強迫性障害の全貌

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強迫性障害は本当に精神の障害なのか?/不安症・恐怖症と強迫症の違いは強迫性・過敏性・全般性/統合失調症の妄想には汚染恐怖や不潔恐怖が無い理由

ストレス反応=心の問題ではありません。
考え方でストレスになっているなら心の問題なのですが、過敏性の強迫観念は、考えとか、心掛けとかに無関係の症状なのです。
考える前にストレスを感じて、そのストレスで不快な思いが浮かぶのです。
ストレスへの生理的反応での症状ですから、心理とはむしろ関係が無い症状なので、少なくとも心理学では治せません。
神経過敏での強迫症状は、器質とか器質的な気質の障害なのです。
それは昔からとっくに分かっていることなのですが、強迫性障害精神障害なので、神経過敏での強迫症状の人も、強迫性障害なのであれば、心の問題としないといけなくなってしまうのです。
ですから、神経過敏での強迫症状の人は、本当なら強迫性障害と診断してはいけないのですが、心の問題というのは、原因であって、強迫性障害は症状なので、原因はともかく症状としては強迫性障害そのものですから、強迫性障害の診断になってしまいます。
そうなれば、強迫性障害=心の問題ということになりますから、まったく関係ない病気の治療を受けないといけなくなります。

過敏性強迫症の問題は、そのストレスでの精神的苦痛によって精神が病んでしまうことも含まれますから、うつ病はセットになります。
うつ病の面では確かに精神障害ですが、考え方の問題とかで強迫症になっている人達とは違って、精神が「原因」ではなく、その病んだ精神は、過敏性による「症状」なので、全然違うわけです。
このうつ病の場合、強迫症が原因なので、過敏性が治らない限り治りません。
ということは、精神障害強迫性障害となっている内は、強迫も鬱も治らないのです。

強迫症状自体は、精神ではなく、過敏性の問題ですから、脳の病気として過敏性強迫症とか、全般性過敏症みたいなのを作らないといけないのです。
逆に、強迫性障害から心の問題の人達を除外するのも良いのですが、その区別をする方法がないし、そうすると強迫性障害精神障害ではなくなってしまうので、精神医学的にそういうことはできません。

うつ病強迫性障害を併発している場合、強迫性障害のほうが重症でも、それは実際には器質の問題であり、精神の障害ではありませんから、うつ病のほうを主病名としてください。
そのうつ病強迫性障害である限りは治りませんが、治療と療養で多少は改善することもできます。
(過敏性の)強迫性障害のほうは治療法がありませんから、そちらをメインで治療しても無駄なのです。
普通の鬱よりも複雑なので、普通のうつ病の治療で治るわけではありませんが、重いうつ病でも強迫行為をしないといけないというのは、かなり苦痛で、余計に精神が病んでいきますから、うつ病を治すことを考えるだけでいいのです。

強迫性障害のほうは、今後も不安の病気とか、考え方の問題として扱われますが、精神医学としては、精神の病気でないといけないのですから、それは仕方がないことです。
ただ、過敏性の強迫症とは全然違う病気のことですから、自分の病気のことだと勘違いしてはいけません。
過敏性はまったく無視しているのです。
精神の病気としては、うつ病だと思えばいいのです。
強迫性障害単独ではなく、うつ病強迫性障害の病態であれば、精神障害なのです。

つまり、強迫症状による精神の病みが、精神障害なのです。
精神医学のほうでもそう考えています。

強迫性障害精神障害ではない神経障害か何かなら、精神障害としては障害度は低いわけで、そこにうつ病が合わさることで、精神障害的な病気に変わるのです。
仮に強迫性障害が脳の研究によって、神経障害ということになれば、強迫性障害単独でも神経障害としては障害度の重い病気ということになりますが、それであると、精神障害ではありませんから、重い症状が出ていても精神障害的には軽い病気になります。

ただ、精神病でなくても器質が関係しているのではというのが、近年の考え方なので、そういうのが明らかになってこれば、精神障害=体(脳とか神経)の病気でもあるということになり、強迫性障害単独でも、症状が重ければ、精神障害としても重いということになります。

統合失調症の場合は、頭の中だけの病気ですから、器質的な病気だとしても、明らかに精神だけの問題なので、最初から最後まで精神障害的なのです。
外界からのストレス反応ではないので、器質性でも、完全に(精神)心の病気として扱えるのです。

強迫性障害の場合、神経過敏での病気ですから、精神障害的ではないということです。
それを精神障害として扱うのが本来は困難なことなのですが、精神障害とするのであれば、精神の問題とすることになります。
そういうことにしないと、治療といっても、何をしていいのか分かりません。

だからと言って、体とか脳の病気として病院に行っても、よく分かっていないことは治せません。

ですから、強迫性障害を治そうとする(何らかの理由で治療を受けないといけない)のであれば、精神医学での考えと、その治療法を受け入れるしかありません。
他にどうしようもできないからです。

ただ、そうすると治療がストレスにしかならないので、強迫性障害というよりも、うつ病を治すことを考えればいいのです。
うつ病はある程度は治せますから、治療する意味ができます。

