強迫性障害の全貌

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強迫性障害での鬱病が治し難い理由

現実に対する敏感な反応での苦痛、それによる精神症状、こういうのが、一番治し難いのですが、それこそが強迫性障害なのです。

強迫状態は過敏性によって起こります。
強迫性障害は神経過敏症状そのものなのに、敏感とか過敏性という言葉がほとんど使われてこなかったのはなぜでしょう?

この前も書きましたが、過敏性による精神障害というのはないのです。
それであると、精神の問題ではなく、神経の問題だから、神経障害ということになります。
神経症というのはありますが、ノイローゼの和訳に過ぎませんから、神経障害とか、神経障害による精神症状いう意味ではありません。
昔の日本の精神医学では、精神病と違って、外界と神経で繋がった状態での症状、あるいは神経衰弱の病気と考えて、神経という言葉を使ったのですが、ノイローゼが神経とは関係ない心の問題の症状でしたから、現代的には、むしろ神経(器質的問題)は関係ない精神障害のことを指すのです。

ですから、器質的な過敏性による精神症状は、精神障害ではないし、神経症でもないのです。
精神障害でないのなら、精神医学では対応できませんから、治療に取り組めませんから、神経過敏症状であっても、それを精神医学的に解釈して、考え方とか心の問題での過敏性とすることで、精神障害として治療できるのです。

その極端な例が、森田療法であり、神経過敏症状を神経質という完全な心の問題として、神経障害を得意分野に取り込んだのです。
認知行動療法も同じ事で、器質的な過敏性などというのは、まったく考えていないのです。
もちろん、実際にそういう人なら治せるのですが、少なくとも過敏性の強迫症の人にはまったく関係のない話です。

薬物療法に関しては、器質的な精神症状も前提にしているので、心の問題だとしても、脳が関係しているので、脳を治すことで、精神を治すという考えです。
ただ、頭(脳)が原因だとしても、神経過敏に効く薬はありませんから、器質的な過敏性の病気では困るのです。
実際には神経過敏症状であっても、そのことは触れないようにして、神経過敏そのものではなく、神経過敏による不安とか鬱などを精神障害として治療するのです。
一応、強迫の薬もありますが、あくまで精神障害としての強迫症ですから、過敏性による強迫症の薬ではないのです。
強迫症患者の脳機能がどうで、セロトニンどうとか言っても、過敏性の強迫症患者のことではないのです。
同じ病名でも、別の病気ですから、患者の人は勘違いしないようにしてください。
過敏性の強迫症は、一般的な説明に出てくる強迫性障害とは、別の強迫性障害なのです。

過敏性といっても、精神障害で過敏になっている場合は、精神障害を治せば良いので対応できるのですが、過敏だから精神障害になっている場合は、精神医学では神経過敏を治せませんから、対応困難になります。

例えば、PTSDでは過覚醒という過敏状態が起こることは認めていますが、それはトラウマという精神的問題があることでの過敏ですから、トラウマ治療をすることで過敏性も治せます。
トラウマも治療困難ではありますが、精神のことなので、過敏性そのものの治療よりは、精神医学的に対応しやすいのです。

統合失調症でも知覚過敏が起こるとされていますが、過敏だから精神病状態ということではなく、精神病状態だからこその過敏ですから、精神病の治療に取り組むことで、治せる過敏なのです。

そういうのは、精神状態が作り出す過敏ですから、精神医学で対応可能です。
神経過敏で悩んで精神科に行けば、何らかの精神障害が原因での過敏性として治すのです。

現実の何かでの(過敏性による)苦痛ではなく、心が作り出すことへの反射的な苦痛なら対応できるのです。
妄想は脳の問題ですが、妄想自体は心の問題です。
妄想と、その妄想での苦しみは、別のことですが、妄想が原因の苦しみなら、妄想(心の問題)を消すことで、苦しみも消えます。

過敏性の苦痛によって、強迫症状が出ますから、強迫症状の苦痛は、過敏性の苦痛がある限り続くのです。
強迫観念を消しても、過敏性は続きますから、また強迫観念が浮かび、苦痛もなくなりません。

強迫性障害の場合は、過敏であることで、精神状態が異常になってしまうのです。
過敏性が作り出す精神障害は、強迫性障害しかありません。
強迫性障害であることで、過敏性が強まるとしても、強迫性障害自体が過敏性が原因なら、精神ではなく、過敏性の問題なのです。

