるとしても、止められないこと自体が苦痛なのではなく、欲求的行動とか快楽を得るための行動ができない時に苦痛があるから、(もし止めたいとしたら)それが嫌で止めたいのです。
快楽的なことをすると、それをしない時の精神的反動が強く、それが苦痛なので、余計に快楽を求め続けてしまうのが依存症です。
苦痛を対処しようとする強迫行為ではなく、行為を求めるからこその苦痛なので、行為を求めなくなれば、苦痛もなくなります。

依存症ではなくても、強迫行為をするほど強迫観念が浮かびやすいとしたら、強迫行為が欲求的な行為の人などです。

例えば、ハンドモデル(手のモデルさん)とかやっていて、日頃から手をきれいに維持する気持ちの強い人は、些細な傷が付いても大きなショックを受けますが、これは敏感だからではありません。
「こうでないといけない」という気持ちが強いことで、そうでないとショックを受けやすくなります。
完全に心理的問題です。

毎日マスクをして生活していれば、マスクを取った時に匂いを強く感じますが、これも敏感だからではなく、マスクをしていたことで、どん感になっていたから、差によってそう感じるのです。

そういう感じで強迫症状が出る人もいることはいますが、あくまで一部の人であり、本来は強迫症ではないのです。
そのタイプは、強迫症に含めるとしたら、強迫行為先行型ですが、神経過敏が原因の強迫ではないので、強迫行為を求めなくなれば、強迫観念も浮かび難くなります。

しかし、強迫行為しなくなっても、刺激への過敏性による強迫観念は無くせません。
実際に神経過敏の人の場合、強迫行為をすること(求めていること)によって、(心理的に)敏感になっているわけではないのです。

例えば、実際に肌が敏感だと、些細な刺激で傷付き、なかなか治らずに、ダメージが長引きます。
だから、肌を守ろうとするのですが、肌を守ろうとしているから、敏感なわけではなく、敏感だから、肌を守らないといけなくなってしまうのです。

同じように実際に匂いに敏感な人は、マスクをしなくなっても、敏感なままなのです。

そういう感じで過敏性により、強迫症状が出る人が本来の強迫症であり、このタイプは、強迫行為をするから、強迫観念が浮かびやすいわけではなく、強迫行為をしなくても、過敏性が解消されない限り、強迫観念は静まりません。

同じように、巻き込みをすると強迫症状は悪化するというのも間違いです。
強迫観念が生じることも、強迫行為をすることも、強迫行為や巻き込みが原因にはなりません。

強迫症の人が人と共同生活しようとすると、(特に汚染の場合)巻き込みは避けられませんが、重症の人は、人との共同生活(同居)ができないので、巻き込みさえできません。
それでも悪化するし、そもそも巻き込みに関係なく、最初から苦痛があるのです。

そもそも、巻き込み型の強迫症なんて言うのはありません。
そういうタイプは、大丈夫かどうかを人に聞いて、大丈夫と言ってもらえれば落ち着き、その安心感を求めて、巻き込み症状が悪化すると言いますが、上に書いたように、普通の強迫症は、安心感を強く求めることで、強迫観念が浮かぶわけではないのです。
巻き込みで強迫観念が悪化するとしたら、依存する欲求の強さが原因であり、それは強迫性障害ではありません。
そもそも、なんらかの不安や恐怖があっても、付き添いがいれば大丈夫とか、身内とかが大丈夫と言えば安心できるとか、そういうレベルであれば、普通の人の不安思考やの恐怖観念に近く、強迫症的な強迫観念は最初からないのです。
確認などの強迫行為を身内にやってもらったりする巻き込みも、そういう人の依存行為が悪化するとしても、安心を求めているから、強迫観念が浮かぶわけではないので、強迫性障害強迫症状とは関係がないわけです。

本来の強迫症であれば、強迫行為をする前から、実際に大丈夫ではないから、強迫行為をするので、強迫行為をしなくても大丈夫ですよという説得が通じません。

安心する強迫行為をするから、反動で苦痛があるわけではないのです。
強迫症であると、強迫状態によって、刺激の苦痛が増強され長引くことで、余計に耐えられない刺激になり、ストレス対処として強迫行為をするのです。

自閉、解離、統合失調症などは、症状自体で現実のストレスを回避します。
ストレスへの鈍感化が起こるのですが、器質的に敏感な人は、どうしても鈍感になれないので、そういう症状が出ません。