強迫性障害のことはどうしようもないので、強迫性障害による悩みというのは、うつ病の症状だと思えばいいのです。
それで病んでしまうことが精神障害だからです。

強迫性障害であっても、精神的に病まなければ、なんとか人間的な生活が可能になります。

強迫性障害の症状とは関係のない心、そこをポジティヴにすることが大事です。

とは言っても、うつ病だと、なかなか難しいことなので、うつ病のほうを治したいのですが、強迫性障害があっての、うつ病ですから、これもなかなか治せません。

ということは、やはり強迫性障害を正しく理解してもらい、過敏性の強迫性障害にも効くような薬を使用可能にしてもらうしかありません。

薬が効かない人は、考え方の問題だからというのは偏った古い考えで、精神の薬には元々それほど種類がないので、過敏性とか、恐怖や嫌悪に効く薬はなく、それによる強迫状態には余計に効きません。

それらも治せないのに、それらの強迫状態である強迫観念が治せるわけがないのです。
PTSDの場合は、過敏性の問題でトラウマになったわけではないので、トラウマの強迫性が低く、自然と治ったり、治療で治せることもありますが、強迫性障害のトラウマは、器質的な過敏性の問題ですから、自然と消えることはなく、薬で治せることでもありません。

ただ、同じ強迫症でもいろんなタイプがありますから、SSRIが効く人もいることは知られています。

SSRIが効きやすいタイプ・・・不安障害の強迫症状(不安になりやすいことで強迫観念が浮かぶ人)、鬱状態による不安思考での強迫症状など、不安や鬱での強迫観念の人
不安障害の強迫症状と言っても、過敏性があるからこそ、不安になりやすい人もいて、その場合は、薬にも敏感なので、SSRIも無理に増やすと、抗コリン作用の賦活で、攻撃性が強まったりイライラする可能性があります。

SSRIがほとんど効かないタイプ・・・過敏性の強迫症状(敏感なことで些細な刺激も危害となって強迫観念が浮かぶ人、不安だけでなく、嫌悪や恐怖などでの強迫が多い人)、トラウマ(過去の危害)があることで、強迫観念が浮かぶタイプで、尚且つ過敏性の強い人

SSRIが効き難いタイプ・・・恐怖症の強迫症状(特定のことへの恐怖の対処で、強迫行為をしているタイプ)

SSRIでなければ、抗精神病薬ぐらいしかありませんが、強迫観念には効きません。

妄想幻覚、思い込み(考え過ぎ)の不安思考、不安感による不安思考、過敏性の強迫観念、この中で、一番治しやすいのは、妄想幻覚です。抗精神病薬が効くので短期間で治せます。

飲んでいる間だけなら治ったと言わないと言っても、飲んでいる間さえ治らない病気と比べれば、治ったに等しいのです。
思い込みの不安思考の場合、考え方の問題なので、考え方の修正できれば、不安も消えますが、抗精神病薬は考え方を鈍らせますから、ある程度は効果があります。
つまり、完全な神経質か、精神病の人向けが抗精神病薬です。

不安になりやすいことでの不安思考(不安障害の強迫観念)の場合は、SSRIが効くこともありますが、過敏性の強迫観念(現実の危害やその記憶での恐怖や嫌悪、それらがあることでの不安思考)は何も効きません。

過敏性の強迫観念の場合は、現実の危害とか、その記憶によって、生理反応で思い浮かぶので、完全に意識(思考や感覚)を無くさないと、強迫観念も消えません。
麻酔で完全な無になれば、苦痛も消えますが、何もできなくなりますから、治療とはいえません。

妄想幻覚の場合は、薬でそれを鎮静する(思考力を鈍らせる)にしても、ある程度までで良いのです。
現実は関係ないので、強く鎮静するにしても、現実を意識できるレベルで構わないのです。

幻覚が一番簡単に治せますが、過敏性の強迫症状以前に、(現実反応の)恐怖や嫌悪などにも効く薬がありません。
現実反応の恐怖や嫌悪も麻酔を使って意識を弱めたり眠らせれば一時的には静まりますが、麻酔が効かなくなれば元に戻るし、強迫性障害の場合、恐怖や嫌悪の対象が多いので、そんなことをしながら生活できません。
恐怖や嫌悪などに慢性的に、全般的に強迫される状態は、一時的な効果では意味がないのです。
過去(不快な記憶)からも強迫されますから、その記憶がある限り、強迫観念も浮かんでしまうし、現実からも強迫されますから、意識が戻れば、症状も元に戻ります。
未来(先のことへの恐怖や嫌悪)からも強迫されますから、汚染恐怖があると、一時的に麻酔で誤魔化していた間の汚染とか、その分の洗浄や汚染物放棄などの強迫行為をしないといけなくなってしまう恐怖が強迫観念として浮かび、麻酔が受けられません。
特定のことへの恐怖症と違って、全般性がありますから、麻酔を受けること自体も恐怖となり、その恐怖の強迫状態となって、強迫観念が浮かびます。
その強迫状態で、麻酔する人とか器具などへの汚染恐怖があると、そもそも接触できないので、麻酔が受けられません。
麻酔を受けることでの汚染恐怖は、麻酔では抑えられません。

幸せな気持ちにになれる薬で恐怖や嫌悪を消すのも良いのですが、そうやって治す薬があれば、それは必ず麻薬類になりますから、あっても使えません。
実際に強迫性障害に麻薬類は効くという実験データもあり、効く薬も作れるのですが、使えませんから、意味がありません。

SSRIは鬱とか不安障害には向いていますから、不安の強迫なら効くこともありますが、恐怖や嫌悪には効かないので、恐怖や嫌悪の強迫には、まったく効きません。
恐怖症も治せないのに、恐怖に強迫される強迫性障害がどうして治せるのでしょう?

