強迫性障害の全貌

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強迫症(強迫性障害患者)とHSP・HSCにも社会的バリアフリーの実現を

様々な強迫症状があるのに、全部同じ治し方をしようとします。
特に生理的症状である過敏性の強迫症を、心理的症状として治療するのは、無理があります。
HSP/HSCの過敏性が病的レベルになったのが、過敏性強迫症なのです。

過敏性の精神障害がないことが問題なのですが、過敏性の発達障害さえありません。

発達障害は、何の発達障害かというと、精神でも知能でもなく、一応、神経の発達障害ということになっていますが、神経過敏(過敏性)が主症状の発達障害はありません。
発達障害でも、精神医学で対応することになりますので、過敏性が原因だとなんともできませんから、病気としてはないことにしているのです。

HSP・HSCも発達障害ではないことになっているし、自閉症に感覚過敏があるといっても、自閉自体は鈍感症状ですから、感覚過敏だから自閉症になってしまうのではなく、簡単な刺激への過集中でそういう一面がある子(人)もいるというだけです。

神経過敏(過敏性)が主症状の精神障害もありませんから、過敏性で精神的に苦しんでいても病気でも障害でも無いということになります。

明らかに、強迫性障害の苦痛は、過敏性そのものの苦痛なのに、敏感であれば、それは考え方とか気のせいということになっているのです。
強迫性障害精神障害なので、そこに神経障害は含められないからですが、神経障害の強迫性障害もあることは事実ですから、その範囲の人達も強迫性障害とされていることで、関係のない不適切な治療を受けることになってしまいます。
神経障害の強迫性障害は、強迫性障害ではなく、過敏性強迫症などとして、別の病気とするか、そういうまったく違うタイプの強迫症(過敏型強迫症)もあるとして扱うべきなのです。

過敏性・・・過度に敏感であることで些細な刺激でも強い苦痛を感じやすい
強迫状態(強迫感覚+強迫観念)・・・その過敏性の苦痛が長く残ってなかなか消えない
強迫状態(強迫行為)・・・その苦痛を防いだり、苦痛の対処としての行為をしなければならない

これらは生理的問題であり、思考でのコントロールが困難な症状です。
そういう症状で、気分、感情、思考、記憶(忘れるのではなく、不快な記憶が残ってしまう)などにも強迫されて、心が病むことで、余計にコントロールが困難になります。

単に敏感で生理的恐怖などを感じやすいだけではなく、その思いが強迫観念として続いて消えなくなってしまう、それが強迫性障害の特徴です。
過敏だから、強迫観念が浮かび、強迫観念に対しても過敏反応してしまうのですが、そういう反応自体の苦痛が強迫症患者にとっては、すでに害される状態なのです。
過敏性の強迫性障害だと、それらの苦痛が重なって、その苦痛の元となっていることに危害を感じます。
それは、普通の人にはなんてことなくても、強迫症状が出る人には、実際に害が強いからです。

不快な感じ、不快な感情、不快な思い、そういうのが長々と消えなくなってしまうので、それを防いだり対処しようと強迫行為をします。

過敏性があっても、その苦痛のストレスに耐えられる人であれば、強迫行為はしなくても済みますが、器質的に敏感な人は、ストレス耐性が低い人が多いので、ストレスに耐え切れずに、強迫行為をしないといけなくなります。
強迫行為では対処できないことなら、回避したり、我慢したりすることになります。
どちらにしても、ストレスは強いのですが、我慢することが続くと、心の病みが深くなります。
前向きに自発的に強迫行為ができたら良いのですが、ストレスに弱いので、強迫行為もストレスになってしまい、特に鬱が重なっていると、刺激を避けて、回避的で消極的に生活しないといけなくなります。

敏感な人でもそうなりますが、敏感なだけなら、一時的な苦痛で済むので、心は病みにくいのです。
強迫症状によって過敏性の苦痛が消えなくなってしまうので、余計に社会適応し難くなり、社会的ひきこもにりなります。

過敏性+ストレス耐性の低さ=強迫状態ですから、精神的な問題ではなく、器質的、生理的な問題の症状です。

神経衰弱という言葉がありましたが、神経が消耗して弱まって、敏感になったりストレスにも弱くなってしまう病状ですが、それによって強迫も起こるとされていました。
しかし、神経が原因の精神的症状だと、精神医学では治せませんから、精神的症状と神経の過敏性は関係ないということにしたり、敏感であれば、考え方とか心の持ちよう(認知の仕方)でそうなっているとして、対応するようになりました。

しかし、精神が神経を作り出すのではなく、神経が精神を作り出すので、考え方とか心の持ちようをどうこうしようと、神経機能を操作するのは困難です。

強迫は考えに関わらない生理的神経機能です。敏感な人が刺激に敏感に反応してしまうのは、生理的には正常ですが、過敏だから障害になってしまうのです。
その過敏反応に強迫観念が結び付き、敏感であることで、強迫観念にも過敏反応してしまい、過敏性の苦痛が消えなくなり、強迫行為をしないといけなくなります。

現実に対して敏感な症状は、周囲にとっては危険ではありませんが、本人だけが周囲からの刺激で苦しむことになります。
周りから害される病気です。

現実に対して鈍感な症状ほど、現実側の他人が迷惑を受けやすいので、危険な状態ではありますが、本人の苦痛が強いとは限りません。
周りを害する病気です。

敏感症状(HSPHSC、強迫)・・・敏感であることで、本人的には苦痛が多くなり、危険回避が過剰になりますが、危険回避の行動は、周囲に対しては危険ではない。
神経過敏の問題ですから、当然、病識は強いのですが、過敏性の症状による苦痛は、本人の内部のことであり、他人からは見えないので、その苦痛も理解され難い。

鈍感症状(統合失調、躁状態自閉症、解離)・・・鈍感化(空気が読めない状態)によって、本人的には問題なくても、周囲の人達に迷惑をかけやすく、危険な場合も多い。
本人が変な状態になっていることが分かっていなくても、現実に対して不調和な症状が出ているまま、現実に関わろうとするので、現実側にいる他人からは違和感が強く異常に見えるので分かりやすい。
解離の場合、症状で現実離れしても、現実に戻った時などに、異変に気付くが、大元の性格が善良であれば、周囲には迷惑をかけ難い。
統合失調の陽性症状だと、症状で性格自体が異常になってしまうこともあり、現実離れしたままだと、本人は異変に気付き難いし、周囲に対しても危険が強い。
躁状態も似たようなものですから、陽性症状と躁状態は、その危険性の強さから、精神病状態として、精神障害の中でも厳重な扱いをすることになります。

そういう症状と、過敏性の強迫症状は真逆です。
敏性の強迫症の人は、器質的に鈍感になれる素質がないため、そういう病気にはなりません。
強迫症状があれば、現実離れできずに、統合性も維持されますが、現実のストレスが消え難く、ため込まれてしまうので、生理的に強迫行為で対処しないといけなくなります。
強迫行為は生理的行為で、強迫観念は生理的思考ですから、心理は関係ありません。

普通の強迫症とか、神経質な人は、器質的過敏性はないので、鈍感化する素質があり、そういう病気になり難いわけではありません。
移行したり、併発することもありますが、重度の強迫症状と、重度の統合失調症が併存することはほとんどあり得ません。
どちらかが重ければ、どちらかが軽くなります。
強迫と解離も敏感と鈍感で質的に反発しますから、併発することはありません。
解離は症状そのものがストレス回避なので、強迫状態になりませんから、強迫行為が起こらないのです。

うつ病・・・本人の苦痛が強いし、不活発になりますから、重症であれば、本人にも周囲の人にも異変が分かりやすいが、強迫症状が重なっている場合、不安、恐怖、嫌悪、緊張感、警戒心などで気分が高まって、危害回避や対処で不活発にもなれないので、うつ病であることが分かり難い。

強迫症状によって、性格が変わることもありますが、うつ病の人が元気になれないことと同じように、慢性的な症状によってその性格に戻れなくなってしまうのであり、本来の性格が消えるわけではありません。

うつ病だけの人は、普通の状態に戻ることもあるので、調子に波がある人が多いのですが、過敏性の強迫症状は慢性症状ですから、普通の状態というものがなく、調子の波が少ないうつ病になります。
過敏性が弱い強迫症の人とか、強迫観念が不安思考だけの人などは、強迫症状自体に多少の波があり、そうであれば、うつにはなりにくいタイプです。

躁状態・・・興奮によって、気分が高まるので、危険をかえりみない行動が増える。躁は鬱との周期的症状であり、躁状態の時は、鬱にはなっていない。
双極性障害ではなく、躁病であれば、鬱にはならないが、そういう人はあまりいない。