しかし、そのままだと、それは精神の問題ではなくて、神経の問題ですから、治せません。で終わってしまいます。
精神医学では手の打ちようがないので、治療といっても、どう考えて、何をしていいのか分かりません。

ですから、精神医学としては、そういうタイプの患者であっても、不安とか心の問題での強迫性障害として治すことになります。
治せないことは分かっていても、そうしないと、精神医学としてはアプローチできません。

その場合は、強迫性障害による不安とか鬱による憂鬱な気分や思考とか睡眠障害とか心の問題を治療することで、強迫性障害を軽症化する、悪化を防ぐ、少しでも生活しやすくするという考えです。
強迫自体は神経過敏の症状であっても、その周辺症状であれば精神障害として精神医学で対応できるのです。

強迫性障害に効く薬を探している人も多いと思いますが、過敏性の精神障害に効く薬はありません。
強迫というのは、単独の症状ではないので、何に強迫されるかを考えないといけません。
強迫観念の場合は、観念に強迫されますが、主に、不安、恐怖、嫌悪などの不快な観念に強迫されます。
ということは、不安、恐怖、嫌悪に効く薬であれば、そういう思いが浮かんでも、気になりませんから、強迫にも効くのです。
不安ならまあまあ効く薬はありますが、恐怖や嫌悪に効く薬がないので、その強迫状態である強迫にも効く薬がありません。

強迫観念が不安な思いだけの人なら、軽症化可能ですが、根本に過敏性の問題があれば、過敏性がある限り、不安にもなってしまうので、普通の不安症の人よりも、なかなか治しにくくなります。

恐怖、嫌悪に効く薬は、幸せな気分になれる薬、楽しくなれる薬、勇気が出る薬とかですから、あるとしても、麻薬類になりますから、一般の人は使えません。
使ったら使ったで、強迫を抑えるレベルだと、恐怖感を感じにくいことで、危険回避をしなくなり、逆に危険な状態にもなりかねません。
だからこそ、そういう薬は規制されるのです。

強迫に効くサプリとかも、あれば、即規制されます。

ですから、今後も薬には期待できませんし、治す方法もないままです。

ちなみに、強迫行為先行型の場合は、衝動、欲求、こだわり自体に強迫されます。
安心できる行為への依存症みたいな状態ですから、過敏性はなく、治し方もまったく別です。

過敏性による精神障害がない理由は以上のようになりますが、発達障害精神障害ではありませんし、そもそも生まれ付きの器質的な問題と考えているのですら、過敏性の問題があれば、精神的な過敏ではなく、器質的な過敏として扱います。
ただ、それによる精神障害となってくると、対応困難ですから、発達障害精神障害は別々で考えるのです。

強迫性障害は精神の病気としては、非常に扱い難い、治し難い、だからこそ、扱いやすい病気(神経ではなく心の問題)として解釈することで、なんとか対応してきたのです。

強迫性障害であっても、そのことで精神的に病まなければ、なんとか生活できることは書きましたが、強迫性障害であるのに、精神的に病まないというのは、なかなか困難です。

なぜ病んでしまうのか?

不快な思いに強迫され続けるのに、憂鬱な気分にならないことができるでしょうか?
ストレス耐性が強ければ可能ですが、そういう人は、ストレスでの強迫状態になりませんから、不快な思いに強迫され続けることにもなりません。

強迫観念といっても、敏感な人は、感じ、気分、気持ち、感情、感覚、記憶などにも強迫されることになります。
例えば、何か不快なものを見て、嫌な思いをする、それだけなら普通ですが、その時の、感じ、思い、記憶がずっと消えなくなってしまうとしたら、苦痛もずっと続きますから、そういう苦痛が増えないように、不快なもの見ないようにするようになります。

運動して疲れたとかそういうことなら、神経過敏であることでの疲れではないので、特に嫌な感じは残らないのですが、過敏性を刺激するようなことで、何かで酷く疲れれば、その疲労感も残りやすいし、その体験での不快な思い、その記憶も残りやすくなります。
敏感であると、生きているだけで、いろんなことで疲れますが、それが消えなくなって、慢性疲労にもなります。