治せるほうがおかしいことで、今使える薬が効くとしたら、不安障害に近いタイプとか、思い込みだけの不安思考の人です。
思い込みの強い人は、薬が効くという思い込みでも治せますから。

過敏性の強迫は、考え方とか不安の問題ではないので、森田療法とか認知行動療法ではまったく通用しませんし、不安障害に効く薬もほとんど効きません。

不安障害の強迫症状は、それが今までの普通の強迫性障害ですから、過敏性がなくても強迫性障害に含めることになりますが、過敏性の強迫症状とはタイプが違いますから、強迫観念が不安だけの人は、少なくとも不安型みたいなタイプ分けはするべきです。

強迫性障害には、過敏性、強迫性、全般性がセットになっています。

全般的にいろんなことに不安な人は、全般性はありますが、不安での強迫性が弱ければ、強迫観念がなく、強迫症状が出ないので、全般性の不安障害ということになります。
強迫性がないのは、不安障害は、過敏性の問題ではなく、不安の問題だからです。
不安が起こり難く消えないから、不安な思いも消えないのですが、不安なだけなら実際のことではないので、過敏性の強迫観念ほどの苦痛はないし、強迫行為も起こりにくいのです。

敏感な人は不安になりやすいのですが、器質的に敏感であれば、不安だけに強迫されやすいということにはなりません。

同じことでも、それを怖がらない人もいれば、怖がる人もいますが、強迫症であると、過敏性で恐怖対象が多いだけでなく、恐怖に強迫されるので、その苦痛から、恐怖対象への恐怖、嫌悪、不安、拒絶も強まります。

器質的に敏感な人は、特定のことだけに敏感なのではなく、本人にとっての不快な刺激に全般的に敏感になります。
外界の刺激だけでなく、思考、記憶、感情、刺激反応自体など、内面の刺激にも過敏反応します。
そのストレスが長々と消えなくなってしまうので、強迫行為をしないといけなくなります。

そういう全般性が強迫症の特徴ですが、その中には特定のことへの恐怖なども含まれ、何で強迫されるかは、人それぞれの面もありますが、特定のことへの恐怖症とは別の症状なのです。

特定のことへの恐怖症であれば、その恐怖に強迫されない(強迫観念にならない)ので、その恐怖対象さえ避ければ良いのです。

普通の人も恐怖は当然起こりますから、例えば、コロナが怖ければ、コロナ恐怖(感染恐怖)とか、コロナ汚染恐怖(コロナが付着する恐怖)になってしまいます。
コロナは手に付着しただけでは感染しませんが、それを口に入れたりすれば感染リスクが高くなり、そういうものが付着したと思えれば恐怖には感染します。
そういう恐怖が強ければ、消毒や洗浄などが過剰になりますが、ある程度までなら普通のことです。
もし病的レベルであっても、特定のことにだけ恐怖するなら、特定のことでの(限局性)恐怖症であり、強迫行為が見られても、強迫性障害ではありません。
そういうのは、汚染の強迫観念があるから、コロナ汚染に恐怖するのではなく、その汚染恐怖はコロナ恐怖が引き起こしているので、基本的にはコロナさえ避けられれば良いのです。
コロナ問題が長引いていると、その分長くなりますが、一時的な(強迫性の弱い)病気ですから、やがて恐怖対象がなくなれば(コロナの危険性が弱まれば)、それによる恐怖症状も消えますから、強迫行為もしなくなります。

強迫性障害の人も不安症や恐怖症にはなりますから、それによる(一時的な)強迫行為もするのですが、それと強迫性障害の(慢性的な)強迫行為は別なのです。

強迫性障害の感染恐怖や汚染恐怖の場合も、コロナ恐怖は起こりますから、それによる洗浄なども過剰になりますが、それだけではないのです。
過敏性によって、様々な恐怖に強迫される病気ですから、恐怖対象(ストレス対象)から離れても、強迫観念や記憶強迫(トラウマ強迫)によって恐怖が続いてしまうし、その恐怖対象にも継続性、全般性がありますから、恐怖対象自体がなくなりませんし、ストレス対象も消えなくなってしまうのです。
不安や恐怖や嫌悪なども続いてしまい、その思い(強迫観念やストレス体験の記憶)も消えなくなります。
それが強迫状態で、普通の人はそうなりません。

過敏性が強いと、一度感じた恐怖がなかなか消えなくなりますが、そこに思考が結び付いて、強迫観念となって、さらに消え難くなってしまうので、その症状の解消や対策として、過剰な強迫行為や回避が起こるのです。

コロナ恐怖の場合、実際にみんなにとって危害のあることへの恐怖ですから、過敏性の問題でもなく、強迫性の問題でもなく、ある程度は、そうなって当たり前のことであり、病気でもありません。
しかし、もし病的レベルになってしまえば、不潔恐怖とか汚染恐怖の症状と基本的に変わりませんし、実際に不安症や恐怖症での強迫行為でも強迫性障害に含めて来ましたから、病状次第では、強迫性障害として治療することも考えられます。