強迫状態・・・不安、恐怖、嫌悪、緊張感、警戒心などのネガティヴな感情によって、慢性的に気分が高まるので、危険回避や危害対処の行動が増える。
強迫状態の時は、鬱にもなっているので、強迫があれば、鬱も慢性的に続く。

神経が興奮することと、神経が過敏であることは別のことであり、興奮中はストレスに強くなります。
スポーツ選手などが興奮剤を使用するのは、そのほうが強くなれるからです。
しかし、敏感な人には、興奮すること自体がストレスになって、そうなり切れませんから、興奮しても程度があって、敏感なままなのです。

敏感だと冷静な人が多いのは、過敏性があるので、興奮できないからです。
冷静だから敏感なのではなく、興奮状態になれないので、躁状態や陽性症状にもなり難いのです。
躁状態や陽性症状にはエキサイトになりますが、強迫症であると、器質的にそういう刺激に耐えられないので、症状としても起こらないのです。

強迫症であると、気分だけではなく、感情、思考、記憶などの処理にも障害が起こりますが、れらに問題があって、強迫症になってしまうのではなく、過敏性によってそうなっているのですから、過敏性がある限りは、それらも治し難くなります。
例えば、気分を安定させる治療をしても、過敏性に効きませんから、気分も不安定になります。

興奮を静める薬はありますが、過敏を抑える薬はありません。

過敏性強迫症自体は心の障害というよりも神経の障害なので、心で治そうとしても基本的には治りません。
トラウマは心の問題とも言えますが、実際には脳の問題であり、トラウマによる強迫状態は過敏性が強めます。
PTSDはトラウマにより過敏になりますが、強迫症は、過敏性によって、トラウマになります。
強迫観念も、それが浮かぶこと自体がトラウマになりますから、なかなか消えなくなります。
神経過敏に効く薬はありませんが、それによる恐怖や嫌悪に効く薬は、あっても麻薬類なので、使えません。

過敏性強迫症でも、過敏型の強迫症でも良いのですが、そういう病気、そういうタイプがあることを理解できないと、強迫性障害の全貌は把握できません。

過敏性強迫症(強迫観念先行型)・・・強迫症状自体は治せないので、鬱などの周辺症状を治しながら、環境調整など生活の工夫をして悪化を防ぐ。
関連記事リンク
強迫性障害での鬱病が治し難い理由 その2/タイプや病状ごとの強迫症(強迫性障害)の治し方
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/29/174910

不安型強迫症・・・普通の強迫性障害なので、普通の強迫性障害の治療で治せる可能性はある。

神経質の強迫症状・・・考え方で不安になって、その不安が考え方を強めるので、不安を抑える薬、あるいは、考え方そのものを鈍らせる薬(抗精神病薬)を使いつつ、考え方の癖を修正すると、治せる可能性は強い。
一般的な説明に出てくる少量の抗精神病薬認知行動療法で治しやすいのは、このタイプです。
思い込みが妄想に近い(現実との結び付きが弱い)ほど、薬で治しやすくなります。

強迫行為先行型・・・強迫行為依存症みたいな病状ですから、治すとしたら、依存症治療と同じように、強迫行為を止められる訓練をすることになります。

強迫感覚主体型(過敏型の強迫)・・・強迫観念先行型の原型で、精神障害ではなく、神経障害です。強迫行為を起こす違和感とか不快感に思考が結び付くと、強迫観念先行型になります。
症状としては軽い人が多いので、精神的にも病んでいませんから、環境調整など生活の工夫をして強迫観念先行型にならないようにする(悪化を防ぐ)ことになります。

基本的に、過敏型以外は、普通の強迫性障害の治療で良いのですが、過敏型は普通の強迫性障害とは全然違うので、普通の強迫性障害の治療では治すことができません。
過敏型でも、ストレスにはある程度強く、鬱にもなり難いことで、強迫行為先行型の傾向(強迫行為での安心依存)が重なっているタイプは、そういう面を治すことで、ある程度は軽症化可能ですが、その原因である過敏性は治せないので、症状は続きます。

興奮による鈍感化症状とは真逆ですから、不安定な精神状態のまま人に関わろうとすることはなく、社会適応できなくなれば、社会的に引き籠もろうとします。

社会適応したくても社会側が対応し難い病気なので、お互いに対応困難になりますから、社会と距離を置くしかなくなり、そのほうが人に迷惑もかけ難いのです。

過敏性強迫症は、生理的な症状ですから、自然と治るわけでもなく、むしろ、強迫観念の反復性で自然に悪化します。
心以前の神経レベルの問題は、心ではコントロールできないことです。
神経が心を作るので、心では神経を治せません。

単に脳をいじって、恐怖が起こり難くするということでも、強迫は軽くなりますが、器質的過敏性と心の病みも治さないと、恐怖を感じにくくなってしまうことで、逆に危険な病状になります。

それはもう昔から分かり切っていることで、今後も変わりませんから、過敏性障害への社会の理解と協力がなければ、社会適応も困難です。

HSP/HSCにしても、過敏性は神経の障害ですが、そういう人達がいたとしても、社会的には何もしようとしないままです。

社会的な理解が得られれば、少しは生きやすくなりますが、敏感ならストレスに慣らせば良いという考えに支配されていて、ストレスに慣らせないからこその精神障害であることが理解されないままなのです。

少なくとも、医療機関(病院、調剤薬局など)や福祉関係、その他の公共性の強い場所は、強迫観念を煽らない安心できる場所にしてください。

患者にとっては、危険でも行かないといけない場所ですから、精神的な意味でも衛生的で安全できる場所にしてほしいです。

高齢者向けになっている所が多いのですが、高齢者の認知レベルや鈍感性に合わせていると、過敏な人には、苦痛の強い場所になってしまいます。

多くの医療機関では、待っている患者に向けてテレビ番組を垂れ流ししていたり、恐怖情報の載っている新聞なども置かれています。
待合室がミニシアターのようになっている所が多くあり、待っている患者全員に強制的にテレビ番組(雑多な情報)を見せ付けるようなことをしています。
これは精神的に不衛生です。医療機関が精神症状を悪化させるようなことをしてはいけません。

病気を治したり、障害を支援する場所が、病気や障害を悪化させる場所になっていては困りますから、患者の強迫観念を煽ることしないでもらいたいのです。
不安、恐怖、嫌悪などに強迫されて強迫観念が浮かびますから、不安、恐怖、嫌悪などの不快感を煽ることをしないでほしいのです。
それは他の多くの現実反応型の精神障害者へのバリアフリーにもなります。

できるだけテレビは置かないほうが良いのですが、テレビを置く場合でも、テレビ番組の垂れ流しはせずに、癒し系の環境映像などを流す。もしくは、テレビの向きを工夫して、音量も下げて、見聞きしたくない人はそう出来るようにしてください。

ラジオなど流す場合も、トーク番組などではなく、日本語ではない曲(日本語だと意味が分かるので不快な刺激が起こりやすい)とか、癒し系の音楽放送にしてください。

恐怖や嫌悪するような情報が載りやすい新聞雑誌などは置かないようにしてください。
新聞雑誌を置く場合は、経済新聞、健康雑誌や絵本などの恐怖や不安を煽らない内容の書籍などに限定するか、できるだけ表紙や紙面が見えないように置いてください。
それが困難な場合は、新聞雑誌などのない安全に待てるようなスペースも別で用意してください。

敏感な人は、普通の人がある程度でも不快に思えるようなことなら、強い刺激になりますから、できるだけ不快な感情(不安、恐怖、嫌悪、怒り、悲しみなど)を刺激するようなことを減らして欲しいのです。
汚いこととか、精神的に汚いことも含め、恐怖などの感情を煽ったり、悪いイメージの浮かぶような情報を見せないことです。

聞くと嫌な感情とかイメージが浮かぶような話しはしないようにしたり、患者の他の人達の会話などが聞こえないようにしたり、見ると嫌な感情とかイメージが浮かぶ情報は見せないようにしてもらいたいです。
強迫性障害は、そういう感情やイメージが一度浮かぶと、なかなか消えなくなってしまう病気だからです。
不安や恐怖、嫌悪などが強迫観念を浮かばせますから、そういう情報を見せ付けないでください。

PTSDや恐怖症でもニュース番組が苦手な人はいるし、強迫症だとそういう情報の見聞きによる汚染で汚れてしまう人もいます。
汚されれば、その体験がトラウマになってしまうし、洗ったり、捨てたりしないといけなくなります。