統合失調症になりやすい脳の人が、統合失調症になっていると考えられていますが、そういう症状を体現できる器がないと、その症状は起こり得ないのです。

解離はストレスへの防衛的な症状だと考えられていますが、一種の自閉(現実逃避)症状です。
鈍感になれる素質があるからこそ、そういう症状が出せるので、敏感だから、解離するのではなく、元々から鈍感になれるからこそ、解離できるのです。
自閉や統合失調症の人も同じですが、現実のストレスへの鈍感性の強さから、他人の苦痛へも鈍感になってしまうことがあり、周囲の人に迷惑をかけることもあります。

敏感な人は、解離とは真逆で、どうしても鈍感になれないので、鈍感化による現実逃避的な症状が起こらず、嫌なことを切り離す(忘れる)ことができません。
苦痛となっている記憶などが忘れ難くなって、そのすべてを昨日のことのようにはっきりと想起してしまうし、統合失調症のように現実を無視しして妄想に逃げ込むこともなく、ストレスが強くても、現実を把握し続けることになり、現実の記憶や現実のストレスから逃れられません。

敏感だからこそ強迫観念が浮かぶので、HSP・HSCのような人は、解離性障害統合失調症には、なり難いのですが、強迫性障害にはなりやすいのです。
HSP・HSCの敏感性から、もしPTSDになっても、解離が起こる複雑性PTSDにはなりません。

HSP・HSCや強迫症の人の器質的な神経過敏は、自閉症児とかの感覚過敏と違って、自閉が原因で、簡単な刺激を敏感に感じるわけではなく、実際に過度に敏感なのです。
その過敏性により、現実的な外界の刺激だけでなく、不快な思いとか記憶などの内面的な刺激にも過敏反応して、強迫観念などの刺激が消えなくなります。

現実逃避できないからこそ、現実を正しく理解する普通の思考もできるのですが、ストレスへの生理反応的に、強迫観念が浮かびやすくなり、それを対処する行為をしないといけなくなります。
それは過敏であれば、当たり前のことですが、一般的ではないので、障害になります。

過敏性による強迫観念の症状を先に治してこそ、強迫行為もしなくて済むようになりますが、今のところそういう治療はできません。

そのことの1つの問題として、強迫性障害は適切な治療で治せるようになったという認知行動療法ビジネスによる宣伝が広められたことです。

治せるのなら、新しい治療法は必要なので、その宣伝がまかり通ってしまうと、本当の強迫性障害は治せないままになってしまいます。

実際には治せなくても、認知行動療法が適切な治療ということにできれば、ライセンビジネスとしては潤います。

曝露反応妨害が受けられるということは、当然、過敏性の強迫の人ではなく、最初から治しやすい(心理的問題だけの)強迫の人などであり、その範囲の軽症患者のデータとか、実際には強迫症ではない人(強迫症状のある統合失調症や強迫性パーソナリティ障害の人など)に抗精神病薬を使って、一時的に症状を誤魔化した人も、治った人に含めて、治せるようになったことにしているのです。

カウンセリングや森田療法認知行動療法などは、器質性の神経過敏には当然効きませんので、それらで、過敏性の強迫症を治すことはできません。

治りましたと言う話はほとんどが、それらのビジネスとしての宣伝です。
この宣伝手法の一つが、強迫症とか神経質とか、行為依存症(きれい好きとか)、不安の強いの人達にも、みんなに該当するような細かいことを気にする症状などを具体的に書き並べて、それに当てはまる人を共感させて、ひき付けることです。
これは、森田が元祖で、本を売るために考えた商法ですが、そうすることで、神経質の範囲に、強迫症患者を取り込もうとしたのです。
神経質は確かに病気ではありませんが、強迫症をそこに含めて、病気ではないと言うのは良くありません。
強迫症は病気ですから、症状が出始めたら、できるだけ早めに適切な対処をしないといけないからです。
適切な対処といっても、もちろん、認知行動療法などのことではなく、強迫や鬱が悪化しないような生活に変えることです。
表面的には、共通する面があっても、どうしてそれが起こるかは、神経質とは全然違いますから、森田療法などやっても時間の無駄です。
森田の勘違いな思想本とか、認知行動療法ビジネスの宣伝のために書かれた本を読んでも、本当の強迫症の人には、まったく役に立ちません。
強迫症のことが書いてあっても、それは違う病気について書かれた本ですから。