実際に治療する人はいないとは思いますが、SSRIでは恐怖症とか、恐怖や嫌悪での強迫性障害は治せませんから、むしろカウンセリングとかが向いているはずです。
恐怖が起こりやすいとか、強迫されやすい病気ではないので、考え方とか一時的な気持ちの問題だからです。
そういう心理的な恐怖こそ、カウンセリングの対象なのですが、コロナ恐怖の人だと、この状況の中、通院するのも怖いかもしれません。

強迫性障害だと、不安が強くて、強迫行為をするタイプならカウンセリングも向いているかもしれませんが、強迫観念自体は危害への生理反応ですから、心理的な問題ではありません。

強迫観念は、「かもしれない」という不安な思い、思いこみとか考え過ぎでの不安→現実的でないことへの過剰な心配、という説明が多いのですが、勘違いしています。
そういう不安思考は、現実がどうかではなく、頭の中で、そう考えることで、不安になってしまうので、神経質な人の強迫観念のことです。
普通の不安思考を、考え過ぎてしまうことで、それにとらわれて、強迫観念のようになります。

生理的恐怖や嫌悪などは、考えてそれが浮かぶのではないので、考え方を変えても、その恐怖や嫌悪は消えませんから、考え過ぎではありません。

強迫観念は普通の思考に関わらずに、ストレス反応で強迫的に浮かび上がりますから、簡単には払い除けられません。
強迫観念自体から不快な感情が起こり、患者にとっては、それも症状としての実害になりますから、強迫観念を強める物事への敵意も強まります。
それは普通の人なら、強迫症状が出ませんから、なんてことなくても、強迫症の人は、強迫症状の苦痛がありますから、過剰に避けることになります。

不安になりやすいために、そのことを考え過ぎてしまうなら、不安障害(不安の問題)と言えますが、不安になってしまうようなことを考え過ぎて、その思いで不安になっているのなら、神経質(考えの問題)です。

強迫性障害だと、不快な思いなら、なんであれ強迫観念になり、過敏性の不安な思いも強迫観念になりやすいのですが、その不安の元になっている、怖いと思いとか、嫌な思い、不快な思い全般が強迫観念としてあり、そういう不快感での強迫状態になり、それらの苦痛が消え難くなっていることで、そうならないようにと不安にも強迫されます。

神経質的な不安は、ただの考え過ぎなのですが、実体験で危害を受けていること、そういう記憶があって、何かを危害だと思うというのは、実際に危害があることへの不安や恐怖ですから、考え過ぎとか思い込みの不安ではありません。
強迫観念は不快な思いのことですから、こういう実際の害での嫌な思いも、当然、強迫観念になります。
記憶も思い浮かぶものですから、トラウマや不快な記憶も、強迫観念になります。
こういうのは、神経質ではない=強迫性障害の強迫観念です。

敏感な人は、何らかの事で辛い思いをすることは多くなりますが、強迫症だと、そういう不快な思いが消えなくなります。
一般的には些細なことも、本人にはいちいちトラウマ体験となり、その記憶が消えなくなり、強迫観念になります。
何かを見て嫌悪感が湧くとしても、それが強迫観念化することで、一時的ではなく、ずっと続いてしまいます。
そういう苦痛が強いので、そうなってしまうことを実際の危害として避けるようになりますが、こういうのも考えて、嫌悪感や恐怖が起こるのではないので、考え過ぎではありません。

過敏性の強迫観念を、神経質や思い込みの不安(性格や考え方の問題)と勘違いして、ああしろこうしろと言われても過敏性の強迫症だと、そんなことしても治せませんし、そんなことはできませんから、そういう間違った考えを無理やり押し付けられて、そういう乱暴な扱いを受けることが、過敏性の強迫患者には強いストレスになります。
その誤解によるストレスへの強迫行為(回避)として、社会的に孤立してしまうのです。

そのストレスに加担しているのが、認知行動療法ビジネスや森田療法の宣伝です。

神経質の場合、自身の考え方で不安が起こり、その考えが強迫観念になりますから、危害が実際にはなく、自身の考え自体が想像上の危害になります。
神経質も強迫症状が出るので、強迫性障害に含まれてきたことで、強迫性障害への誤解も多くなりました。
神経質での(心因性)精神病様状態を、統合失調症としないことと同じで、強迫症様状態の神経質は、過敏性の強迫症状とは全然違う症状ですから、性格(考え方)の病気として扱うべきで、強迫症状があっても、強迫性障害に含めるべきではありません。

もしそれを続けるなら、過敏性の強迫性障害に、新しい病名を付けるべきです。
そうしないと、実際には全然違う病状の人が、同じ病気となってしまいます。

自分自身の考え方の問題で不安になっている場合は、神経質ですので、不安障害でも強迫性障害でもありません。
神経質の強迫症状の場合、不安とか過敏性とか恐怖の問題ではなく、考え方(思い込み)の問題なので、プラセボ効果が得られやすい面もありますが、基本的には考え方を修正しないと治せません。

ただ、頭の中だけでの思い込みの不安とか、考え過ぎでの強迫観念も、脳機能の問題での症状ではないかというのが現代的な考え方です。
そうであれば、完全な神経質と、脳機能障害での神経質が両方いるということになりますが、脳機能の問題で、不安になりやすいことで、神経質になっている場合は、実際は神経質ではありません。
不安の問題だったり、妄想的な症状だったりするので、SSRI抗精神病薬が効く人も多いですが、神経質(考え方の癖)の傾向もあれば、考え方の修正もしたほうが再発し難くなります。