そういう場所に、テレビを見に行きたいわけではないので、無理やり見せてはいけないし、雑誌などは表紙自体も不快感を煽る情報が載っていますから、それを近くで他人が開けば、無理やり見せ付けられることになります。
そういうのは、敏感な人には、暴力をされるに等しく思えます。
不快な思いが消えなくなり、強迫症状が強まり、実際にそういうことが危害になってしまいます。

強迫性障害、不安障害、PTSDなどの患者には恐怖情報を過剰に避けて、見聞きすると拒絶反応が出る人がいます。
特に強迫性障害は恐怖などに強迫される病気ですから、不安、恐怖、嫌悪などを煽られるような情報を見聞きすると、それが忘れられなくなってしまうだけでなく、汚染強迫症であると、その情報が汚れの強迫観念となって付着して、汚れと不快感が落とせなくなってしまうのです。

そういう患者にとっては、テレビ番組を見せ付けられたり、人の読んでいる新聞雑誌などから情報を見せ付けられることは、精神的苦痛になります。
実際に、言葉や映像や写真などでもトラウマになってしまう人も多く、不快な情報を強制的に見聞きさせるのは、暴力でしかありません。
普通の人には無害の刺激でも、過敏性の精神障害を持つ人には、耐えられない恐怖や嫌悪になります。

人の近くに行けない人もいますから、待合室をそのように改善できない場合は、どこか一人で静かに待てる場所を用意してください。

調剤薬局一元化とかも言われていますが、今のところ、行きたいところを選べるし、明るい清潔な薬局もありますから、病院ほどは行き難くないかもしれませんが、強迫性障害患者には、調剤薬局に行くのも不安な人が多くいます。

処方箋には病名は書いてありませんが、飲んでいる薬である程度は分かります。
しかし、薬剤師さんは、薬のことは知っていても、病気自体(特に精神障害)のことはよく知りませんから、事前に話さないと分からないこともあります。
薬局でのやり取りで、精神障害の症状で困難なことは、薬剤師さんに相談すれば、うまく対応してくれるはずです。

薬局でなくても、どこでもそうですが、困難なことは、事前に説明したり、どうしてほしいか相談することを忘れないでください。
精神障害の中でも特に強迫性障害は、誰にでもできる簡単なことさえ出来なくなりますが、普通に見えますから、言わないと、まったく分かってもらえません。

ただ、不安だったり、恥ずかしくてそうできない人もいますから、強迫症の人には、以下のようにしてもえたら薬局もバリアフリーになります。

強迫性障害は簡単に言うと、悪いイメージが浮かぶと、それが消えなくなってしまう病気です。
ですから、それを浮かばせる不快な物事をいつも警戒しています。
嫌なイメージが浮かぶと、なかなか離れなくなったり、それが何らかの良いことと結び付き、汚染になってしまう人もいます。

そのため、聞きたくない言葉がいっぱいある患者もいますから、薬の説明も言い方を工夫してください。

副作用のなどの事前説明も眠気とか渇きとかの不快なイメージが浮かび難いことなら良いのですが、不快感の強まる話(特に言葉自体から不快なイメージが浮かぶこと)は、不安の強まる病気の人には話さないほうが良いのです。
不安で飲み難くなってしまうからです。

薬を渡す時に、「こういう副作用があります」と説明される場合はありますが、これだと薬に恐怖条件付けをしてしまいますから、人によっては、プラセボ効果と逆のことが起こりえます。
普通の人ならいいのですが、強迫性障害の人は、恐怖情報が離れなくなってしまいますから、その情報が薬と関連付いて、飲もうとするとそのことが思い浮かび、その不安が消えなくなり、安心して飲み難くなります。

誘導的に「こういう副作用が出ていませんか?」などと、患者が言ってもいない不快な副作用を具体的に聞かせるのは、患者に不快感を与えます。
患者が不快で聞きたくないことはその患者は言いませんから、薬剤師さん側からは、聞くとしても「特に変わりはないですか?」「特に問題ありませんか?」などの患者が答え(言葉)を選べる聞き方にしてください。
本人が口に出せる副作用は、それほど不快ではないことであったり、不快にならないレベルでの言い方なのですから、それについて聞いたり、それと同じ言い方で聞くのは問題ありません。

不快なイメージが浮かぶ話が苦手なので、用法容量の説明とか、飲み残しの確認とかは、まったく問題ありません。
定期の患者さんなら、言い方とか態度が優しければ、それで十分なので、いつものですね。とかの一言でもいいのです。
とにかく、強迫性障害患者としては良いイメージで受け取れれば、それで良いので、できるだけイメージアップして安心できるような場所にしておいてほしいのです。

逆に心配だから聞きたい人もいますから、副作用の説明をしてもいいか、しないほうがいいかを、初めて来た患者には事前確認したほうが良いのでしょう。

薬の説明書には、恐怖を煽るようなことは省略してある場合もありますが、敏感な人は、その範囲でも過敏反応します。
強迫性障害患者には、薬の副作用が書かれた説明書を見れないとか、そういった文字で汚れてしまう人もいますから、薬の説明書を受け取るかどうかも事前確認できたら良いでしょう。
これは、もらわないこともできますから、そうしたい人は、薬局側にそう伝えれば対応してもらえます。

調剤薬局でしていることは、基本的には厚労省の指示ですから、厚労省側が精神障害者のことも考えて、柔軟な対応の仕方を考えるべきなのです。

例えば、汚染恐怖があると、紙の物(汚れても洗ったり拭いたりできない物)の扱いや継続使用が困難になり、お薬手帳なども継続使用できなくなりますが、厚労省は、そういう人の立場をまったく考えていません。
記入式のお薬手帳などは、開いてシールを貼ったりしないといけないので、ビニールパックに密封できませんから、中身が汚れると拭いたりすることもできずに、捨てないといけなくなります。
無理に紙のお薬手帳を強制使用させることがあってはいけません。

電子お薬手帳と言っても汚染恐怖の人は、スマホなども洗い難いので持ち出せなかったり、接触汚染防止で人にスマホを渡したりもできませんから、紙のお薬手帳の代わりとして、全国統一で情報を共有できるカードタイプのお薬手帳を普及させることを考えてください。
少なくとも、お薬手帳がなくても料金が高くならないようにするとか、そういうのがバリアフリーなのですが、厚労省精神障害への理解力がないので、考えようともできません。
普通基準でしか考えないので、スマホとかお薬手帳なんて誰でも使えると思っているのです。

厚労省が目論む薬局一元化も汚染恐怖のある人には困難です。
患者にとっては病院ごとの汚れがあり、渡される処方箋も汚染されています。
病院が違えば、その処方箋を、いつもの薬局に持って行くと、その薬局を汚染してしまいます。病院ごとに薬局も分けることで、汚染を防げるのです。

強迫性障害やAD/HDの人は、並んで待つことが苦痛なので、病院の近くの薬局が混んでいれば、後日、家の近くの薬局で人のいない時間に受け取りたいという人もいます。
こういう人にも薬局一元化は不便です。

精神障害者は、感覚や考え、反応や行動が普通ではない人が多いのですが、厚労省は、普通基準だけで、みんなを普通の人のように扱いますから、精神障害者は大変辛い思いをします。
そういう問題は厚労省精神障害者を軽視しているからです。
それを改善することが、過敏性の精神障害者向けのバリアフリーです。

精神障害者手帳の診断書にしても厚労省が規定しているのですが、強迫症に対しては、「強迫体験」という言葉が使われているぐらいで、強迫症状による生活の障害度を理解できていません。
強迫症患者にはバリアをしているので、これは差別です。
関連記事リンク
強迫性障害(強迫症)と精神障害者手帳
https://locd.hatenablog.com/entry/2019/11/01/144501
今まで強迫症を理解できる人がいなかったので、こんなことも誰にも指摘されないまま長年放置されてきたのです。

コンビニ、本屋などの商業性の強い場所は、どうしても行かないといけない場所ではないので、雑誌などが置いてあっても嫌なら患者が行かなければ危害を受けませんが、公共性の強い場所は行かないわけにはいかない時もあります。

強迫症だと車の運転ができない人も多いので、電車を利用することになりますが、電車内が不衛生過ぎて、それさえ困難な人も多いのです。
男性でも人と密着したくない人は多いのですが、女性専用車両は空いていても男性だと利用し難くなっています。
普通の電車なども、宙吊り広告などで雑誌の宣伝を見せ付けますが、そういう情報でも強迫観念が煽られたり、汚される人もいるのです。
過敏性で強まった汚れは、普通の汚れのように簡単には消えませんから、汚されれば、捨てたり、長時間洗わないといけなくなります。
女性専用車両は女性向けの比較的イメージの良い広告が多いのですが、男性だと乗れる時間が限られてしまいます。

