強迫性障害の全貌

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強迫性障害は不安の病気ではない?/強迫状態と躁状態の違い、強迫症と他の病気の関係/強迫観念と考え過ぎの違い/過去からの強迫、記憶強迫

強迫症状は神経過敏の症状ですが、同じ過敏と言っても、心の問題の過敏もあれば、器質性の過敏もあります。
強迫性障害心因性とか、不安の病気と考えるのは極端であり、人によってはそうなのですが、そういう人ばかりではありません。
むしろ、そうではない人も多いのです。

精神障害の診断基準には、アメリカ基準のDSMと、世界統一基準のICDがあり、どちらの基準でもいいのですが、公的な診断書にはICDでの病名やコードを使いますから、ICDのほうが正式といえます。

ICDの最新版(ICD-11)では、強迫性障害は、不安障害とはされていません。
不安の病気ではなく、強迫の病気だからですが、この場合の強迫は、「しなければならない」強迫であり、(未来の危害への不安強迫ではなく)現在過去の危害での不快な思い(または感じ)全般が続いてしまう過敏性の強迫状態のことは、DSMでもICDでも、まだあまり理解していません。
不安障害ではなくなっても、基本的には、未だに不安の病気として扱っています。

ちなみに、日本語版ICD-11では、強迫性障害という病名も、強迫症に変わる予定です。
実際どうかはまだ分かりませんが、強迫性障害のみではなく、障害という言葉を、全部、症にしたいそうです。
強迫性障害(OCD)なら、Obsessive compulsive disorderなのですが、dis/orderという和訳に(order=正、dis=否定=病だれと考えると)症のほうが適切であることと、障害というと、治らない病気のような感じがするからです。
強迫性障害の場合、治らないレベルの人もいるので、(障害者手帳を持っていれば)実際に精神障害者なのですが、若い人とかだと、そういうレベルではなかったり、治せる病気もありますので(可逆性精神疾患)、そういう場合に、障害というと実際よりも重く感じて、精神的に良くないという考えだそうです。

そういうと聞こえはいいのですが、神経症は障害というほどではないから、障害年金の対象にしないという昔からあるような偏った考えを助長することにもなりかねません。
神経症にも実はいろんな人がいて、中には器質的と考えられる症状の人たちもいることが分かり、神経症という言葉自体はあんまり使われなくなりましたが、少なくとも精神病ではないのだから、障害度も低いというという考え自体は変わっていないのです。

言われなくなったものの、強迫症もいまだに神経症の扱いであり、障害年金と同等の基準である精神障害者手帳の診断書でも、強迫症の症状に関わる項目はほとんどありません。
障害年金のほうで、神経症を障害の対象としてこなかったので、精神障害者手帳のほうでも強迫症状(特に強迫行為)を障害として考えていないのです。

例えば、手帳用診断書の生活能力の状態の判定項目として、
身辺の清潔保持
身辺の安全保持
という部分があります。
強迫性障害は、過敏性による危害の回避や対処としてこういうことが過剰になってしまう病気なのですが、「過剰」というのは、選択肢としてありません。
自分で、できるか、できないか、なので、過剰であっても、できるのだから、問題はないということになってしまうのです。
それを人にやってもらわないといけないから、できないというのは、強迫性障害としては、軽症であれば、そうなりますが、重症の人には汚染恐怖がありますから、接触汚染の恐怖で孤立してしまい、付き添いが得られないため、自分ができないことを人にやってもらうこともできません。
何かを代わりにやってもらうことで、その人が汚染されて、その人からの汚染を避けないといけなくなってしまうからです。
あるいは、その人によって、汚染が拡散したりしてしまうので、重症であるほど、自分でしないといけなくなってしまうから苦痛なのです。

いかに「できないか」が生活能力の重症度であり、しなければいけなくなってしまう症状だとしても、どれだけそれが困難で苦痛だとしても、できるのなら問題ないという考えなのです。

これは改善したほうが良いことですから、関心があれば下記の過去記事を読んでおいてください。
強迫性障害(強迫症)と精神障害者手帳

https://locd.hatenablog.com/entry/2019/11/01/144501

そうなっていることの理由の1つが、強迫性障害神経症(心因性)=軽い病気という古い考えが、実際には続いてしまっているからです。

強迫行為をする人には、神経質のような完全な心因の人もいるし、強迫行為による安心依存症のような人もいるし、不安になりやすいことが原因の人もいるし、器質的な神経過敏でしないといけない人もいます。

ですから、強迫性障害心因性とか、強迫性障害=器質性とかではなく、あくまで人によるのです。
心因性とか器質性とか分けなければいいということでもなく、それによって治し方も全然違うし、どれぐらい治せるのか治せないかの予後なども全然違いますから、そういうタイプ分けはしたほうがいいが、正しくするべきなのです。
そして、病気ごとに考えるのではなく、同じ病気でもいろんなタイプの人がいることを理解しないといけません。

最近は神経症という言葉が消えつつありますが、森田療法では、神経症=不安障害として、それらは神経質が原因であるといまだにステレオタイプ化しています。

森田療法の頃の強迫性障害は、強迫神経症という病名でした。
神経症というのは、ノイローゼのことで、神経という言葉を使ったのは、今となっては、実際にはどう考えたか分かりませんが、神経過敏とか、(神経を通じた)ストレス反応での精神症状のことを指したことが考えられます。
ようするに、内側だけの症状(精神病)ではなく、外界と神経で繋がっている上での症状です。

しかし、精神病以外は、神経症としてしまうと、神経の問題がない病気の人たちも、みんな神経症に含まれてしまいます。
同じ神経症でも、全然違う病気もあり、同じように扱うことはできませんから、大雑把な分け方をせずに、病気ごとで分けることになりました。

精神病とか精神病状態という言葉はしばらく残ると思いますが、神経症という言葉は別になくても問題はありませんから、神経症はほぼ使われなくなり、強迫神経症強迫性障害になりました。

神経症心因性という考えは、脳とか神経とかは関係なくて、心の問題だという説なのですが、実際には神経症というぐらいなので、神経過敏の人も多いし、脳機能的な異常も症状に関係していることが分かり、心因性とは限らないから、神経症とも限らないとなったのです。
日本では、森田療法(神経質教)によって、神経症=神経質(ただの気のせい、考え過ぎ)みたいな誤解が増えたことも関係しています。