過敏性の(古来の)強迫性障害の場合、自分の考えに無関係に、何らかの危害に対して、強迫観念が浮かびます。
その強迫観念自体も危害になりますが、実際の何らかの危害での生理反応的な強迫観念ですから、考え方の問題(思い込みの危害)ではありません。

恐怖症も基本的に考え方の問題ではありませんが、強迫症とは別の病気です。

恐怖症の場合は不安というよりは恐怖に悩まされますから、未来の危害だけではなく、今現在とか過去の危害による恐怖も起こります。
しかし、過敏性の問題がないので、その恐怖に強迫され続けるわけでもなく、強迫観念にもなりませんから、強迫症にはなりません。
恐怖自体は強迫性は強いので、恐怖での強迫は普通に起こりますから、恐怖症でも強迫行為は起こりますが、過敏性の問題がないので、基本的には特定のことへの恐怖しか強まりませんから、強迫行為をするとしても、恐怖に全般性がないので、強迫症ではなく、特定の恐怖症ということになります。

簡単に言えば、強迫症状が特定の恐怖で起こるのか、それとも恐怖することに全般性があり、その全てで強迫症状が出るのかの違いです。

強迫症は恐怖するだけでなく、その恐怖に強迫される病気で、特定のことではなく、様々な恐怖に強迫されます。
強迫性障害の●●恐怖という場合、その恐怖症という意味ではなく、その恐怖に強迫されるという意味ですが、汚染なら汚染で、特定のことだけでなく、(本人の基準で)汚れに思えること全般に症状が出ます。
汚いこと全般に強迫観念が浮かびますが、強迫観念は思いですから、それが汚れに思えることなら、汚染恐怖になり、そう思える様々なことに汚されることになります。
本人が不安に思えること全般、恐怖や嫌悪すること全般、不快なこと全般に強迫されますから、例えば、感染恐怖の場合でも、特定の感染症だけでなく、感染すること全般に強迫されますから、肉体的な病気(感染症など)だけでなく、人によっては、精神的な感染(不幸事や不幸感などの強迫)にも恐怖します。

身体醜形障害(醜形恐怖症)でも強迫行為的な症状が出ますが、その対象が自分の顔とかだけなら、強迫症ではなく、恐怖症なのです。
もし、それだけでなく、醜さ全般の恐怖があるなら、様々な醜いことに恐怖することになり、全般性の醜形恐怖症ということになりますから、強迫性障害に近くなります。

身体醜形障害の場合は、実際にはそれほど醜くない人の(思い込みの)病気なのですが、強迫性障害であるなら、実際に醜いことでも起こります。
そして、身体醜形障害だけではなく、他の醜いことでも強迫症状が出ます。

過敏性が強いと、醜形恐怖が消えなくなって、強迫観念として慢性的に続いてしまいますから、その場合は、強迫症醜形恐怖ということになります。
この場合、醜形(表面上の醜さ)だけではなく、それと似たようなこと(例えば汚さとか、精神的な醜さ)などでも強迫されることになります。
ですから、醜形恐怖が汚染恐怖や不潔恐怖に繋がることはよくあるし、汚染恐怖(不潔恐怖)のある人には、醜形恐怖もある人が多く、基本的には同じ症状なのです。
醜いことも強迫性(付着性)が強く、汚れと感じが似ているので、その強迫観念(恐怖感染)が離れないことで、汚れと同じように嫌悪反応をします。
醜さも汚れと感じてしまうと、その思いが離れない=汚染となって、醜い物事全般に汚されるようになり、洗浄などをしないといけなくなります。

身体醜形障害といっても、美しくありたい気持ちが強くて、醜く思えるというのは、神経質な症状で、普通の人にも起こります。
身体醜形障害の場合、本当はそんなに醜くないのにという条件付であることからも、思い込みの病気=神経質なのです。
ただ、神経質は統合失調症病前性格(思い込みが強い状態)でもありますから、神経質での恐怖症だと、後に統合失調症化する可能性もあります。

神経質な人は器質的には敏感ではないので、鈍感化する素質がありますから、統合失調症になりやすい脳の人だと、神経質が悪化することで実際にそうなります。

神経質での思い込みの強さ(精神的気質)により、普通の人よりもそうなりやすいのです。
神経質は思い込みで実際に病気になってしまうこともあるのです。

逆に、強迫症の人の場合、考え方の問題ではないし、器質的に鈍感になれないので、統合失調症になりません。

神経質ではない、(実際に)過敏性の強いタイプは、美しくありたいという気持ちが特別強いわけではなく、その前から、醜いこと自体の嫌悪が苦痛となったり、醜いことで実際に何らかの害を受けていたり、醜いことを気にして、なんらかのことができなかったりと、醜いこと=害となっていて、その苦痛の対処として、きれいになりたいと思うのです。