公共の交通機関も、広告のない車両(グリーン車みたいな有料でも可)を作る、小型モニターなどでニュース番組などを無理やり乗客に見せ付けないようにする、車両の一角に他の人に接触せずに立っていられるスペースを作る、拭き難い布張りのイスではなく、撥水性のある素材のイスにしたり、長イスに仕切りをつけたり、隣の人と間隔を空けて座れるイスにするなど、過敏性の精神障害者に対してもバリアフリーにしてほしいところです。

銀行などの公共性の強い場所も、待っている人達に、当たり前のようにテレビ番組を見せ付けてはいけません。
テレビを見に行く場所ではないので、見る、見ないは選択可能にするか、テレビ番組ではなく、刺激のない環境映像などを流してください。

銀行もそうですが、駅などにもイメージの悪い(恐怖を煽るような)貼り紙を貼ってはいけません。
強迫症患者には、不快な写真とか文字でも汚れてしまう人がいるからです。

過敏な人は、普通の人なら楽しいことでも、不快な刺激になってしまいますから、低刺激で安心できる場所にしてください。

患者の家族も強迫症の正しい知識を持ってください。

強迫性障害を社会的に正しく理解してもらうために、森田療法認知行動療法ビジネスによって拡散された間違った情報を、一般の人達がさらに拡散することがないようにしてほしいのです。

彼らはビジネスとしてやっているだけで、患者を支援したいわけではないのです。
自称専門家とか自称第一人者とかも過敏性の強迫があることさえ知らないのです。

強迫性障害は考え方の問題で神経過敏は関係ない、強迫観念は「かもしれないという」不安である、患者は強迫観念や強迫行為をバカバカしいと思っている、強迫行為を止めれば強迫観念は治せる、巻き込みさせると悪化する、こういうのは、誤解による偏見とか迷信です。
森田療法認知行動療法ビジネスの理論を通すために、わざとそういう誤解をさせて、治しやすい強迫症を作り上げて、信じ込ませようとしてきたのです。
関連記事リンク
強迫性障害は不安の病気ではない?/強迫状態と躁状態の違い、強迫症と他の病気の関係/強迫観念と考え過ぎの違い/過去からの強迫、記憶強迫
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/20/054007

不快な思いをして、その思いが消えなくなってしまう。こういうのも強迫観念です。

普通の人の感覚過敏とかは、感じたことが長々と残ってしまうわけではなく、一時的な不快感なのです。
敏感な人は、それが長く残ってなかなか消えなくなりますが、そこに不快な思いも結び付くと、強迫観念になります。

ですから、敏感な人にとっては、強迫観念が不安だけなんてことにはなりません。

想像上での不安思考だけが強迫観念なら、過敏性はないので、今現在とか、過去から強迫されることはありません。
不安強迫は、未来強迫なのです。未来といっても不安自体は現在の苦痛なのですが、未来の危害への不安のことです。

過敏性が強いと、今現在、過去からも強迫されます。
今とか過去に何らかの強迫的なことがあれば、その不快な思いが消えなくなって、その記憶があることで、不安(未来)にも強迫されるのです。

汚染恐怖の場合、汚いかもしれないではなく、汚いと思って洗っている人が多いのですが、こういう現在形の強迫観念が過敏性の強迫観念であり、考えに関わらない生理的思考です。

想像上で不安思考が浮かんで、その思考に対して恐怖するというのは、実際にはないことへの恐怖なのですが、その不安思考が、実際の何かへの恐怖があることで浮かんでいるなら、実際にあることへの恐怖なのです。

不安自体は、未来の危害であったり、実際には起こってないことなのですが、その不安に強迫される場合は、実際に害が無いということでもありません。
例えば、ピストルを向けられて、実際に撃たれてないなら、実際には害がないと言えるでしょうか?
ピストルを向けて、おどすだけでも、実際の強い危害なのです。
不安強迫の場合、そういう状態に近いので、現実の何かへの恐怖があることで、それに不安にさせられてしまうという強迫自体も実際に危害なのです。

その現実の何かへの恐怖が頭の中だけのことなら、その恐怖が生理的であっても、考えが作り出す不安なので、実際には害が無いとも言えます。

しかし、現在や過去で体験した生理的嫌悪や恐怖があることでの不安強迫の場合、頭の中だけで考えて作り出す(心理的な)不安ではなく、現実反応の不安です。
不安な思い自体は実際に起こってなくても、すでに実際に害がある上での不安なのです。
例えば、トラウマ記憶があることでの不安思考などです。
こういうのは、想像上だけの恐怖とは違って、実体験での恐怖なので、考え方の問題ではありません。
実際の危害で不快な思いをして、その思いが続いてしまうというのは、間違った学習をしたわけではありませんから、再学習とか条件付け解除はできません。
学習以前の生理反応の問題なのです。

不安、恐怖、嫌悪の中でも、嫌悪が一番治し難く、考えが作り出した嫌悪なら考えを変えられれば治りますが、生理的嫌悪は治せることではありません。
生理的な感情なので、自然と消えるのを待つしかありませんが、その不快な記憶が残っている限り、嫌悪も続いてしまいます。

想像上の恐怖や嫌悪があることでの不安なら治しやすいのですが、頭の中だけの思い込みの不安ではなく、実際に危害が強いこととか、実体験した何かへの生理的嫌悪があっての、それに対する不安思考は、なかなか治せません。

強迫症の人の場合、何かを見て、恐怖が起こり、その恐怖の強迫が続く苦痛も、実際の危害になりますから、見聞きしただけのことでも、実際の危害として記憶されます。
嫌悪するようなことを見聞きして、嫌悪の強迫状態が起こる、これも実体験の危害なのです。
それがトラウマ記憶となって、不安な強迫観念が浮かびます。

そういう実体験がなく、完全な想像上の不安思考なら、妄想みたいなものなので、比較的治しやすい強迫観念ですが、根本にそれを浮かばせる生理的恐怖があると、それがある限り不安になってしまいます。

森田療法では、不安の強迫観念は、健康でありたい思いが強いから浮かぶとしていますが、例えば、健康でありたい思いが強いから、病気への生理的恐怖が浮かび、その恐怖に強迫されることで、強迫観念が浮かぶとしたら、生理的恐怖を浮かばせる理由が、それ以前にある心のあり方の問題なので、心理的強迫観念です。
こういうのは、過敏性ではなく、考えの問題ですが、本当は強迫観念ではなく、普通の不安思考です。
健康でありたい思いは、ほとんどの人にあるのに、普通の人たちには強迫観念がありませんから、健康でありたい思いが強いから、強迫観念が浮かぶわけではありません。
神経質の人は、恐怖が強まる考え方をしてしまうことで、その考えが強迫観念になります。

そういう思いに関係なく浮かぶのが過敏性の生理的な強迫観念です。
健康でありたい欲求があってもなくても、それに関係なく、病気などへの生理的恐怖があって、その恐怖に強迫されることで、強迫観念が浮かびます。

過敏性による感情も思考も生理現象なのですが、生理的な恐怖とか嫌悪は、「なぜそうなのか」という心理的な意味がないのです。
考えて、その考えによって怖いのではなく、考える前に怖いのです。
そこに思考が結び付く場合は、生理的な思考なので、その思考も、意識的な考えとは無関係に浮かぶのです。
危害に対しては、そういう思いが生理機能として自然と浮かぶようになっているし、危害を受ければ、その記憶は残るようになっています。
そうなっているから、危険回避できるのですが、敏感でストレス耐性が低いと、そういう生理機能的な危害回避が過剰になってしまいます。

過敏性が強いと、過敏性による強迫状態になってしまうので、恐怖とか嫌悪を感じるだけでも、強い害を受けますから、生理的な感情や思考が浮かぶ物事(気害)が多くなります。
それは普通の人にはなんてことなくても、強迫症の人には、実際の危害なのです。
そういう記憶がため込まれることにもなって、関連することとか、似たようなことも危害になってしまいます。
それは危害があることなのですから、どうしても気にしないことはできません。
気にしても、気にしないようにしても、それに関わらない生理的反応として、どうしても気になってしまいます。
自分の意向は関係のない症状なのです。