森田療法によって、神経症全般が神経質(気のせい、考え過ぎ)が原因であるかのような神経質教の布教が全国的に行われたことで、いまだにそれを信じている人がいますが、強迫性障害にしても、神経質で強迫症状が出ているなら、神経質であり、本当は強迫性障害ではないのです。

森田療法の場合、実際に敏感な人の強迫症状は、神経質ではないので、強迫性障害ではない別の病気だとして、強迫性障害には含めませんでした。
そうしないと、強迫性障害には森田療法の理論が通じないからです。

森田が切り捨てても、過敏性の強迫性障害患者は、強迫性障害のままですから、その後長らく、その人達までも神経質者扱いされることになったのです。

そもそも神経質教の以前は、過敏性の強迫のほうが強迫性障害だったのです。
過敏性強迫症=古来の強迫症です。
しかし過敏性の強迫は、神経質(実際には敏感でない人)の理論とは対局しますので、森田としては、強迫性障害として認めたくなかったのです。

森田は、強迫性障害の症状がどうしてそうなっているかは分かりませんでしたが、強迫行為はよく知っていたので、それを本に書いて、こういう症状は、強迫神経症で、それは神経質が原因だと布教したのです。
森田は自身が神経質だったので、神経質とか神経質者の強迫症状にはくわしいのですが、強迫性障害に関しては、どういう症状が出るかは知っていましたが、どうしてそうなってしまうかは、実際には分からなかったのです。
強迫性障害も神経質が原因ということにすれば、得意分野にできますから、そういうことにして布教したのです。
その頃はネットもありませんし、精神障害に関する情報も少なかったので、そういう症状が出ていた人達が共感して、我こそはこの病気だと信じて、神経質信者も増えたのです。
そういう人達が実際に森田療法を受けることはなくても、森田的には自分の思想が世間に認められ、本が売れれば良かったのです。

森田療法の実際の患者は少なくても、本が売れて講演やレクチャーできれば、ビジネスとしては儲かるし、有名にもなれますから、森田のエゴとしては満足できるのです。
しかし、その本も神経質信者にとっては真実ですが、強迫性障害患者にとってはデタラメな内容です。

強迫性障害=神経質=病気ではない、ただの気のせいとしたことで、神経質ではないタイプの患者も、性格の問題だから仕方ないとか、病気じゃないなら治らないととか、軽い病気だと考えてしまって、むしろ治療も生活の工夫もせずに、ストレスまみれの人生になった人達も多いのです。

今でも神経質信者の人達にとっての強迫観念は、考え過ぎ、気のせい、思い込みの不安思考のことなのですが、実際の強迫観念は、考え方とか心掛けに関係ない症状なので、神経質とは無関係です。

過敏性の強迫の人は、森田やその信者達が布教した神経質教を信じてはいけません。
まったく関係ない人達の話なのです。
ネットでは、森田療法で治ったという患者を装った書き込みなどの宣伝も多いので鵜呑みしないように注意してください。

森田療法で治せるとしたら、実際に神経質な人の強迫症状であり、強迫性障害の人ではありません。
神経質は性格みたいなものですが、強迫性障害は病気ですから、神経質は病気ではないというならば、神経質の強迫症状こそ、強迫性障害から除外して扱うべきだったのです。

いろいろな精神障害がありますが、神経質の人は、自身の考え方によって精神障害の症状が出てしまうのです。
森田療法は神経質の治療法ですが、日本独自の仏教思想を土台にした(日本人の神経質教ですから)実際に神経質な人も多い日本では、今でも一部の人達に信仰されていますが、海外には神経質な人が少ないこともあり、日本以外で布教してもほとんど無視されました。

信仰は個人の自由ですが、神経質(考え過ぎ)の治療に、精神障害強迫症を巻き込んではいけません。

重度の神経質で、重度の精神障害や精神病になっている人もいるかもしれませんが、基本的には一般人にも見られるような軽い精神症状の範囲の治療法であり、同じような症状が見られる場合でも、神経質ではない精神症状(特に器質的過敏性による精神障害)には、理論的にもまったく通用しません。

現代版森田療法が、認知行動療法ビジネスです。

認知行動療法でも、考え方を修正して、行動を改善することで、(脳機能の異常を含めて)症状を治すという考えですから、アプローチ的には神経質の治療と変わりません。
それが有効なのは、(強迫観念ではない)考え方や行動が原因となって、(脳機能の異常を含めて)症状が出ている人です。
強迫観念は、そういう本人の意識的な考え方や、どうこうしようとする意向に関わらず浮かぶのですから、どう考えて、どう行動しようにも、それとは無関係に症状が出てしまうのです。

過敏性の精神障害の場合、考え方とか誤った学習(条件付け)の問題でもないので、「そう考えなければ良い」ということにはなりません。
実際の危害への正常な反応なのですが、それが器質的過敏性で強まる病気なのです。
神経過敏による苦痛が実際にあることで、ストレス反応で不快な思いが浮かび、ストレスが続くからこそ、その思いも消えなくなります。
それを、こうやって考えて、こうやって行動して治しましょうと言っても、そういう考えや行動とは無関係に、強迫症状は続いてしまうわけですから、そうしても治らないのです。

認知行動療法には、曝露反応妨害のように、ストレスに慣らせばいいというやり方もありますが、過敏性やストレス耐性の問題は無視した考えですから、大変危険です。
そもそも敏感でストレスに慣れる耐性がないからこその強迫症状なので、それをストレスに慣らすことで治そうにも、慣れないどころか、逆に強迫症状は悪化するわけです。

そういう療法をしている人達は、強迫性障害が過敏性の精神症状であることを理解していないのです。
一般の人には害にならなくても、過敏性の症状があれば、本人には危害になります。
例えば、普通の人なら不安が浮かぶだけでも、強迫観念にはなりませんから、その不安に強迫され続ける状態にはなりませんが、強迫症の人だと、不安が浮かぶ程度のことでも、強迫症状によって、耐えられない苦痛になります。
そういう不安を起こす現実状況だけでなく、症状自体も実際に危害なのですが、普通の人はそうならないので、普通の人には危害ではないというだけです。
もちろん、不安なことだけではなく、恐怖や嫌悪などの様々な不快なことが、普通の人よりも強いストレスになって、実際の危害になります。