神経過敏自体は精神障害ではないのですが、それによって、精神的に病んでしまうのです。
精神的に病んでしまうのは、過敏性の強迫状態になりやすいことで、不快な感じ、思考、記憶、などが、ストレスとしてため込まれる状態になってしまうからです。
その上に、神経過敏での不快感がまた入ってくると、余計に苦痛が強く感じられます。
それが続きますから、憂鬱にもなれば、人によっては、頭がおかしくなります。

日常の些細な刺激(不快なこと)でも強迫観念は簡単に煽られる、これが過敏性の苦痛の発端です。

過敏性の強さで、感じること自体が、すでに苦痛なのですが、その不快な感じが続くだけでなく、不快な思いも強迫観念として続いてしまいますから、余計に苦痛なのですが、それだけでなく、それによって、強迫行為をしないといけなくなってしまう苦痛もありますから、元々は些細なことでも、重大な苦痛に感じるし、思えてしまいます。
強迫症の人には、実際にそうだからです。

過敏性の強迫観念は、実際の危害に対して、考え方に関わらず浮かびますが、そういうのは強迫観念として扱われてきませんでした。

実際に害があることで不安とか恐怖とか嫌悪の不快な思いが浮かぶのは、当然のことだから、強迫観念ではないと言えるでしょうか?
その不安とか不快な思いが一時的であれば、普通のことですが、それが消えなくなれば、それも不安とか恐怖とか嫌悪での強迫状態であり、その不快な思いは強迫観念なのです。

強迫観念というのは、実際には害がないことを、危害だと思うことで、危害になってしまうわけではありません。
それは神経質的な考え過ぎでの不安思考です。
神経質な人にはそれも強迫観念になりますが、過敏性の強迫観念とは違うものです。

しかし、今までの強迫性障害は、不安の病気とされてきましたから、強迫観念=不安思考のことだったのです。

●●恐怖という場合も、実際には怖くない(害のない)ことなのに、それを怖がることで、怖く思えるという考えだったのです。
汚染恐怖であれば、汚いないのに、汚く思うことで、それを過剰に避けたり洗ったりすると考えられていたので、それを実際に汚いと思う場合は、現実への洞察力がないとか、妄想に近い不安思考(非現実への確信)とされてきたのです。

アメリカ式の診断基準でも、強迫行為は現実の危害への直接的な対処ではないこととなっていますから、ありもしないことへの思い込みだけの不安思考こそが、強迫観念なのです。
それを現実だと思う人は、現実が理解できない=洞察力がない、妄想的とされます。

その基準だと、現実のストレスへの対処として強迫行為をする人は、逆に強迫性障害ではないことになります。
過敏性の強迫観念は、「かもしれない」という不安とは限らずに、汚れの嫌悪のような実体験での不快な思いも強迫観念になります。
そういう強迫観念は、現実のことへのストレス反応で浮かびますから、「かもしれない」ではなく、現実にそうなっています。
形としては思考ですから、当然、現実そのものではなく、自分だけの思いだとは分かっているし、それが一般的でない思考内容でも、そのことも分かるので、洞察力があり、現実が理解できていますから、妄想でもありません。

敏感であれば、一般的には些細なことも強い危害となりますから、ストレス対象(危害)が増えて、必然的に強迫観念も強迫行為も増えてしまいます。

実際に危害のあることを避けるのは、正常な人なら誰もがすることですが、強迫性障害であると、過敏性の強迫症状によって、一般の人なら危害にならないことが危害になってしまうので、その差が障害になってしまいます。

神経過敏はそういう生理的な症状なので、心の問題ではないのですが、それによる鬱とかは心の問題なのです。

精神医学的な不安には対象がありませんから、何らかの怖い思いが浮かんで、それは実際には起こってないことなら、対象がないとして、不安に含まれます。
不安に思うことで、不安になっているだけで、実際にはそうなっていないからです。
これは特別なことではなく、普通の人の不安も大抵はそうなのですが、不安障害とか神経質な人はそういう不安が多くなります。

現在の何らかの危害とか、そういう記憶があることでの不安は、対象があるので、恐怖や嫌悪などになります。
恐怖や嫌悪があることで、そのことへの不安な思いも浮かぶのですが、恐怖や嫌悪には対象があるので、その不安にも対象があるのです。