心理的な恐怖とか嫌悪は、そう思える考え方をすることで、頭の中で作られますが、生理的な恐怖とか嫌悪は、考えに関わらずに体感することです。
過敏性によって、それを感じやすく、感じてしまえば、長く残って消えなくなってしまう。
そういう不快な感じの強迫に、思考が結び付くと強迫観念になりますが、強迫観念がある前に、恐怖とか嫌悪がありますから、頭の中だけの(強迫観念による)嫌悪や恐怖なのではなく、実際にある(体感した)恐怖や嫌悪なのです。

強迫観念自体は誤った考えとか、実際の危害ではなく未来の危害への不安であっても、実際には恐怖や嫌悪するようなことが無いということではなく、そういう強迫観念を浮かばせるような危害が実際にあるので、そう思えてしまい、その強迫観念が誤っているとか、ほとんどあり得ないと分かっていても、そう思わせる生理的な恐怖や嫌悪は消えないので、生理反応としては正しい思いになってしまいます。

例えば、何らかの病気に関する誤った考え方でその病気が怖くなってしまったという場合は、考え方を変えることで、その病気も怖くなくなります。
ところがその病気への生理的な恐怖が先にあって、そういう誤った考えが浮かんだ場合は、その考えに関わらず、病気への恐怖が先にありますから、考え方を変えても、病気への恐怖が続いてしまい、その病気のことを考えれば、また誤った考えが浮かんでしまいます。
誤った考えが修正できても、またそう思えてしまったり、もしそう思わなくても、病気への恐怖自体は消えないのです。
その考えで怖いのではなく、その前に、生理的恐怖があって、その考えが浮かぶので、実際には、考えは関係のない(心理的理由の無い)恐怖なのです。
たまたま何らかの思考が結び付いただけで、そんなことよりも、生理的嫌悪や恐怖が消えないことが苦痛なのであり、その思考自体にも生理的嫌悪や恐怖が起こりますから、そのほうが苦痛なのです。

ではなぜ怖いのか?恐怖を感じるようなことだからですが、恐怖を感じてしまう、それ自体もその病気での危害であり、過敏性の症状の苦痛が起こることで、その病気の存在自体が実際に危害に思えてしまうのです。

強迫観念があっても、それに対して、生理的嫌悪や恐怖が起こらないなら、強迫観念にもなりませんが、生理的嫌悪や恐怖があることでの強迫観念ですから、そこから、生理的嫌悪や恐怖だけ取り除くことはできません。
強迫観念が誤った考えなのか正しい考えなのかは、そんなに関係なくて、その元に生理的嫌悪や恐怖があり、それが続いてしまうことが事実として苦痛なのです。
その元の苦痛(強迫感覚)に、強迫観念がくっ付くのですが、強迫観念の内容は、元の恐怖や嫌悪の具体化に過ぎませんから、その実体としての強迫感覚があることが、強迫観念の苦痛の本質なのです。

例えば、目覚めている時に、悪い夢を見始めてしまったら、それが非現実でも、現実の生理的嫌悪や恐怖が続いてしまいます。
それと同じように、内容はともかく強迫観念が離れなければ、生理的に不快ですから苦痛が続いてしまうし、基本的には現実の危害に対しての観念ですから、その苦痛を消すには、現実行動の強迫行為をしないといけなくなり、生理的にそうしないといけないからこそ、そうさせること(現実の不快なこと)が余計に危害に思えます。

過敏性の問題がなく、強迫状態にもならなければ、危害にならないことが多いのですが、過敏性の問題があり、強迫状態になってしまう人とっては、実際に危害になります。

トラウマ記憶があることで、強迫観念が浮かぶ場合も、なぜそれがトラウマになったかといえば、根本は生理的反応ですから、実際には危害のないことで、ショックを受けたとか、誤った学習をしたわけではないので、それは本当は、ショックなことではないですよ、という説得が通じないのです。
危険の学習ではなく、生理的には実際の危害ですから、学習以前のことなので、学習し直すことができません。
同じ体験をすれば、実際に同じようにダメージを受けて、トラウマになってしまうので、誤った学習をしたわけではないのです。

不快な刺激を感じて、過敏性により、それが消えなくなれば、自然と、不快な思考も結び付きます。
そう考えたくなくても、生理的にそうなってしまいます。
もし、そう思わなければ、その思いが記憶として残りませんから、危害回避をしなくなって、生物として危険だからです。
それが危害にならない人なら、そうなりませんが、過敏性が強く、ストレス耐性が低いと、そういう思いが増えて、危害回避も過剰になります。
そういう不快なことを感じたり、そういう思いが浮かぶだけでも、強迫状態になり、実際に危害を受けてしまうからです。
そうならないようにと、危害回避も過剰になります。

強迫症状が苦痛ですから、強迫患者にとっては、強迫症状を引き起こすことは何であれ、危害になります。

過敏性の強迫観念は妄想のような非現実ではなく、現実に反応した思いですから、強迫観念が患者にとって苦痛だということは、それを浮かばせる現実も害になります。
現実によって、そう思わされているので、思考上だけではなく、現実からの害なのです。

その思いがあること自体も事実ですから、実際には危害がないことを危害に思っているのではなく、症状で強迫観念が浮かぶために、実際に危害になりますから、それを避けようとするのです。
トラウマのある人には、トラウマを想起させることが、実際に危害であることと同じです。

実際の危害での不快な思いと、実際には危害のないことを、危害だと思い込むことでの不安は別の話です。

思い込みに過ぎないとか、誤った考えと本人が分かっていて、違う考え方をしたくても、それに関わらず強迫観念が浮かび離れないので、どうしても不安になってしまうこともあります。
しかし、その思い込みに過ぎない誤った考えであっても、それが頭から離れないのであれば、その思考によって不安になってしまうのは仕方ないことです。
誤った考えであっても、その強迫観念による苦痛は患者にとっては実際にあるのです。

強迫観念が誤った考えだと思うことは、強迫観念ではなく、強迫観念に対する普通の思考です。

その普通の思考に関わらず、強迫観念は浮かぶのですから、強迫観念としては誤った考えだとは思えていないのです。

患者は強迫観念を無意味だと思っているとの説明は多いのですが、同時に無意味だとは思えないからこそ、強迫行為をするのです。

普通の思考で強迫観念に対して無意味だと思っても、強迫観念としては無意味には思っていないのです。
強迫観念が無意味だと思える場合は、その強迫観念が現実との結び付きが弱いからです。
ほとんどあり得ない事だったり、実際のことではない思いが、なぜか浮かんでしまうという意味で、無意味に思えるのです。

ところが、過敏性の強迫観念の場合、実際の現実反応によってその強迫観念が浮かぶので、当然、無意味には思えません。
例えば、実際に危害が強くて心配していることに対して、心配な思いが浮かんだり、生理的に嫌なことを嫌がるのは、普通のことですから、無意味ではありません。
しかし普通が分かりますから、一般的には些細なことでそうなったり、その思い強く長く離れなくなってしまうので、過剰には思えるわけです。

強迫観念が無意味に思える人は、頭の中だけの不安思考で強迫行為をする人が多く、恐怖や嫌悪で強迫行為をする人は、実際の不快なことでの不快な感情や思考に強迫されるので、無意味だとは思えません。

誤った考えで不安になって、それに過敏反応する場合は、不安な思考への不安であって、現実との結びつきが弱いので、違う考え方をすれば、その不安への過敏反応が起こりません。
敏感であっても、不安を起こす対象が考え方の問題(頭の中だけのこと)であれば、治しやすいのですが、強迫性障害は、ありもしない不安な思いにとらわれる病気ではありません。
そういう人もいるし、そういう面もあるというだけで、それだけなら害も少ないし、不安症とほとんど変わりません。

実際には過敏性によって、不安だけではなく、様々な不快なことに強迫されるのです。

実際に苦痛を受けて、その苦痛を無意味に思えるでしょうか?
それは一般の人には苦痛ではなくても、過敏性が強いことで、強迫症状の出る人には、実際に苦痛になってしまうというだけです。
そういう過敏性での一般との差が障害になってしまう病気です。

人は何か意識できる存在があれば、それに対して何かを感じたり思ったり考えたりします。
意識的にそうする場合は止められますが、主に不快なことに対しては、そうしたくなくても自然とそうなってしまうので意識的に止められません。

同じ現実状況で、どういう反応をするかは感受性の強さや経験などでも違うのですが、思考や記憶などの内面的なことへの感受性も人それぞれです。
感じたり思考する脳機能がある以上は、そうなってしまうのですが、過敏性によって、様々な刺激に強迫される病気が強迫性障害です。