実際に危害のあることを過剰に避けてしまうのは誰でも当然のことで、むしろそうならないほうが精神的にも異常なのです。
一般には危害にならないことでも、器質的過敏性によって、本人には実際に危害になってしまう、それを避けるのも正常な反応ですが、強迫症の場合は、その苦痛が強迫観念として長く強く続いてしまいますから、一般よりも苦痛が多く、そういう症状による危害への防御反応で、回避や強迫行為も過剰にしないといけなくなります。
そういう意味で、正常なことを、過敏性で異常にする病気とも言えます。
回避や強迫行為も症状での苦痛ですが、強迫症である限り、それからは逃れられません。

認知行動療法ビジネスによって拡散された強迫性障害への誤解は、いくつもありますが、巻き込みをする人は悪化するという説もそうです。

こういうのは、依存症治療の考え(アル中患者に酒を飲ませると悪化するとか)であり、強迫行為を、その行為をすることでの安心依存症か何かと勘違いしているのです。
何らかの危害への強迫観念を、逃げるから怖くなって、それが浮かぶとしているのです。

本当は怖くないことを、怖がるから怖くなってしまう。
これが「気のせい」とか「考え過ぎ」というもので、怖くないことなのに、逃げているから、怖いんだという考えです。

閉所恐怖症の人に、閉所を避けたり怖がっていると、余計に怖くなってしまうぞ、と言うことと同じですが、閉所恐怖症の人は、閉所から逃げているから怖いのではなく、閉所で実際に怖くなってしまうので、避けたり逃げてしまうのです。

そういう恐怖を感じること全般に強迫されるのが強迫性障害ですから、逃げるから余計に怖いということにはならないのです。
逃げる前から、恐怖はあるのです。

巻き込みをする人は、悪化するという説には、もう1つ、理由があり、それは家族などが、強迫症患者の基準に巻き込まれないようにする(強迫症状の苦痛の軽減に協力しないことの)言い訳にできるからです。

うつ病の人が、何にもできなくなれば、誰かが面倒を見ないといけなくなりますが、何かしてあげたりすれば、余計に何もしなくなってしまうぞ、と言っているようなもので、そうすれば、うつ病の人は無理してやらないといけないことが多くなり苦痛は増えますが、面倒を見るほうはその考えで楽になります。
ただ、うつ病は何もしないことで楽になれるから、楽を求めて余計にうつ病になってしまうのではありません。
そうであれば性格の問題であり、本来のうつ病は、何かをしたくても、できなくなってしまう病気なのですから、何もできないことが苦しいのです。
その状態でも助けが得られないのが、強迫症でのうつ状態です。
うつなのに、強迫行為はしないといけないし、汚染恐怖などがあると、誰かに代わりに何かをしてもらうということも困難になります。

強迫行為をしたいわけではないから、回避が増えるし、人と共同生活すれば、巻き込むことにもなりますが、それもしたいわけではないのですから、そうするからといって、余計に(安心を求めて)強迫行為を求めて、そうさせる強迫観念が強まるということには、なり得ません。

回避したり、巻き込みで悪化するとしたら、行為による安心感への依存症(強迫行為先行型)とか、神経質の強迫症状であり、本当は強迫症ではない人達です。

それらの人を強迫性障害に含める場合は、ちゃんとタイプ分けした上で、好きなように語ってください。
神経質のことなら、神経質タイプの強迫症と言うべきで、森田療法のように、全ての強迫症患者が神経質であるかのように思わせてはいけません。

そういうタイプの巻き込みと、過敏性の強迫症状の巻き込みは全然違う理由で起こります。

強迫症であれば、過敏性によって、一般的には些細なことでも苦痛を感じやすいので、普通はストレスにならないことが、強いストレスになり、強迫状態になって、そのストレスでの苦痛が消え難くなります。
そういう症状の苦痛は、普通の人には起こりません。
普通の人と生活したり、関われば、普通の基準を強いられますから、強迫症患者が一般基準に巻き込まれることで、ストレスフルになり、そこに適応するのが難しく、巻き込まれないようにすれば、社会生活ができなくなります。
ですから、苦痛を減らそうと家族や社会に理解や協力を求めることになりますが、それは、一般の人からすると、強迫症患者の症状に巻き込まれることになります。
強迫症の患者が入院するとしたら、家族が対応できなくて看病放棄され、家族に無理やり入院させられますが、家族としても辛いことです。
実際には、強迫患者の基準に巻き込まれなくないだけなのですが、面倒だし、嫌だからそうしないというのは、ただの治療放棄、看護放棄になってしまいます。
巻き込みをすると悪化することにしておけば、強迫患者に協力しないことの言い訳にできますから、基本的には強迫患者のためではなく、その周りの人達のために作られた話です。

強迫症患者の苦痛は、考えの問題だから、巻き込みすると症状が悪化するということにして、一般の人達に巻き込まれることで強迫症患者が受ける危害は正当化されています。

強迫症患者に巻き込まれないようにすれば、一般の人達はストレスなくスムーズな社会生活、日常生活ができます。
誰だって、そうしたいのですが、強迫症患者は、強迫症状があるので、それができません。

うつ病とか、統合失調症なら、症状でできないことがあったら、他の人にそれを代わりにやってもらうことも可能です。

強迫性障害で汚染恐怖などがあると、何かをやろうとすれば、汚染されないようにやらないといけないので、それを汚染恐怖の強迫観念がない他の人が、代わりにやるということはできません。
例えば、掃除ができなくても、他の人が掃除すれば、その人に汚されてしまうので、そうするこもできずに、汚い部屋のままになります。
汚いからこそ、汚染恐怖で益々掃除ができないのですが、そこに巻き込みはありません。
それは、買い物であっても、何らかの手続きであっても、しなければ生きられない範囲のことは、無理してでも自分でやらないといけなくなります。

重症の人ほど、付き添い人が得られなくて、巻き込みさえできないのですが、それは巻き込みで悪化したのではなく、逆に巻き込みできないことで、巻き込まれる苦痛は減らせても、孤立して、なんでも自分でやらないといけなくなり、元々の症状の苦痛が減らせずに、そのストレスで鬱も強迫も悪化するのです。