現在過去の実際の危害によって、未来の不安が浮かぶ場合は、思い込みとか、考え過ぎの不安(想像上だけの不安思考)ではなく、当然、妄想でもありません。
実際の危害での不安思考=恐怖や嫌悪などで、こういうのは過敏性の不安思考です。

現実反応の不安思考自体は誰にでも起こりますが、過敏性が強く、ストレス耐性が低いと、ストレスの苦痛が長く消えなくなりますから、不安が浮かびやすいし、それも消え難くなります。

強迫観念が浮かびやすいのは、何らかの危害に対してです。
はっきりしている危害でも強迫観念(そのことでの恐怖や嫌悪などの不快な思い)は強まり、過敏性によってその思いは消え難くなりますが、未来のことのようにはっきりとしないこととか、現在のことでも見えないことなどは、分からなかったり、見えないからこそ、その危害を思い浮かべてしまうことになり、強迫観念が強まりやすくなります。

普通の人からすると、実際の危害というのは、特定の人ではなく、一般の多くの人達にとって危害になっていることや危険に思うことなどであり、あくまで一般基準での危害のことです。
しかし、過敏性の強い人は、普通の人が恐怖しないことで、恐怖したり、普通は気にならないようなことも気にしたり、何らかの危害に対して不快な思いなどが浮かべば、その思い自体も危害になってしまいます。
そういうのは、一般の多くの人達にとって危害になりませんが、本人にとっては実際のことなのです。

強迫状態によって、その危害での苦痛が消えなくなれば、そのことに対する恐怖や不安なども強まってしまうし、その状態が続けば、対処として強迫行為をしないといけなくなり、その症状自体も含めた一連の苦痛を危害に思えます。

同じ強迫性障害でも、過敏性のない人であれば、不安な考えが離れないことだけが本人だけの実際の危害なのですが、過敏性の強い人は、それだけでなく、現実の危害での不快な思い(恐怖や嫌悪など)も強迫観念になってしまうのです。
しかし、それは過敏性が強いからこその危害であり、過敏性の問題がないので、一般の人は危害にならないというだけです。
敏感な基準は、一般基準ではありませんが、だからと言って、実際には危害のないことでなく、本人には実際の危害なのです。

敏感肌の人が、些細な刺激でも簡単に肌が傷付くことと同じで、一般的に些細なことでも、その人にとっては、実際の危害なのです。

実際の危害や、過去の危害が何なのかは、人それぞれの感受性や経験などでも違うし、生理的反応での恐怖や嫌悪なども、本人が基準になりますから、みんなに共通することばかりではありません。
敏感な人は、そういう危険が多い分、恐怖や嫌悪などの思いも増えるし、それがあることで、不安も強まり、それらの思いが消え難くなります。

強迫観念が消え難いのは、神経過敏で、その思いの刺激が残るからですが、妄想と違って、現実に対する思考です。
意識的に自分で考えているわけではなく、危害への生理反応で反射的に浮かびますから、自分の意思で、考えないように思わないようにしたくても、そうなってしまいます。

強迫観念は自分の意識的な思考(自分の考え)に関わらずに、危害に対する生理反応として浮かびますから、「自分の考え」と「強迫観念」という思考の二分化が起きます。
この葛藤があるのが妄想との違いでもあり、これが苦痛なのです。
強迫観念のほうは、「自分の考え」を無視しますから、どう考えようと自由にできませんが、「自分の考え」のほうは、「強迫観念」の悪影響を受けます。
危害に対する生理反応なのですから、無視することもできないのです。
そうすると、「自分の考え」が「強迫観念」に汚染されて病んでしまい、強迫観念が慢性的にあることで、「自分の考え」も慢性的なネガティヴ思考になり、それも消えなくなってしまいます。
それも「強迫観念」になりますが、「自分の考え」も続きますから、「自分の考え」としては、常に思い悩む状態になり、行動も消極的で回避的になります。
そういう生活でも、日常の些細な刺激(不快なこと)でも強迫観念は簡単に煽られますから、強迫行為はし続けることになります。

不快な思いが残り続けるというのは、すでに精神的に病んでいるのですから、そういう精神状態で生活し続けて、憂鬱な気分にならないとか、病まない(鬱にならない)ほうがおかしいです。