強迫観念は不快な思考ですから、感じ、だけではなく、意味があります。
強迫観念を浮かばせる不安や恐怖などの対象が不快なのは、それが不快に思える強迫観念があるからなので、嫌悪の場合は、その意味に嫌悪するのです。
不快な思いに対して、不快な反応をしてしまうのは当然のことですが、過敏性が強いとその傾向が強まり、ストレス反応での思いが、なかなか消えなくなれば、その思い自体が危害になります。

過敏反応することで、苦痛を受ける、これが危害となって、恐怖、嫌悪、不安、心配も強まり、それに強迫されることで、強迫観念が浮かび、それに害されます。
危害だと思わなければ、その対象が危険だろうとストレスにはなりませんが、その反応での症状には実際に危害があるので、そう思わないことができないわけです。

トラウマのフラッシュバックが頭の中のことであっても苦痛なのは、それによってその体験での苦痛が再生されたり、そのことでの不安な思いなどが強まるからです。

想像(イメージ)したくないこととか、考えたくないこと、思い出したくないことは、普通の人でもあるはずですが、もしそれを常時思考せずにはいられなくなったら、その状態に少なからず苦しむはずです。
強迫性障害であると、過敏性によって、そういう思いに敏感に反応してしまい、その思いが強迫観念となって、なかなか消えなくなってしまう症状が慢性的にあるので、普通の人よりも「その思い」があることでのダメージが強くなってしまいます。

だからこそ、その思いをなくそうとするのですが、その思いをなくそうとするから、余計にそのことへの意識が強まって敏感に反応してしまうわけではないのです。
その思いをなくそうとしなくても、その前から、その思いはあるのです。
過敏性によって、強迫観念から実際に危害を受けますから、強迫観念を浮かばせることへの不安も強まるのです。

敏感であると、自分の外側の刺激だけでなく、体調の変化とか、思考とか、感情とか、記憶とかの内面の精神的刺激(不快感)にも過敏反応します。
強迫観念のイメージなどに対しても現実と同じように不快な感情が起こります。

例えば強迫性の嫌悪の場合は、そのストレス対象の現実(実物)、その写真、その映像、そのイメージ、頭ではそういう区別はできても、感じ方としては、そういう区別をする壁がなくなり、実物と同じような嫌悪反応が出て、それがなかなか消えなくなります。

こういう傾向が強い人は、テレビなどの不快な情報を過剰に避けることになったり、嫌悪を煽られるような情報で汚れてしまうなどの症状が出ます。
強迫観念として汚れのイメージが浮かべば、それは現実の何かの汚れなので、そのイメージの汚れが、現実の汚れそのものになり、洗ったり、捨てたりしないといけなくなります。

不潔恐怖という場合は、過剰な思い込みでの不安思考も含まれるし、一般的な汚れに対して、過剰反応する人が多いのですが、強迫症(過敏性の精神症状)での汚染恐怖的な汚れの場合は、一般的な意味での汚れ(不潔なこと)だけではなく、不快で耐えられないことの付着(嫌悪が離れなくなってしまうこと)への恐怖であり、強迫状態そのものが汚染なので、過敏性の強迫症には汚染恐怖が一番多いのです。

普通の人は強迫状態になってしまう症状がないので、汚れることぐらいそんなに心配しなくても済みます。
汚染恐怖のある人でも、汚れることぐらいで、そんなに心配することではないと考える人もいるわけですが、そういう考えに関わらず強迫観念が浮かんでしまうので、汚れることぐらいでも苦痛になってしまうし、汚されれば、捨てたり洗ったりの強迫行為を過剰にしないといけなくなってしまう苦痛もあります。
その症状の苦痛によって、普通の汚れではなく、強迫性の強い汚れになりますから、汚れることぐらいでも、本人には実際に耐え難いダメージになってしまうし、強迫性が強ければ付着も強いので、洗浄に時間がかかったり、洗えなくて捨てることも多くなります。
実際にそういう害を受けるので、汚されることを過剰に避けるようになりますが、それは実際には危害がないことを危害だと思い込んでいる不安思考の人とは、まったく違うことなのです。

自分だけの思い込みで不安になっているから、その対象が危害に思えるのではなく、その対象で強迫症状が強まり、強く害を受けますから、実際に(症状があることで)危害を受けることだからこそ、過剰に嫌悪や恐怖が起こるのです。

強迫観念は、不安だけではありませんが、不安思考にもいろいろあります。

不安になりやすいから、不安思考が浮かぶ→不安の問題なので、不安症。

考え方によって、不安になってしまい、不安思考が浮かぶ→考え方の問題なので、神経質。

鬱でネガティヴな気分になって、不安思考が浮かぶ→鬱の問題なので、うつ病

過敏性によって、不快感を感じやすく、不快な思考が残ってしまうことで、不安思考の強迫観念が浮かぶ→過敏性の問題なので、過敏性強迫症

不安思考の強迫観念が想像上の危害に対して浮かんでいても、その危害に対して、生理的な恐怖や嫌悪がある場合は、想像上の(現実ではない)ことと分かっていても、その思いは消え難くなります。
強迫観念が想像上であっても、現実の危害に対して生理的な恐怖や嫌悪があるから、それが浮かぶという場合は、実際の危害に対して生理的に浮かぶ不安思考ですから、実際に起こってないから心配いらないという理屈が通じ難いのです。

生理的な恐怖や嫌悪ではなく、考え方で恐怖や嫌悪をしている場合は、完全に心理的問題ですから、修正もしやすいのですが、そういうタイプはあまりいません。
何らかの事への生理的な恐怖や嫌悪などがあることで、不安思考が浮かぶ人がほとんどです。
それが実際に体験していないことなら、まだ治しやすいのですか、実際に体験したことでの生理的な恐怖や嫌悪などがあっての不安思考は、実際の危害に対する不安です。
実際には害が無いことを、考え方によって、危害だと思えてしまうこととはまったく違います。
すでに危害を受けているからこその、未来の不安は、想像上だけの危害ではないのです。

強迫症状は過敏性によって起こりますが、精神医学的には、過敏性ではない強迫症状の人達だけを強迫性障害としてきましたから、過敏性の強迫症であっても、それと同じ病気にされてしまいます。
強迫症と過敏性は関係なく、敏感だとしたら考え方の問題だとして、適切とは言えない治療を受けることになります。

過敏性の強迫性障害精神障害としては治療できませんが、発達障害としても治療できません。
神経発達障害は、基本的には先天的(生まれ持った)問題として考えます。
過敏性による強迫症状は、神経障害ですが、発症年齢が15~25ぐらいが多いので、神経発達障害とは言えません。
神経過敏自体は、後天的に起こることも多く、例えば、妊娠出産などでも過敏になりやすいと考えられているし、多感になりやすい思春期の頃に、不安や恐怖、嫌悪などの強迫状態が続くことで、強迫性障害が発症することは多くあります。
そういう人が、子供の頃から過敏性があったとしても、過敏性の発達障害自体がないのですから、発達障害とは関係ないことになります。
もし過敏性の発達障害があれば、それが土台になって発症しているとは考えられますが、その発達障害強迫症の原型と言え、強迫感覚主体型(不快な感じに強迫される)や強迫観念先行型(不快な思いに強迫される)に近いタイプになります。

思春期以前は、強迫感覚や強迫観念があっても我慢することが多くなり、我慢できなければ泣いてストレスを発散したりします。
泣くというのも一種の強迫行為なので、敏感な子供は些細なことでもよく泣きます。
その上、シャイが多いのは、恥ずかしい思いにも強迫されやすいからですが、その恥ずかしさによって、泣くのも我慢するようになります。
そうなれば、強迫感覚や強迫観念があっても、その不快感や思いがそのまま、あるがままになってしまったり、不快なストレス対象を回避しようとすることになりますが、日常的で些細なことが多いので、回避できないことも多く、我慢するしかありません。
そうすると今度は、怒り、嫌悪、憎しみなどの攻撃的な感情や思いに強迫されるようになります。

その場合、過剰な強迫行為は特に起こりませんが、不安、恐怖、嫌悪、怒り、憎しみなどの不快感や不快な思いが消え難いという傾向があれば、すでに強迫症になっているのです。
そういう強迫状態になりやすい傾向自体は、先天的かは分からなくても、幼少期からよく見られることで、それを土台に思春期などに過敏性が強まることで、不快な感じや思いの強迫性も強まり、その不快な感じや思いが神経に付着したままになり、それを振り払おうと、強迫行為をすることになります。
不安とかならまだ軽いほうなのですが、怒り、嫌悪、憎しみなどに強迫されると、それらの不快感の強迫性(付着性)の強さから、その対象は汚れ(不潔なゴミ)に思えて、強固な汚染嫌悪や不潔嫌悪になります。
これは、怒り、嫌悪、憎しみがある限り続きますが、実際に危害を受けて、生理的にそういう思いが浮かぶので、頭でどう考えようと、その記憶がある限りは消えません。