ですから、人と同居できたり、付き添いが得られたりして、巻き込みできるということは、まだ軽症ということなのですが、そうできているからこそ、軽症なのです。
巻き込みすることで、親しい人との繋がり維持できて、孤立し難いので、重症化し難いのです。
その段階であれば、巻き込みしながら、人の基準に何とか合わせられるのです。
巻き込みできなければ、我慢が多くなり、ストレスで悪化します。
もちろん、周囲の人は強迫基準に合わせれば、苦痛は多くなりますが、そういう協力がなければ、逆に患者の苦痛が周囲の人によって増やされることになり、そのストレスに対する強迫行為として、必然的に孤立するようになり、さらに悪化します。
ただでさえ、慢性的に苦痛が多いのですが、周囲の人達が強迫基準に合わせられれば、患者が一般基準に巻き込まれることでの、余計な苦痛は減らせるのです。
家族などの周囲の人には、強迫での慢性的苦痛が元々ないのですから、強迫基準に巻き困れることで苦痛が増えても、それでも、患者ほどの苦痛はないのです。
そうしていられれば、患者は軽症で済むので、それが看病というものだと理解してください。

実際のところ、若い内に最初から重症の人も多いので、そういう期間さえなく、早々と孤立する人も多いのですが、その場合も、遠隔的に援助が無いと、患者はさらに孤立して、症状も悪化して散々な人生になります。
そうなりやすいのが、汚染恐怖なのですが、家族とも接触できなくなれば、援助も受け難く、他人との接触もできずに、治療が受けられなかったり、社会的手続きなどもできないレベルだと、完全孤立に近くなり、人間的な生活ができなくなります。

過敏性の強迫症は、そういう重度の病気なのですが、神経質や思い込みの不安で強迫行為をしている人達と、同じ病気だと思われているのです。
認知行動療法での強迫行為をさせるほど強迫観念が浮かびやすいという考えも、巻き込みをすると悪化するというの考えも、強迫性障害を、強迫行為での安心依存症か何かと勘違いしているのです。

依存症と違って、強迫観念は、強迫行為を求めている反動(強迫行為をできない苦痛)で浮かぶのではないし、「しなければならない」という思いが強迫観念ではありません。
どう考えて、何をしているから、浮かんでしまうという思考ではなく、考えに関わらず浮かび、強迫行為をする前から、すでにあるのです。

巻き込みで症状が悪化した人は実際にはいませんが、悪化したとしたら、神経質とか強迫行為先行型であり、強迫行為があっても、本当は強迫性障害ではない人で、強迫ではなく、依存性が悪化するのです。

強迫性障害の強迫行為と、依存症的な行為などの強迫類似症は全然違う病気です。

躁状態が強迫行為を過剰にするという説もありますが、躁状態のような興奮による過活動と、危害回避や危害の対処での過剰な強迫行為を一緒にしてはいけません。

躁状態でも、しなければならない行為が過剰になりますが、強迫状態ではありません。
恐怖やストレスを感じ難くなり、危険をかえりみない行為をするようになりますから、強迫状態とは真逆なのです。
躁状態は危険を感じ難くなりますから、他者に対しても危険な状態です。
強迫状態は逆に危険を感じやすいことでの症状ですから、本人は苦痛でも、他者に対しては特に危険はありません。

ですから、重度の強迫性障害の人なら躁状態はなりませんが、もしなったとしても、強迫性障害には治療的です。

躁状態は周期的で、強迫状態は慢性的であることからも、関連性は低いのですが、鬱と躁が同時に起こっている状態なら、慢性的に続くことも考えられ、その場合、陰性の躁状態のようになって、ネガティヴな回避的活動が止められなくなってしまう可能性はあります。
強迫状態だとうつ病にもなりますが、それでも回避的な過活動はしないといけないので、余計に苦しいわけですが、病態としては躁鬱同時にも近いので、もし躁鬱同時慢性型という病状もあれば、まったくの無関係ということでもありません。

ただ、実際には鬱と強迫が同時に続くというだけで、どれだけ強迫行為が過剰でも、躁状態ではなく、それこそが強迫状態なのです。
躁状態は基本的には興奮状態なので、ストレスに強くなりますが、強迫状態は、恐怖、嫌悪、不安などの不快な状態でのストレス反応です。
躁状態がストレス反応で起こるとしたら、似ているのですが、ストレスに関係のない病気ということになっているし、行動内容的に真逆過ぎるのです。

ですから、双極性障害躁状態が強迫行為を過剰にするのは、ほとんどあり得ないことです。
強迫性障害と、双極性障害が同時発症すること自体はあり得ますが、強迫行為が極度に過剰だからといって、当たり前のことですから、双極性障害と間違えないようにしてください。

ただし、強迫行為先行型でしたら、双極性障害を併発していることで、ごたわりや完璧主義などが強まることは考えられます。

強迫症と他の病気等の関係

強迫性障害(過敏性の強迫観念先行型)を悪化させる病気・・・不安症、恐怖症、PTSDうつ病、慢性疲労

強迫性障害(過敏性の強迫観念先行型)になりやすい発達障害/気質/病状・・・AD/HD、HSP/HSC、神経過敏、感覚過敏
・一般の感覚過敏は、外界の簡単な刺激とか肉体的な刺激への過敏性ですが、強迫性障害での感覚過敏、神経過敏の場合、内面的な刺激(不快感、不快な思いなど)への感覚過敏、神経過敏も含まれます。

強迫性障害になり難い病気(鈍感化症状、症状自体がストレス回避的)・・・重度の統合失調症躁状態、解離症

強迫行為先行型(こだわりや、衝動、欲求的行為自体にとらわれるタイプ)を悪化させる病気/特性/性格・・・真面目、有能、完璧主義、几帳面、きれい好き、依存症、強迫性パーソナリティ障害、衝動抑制障害、躁状態、神経質、自閉症(鈍感で、こだわりの強いタイプ)