きれいになりたいと思っていることでの、神経質的な身体醜形恐怖とはまったく逆なのです。

敏感な人だと、一般の人には危害にならないことが、敏感過ぎることで(過敏反応で苦痛が強まるので)、本人にとっては、実際に危害が強いことになってしまいます。
特に強迫性障害だと、一般の人には些細な刺激でも強迫症状が出て、苦痛が消えなくなりますから、そういう症状の苦痛も含めて、それを引き起こすストレス対象が実際に危害になってしまうのです。
何らかのストレス対象で、嫌な感じが起こり、それが消えなくなってしまうことで、嫌な思考も思い浮かんでしまいます。

一般の人でもイメージとか思考から恐怖を感じることはあるし、当然、何らかの情報を見聞きして怖くなったりすることはあります。
怖い話を聞いて、しばらく恐怖感が残ったり、嫌なものを見て記憶に残って、しばらく嫌悪感が残ったりは正常なことです。
そうなれば、そのことへの不安も強まり、防ごうとするでしょうが、敏感状態でなければ、回復力がありますから、いつのまにかそれほど恐怖もなくなり、生活に支障が出るほどにはなりません。

例えば、人参の嫌いな人は、基本的には人参を食べなければ良いのですが、人によっては、人参の写真などでも嫌悪反応をします。
その場合、写真なども避けないといけませんが、強迫観念にならなければ、その時だけの不快感であり、長くは続きません。
その不快な思いが強迫観念になってしまうと、人参の写真から離れても、人参の写真での嫌悪反応が続いてしまいます。
なぜなら、写真を頭の中で見せられ続けるような状態だからです。

これは妄想とか思い込みではなく、写真での嫌悪は、実物の人参への嫌悪なので、その強迫観念による嫌悪も、実物の人参での嫌悪の苦痛(実際の害)なのです。
普通の人は、人参が嫌いでないなら、恐怖もしないし、危害はまったくありませんし、人参恐怖の人も、強迫観念にはなりませんから、それほど危害に思えなくても、強迫観念による強迫状態になってしまう人は、恐怖だけでなく、強迫症状が出ることで実際に苦痛を受けるので、大きな危害になってしまいます。
人参恐怖だけなら、なんとかできても、その恐怖で強迫状態になってしまうと、慢性的に恐怖が続き、そうならないようにと、人参を連想する物事(例えば、人参という言葉、文字など)を過剰に避けないといけなくなったり(連想強迫)、食べ物(レトルト食品など)を買う時に、不安になって何度も材料を確認してしまったり、強迫観念の付着性を汚れに思えれば、人参に関する情報でも汚されてしまい、汚されることで、さらに過剰に避けてしまう症状が出ます。

実際には、強迫性障害の場合、味の好き嫌い(嫌な感じ)だけではなく、強迫観念(嫌な思考)の病気なので、特定の食べ物への恐怖で強迫状態になってしまう人はいないと思いますが、人参そのものでなく、人参に何かの不快な記憶が結び付いていたり、人参で何かを連想して強迫観念が強まるので、それを避けようと、人参を過剰に避けることなら、強迫性障害としてもあり得ます。

例えば、デスという言葉で強迫観念が浮かぶ人は、「~です」という言葉は日常的にみんな使いますから、人の会話などを過剰に避けないといけなくなります。
会話が聞こえてこれば、その会話への恐怖心や嫌悪が強まりますが、その時の不快な反応にも強迫されます。
そういう強迫状態にならないようにと、デスという言葉を避けるのですが、それはそうしたいという欲求ではなく、ストレス反応です。
会話が聞こえてくると強い拒絶反応が出ますが、会話を避けているからそうなってしまうのではなく、会話が聞こえてきた時の拒絶反応(症状による実際の害)が苦痛なので、会話を避けてしまうのです。

デスという言葉自体は、他の人にとっては危害になりませんが、その言葉で強迫状態になってしまう人は、デスという言葉を聞くと、強迫観念(何らかの悪いことが起こるという不安思考など)が離れなくなってしまうし、それを避けないといけなくなったり、会話などに拒絶反応が出ますから、そういった一連の症状が患者にとっては大きな苦痛になります。

他の人は、そういう強迫状態の症状が出ないから危害がないのですが、だからと言って、実際には危害がないことを危害だと思い込んでいるのではなく、そういう症状が出る場合、デスという言葉自体が実際に危害になってしまうのです。

同じ物事に対して、他の人には、トラウマがなくて、危害だと思わないことでも、ある人には、トラウマがあることで、(PTSD症状が出て)実際に危害になってしまう。こういうトラウマでのストレス反応(トラウマ記憶やそれを想起させる物事を避ける症状)と同じことです。

強迫観念もタイプがあり、デスという言葉を聞くと、何らかの悪いことが起こる気がして、その思考(強迫観念)が離れなくなってしまうというのは、不安型の強迫観念です。

デスという言葉を聞くと、何らかの悪いことが起こる気がして、その思考(強迫観念)が離れなくなってしまうことで、(症状での)実際の苦痛を受けることにはなりますが、強迫観念自体は、「こうなってしまうかも」という不安思考なので、実際にそうなっているわけではありません。
この場合、食わず嫌いのように、本人の頭の中だけの思い込みによる(実際にはないことでの)不安なのであれば、デスという言葉自体には実際には危害がないと考えられなくもありません。