強迫症状での心の病みと、うつ状態が同じなので、強迫症の人は必然的に、鬱病にもなります。

これは、双極性障害の人が、鬱にもなってしまうのは、躁状態の反動ですが、強迫観念と鬱の場合は、最初から同じなのです。

普通の人は、鬱病になっても、過敏性の問題ではないので、何かに対する思いというよりは、憂鬱感そのものだったり、そういう状態での人生そのものに対して、悲観思考が起こります。
器質が原因、ストレスが原因、どちらにしろ鬱自体は、神経過敏ではなく、精神的な問題なのです。
過敏であると、それだけでなく、日常の些細な刺激に対して、悲観思考が起こり、強迫症状も出ます。
元々から、過敏性による憂鬱感にも強迫されているのですから、鬱病になれば、その憂鬱感がさらに強まり消え難くなります。
単にうつ病なら、過敏性の問題がないので、何もできなくなれば、そのままになりますが、鬱になっても、過敏性は続きますから、強迫症だと強迫行為をしないといけないので、その疲れで余計に憂鬱になってしまうのです。

仮に強迫行為をしなくていいなら、強迫観念と、鬱の憂鬱感や悲観思考などの問題しかないので、苦痛も少ないのですが、その状態で、何かをしないといけなくなってしうのが苦痛なのです。
強迫行為が億劫なので、そうならないように回避も過剰になりますが、億劫でも過敏性による苦痛や強迫観念はなくならず、強迫行為はしないといけないので、心だけでなく、体も休めなくなりますから、鬱もなかなか治らなくなります。

過敏性の不快な思いで憂鬱思考、悲観思考が浮かび、それも強迫観念となってしまいますが、そういうのは、うつ病の症状ですから、現実行動の強迫行為では対処できません。
うつ病と同じように、それがある限りは、そのままなのです。
そして、過敏性が強い分、その思いも強迫観念となって、消えなくなってしまいます。
強迫症の人が、うつ病になれば、うつに強迫されることで、うつ病が離れなくなって、何十年も続きます。

こういうタイプのうつ病には、調子の波がほとんどないのが特徴で、調子の悪い日がずっと続くことになります。
悲観思考が多くなりますから、強迫性障害にも悪影響です。
逆に、うつ病さえ治せれば、強迫性障害でもある程度は楽しく生きることは可能なのです。

強迫性障害を治すことよりも、いかに憂鬱気分とか、悲観思考にとらわれなようにするか、それを考えたほうが合理的に生活の質も向上させられます。

ただ、うつ病だけでもそれが難しいから、うつ病なのですから、うつ病強迫性障害の人にはかなり困難なことです。

ですから、うつ病が悪化する前に、うつ病を治療することが大事です。
強迫性障害が軽症だと、うつ病もまだ軽症なので、うつ病になっていても、そのことに気付かない人も多いのです。
強迫性障害の憂鬱感(憂鬱気分)とか悲観思考なのかなと思うだけで、うつ病だとは思わない人も多いのですが、憂鬱感とか悲観思考の範囲は、うつ病であり、それに強迫されるのが、強迫症の範囲です。
軽症の人は、うつ病の範囲がまだ重症ではないので、強迫性障害も軽症化できる可能性はあるのです。
うつ病が重症になれば、強迫性障害による心の病みも重症化しますから、強迫性障害による苦痛が余計に消えなくなってしまいます。

ですから、強迫性障害そのものというよりも、強迫性障害による心の病みをいかに減らすか、これに取り組んだほうが、強迫性障害そのものに対しても、治療的になります。

強迫性障害であっても、深刻に病むことがなければ、なんとか人間的に生活できるということですが、強迫性障害が悪化すれば、うつ病も悪化しますから、なかなか困難なのです。

強迫性障害は神経の障害ですから、なんともできませんが、うつ病とか、不安症範囲の症状であれば、精神の障害ですから、気持ちの持ちようで、ある程度は改善できることです。

ただ、過敏性の強迫には、トラウマでの強迫観念も多く、これもトラウマ(実際の危害)への生理反応の問題ですから、心の問題といっても、心掛けとかでは治せないことです。
そういう面は、仕方ないと考えて、心の持ちようで、治せる範囲を治していくしかありません。


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