認知行動療法は、強迫性障害を理解できないまま考え出された理論が元になっているので、それで治せるわけがありませんが、ライセンスビジネスとして普及しているのです。
この宣伝には、抗精神病薬も利用されます。
認知行動療法で重症患者が治ったという話には、ほとんどの場合、抗精神病薬が使われていて、それを使った時点で、大きく改善しているのです。
その場合、強迫観念ではなく、妄想によって、強迫症状が出ていた人であることが考えられ、それは強迫性障害を治したことにはなりません。

不安障害に近い強迫症状のある人を、抗精神病薬で不安や恐怖反応を弱めて治しやすくなったことも考えられますが、それは、一時的な誤魔化しでしかなく、強迫観念というのは現実反応の思考ですから、感情やそれと結び付いた思考を薬で鎮静させても、現実を意識できる限りは、強迫観念も現実反応の感情も再発します。

過去の現実の苦痛であるトラウマ記憶が抗精神病薬では治せないことと同じです。

脳を直接コントロールして不安や恐怖を抑える治療機器もあることはありますが、正常範囲の不安や恐怖なども弱めてしまう危険があり、一時的に治せても長期的な安全性の面で現実的ではありません。

正常な範囲の不安や恐怖などがあることで危害から身を守れるのですが、強迫症の人であると、過敏性によって、普通は危害にならないことが危害になってしまうので、危険回避が過剰になりますが、実際に(一般的には些細な刺激でも)ストレスに耐えられないのですから、そうするしかないのです。

双極性障害の躁症状でも過剰行動は起こりますが、これは過敏性のストレス回避行動ではなく、逆にストレスを感じ難くなっていることで、危険をかえりみない行動をしてしまいます。
そのことで本人だけでなく、他人にも迷惑な病気なのですが、強迫症の過剰な強迫行為とはまったく内容も原因も逆ですから、強迫行為がどれだけ過剰でも、双極性障害ということではありません。

躁症状と鬱は対極的なので、通常、同時には起こりませんが、強迫症状と鬱は、共通する面もあり、鬱で億劫になっても、強迫行為はしないといけなくなります。
強迫は慢性的で、躁症状は周期的であることからも、強迫を躁が強めることは考え難く、仮に併存している場合も、躁ではなく、鬱の時にストレスに弱くなり強迫症状が強まるはずです。

双極性障害の薬を使ってみるのも悪くは無いと思いますが、強迫症状に効くほどの力はありません。


ではどうすればいいか?

ストレスでボロボロになっても積極的に社会に関わり生きていく。
それができる内は、それも構いませんし、特に若い内はそうするしかない社会になっています。

ですが、強迫症の人は、ストレス耐性が低いので、そうすることに無理があり、長くは続きませんし、社会に潰されて、うつ病にもなって、そういう生き方ができなくなります。

自然と回避的な消極的人生になりますが、そういう生き方でも日常の些細なことで強迫症状が出て疲れてしまうし、人との関わりもなく社会的自由も得られませんし、そうしたいわけではないので、人間的幸福感や充実感も得られません。

そうなってからどうするかが、強迫症の人生の難しさです。
強迫症という病気は、医学的にはほとんど放置されていて、今後も治療薬などは期待できませんし、誤解された情報の普及で、社会的にも理解されておらず、社会適応が困難になります。

バリアが張られていますが、社会の側はバリアを張っていることにも気付けないのです。

気付いてもマイノリティな障害ですから、対応しようとしないのです。

そうすると、そういう社会から少し離れて、生きるしかありませんが、離れすぎると人間的な生活が出来なくなり、それもストレスになります。

どん感な人達には、逃げるから嫌に思えるとかいう人もいますが、本人にとって実際に苦痛のあることは、逃げなくても最初から耐えられない苦痛があるのです。
逃げずに立ち向かっても、ストレス耐性が低い人は、その苦痛に慣れることができないのです。

ストレス回避が症状そのものとして出るのが、解離や統合失調や自閉などの現実逃避型の病気です。
これらは、鈍感になって、ストレスから守られるのですが、そうならないからこそ、ストレスが対処できずに、強迫観念が強まり、強迫症になります。
正常な処理もできないし、症状も出ないので、強迫行為で対処するしかないのです。

神経質の不安治療では、「単に気のせいだから、そう思わなければ、なんともない」という前提が通りますが、実際に苦痛で耐えられないことによる症状は、気のせいとか考え方の問題ではないのです。

森田の言う「気のせい」の神経質症状というのは、人前で緊張すると思っているから、余計に心配が強まって、実際に緊張して、その緊張感から何らかの症状が出たりすることです。
あるいは、その緊張を抑えようとする気持ちが強過ぎて、緊張することを余計に意識してしまい、実際に緊張してしまうことなどです。
「こう思っているから、こうなってしまう」という完全に精神的な症状です。