しかし、デスという言葉を聞くと、トラウマ記憶が強く想起されて(強迫性フラッシュバック)、その状態が過敏性によって、強迫観念として長く続いてしまう、その症状の苦痛があるので、デスという言葉を避けてしまう。
この場合、トラウマ記憶は実際にあったことなので、想像上の不安思考なのではなく、PTSD的な症状と同じように、実際の恐怖や嫌悪なのです。

あるいは、デスという言葉でトラウマ記憶や何らかの不快なイメージが強迫観念として浮かび、それが離れなくなってしまう付着性で、苦痛が強まり、その付着を汚れのように洗浄しないといけなくなってしまう、こういうのは、嫌悪型の強迫観念による過敏性の症状です。

些細なことを気にしてしまうというのは、過敏性があってこそなのですが、同じ現実反応の症状でも、神経質のような考え方での過敏と違って、強迫症の場合は、考える前に過敏なのです。

そして、不安症と違って、不安だから、強迫観念が浮かぶというよりは、敏感だから、強迫観念が浮かぶのです。

強迫性障害の場合、対象のない不安(不安感)の問題ではなく、対象のある恐怖や嫌悪が多く、それによって不安にも強迫されるというだけですから、不安障害として治療しても治りません。

強迫観念は「かもしれない」という不安だけではありませんから、例えば、汚染恐怖の場合、「汚れたかもしれない」とか「汚されそう」という不安型の強迫観念だけではなく、実際に汚れてしまうことでも、汚れの強迫観念が浮かび、その強迫観念で汚れの付着が強まり、その苦痛から、汚れないようにと不安思考も浮かぶのであり、不安思考だけではないのです。

汚染の強迫観念によって、実際に汚れてしまう場合は、「汚れたかも」ではなく、すでに実際に汚れているのです。
これは過敏性が強さから、強迫的な関連付きや印象付き(何らかのことに、悪いイメージや不快な記憶が関連付き(付着して)、それを見るとその不快な記憶やイメージを思い出してしまうなど)が起こりやすいことによる症状です。

過敏性によって、違和感が残りやすく、洗っても「嫌な感じ=汚れている感じ」が続いてしまうことで、汚れているように思える強迫観念が浮かび、長時間洗ったり、洗い直したりしないといけなくなります。

確認にしても、不安感が残ってしまうので、強迫観念が浮かんで、また確認するのですが、強迫症状は、不安の問題ではなく、「不安への過敏性」の問題なのです。

感情は正常なのですが、過敏性の強さで、不快な感情や思考が消えなくなってしまうのです。

不安もいろいろあり、不安思考での強迫行為と、不安型の強迫観念による強迫行為を区別することも大事です。

不安だから強迫観念が浮かぶというよりは、強迫観念が浮かぶことで、不安になっている傾向が強い場合、神経質と同じように、考え方で不安になっている人もいれば、考え方に関わらず恐怖や嫌悪などの強迫観念が浮かぶことで、不安になっている人の2タイプあります。

前者は神経質の強迫症状で、後者が強迫症です。

過敏性はないが、不安になりやすいから、不安思考が浮かび、強迫行為をする場合もあり、これは不安症の強迫症状です。
過敏性がない分、強迫性も弱く、強迫状態というほどではないが、不安になりやすいことで、そういう思いが浮かんでしまうのです。
この場合、過敏性があっても弱いので、不安症が悪化して強迫症になっても、不安型の強迫観念しか浮かびません。

注意したいのは、神経質(考え方の問題)=強迫性障害(過敏性の問題)ではないのですが、神経質が原因での強迫性障害の人も実際に多くいるということです。

なぜなら、今までの強迫性障害は、過敏性は関係がないので、現実の危害での不快な思いに強迫されも、それは強迫観念ではないし、その恐怖があることでの不安思考も強迫観念ではないということになっていました。
そう思っているなら、本人の考え過ぎ、思い込みで、実際には危害がないのに、危害だと思っているだけと考えられていました。
あくまで不安の病気であり、神経質な考え方や思い込みだけでの不安思考こそが強迫観念とされてきたのですが、この考えは明らかに間違いです。

強迫というのは、不快な思いが離れなくなってしまうことなので、不安だけに強迫されるのではありません。
強迫という言葉は、一般会話では馴染みがありませんが、一般的に使われる、おどす意味でのきょうはくも、強迫に含まれます。
そうされれば、そういう状態が続いてしまうわけですが、おどす、というのは、実際には危害は(まだ)ないから、ただの不安であるということではなく、おどす、こと自体がすでに精神への暴力であり、実際の危害なのです。

同じように、強迫状態自体がすでに危害なので、実際には危害がないことへの(考えで作り出される思い込みの)不安思考とは、まったく違うのです。
妄想とか思い込みの不安は、頭の中の考えだけがストレスなのですが、過敏性の強迫状態の場合、現実の危害に対する強迫観念ですから、その強迫観念自体も現実からの危害なのです。
それを対処する強迫行為も現実行動ですから、現実に苦痛があり、その症状自体も危害に感じます。

未来のことはまだ見えませんから、未来の危害が強迫観念として浮かびやすいのですが、強迫観念は(実際にはないことへの)不安思考ということではなく、現在の恐怖などでも浮かぶし、過去の恐怖などでも浮かびます。
その恐怖があることで、未来への不安思考も強迫観念になってしまう。
こういうのが、過敏性の強迫観念で、実際の危害への強迫観念なのです。