過敏性の強迫症HSP・HSCの共通点は、違和感に弱いことで、それが過敏性の苦痛の原点です。

違和感は比較的苦痛は弱いのですが、敏感な人には強い苦痛になったり、苦痛でなくてもどうしても気になってしまい、気になってしまうことが苦痛になります。

しっくり感を求めて強迫行為をする人の存在は知られていますが、認知行動療法などでは、しっくり感を求めているから、小さな違和感なども気になってしまうと考えるので、強迫行為をしなくなけば問題ないとするのです。

強迫行為先行型のようにそういう人もいるのですが、実際に違和感に弱いことで、強迫行為をしなくてはならない人は、強迫行為をしなくなれば、過敏性による苦痛が長々と残ってしまいます。
強迫行為をしなくても大丈夫と言われても、そうしないと、強迫状態によってその前からある苦痛が消えないので、本人には大丈夫ではないのです。

敏感な人は違和感などの感覚的な不快感にも神経が敏感に反応してしまいますから、その刺激がなかなか消えなくなってしまいます。
不快な感じに強迫されやすいというのは、強迫症の人の共通点で、確認強迫の場合も不安感に強迫されるし、洗浄強迫の場合も汚れの不快感、嫌悪感などに強迫されます。

強迫行為に確認や洗浄が多いのは、過敏性によって日常生活の些細なことでもストレスになり、その刺激で反射的に浮かぶ強迫観念は、妄想と違って現実生活に基づいた思考だからです。
普通の人でも日常的にすることを過剰にしないといけなくなってしまうのですが、それが確認や洗浄なのです。

もちろん細かく言えば他にもいろいろとあり、例えば、強迫観念が浮かばずに、不快な感じだけに強迫される場合、違和感を感じた動作をしっくり来るまでやり直すとか、何らかの行為で中和するとか、単に不快感の強いことを過剰に避けてしまうとかの症状がでますが、どれも本質的には確認や洗浄などと同じこと(過敏性によるストレスの対処)をしているのです。

現実行動の強迫行為では解消できない強迫観念は、頭の中で強迫行為(嫌な思いを良い思いで中和するなど)をすることになりますが、過敏性の強い人は、頭の中だけではなく、日常の些細なことでもストレスになり、症状が出やすく、強迫行為としては安全確認と洗浄が多くなります。

危害回避の安全確認は強迫症的には基本の症状で、何らかの害を防ごうと確認するのですが、強迫症の場合、違和感、不安感などによる強迫での害も含まれます。
慢性症状ですから、そういう害を受けることは日常的にあり、不安になれば強迫状態になりますから、そうならないようにと確認が増えます。
その強迫観念は現実反応(現実への心配など)で浮かびますから、それが浮かばないようにしようと、現実行動の確認をするのです。

敏感な人は、現実にそうなってしまうことだけではなく、そうなりそうな状況、そう思える状況でも不安に強迫され、そのストレスに耐えられません。
その不安な思いでの強迫状態が消えなくなれば、どうしてもそう思えてしまいます。
それが起こらなければ良いということではなく、その前に、そう思えてしまう症状自体が害なので、日常的に強迫症状が出ることで、その害を防ごうと日常的に確認が増えるのです。

不安に思うことが起こりやすい状況なら、余計に緊張状態になって、緊張感や不安感に強迫されることで確認も過剰になりますが、過敏であることで、一般的に考えてそういうことが起こりにくい状況でも、日常での害(そう思えてしまう苦痛)が実際に多くなり、慢性的に緊張状態になって、強迫観念が浮かんでしまいます。

ですが、中には、完璧主義やきれい好きと同じようなに、確認することでのキッチリ感、安心感を求める欲求が強いことで、不安が強まり、何度も確認をする人もいて、このタイプのほうが、行為が過剰になりやすいのですが、これは強迫性障害の症状ではないのです。

強迫症の人には、強迫症状があり、不安や恐怖や嫌悪などを感じると、過敏性によってそれらの強迫性が強まり、その不快な感情と結び付いた思いは強迫観念となり、不安や恐怖や嫌悪などに強迫される(とりつかれる)状態になります。

強迫行為先行型や依存症とかは、強迫症での強迫状態とはまったく逆で、欲求的な思いや行為に自らとりつくことで、そうできない状況での不快感が強まり、余計に、そうしなければならなくなってしまうのです。
「とりつかれる」のが強迫で、「とりつかなければならない」状態は依存です。
特に快楽的には思えないことでも、本人には心地良いという場合はありますから、強迫性障害と強迫類似症状(完璧主義やきれい好きなどの強迫行為先行型、行為依存症、精神病的反復行動、自閉症的なこだわりの強さなど)は、しっかりと区別しないといけません。

強迫症の人は、過敏性が強いことで、不安や恐怖や嫌悪などが普通の人よりも長く強く続いてしまい、普通は気にならないことが、どうしても気になったり、心配することも増えてしまいます。
避けたり、気にしたり、不安に思うことも苦痛なのですが、それは過敏性で浮かぶ強迫観念によって、症状でそうなっているので、強迫症の人には、苦痛でもそう思わないようにしたり、気にしないことができないわけです。

不安症の人でも強迫症状は出ますが、過敏性の問題がなければ、重度の強迫症にはなりません。
自閉症や精神病状態と違って、強迫症の人は、刺激に反応することでの刺激にも弱いので、刺激となっていることに表向きは反応していないようにも見えます。
無言で回避したり、我慢したりしますが、強迫状態でストレスが残ってしまうので、後で一人で強迫行為をする場合が多く、敏感かどうかは基本的に本人が言わない限り分かりません。

何に恐怖するかはその人の経験や知識にもよりますから、頭の中だけでしか強迫行為をしない人とか、確認だけの人に過敏性がないとは限りませんが、過敏性の強さが恐怖や嫌悪対象を増やし不安を強めるので、より敏感なことで、頭の中だけの刺激ではなく、日常の些細なことも刺激となり、確認などの過剰だけではなく、その上に、洗浄も過剰という人が多いのです。

敏感なら、思考や感情などの内面的な刺激への過敏性もありますが、本当に敏感な人は、それだけでは済まないので、現実の刺激への過敏性も強いのです。
それによって、内面的な刺激にも強迫されるわけです。
ですから、過敏性の強い人には、汚染恐怖の症状が強くなります。

汚染恐怖の強い人は、親しい人との共同生活もできませんし、社会適応も困難になります。

強迫症は、一般離れしたレベルの過敏性、敏感過ぎる感受性とストレス耐性の低さが原因となっています。
多くの人との交流には神経を使いますから、刺激を避けて、人間関係は少なくなり、重症患者のほとんどは、社会的に孤立しています。

他人の感情の影響を受けやすいなら、その他人をリラックスさせれば良いという考えもありますが、敏感な人は、他人に接する瞬間に(または接する前に相手の雰囲気などから)悪影響を受けてしまうので、その他人の感情をどうこうすることもできません。

それ以前に、例えば、気の荒い人をリラックスさせようにも、そういう気性の人を敏感な人がリラックスさせることも困難で、それならば、敏感な人は、そういう人を避けるしかないのです。

気が合わないと思ったら、できるだけ避ければいいのですが、避けることも神経を使いますから、避けてもダメージを受けるのです。
しかし、ストレスに慣れないからこその強迫症なので、ストレスを避けないよりは、避けたほうが少しは良いのです。

人は人で、できるだけ気を受けないようにする考えを持っても、その考えに関わらず過敏性により、刺激を受けてしまうのですから、共感力が強いと、考え方では防げません。

また感覚を鈍らせられないからこその強迫症なので、感覚はどうしても敏感なままなのです。
ですから、できるだけ良いことに感覚を使うことが大事になります。
もちろん、それも困難になりますが、できるだけそうするしかありません。

強迫症の人の生き方は、病的に敏感な人がどう生きるかということと同じで、生きている限りは、それに悩むわけで、基本的には解決できないことです。

敏感といっても、良いことに敏感なら、過敏性が症状にはならないのですが、強迫症の人は敏感な上に、ストレス耐性が低いことで、敏感そのものがすでに苦痛になり、過敏性が強迫症状に変わります。
敏感であることで、刺激が気に止まったままになり、そのストレスが対処できないので、強迫行為をすることになります。

心配するのが苦痛なら、心配しなければいいということではなく、強迫性障害の人には、心配するのが苦痛でも、心配しないといけなくなってしまう危害が実際にあり、そこに強迫的な(避けても避けられない)苦痛があるのです。