森田自身がそういう神経質だったので、みんなもそうに違いないと、森田療法を考えたらしいのですが、そこに精神障害的な不安障害とか、強迫性障害も含めてしまったのが間違いなのです。

森田療法によって神経症全般の誤解が広められたこともあり、強迫神経症という病名も強迫性障害に変わったのですが、いまだに森田の妄想を信じ込んでいる人も多く、病名以外はこれといって変わっていません。

森田療法では、強迫観念(なくせない生理反応)をなくそうとするから苦しむ、なくそうとしなければ、気にならないと言います。
煩悩(欲やこだわりによる苦しみ迷いなど)を無くそうとし過ぎると、逆にそれが欲やこだわりを強めて苦しみ迷うという、仏教の転用ですが、確かに煩悩(欲やこだわり)というのは、苦しみ迷いなどの苦痛の元になっても、それ自体はなくそうとしなければ、それほど苦痛はないのです。

神経質やその治療である森田療法は、そういう仏教ノイローゼ(悟りを得ようとして煩悩を強める状態)になっていた完全主義の神経質者の妄想的思考の産物に過ぎず、森田は実際には煩悩に過ぎない勘違いな悟り得たつもりになり、何でも仏教的に解釈して、その悟りを万能薬のように妄想してしまいました。
単に「そう思う」という神経質教ですから、実際に神経質であり、その思想を信じ込める信者にしか効果はありません。

神経質はその人の完全に精神的問題なので、心理療法が間違った理論でも、本人さえ納得できれば、効くことはあるのです。
本人の心さえ改善されれば良いので、方便(正しい方向に導くための作り話)でも通用します。

しかし、実際に神経過敏な人は、違和感に弱く、現実反応で症状が出るので、実際のことではないデタラメな情報とか、うさんくさい情報に嫌悪反応が出るし、「そう思う」からこうすれば良いという、お話とか、方便では通じません。
強迫行為は、行動の癖でもないし、行動の問題で、精神症状が出ているわけでもないので、こうすれば良いという行動の訓練でも、まったく解決できないのです。

森田療法では、苦痛(強迫観念)をあるままに、気にしないで他のことに取り組めば、気にならないとも言いますが、その苦痛を気にしないことができる人は、強迫症状が出ないので、最初から強迫症ではないのです。

悟りとは、心を自然にあるがままにすることではなく、心があっては悟れないのです。
あるがままにしている限り、それはあるので、諸行無常から解放されず、煩悩にとらわれます。

悟りは「何でもない」から、悟りなのです。
それは、感じることも、表現することも、意識することもできません。
実在しないからこそ、悟りは、完全な平安のままなのです。

ですから、人が悟りを得れば、悟りを得たなどとは思いませんし、悟りを得たとは言いません。
実現できたら、悟りではないので、悟りを得たと言っている人は、単にそう思われたい人であり、妄想状態に過ぎません。

当然、悟りで何かをコントロールすることなどできません。そうしようとすれば、煩悩にとらわれます。

悟りは、病気を治す技とか超能力ではなく、そういったことに関わらないから、悟りなので、悟りで何かをしようとするのは、勘違いで、それは煩悩が起こすことです。

完全主義の神経質者だと、そういう勘違いを起こしやすいのですが、その勘違いを根拠に物事を解釈してしまうので、様々な勘違いを起こします。
森田は仏教を理解できないまま仏教を利用しました。

仏教には諸行無常という言葉がありますが、これは悟りを表した言葉ではありません。
諸行が無常だと分かっていれば悟れるというのは誤解であり、諸行無常である限りは悟れないので、諸行無常から解放しようという試みが仏教なのです。

仏教上は、不変で常に安定した状態こそが正しく定まった状態であり、諸行は無常であるから、それにとらわれるのは間違いだとしました。
簡単に言うと、諸々の物事は変化したり消えてしまうことなのに、そこに幸せを求めてしまうと、無理が生じて煩悩が強まるということです。

俗的な幸せはそうして得られるのですが、仏教的には、不変で常に安定した状態にこそ平安があり、それこそが真の幸せなのです。
これはもちろんハッピーな高揚した気持ちになれるとかではなく、そういう気持ちさえも無い静寂した状態ですが、正確には静寂もありません。

何かがあれば、それは無常であるというのが、諸行無常の意味です。
諸行無常であるからこそ、諸行を完全に安定させることは不可能であり、諸行でなければ、常に変化が無く、そこには真の平安があると言うのです。