その危害となっていることが、(現在なら)見えない、(未来なら)はっきりと分からない、(過去なら)記憶の場合もあるだけで、それが実際には、ないわけではありません。
例えば、強迫観念によって見えない汚れも分かってしまうと、見える汚れに等しくなりますが、それは現実の何かの汚れなので、非現実の妄想ではありません。
妄想での恐怖対象は、現実ではなく、妄想の中にあるので、全然違う思考状態です。
だからと言って、普通の思考でもありませんから、考え過ぎでもありません。

人前で緊張すると思っているから、実際に緊張してしまうのが、気のせいとか、考え過ぎの不安思考による緊張であり、これは、神経質が原因です。
不安症だと不安によって、不安思考が浮かびますが、神経質は考え方で、不安になります。
その不安で、考え方が強まって、強迫観念にもなります。
不安を抑えることで、考え方(不安思考)もある程度は抑えられますが、元々は考え方で不安になっているのですから、考え方を修正しないと治せません。

そういう神経質タイプも強迫行為をする人はいますから、強迫性障害に含められますが、前回説明したように思い込みでの強迫症状ですから、実際には強迫性障害(病気)ではなく、神経質なだけなのです。

不安症の場合は、考え方で不安になってしまうのではなく、不安になって、不安思考が浮かびますが、不安症と強迫症の違いは何でしょう?

簡単に言うと、不安による強迫性の強さの違いと、過敏性と全般性がセットであるかどうかの違いです。
不安になっても、不安での強迫状態にならないなら、それは長くは続きませんし、強迫観念にならないので、不安にさせられる対象から離れれば、不安が落ち着くとか、一時的な症状で済みます。
逆にそうならないなら、不安に強迫されて、強迫症状が出ますから、強迫性障害ではありますが、不安になって、不安思考が浮かぶのですから、基本的には不安の強迫観念(未来の危害からの強迫観念)しか浮かびません。
つまり、今現在とか過去の危害による強迫観念(嫌悪や恐怖の不快な思いが続く状態)ではないのです。

全般性の不安症もあり、そういう人がもし今現在の危害とか過去の危害で不安が起こるとしても、過敏性の問題がないので、(一般的に考えて)小さなことに対しては、不安が起こりにくいのです。
今現在の小さなことというのは、実在しているが、はっきりしないこと=見えないレベルのことです。

妄想と強迫観念の違い

妄想・・・現実とか実際のことに対する思いではなく、それとは無関係の頭の中だけの思考
鈍感症状なので、小さなことは妄想にならない

強迫観念・・・現実とか実際の危害に対する不快な思い
敏感症状なので、小さなことが強迫観念になりやすい

前回、妄想には汚染恐怖がない話をしましたが、汚染恐怖や不潔恐怖などは現実の汚れ(現実に汚されること)への恐怖ですから、現実の何かに恐怖しているとしたら、妄想ではないからです。
妄想だと現実には鈍感になり、見える汚れでさえ気にしなくなりますから(気にするとしたら妄想ではない)、その状態で、現実にある「普通は気にしないような見えないレベルのこと」が気になって、恐怖が起こるわけがありません。
鈍感なのに、些細なことを気にするということはなく、逆に妄想の場合、現実離れして、突飛で大げさな内容の思考が浮かびます。
鈍感化することで、思い切り現実離れしてしまい、その症状自体が現実のストレスを回避することになりますから、汚染恐怖のような過敏性による現実へのストレス反応での思考(一般的には些細なことへの過敏反応の思考)には悩まされません。

統合失調での妄想は過敏性症状とは真逆なので、妄想での強迫行為は起こりません。
現実の小さなことが気になってしまえば、現実逃避(現実のストレスの回避)にならないので、統合失調が起こる意味がないのです。

何らかの病気なら、大抵は、症状自体が苦痛なのですが、精神障害は症状があれば苦痛とは限らず、症状自体が苦痛な病気と、病気ではあるが本人はそれほど苦痛ではない病気もあります。
なぜなら、興奮状態になって苦痛を感じ難くなったり、症状自体が苦痛(ストレス)の対処である病気もあるからです。

強迫性障害は、逆にまったくそうならない病気で、ストレスに敏感で、ストレスが停滞してしまうので、強迫行為で対処しないといけなくなります。
過敏反応での苦痛、そのストレスで強迫観念が残る苦痛、その対処の行為をしないといけない苦痛、症状の全てが苦痛なので、症状が強まること自体もストレス体験(トラウマ)になって、それを引き起こす危害への不安も強迫観念になります。

器質的な神経過敏の問題があるからこそ、ストレスに弱くなったり、そのストレスで発症、悪化したりする病気が強迫です。

まったくストレスに関係ない病気なら、全ては本人が引き起こします。それが精神病です。

神経質的な思い込みで不安になって、強迫行為をする人は確かにいますが、それは病気ではないし、強迫性障害でもないし、神経質なのです。
現実のことをあれこれ考えて、自分の中でストレスにしてしまうのですが、そういう精神的気質なで、そうなってしまうそうです。
自分で作り出す病気ですが、妄想と違って、自分の考えで作り出されるので、性格的な問題と考えられています。

強迫性障害の過敏は器質的な気質ですから、考えに関わらない過敏であり、神経質とは真逆です。
器質的にストレスに弱いので、周囲から病気にさせられるのです。


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