強迫性障害と神経質は表面的には似ているようで内面は全然違います。

森田療法の問題で、強迫観念は、考え過ぎのことと思っている人もいますが、考え過ぎと言うのは、実際には大したことがないことを、大したことのように考えることです。

そういう意味では、現実ではないことを、現実だと考えたり、実際にはまったく問題がないのに、問題にてしまう妄想が一番強い「考え過ぎ」状態です。
不安思考であれば、現実の何かへの不安な思いなので、少なからず現実との結びつきがありますが、妄想は現実のことではないので、完全な考え過ぎなのです。

妄想と思い込みだけの不安思考との違いは、妄想はそう考えているわけではなく、そういう脳になって思い浮かんでしまうのです。
本人は興奮状態になって、考え過ぎているとは思えません。
妄想状態だと、実際には完全な考え過ぎなのに、自分でそう考えていることに気付けないのです。

妄想ではなくても、妄想的な思い込みだけの不安思考の場合、妄想と同じように、そういう脳だから、そうなってしまうことも考えられますから、治しやすいとも限りませんが、本当に考え方だけの問題の人もいますから、それであれば治しやすいのです。

神経質的な思い込みでの不安思考と強迫観念の違いですが、強迫観念は過敏性によって、本人には実際に強い危害となっていることに対して、強く反応して浮かぶのです。
過敏性の問題なので、一般の人には危害とならないことなのですが、本人には、本人的には、実際に、大したことに対して、大したことのように考えるのだし、そもそも強迫観念自体は考えに関係なく浮かぶので、考え過ぎているわけではありません。

現実への敏感な反応が強迫観念を浮かばせますから、神経質での思い込み(考え過ぎ)とか妄想(完全な考え過ぎ)とは真逆なのです。

神経質での思い込みは、強迫観念ではなく、どちらかというと、妄想に近いのですが、妄想ではないので、その思いに逃げ込むわけではありません。
現実のストレス回避ではなく、逆に頭の中で、現実のストレスを作り出してしまっているのです。
その対処が神経質者の統合失調症化なのです。
統合失調症はストレスに無関係で発症するのが基本ですが、実際には、神経質な人は統合失調症になりやすいと考えられていて、神経質(強い思い込み)でのストレスで発症したり、神経質が悪化させることも多くあります。

しかし、神経質の強迫症状と、強迫症強迫症状は、表面的には同じでも、内面的に全然違うので、強迫症と神経質は無関係です。

強迫性障害と神経質は真逆ですが、統合失調症の場合、病前性格として、実際に神経質な人も多いので、元々から思い込みとか考え過ぎで不安になりやすい傾向が強いのです。
そういう意味では、統合失調症の前駆症状としての強迫症状は、神経質が悪化しての(頭の中だけの思い込みの不安での)強迫症状が多いことが考えられます。
そういう思い込みが強まり、次に妄想になります。

神経質の思い込みだけの不安は、考え方の問題ですから、例えば、「あの人が悪口を言っている」と思えることで、対人恐怖になりますが、実際にはその人は悪口を言っていないのです。
そういう思いみのは、現実の人のことを言っているのですが、妄想で、「みんなが悪口を言っている」と思う場合は、そのみんなは、現実のみんなのことではなく、妄想のみんななのです。
統合失調症だと、確かに周囲から悪く思われることは増えますが、その現実のみんなは無視して、妄想(あるいは幻聴)にいる、みんなに悪口を言われるのです。
本人や周囲の人も、それを現実に対する思いだと思っていますが、実際には現実とは無関係です。

神経質の思い込みは軽い妄想状態に近いのですが、妄想にはなっていないので、そうではないかもとも思えるのです。
妄想なら確信してしまいますが、本人が妄想(非現実)だと分かっている妄想にとらわれる人も多いので、その場合、神経質の思い込みと区別が難しくなります。
神経質の思い込みが強まれば、そうではないかもともも思わなくなり、妄想との区別は難くなりますが、統合失調症の症状が出ているかどうかで、統合失調症との区別はできます。
統合失調症になれば、不安思考も妄想化しやすくなり、まったく勘違いな不安思考(妄想的な思いみのでの不安思考)が多くなります。
勘違いすることで、現実のストレス(現実反応の不安)は避けられ、神経質での現実的な思い込みが減るのですが、そのことで、現実に対して不調和になります。
しかし、軽い統合失調症だと、現実逃避が不完全になり、現実のストレス反応とか、妄想ではない神経質での思い込みも残ってしまいますから、神経質な(思い込みの不安の多い)統合失調症患者も多くいるのです。
統合失調症も何かに過敏反応することはありますが、それは妄想的判断での大げさな反応でしかなく、妄想があることでの過敏反応ですから、実際に敏感なわけではありません。
知覚過敏とか言いますが、実際には妄想性過敏です。

軽い強迫性障害から、統合失調症に向かう人もいれば、神経質から統合失調症に向かう人もいますが、どちらにせよ、鈍感化症状なので、その素質のない過敏性の強迫性障害の人は、器質的に鈍感になれないので、統合失調症にはなりません。

強迫性障害でも頭の中はかなり複雑になりますが、それでも統合されたままになり、統合失調症にはならないので、現実のストレスから逃れられません。

妄想とか妄想的空想への過集中は、鈍感になれる素質のない人には、器質的に無理なので、敏感な人には、精神症状としてもそういうことが起こりません(起こせません)。
現実への過敏性が強いので、思い込みとしても、そういうこと(空想に入り込んだり)ができないのです。
それができる人とか、精神症状でそうなっている人は、強迫性障害になりません。

強迫症であっても、突飛であり得ないような妄想的な思いが雑念として浮かぶことはありますが、頭の中で消そうとすることはあっても、非現実ななら非現実だと分かりますから、現実行動としての強迫行為をしようとはしないのです。
しても意味がないし、しているとしたら、別の病気(妄想性障害の不安思考とか)なのです。

「思い」自体は、何でもありなので、空想的な内容にはなりやすいのですが、ただの空想や妄想ではなく、強迫観念は現実反応の思いであるからこそ、突飛で明らかに非現実的な内容にはなりません。