諸行にとらわれないようにすることで、悟りは得られるという人がいますが、諸行にとらわれないようにすることも、諸行にとらわれている状態であり、そういうこともしようとしない諸行に関わりのない状態であることで、平穏が得られるのです。

ですが、無関心であることとも少し違います。
無関心とかは対象があって、それに関わらないことなので、実際にはその対象に関わっているから、無関心でいられるのです。

無とかも有に対して存在するし、絶対とかも相対に対して存在します。

ですから、諸行に関わりのない状態を人間の言葉では表現することは困難です。

その平安状態を、仏教的には涅槃とも言いますが、それはこの世に実在しません。
この世の諸行に含まれないからこその涅槃なのです。
涅槃は諸行無常から解放された状態で、この世に実在しない涅槃をこの世で得ることを悟りといいますが、正確には悟りも人間が得られることではありません。

思想上とか精神状態としての涅槃を得ることならできますが、それは完全な悟りではありません。
完全な悟りは、この世では何にも関わらないので、人間がそれを得ようにも得られないし、何の役にも立たないし、何の力もないので、悟る意味がなくなります。
意味がないからこそ、悟りなのですが、それを実用化しようとしたのが、仏教(特に大乗仏教)の教えです。

原始仏教では基本的には世俗(欲求の強まる人間社会)から離れて、そういう欲求の束縛や諸行無常のこの世から解脱する人への(涅槃に入るための考え方や生き方の)教えだったのですが、涅槃に入ることはこの世からの解放を意味しますから、普通の人はそういう完全な平安よりも、人間的な幸せを得たいのです。
ですから、後期仏教では、涅槃に入ることよりも、悟りを得るための仏教思想そのものを社会的に役立たせることを考えました。

煩悩に塗れて生きている人の心を少しでも悟り(安らいだ状態)に近づけられないかという感じです。
それが現代仏教ですが、基本的には実用性がありませんし、そもそもこだわることを良しとしない教えなので、仏教自体への関心も自然と弱まり、一般的には習慣的行事などとして残っている程度になっています。

現代的に言う悟りの場合は、普通の人には無い知恵と物事の把握力があり、何事にも動じない安定した心でスマートに生きている人という感じでしょうか。

そういう意味での悟りであれば、得られる人もいるし、精神的(心理的)な原因の病気ならば、それを治すための知恵も出せるでしょう。
しかし器質的な神経過敏とかそれが原因での精神の障害は、悟ってもコントロールするのは、難しいことです。

本来の悟りというのはこの世ではありえない事を考えると、普通に社会的能力があり、精神的にも安定していれば、現代的に言う悟りは自然と身に付くはずです。

現実的には悟りは平安のシンボルのような感じですから、不安の強い人には、悟りにロマンを感じる人もいるし、ピュアな清浄された状態が悟りで、煩悩は汚れとも言えますから、特に不潔恐怖や汚染恐怖のある人は、神聖な感じとかにも惹かれやすく、実際にそういう環境や精神状態でいたほうが、生きやすいのです。

しかし現実社会はそうではないことが多く、うまく適応できないので、強迫行為をしないといけなくなります。
過敏性とストレス耐性の問題で、汚れなどのストレスの苦痛に慣れることができないのです。

汚れに慣れることとか、思い込みでの不安解消とか、汚れを洗うことによる清浄は、世俗的な安心や浄化であり、悟りはストレス反応ではないので、強迫行為でもありません。
悟りは何とも接点や関連性がないので、何もしなくても最初からピュアなのです。

涅槃は何にも反応せずに関わらないので、だからこそ汚れませんし、きれいなままなのです。
人間である限り、そうなりませんが、それを世俗的な形で一時的に疑似体験したり、思考上や精神状態として、悟りに近付くことはできます。

精神の安定に仏教とか禅とかヨガとか瞑想が適していると思うなら、それも良いし、他の宗教でも良いし、あるいは知恵者の思想でも良いし、自分で考えた方法でも良いと思いますが、精神によって、神経の感度をコントロールするのは難しいことです。
瞑想とかで一時的に精神が安定したとしても、それを日常で維持できなければ、あまり意味がありません。

それができるのは心理療法ではなく、薬とか治療機器を使わないと無理なのですが、そういった物がない。
だから、強迫性障害は治しにくい状態が続いているのです。
そもそも強迫性障害は神経の過敏性とは無関係な病気(ありもしない不安な思考に惑わされる病気)とされているので、その誤解がある限り、治療も的違いになります。

強迫症の苦痛は、欲やこだわり自体にとらわれて、それが得られないことで生じる苦痛ではないので、仏教思想や勘違いな森田療法では治せません。
本来の悟りは強迫症には関われませんし、現代的な意味の悟りでも強迫症に関わりのない安定した精神状態ですから、それよにって強迫症は治せないのです。

過敏性による強迫観念の場合は、それ自体が最初から苦痛なので、それを強迫行為で対処しないといけなくなってしまうのです。
ストレス耐性が低いと、苦痛に耐えられずに、なくそうとするわけで、なくそうとしなくても、その苦痛はあるのです。
ですから、なくそうとしないで、放置すれば、苦痛は自然と消えるという考えは間違いです。

実際の苦痛を気にせずに放置できるようなストレス耐性があれば、強迫症にはなりません。

過敏でストレス耐性が低く、苦痛に慣れることができない(鈍感になれない)。
だからこその強迫症状なのですから、森田療法認知行動療法で治せるとされている強迫性障害は、最初から強迫性障害ではない病気なのです。

器質性の神経過敏を除外した上での療法ですから、その範囲が治しやすいのは当たり前で、森田商法や認知行動療法ビジネスによって、心理療法では通用しない範囲の本当の強迫性障害は、存在しないかのように隠されています。

それならそれで、過敏性による強迫症状のある人のために、過敏性強迫症などという病名を作り、普通の強迫性障害(不安障害の強迫症状)とは分けて治療するべきです。

実際に不安障害の大分類には含まれなくなったのに、強迫性障害という病気の定義自体は、何も変わっていません。
不安障害に含めなくなったのも、強迫行為先行型の人とかで、強迫観念がないように見える人もいるからであり、強迫性障害が理解されたからではないのです。

森田療法によって、強迫性障害についての間違った情報が普及してしまい、認知行動療法ビジネスによって引き継がれ、それを書き換えることができなくなっています。

曝露反応妨害のように、それができない障害の人に、それをすれば治るというのは、症状を悪化させる危険もある横暴な行為であり、治療ではありません。

実際に神経質の人とか考えの癖程度の人とか、単に不安の強い人が、そういう治療をするなら良いのですが、そこに強迫性障害を含めるのは、止めるべきです。

本当の強迫性障害を隠すことで、認知行動療法強迫性障害の適切な治療ということにできましたが、強迫性障害の適切な治療から認知行動療法を除外しない限り、本当の強迫性障害は治せないままになります。

どの治療法も強迫性障害がほとんど治った人なら、治せることは可能ですが、すでに治っているから効くというのは、病気を治療したことにはなりません。

そういった療法に出てくる強迫症の説明を鵜呑みして、間違った情報が拡散されます。
せめて、正しい情報の普及を邪魔しないようにするべきです。

認知行動療法などに出てくるような勘違いな強迫性障害がなくならない限り、強迫性障害であることの苦痛も理解されない状態が続いてしまいます。

現在の精神障害の重症度は、何がどれだけできなくて、どれだけ援助が必要なのかが基準になっていて、症状で過剰にしなければならないことがある人とか、症状で援助が受けられない人のことは考えていません。
寝たきりで誰かにめんどうを見てもらっている状態が重症で、症状で孤立して、症状によってなんでも一人でやらないといけない状態は、どれだけ苦しくても、精神障害としては重症とは思われません。
強迫性障害は、他の精神障害とはまったく違いますから、同じ考え方では、重症度は計れません。

強迫性障害がどんな病気かも理解できずに、何を治せるというのでしょう?
その状態で、治療薬なども開発できるわけがなく、今使える薬が長期的に効くとしたら、その人は強迫性障害ではない別の病気です。
強迫症状による精神的苦痛に効く薬もなくはないのですが、麻薬類扱いになって、使えないのです。

よっぽど軽症段階でない限りは、今後もしばらくはどうしようもありませんので、強迫性障害のまま生きて行ける道を探すことになりますが、社会的変化がない限り、かなり困難です。

強迫性障害の患者の援助とか言って、森田療法認知行動療法を宣伝していたり、あるいは、そういう療法をしている自称専門家や自称第一人者の書いた思想本を読んで、鵜呑みして情報を拡散している人もいますが、そういうのは邪魔にしかならないので、すぐに止めてください。

強迫性障害の苦痛を和らげるためには、まずこの病気を社会の人達に正しく知ってもらうことが大事です。
そうしないと、社会が変わらないし、適切な治療も始められません。


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