妄想と違って、空想なら自由に変えられますが、強迫観念は意識的な空想ではなく、危害への生理反応ですから、自分の意志では自由にできないのです。

過敏性によって、一般的ではない思考内容になりますが、妄想でも空想でもありませんので、強迫観念と言われます。

妄想に強迫される場合は、強迫状態ではなく、妄想状態ですから、強迫症とは関係ありませんが、強迫観念が妄想にならないのは、過敏性による現実反応の思考だからです。

実際には危害のないことを、危害だと思い込むのは、普通の人の(頭の中だけの)不安思考だったり、妄想でも起こりますが、強迫観念がただの思い込みの不安思考ではなかったり、妄想化しないのは、「過敏性によって現実から離れられなくなっている」からです。

空想の中に逃げ込もうにもそうできないから、解離性の妄想も起こりません。

強迫観念は現実的恐怖などで浮かびますが、妄想は恐怖で浮かぶのではなく恐怖するとしたら、妄想自体によって恐怖が浮かぶのです。

妄想の汚れは、非現実の汚れですから、現実は関係ありません。
それで強迫行為(洗浄など)をするとしても、強迫観念(恐怖)がないので、妄想の汚れも怖くはなく、過剰な行為にはなりません。
結果的に妄想で強迫行為は起こりません。

妄想に恐怖して、何らかの強迫観念が浮かぶことはありません。
元々強迫観念がなければ、妄想での強迫観念も浮かばないのです。

例えば、強迫観念のある人が、夢を見て、そこに恐怖対象や汚染対象が出てこれば、夢でも、それに恐怖したり、汚されるし、目覚めてからも、それが強迫観念となって残ることで、不快感が続き、頭を洗浄しないといけなくなったりします。

強迫観念がなければ、当然、そうならないので、強迫観念がないのに、妄想からの恐怖で、何らかの強迫観念が浮かぶことはないし、もしそうなったら、その強迫観念自体も妄想なのです。

もし、妄想恐怖みたいな強迫状態になっても、恐怖対象が妄想なので、その恐怖も妄想なのです。
それで、何か強迫行為をするとしたら、妄想を消すための儀式的行為で、その行為自体も妄想なのです。
過敏性の問題というより、妄想の問題ですから、薬で妄想を鎮静すれば、妄想への恐怖なども消えます。

強迫観念(汚染恐怖、不潔恐怖など)の汚れは、現実の汚れの思考化ですから、その恐怖も薬では静まりません。

強迫観念(現実のストレス反応)は、妄想状態(現実逃避症状)にならない人に浮かぶので、妄想状態の人に強迫観念があっても、それは弱いのです。
ですから、強迫状態の人に妄想は起こりませんが、もし強迫性障害の人が妄想状態になれば、その妄想で強迫観念が浮かぶことはあり得ます。
妄想が消えれば、その妄想での強迫観念は消えますが、強迫性障害なのですから、強迫観念自体は続いてしまいます。
ただし、妄想状態になれるという事は、鈍感化、現実逃避ができるレベルの人なので、過敏性の問題は少なく、不安が強くても、妄想的な思い込みの強さが原因と考えられ、強迫行為が過剰でも強迫性障害としては軽症になり、治しやすいタイプです。

そういう人は過敏性ではなく、考え過ぎることで、何かに敏感になっているタイプで、神経質に近い症状だからです。

強迫観念は現実的苦痛が結び付いていますが、妄想は苦痛自体も妄想によって起こります。
完全な思い込みの汚れでも、現実の汚れに対する嫌悪が強ければ、その不安思考自体による苦痛はありますが、完全な妄想の汚れなら、特に苦痛もないのです。
それを洗うとしても、現実の汚れへの強迫観念とか恐怖がないので、普通の汚れのように普通に洗うだけです。
つまり、妄想で汚染恐怖にはならないのです。
普通の人と同じで、見えない汚れレベルは大したことではなく、統合失調症であれば、現実に鈍感になりますから、むしろ見える汚れで汚れても気にならない人も多いのです。
ですから、妄想の汚れを洗うとしても、現実の汚れと同じように普通に洗うだけで、強迫観念がないので、強迫行為にはなりません。
難しいことは考えないし、薄っすらとは妄想だと分かっている人も多く、その場合も、現実の汚れではないと分かっているのですから、そんなに念入りに洗っても苦労するだけで意味がないので、過剰にはなりません。
そもそもそういう現実のストレスから逃れるための妄想状態ですから、妄想によって、何かストレスの強いことをしなければならない症状は起こり難く、逆に妄想状態だからこそ、妄想が浮かんでも、その思いをあるがままにして、その思いに対して現実行動としては、本人が嫌なこと(ストレスの強いこと)は何もしない人が多いのです。
統合失調症の発症は、ストレスが原因であろうとなかろうと、現実のストレス回避の始まりなので、行き着く果ては、陰性症状での自閉状態であり、ストレス回避をしやすいようになります。

強迫症の場合、そうならないので、ストレスが続きます。
強迫観念は何らかの危害に反応して浮かびますが、過敏性の強さで、はっきりしないこと、見えないレベルまで気になってしまいます。
汚れに敏感な人が多いのは、今現在の日常生活で見えない危害は汚れだからです。
見える汚れでも見えない汚れでも過敏性によって気になってしまい、その苦痛も現実的で強く感じられます。
非現実の妄想と違って、現実の汚れ(現実の汚れの思考化)なので、強迫行為をしないといけなくなりますが、強迫状態で汚れの強さも嫌悪感も付着力も強まってしまうので、過剰な洗浄などをしないといけなくなります。
一般的には些細な汚れでも、過敏性の強さで、敏感に反応して強迫観念が消えなくなってしまうことで、本人には大きな危害となって、大きな事として考えるわけです。

思い込みだけの不安思考の人は、本人が考え過ぎ、過剰過ぎと思えることはありますが、それは実際に、考え過ぎてしまうこと自体が症状なのです。

強迫性障害は、思い込みの不安のような思考上だけの問題の人もいることはいるのですが、自身の思考にとらわれて、不安になっているだけなら強迫性障害ではなく、神経質です。
敏感であるから、過敏性が強くて不安思考にとらわれやすく、思い込んでしまうとしても、その不安思考自体が思い込みに過ぎないなら、そう考えることで不安になっているだけなので、考え方の問題ですから、考え方を変えられれば、過敏性も起こりません。
そういう不安思考だけが強迫観念の人もいるのですが、そういうタイプは、過敏性は強くないので、そういう不安思考だけで済むし、強迫観念の強迫性も低いのです。

神経質は考え過ぎて、強迫行為をしますが、強迫症の人が強迫行為をするのは、考え過ぎが原因ではありません。

普通の思考もできることで、強迫観念に対して、本人が考え過ぎ、過剰過ぎと思えることはありますが、考え過ぎているのではなく、実際に苦痛が強いことがあれば、どうしても不安や恐怖も強まります。
過敏性でストレスが強まることで、その程度に合わせて、強迫観念が浮かぶ(ストレスに思わされる)ので、実際の刺激に対して考えすぎることで、気になって、強迫観念が浮かぶのではありません。

生理的な反応ですから、考えたくなくても、自分の意に関わらず、強いストレスへの正常な拒絶として強迫観念が浮かびます。
実際の危害への反応なので、当然、不快な内容になり、それが「思い」であっても、妄想と違って、現実との結びつきが強いので、現実的苦痛があります。

強迫観念はストレス反応の過敏性思考ですから、強迫観念やトラウマ記憶が危害となれば、それによってまた強迫観念が浮かび、その症状(強迫状態の苦痛体験)もトラウマになります。
強迫行為で解消できないような様々な強迫観念も慢性的に浮かぶし、不快な記憶の想起などが頻繁に起こるし、そういう思いが浮かばないようにと、強迫行為としての思考も増えるので、常に考え続ける状態になりますが、強迫観念自体はそう考えていると言うよりも、ストレス反応で意(自分の思考)に関わらず、強迫的に浮かぶのです。
そして、その巻き沿いで、自分の考えも続き、考えが止まらなくなりますが、それ自体は強迫観念ではなく、自分の考えなので、強迫行為も起こりません。

強迫観念は、そう考えようとしなくても、考えたくなくても、そういう自らの思考を無視して、何からのストレス対象を敏感に感じ取った段階で、一瞬で自然と浮かび上がります。
不安な思いへの過敏性とか、そのストレス対象自体も思考である場合もありますが(思考だけへの過敏性)、敏感な人であれば、心の中だけでなく、現実にそういう不安な思いを浮かばせる何かがあり、それに対して意に関わらず反射的に強迫観念が浮かびます。

妄想も考え方に関わらず浮かびますが、現実のことではないので、実際には完全な考え過ぎなのです。
妄想の人は妄想状態になって、考え過ぎていても、それが考え過ぎだとは思いません。
そう考えているとか、そう思っていることにも気付けませんが、本物の考え過ぎなのです。
あの人は、こう思っているとか、考えるのですが、妄想状態だと、その人は、まったくそう思っていないのに、妄想での考え過ぎをその人に押し付けて、決め付けてしまいます。
実際には、ただの考え過ぎなのに、そう思えないことが妄想状態や統合失調症の問題なのです。

妄想状態に苦痛があっても、妄想による考え過ぎの苦痛であり、現実にはまったく問題がないのです。

強迫状態の場合、過敏性による現実反応の思考ですから、現実そのものの苦痛が、思考にも結び付いています。

過敏性が強いと、今現在の危害のストレスだけでなく、過去の危害からも強迫され、不快な記憶を忘れたくても消えません。
強迫症であると、記憶の抑圧や解離(解離性の健忘)が起こらないので、記憶にも強迫されやすくなります。

強迫性障害の人は確認したことを忘れるから、解離と関連しているという人もいますが、強迫観念に邪魔されて、記憶があいまいになってしまうことは、解離による健忘とはまったく違います。
忘れたいことが忘れられないから、強迫症状が起こるのです。
強迫行為は、記憶に残ったストレスが消えないからこそ、直接的なストレス対処として行われます。

強迫性障害解離性障害神経症として同じような病気と考えて、同じような治療で治そうとしていた時代もありますが、強迫性障害解離性障害は真逆の病気ですから、同じ方法で治せるわけがありません。

解離は簡単に言えば、ストレスの切り離しとか無意識化の症状ですから、解離すれば、ストレスを意識しなくても良いのですが、現実逃避的な空想への過集中で妄想のような状態になったり、一部の記憶だけ消えたりすることで、記憶に統一性(継続性)がなくなったり、意識できなくてもストレスが完全に消えるわけでもないので、突然に不快な体験を思い出して複雑性PTSDになったり、本人は解離しているのでよく分からないけど、抑圧したストレスが原因となって、体に症状が出たりします。
完全な心理的症状なのか、脳機能障害なのかは、人によりますが、敏感鈍感でいえば、鈍感化症状なので、器質的な過敏性の強い人は、鈍感化する素質がないので、解離をしませんし、ストレスの抑圧が起こりません。

逆に、強迫性障害だと過敏性によって、ストレスを意識し続けて、不快なショック体験なども永遠に消えなくなり、ストレスでの強迫状態になります。
解離すれば強迫状態は起こりませんから、強迫行為をする必要もないのですが、強迫症であれば、解離しないから、ストレスの曝露され続けて強迫観念が浮かびやすく、強迫行為をしないといけなくなります。

強迫症であれば、解離とはまったく逆になり、ショック体験の記憶だけでなく、本人からしてもトラウマというほどではないその他の不快な記憶なども消えなくなってしまうし、どうでもいいような記憶でも、どうでもいいからこそ不快なこととして記憶に残ってしまいます。
そういう小さなトラウマ記憶が離れなくなったり、その記憶が何かと関連付いてしまったりすれば(何かを見るとトラウマを思い出してしまうなど)苦痛ですから、そうならないようにと、そういう症状を引き起こすストレス対象を避けないといけなくなります。
回避しないといけないことで神経を使い苦痛を受けますから、回避せずに済むようにと、余計にストレス対象を避けないといけなくなり、そのことに対して、恐怖や嫌悪や不安などの強迫観念も強まります。

どうでもいいことが記憶されるのはなぜか?

過敏性があると、本人にもどうでもいいと思えることさえ、不快な刺激になって、その記憶も強迫観念化してしまいます。
どうでもいいということは、ゴミ記憶ですから、どうでもいいからこそ、不快な記憶(刺激)として、ダメージが残ってしまうのです。
どうでもいい記憶=ゴミのようないらない記憶→その不快感でのダメージで、小さなトラウマとなって忘れ難くなってしまう。

普通の人は、こういうゴミ記憶をさっさと忘れてしまうものですが、強迫症だと、それが気に止まったままになり、強迫観念化した記憶となって、脳内や神経にその不快感と共にため込まれます。

これは記憶力が良いのではなく、どうでもいい記憶が過敏性によって、小さなトラウマとなってしまうだけなので、抗コリン作用の強いSSRIを使って、記憶力を軽く低下させるレベルでは、まったく効きません。

そういうゴミ記憶が積もっていくことで、神経が消耗して、新たなストレスにもうまく処理できなくなって、ゴミ記憶も余計に消え難くなります。
このことによって、記憶の処理や思考のコントロールもし難くなり、強迫観念も浮かびやすくなり、不安も強まります。

過敏性によって、強迫観念自体や、それをなくそうとする強迫行為も、本人にとっては、危害になってしまいます。
その危害を防ぐために、(そうならないようにと)不安も強まりますが、強迫症の不安には対象があります。

精神医学的に、不安には対象がないことになっていますが、実際には不安障害の人にしても、何らかの状況とか対象があって、不安が強まる人がほとんどです。
対象のない漠然とした不安感が起こりやすいだけの人なら、不安感を抑えるために落ち着ける行為をすることはあっても、強迫症的な強迫行為も回避も起こりません。
現実行動でそうする対象がないからです。
強迫症だと、漠然とした不安感にもとらわれますが、特定の対象があっての不安(恐怖や嫌悪による不安)で、強迫行為は起こります。

対象のない不安感は、思い込みの不安でも起こりますが、対象のない不安思考というのは妄想みたいなものです。

現実には問題がないのに、妄想的な思い込みで不安になって引き篭もる人と、現実に実際にストレスを感じて、引き篭もる人は、全然別の症状です。
前者は薬で治しやすいのですが、後者は過敏性やストレス耐性の低さが根本原因にあると、なかなか治せません。

同じような症状でも原因が全然違ったり、同じ強迫性障害でも、様々なタイプがありますから、強迫性障害患者の脳を検査してどうとか、強迫性障害患者を治したと言う場合は、どのタイプの強迫性障害なのかを明示しないといけません。

今までは、その全部をステレオタイプ化していましたから、強迫性障害患者は完璧主義だからどうこうとか、こういう心理状態になっていると言ったところで、それは全体のごく一部の話で、他の患者には関係ないという状況でした。
過敏性の強さによって、不快感が残りやすいことで、その苦痛をなくそうと行う行為は、完璧主義だから、完璧でないことの不快感に抵抗して行う行為とは、まったく違います。

PTSDの人が、トラウマ関連事を過剰に避けるのは完璧主義だからではありません。
そういう事でトラウマを思い出してしまったり、PTSD症状が悪化する苦痛があるから避けるのです。

同じように、強迫性障害の人が強迫行為をするのも、そうしないとストレスの強迫状態での苦痛が消えないからで、完璧にそうしたいという主義でやっていることではありません。
過敏性で些細な違和感も苦痛になってしまうので、それが続く限り強迫観念も浮かんで、その解消行為が長くなってしまうのです。

そういう生活が続くことで、強迫性障害の人には慢性疲労も消えなくなります。

慢性の強迫症状でエネルギーを消耗するからですが、過敏性によって、殻を作れない、外界との間の壁が作り難いことも関係しています。

妄想の人は興奮した鈍感状態なので、相手を分かろうとしないし、分かっていないのです。
自分一人の世界なので、自閉と言いますが、敏感であると、自閉ができません。
現実から逃れられなくなります。

器質的に敏感であると、様々な雑多な刺激を受け続け、自分の周囲の世界、自分の内面世界の両方からの刺激も受けやすく、自他の境界(の壁)がうまく維持できなくなります。

境界がなくなれば、自己の存在もなくなりますから、精神面においても、生物的にも危険な状態です。
過敏性で他が自己に刺激や影響を与えてくるので、自と他の反発が起こり、世界と自分を切り離そうとしますが、過敏性でそうできないので、強迫行為で、自我を維持します。

逆に世界と自分が分離して、自己中心が肥大したのが精神病状態ですから、精神病であると他者の立場を考えなくなります。

強迫状態の人は、他者のことを分かりたくなくても、何か刺激があれば危害に感じますから、過敏性によるストレス反射的に、そうしたくなくても、どうしても他者が気になって考え(強迫観念)が浮かびます。
他者のことを分かろうとするのではなく、分からないようにしているのに、分かってしまうことで悩むのです。
例えば、人の思いなども見えないからこそ気になってしまい、それを気にしたくなくて、分かろうとしないことで、それがある程度は思い違いかもしれないとは本人も思うのですが、強迫観念としてそう思えてしまうと、その思いにとらわれることになります。

考えたくなくても、そうやって他者の存在が気になってしまうので、他者に迷惑をかけ難いのですが、過敏性により、簡単に他者から迷惑をかけられてしまいますから、どうしても余計に警戒してしまいます。

神経過敏で器質的に敏感な人は、一般的には些細なことが、本人にとっては、強い刺激になってしまいます。
敏感であること自体がダメージと直結して、実際に様々な刺激で危害を受けることが多くなります。
そういう神経過敏状態であると、ダメージを受ける前に、危害回避しなければならなくなり、そうならないとようと、ストレス対象への不安や恐怖や嫌悪などが強まります。
敏感であると、そういった不快な感情も苦痛(刺激)となって、ダメージになり、なかなか消えなくなります。
強迫性障害の人の場合、そういう不快な感じと結び付いた思考が強迫的に思い浮かんで、なかなか消えなくなってしまうことで、その思考(強迫観念)からもダメージを受けます。
そういう強迫観念は現実のことで思い浮かびますから、苦痛を解消しようと現実行動の強迫行為をしなければならなくなりますが、その行為もストレスが強く、ダメージになります。
敏感であると、そういった一連の強迫症状の苦痛(危害)が耐えられないので、そうならないとようと、不安や恐怖や嫌悪などと結び付いた強迫観念が余計に浮かびやすくなり、そのストレス反応と、ストレスの対処行為で、神経が消耗して、慢性疲労の状態になります。

若い内は気力があるので、無理をしてしまいますが、それが続くと重症化しますから、早めに悪化しない生活に切りかえることが大事です。


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