ストレス反応の症状であっても、恐怖症とかと違って、そのストレスが内面で続いてしまうので、患者本人がいる限り、どこへ行こうとストレスフルになります。
悪化防止で、環境調整はしたほうが良いのですが、本来なら安心できる生活環境の中でも、その状況に合わせて症状は続きます。

症状はなんともできませんから、強迫行為を嫌でもしなければならなくなります。

ですから、しないようにすることではなく、強迫行為をしやすくする環境つくりが大事になります。
そうしても強迫観念の問題は何にも変わりませんが、そういう障害なので仕方ないと思うしかないのです。

人よりも苦痛は多く、無駄なことは増えるし、何をするにも時間はかかります。
強迫行為をしやすくすると言っても、できればしたくないことなのですから、通常はそんなことにも取り組めません。

回避が増えるか、強迫的に何かをするぐらいの生活でしょう。

治せるようになったとか言っている人もいますが、単に治しやすい病気を作り上げているだけで、本当の強迫症は治せないままです。

強迫観念というのは、患者の考え方の問題で、考え方を変えれば、強迫行為も止められるとか、強迫行為を止めれば、強迫観念は浮かばないという考えは、強迫性障害の症状自体を無視しています。

強迫症の人は、用心深いから、そんなに心配しなくても、そんなことは起こらないのに、という人もいますが、そういう人は、不安や恐怖に強迫され続ける強迫症状自体がまったく分かっていないのです。
用心深いと言っても、自分の意思でそうしているのではなく、強迫観念がそうさせているのです。
そんなに心配しなくてもと言ったところで、心配し過ぎてしまうことは本人も分かっているのです。
過敏性の強さで、強迫観念が離れなくなってしまう病気なので、一度浮かんだ心配が大きな刺激となってなかなか消えないわけです。

強迫観念が弱ければ、これこれこうだから心配いらないという説得でも安心できるのですが、その場合は、強迫症ではない不安障害なのです。
不安とか恐怖とか嫌悪などは、誰もが持つもので、それによる強迫性の強さで、強迫症かどうかが分かるのです。
強迫性が強ければ、一度浮かんだ不安とか恐怖とか嫌悪などが何年、何十年と強迫観念として続いてしまうので、何十年経っても自然には治りません。

普通の不安思考であれば安心できる言葉でも抑えられるし、妄想幻覚は薬で治せますが、強迫観念はそのどちらでもないので、治す方法がありません。
自分の思考に関わらずに、不快な感情と共に拒絶反応的に浮かんでしまう思考が強迫観念です。
不快な感情が起こらなければ問題ありませんが、現実であれ、それに対する思考であれ、実際に苦痛の強いことを体験すれば、どうしても不快な感情が起こります。
過敏性が強いことで、一般的には些細な刺激でも危害になって、そのダメージも長々と消えなくなってしまう。それにより、不安や恐怖、嫌悪が強まり、強迫観念が強固になります。
現実反応なので、強迫行為で一時的に抑えることはできますが、強迫観念が浮かびやすい病気なので、強迫行為を繰り返しずっとしないといけなくなり、日常生活や社会での活動が困難になります。

恐怖症は、敏感ではないストレスに強い人でも起こる症状ですから、ストレス対象から離れれば、特に問題はないのですが、強迫性障害であるとストレス対象から離れても、そのストレスが強迫観念となって、ストレスから離れられなくなります。
こういうストレスの付着状態が弱い人であれば、強迫行為が見られても恐怖症範囲の人です。

強迫症の人の頭の中には、強迫行為では解消できないような強迫観念も常に浮かびやすくなりますが、恐怖症の人は何かが怖いというだけで、器質的に敏感でもないし、精神的に病んではいないのでそうなりません。

そういう意味では、恐怖症とか不安症は患者の素質的に治せる可能性はあっても、強迫性障害であると素質的に治すことに無理があるのです。

ある意味、一番、精神が関係ない精神症状であり、精神というよりは、神経段階の症状なのです。
そこに精神もくっ付いているから、精神的症状も出るし、精神的に病んでしまうというだけで、精神の問題ではなく、神経の過敏性の問題なのです。

強迫症の人は、過敏性で刺激を受けやすくなり、その刺激による苦痛で不快な感情が起こり、その感情自体も不快な刺激となって、不快な感情での強迫状態になります。
強迫症であると、不快感が強まり消えなくなってしまうだけではなく、そこに思考が結び付き強迫観念になり、この強迫観念が刺激となり、不快な思考での強迫状態に悩まされます。
強迫症患者にとっての危害は、強迫症状を起こす現実の物事ですから、そのストレス対象への恐怖や嫌悪が強まったり、症状での苦痛が起こらないようにと、不安や心配も浮かびやすくなります。
それが強迫観念になってしまうので、過敏性がある限り、強迫症状の苦痛から逃れられません。

嫌なこと、危害のあることでも、ストレス耐性があれば、慣らすことができますが、ストレス耐性が低いからこそ、強迫状態になって苦痛が強まってしまうので、慣らすことができないのです。
そうできないからこそ、強迫症状が出るので、慣らせば良いという話ではないのです。
それができない病気なのです。
普通の人でも、軽い嫌悪とかストレスは慣らせても、実際に危害の強いことに慣れる事はできません。
それができてしまうと、危険回避をしなくなって、生物的に危険なので、生理的に無理なのです。
それと同じで、一般的には害がなくても、強迫症には実際に強い害なので、生理的に無理なのです。

ところが、強迫性患者は一般社会に適応しようと、我慢してしまいます。
我慢することで、表面上は社会に適応できますが、実際には適応できていないのです。
そのストレスで症状が悪化して、そうすることもできなくなりますが、その頃には、うつ病にもなって、治せない病状になっていますから、本当は、その前から、ストレスの少ない生活をしたほうが悪化は防げるのです。
ですが、そうできる社会にはなっていません。
みんなができることは、できて当たり前というストレス社会なので、ストレスに敏感な病気でも我慢できるなら、我慢すればいいという考えなのです。
我慢できないなら、一般社会からは出てくださいとなります。

ですが、敏感というだけなら、病気でもないので、無理でも社会に入らないといけなくなります。
ストレスに弱くても、みんなと同じことをしないといけないので、そのストレスで病気になってしまいます。
過敏性で何かの病気になってしまうとしたら、それが強迫症です。

心因性の過敏であれば、ストレスに対する考え方を変えれば、ストレスに慣れて、治せるかもしれませんが、器質的な過敏性やストレス耐性の低さの問題となっていると、ストレスに慣れることができません。

治らないなら、せめて悪化させないことが大事ですが、それさえも困難な病気なのです。
間違った情報が拡散していることもあり、社会的な配慮が得られ難い病気だからです。

刺激の強い社会の中で、自分で自分を守ろうにもストレスに弱いとできません。
そこからできるだけ離れて、回避的に生きるしかないのです。

悪化させないためには、症状で無理なことは無理にしないようにすると良いのですが、そのためには、症状を理解してもらいながら、自分から「こうすればできる」という提案もしなければなりません。
しかし、そうしようにも、一般社会は他の人が簡単に出来ることはできて当たり前、できないほうが悪いという一般基準で作られますから、強迫症基準で社会に対して理解を求めても、社会が敏感な人に合わせるということはなく、敏感な人は我慢を強いられます。
我慢できなくなれば、一般社会にはいられなくなります。

弱い者は除外される社会なのですが、そういう人は一人ではありませんから、そういう人達もなんとか生きられるようにはなっています。
ただ、そういう生き方でさえも、最低限の社会性は求められますから、その範囲で耐え難いストレスを受け続けることになり、年々悪化して行くのです。

強迫症は、現実反応での精神障害で一番苦痛の強い症状がでます。
なぜなら、不安障害や恐怖症やPTSDなどの強迫性が強まった状態が、強迫状態だからです。
統合失調症や解離と違って、症状が現実のストレスを回避してくれることもなく、ストレスがため込まれてしまうので、強迫行為をしないといけなくなります。
それはモウロクするまで生涯続きますが、強迫性障害自体が精神医学的にもまだ理解されていないので、そういった苦痛も理解されないし、適切な社会対応も受けられません。

本当なら、強迫性障害などの過敏性の精神障害の人は、できるだけ無刺激の特殊な対応が必要なのですが、普通の健康な人を含めた全体と比べれば、強迫症患者は、ごく一部の人ですから、それを理解したり、特別な対応をするのは、社会的にも医療的にも福祉的にも面倒なことなので、やろうとしません。
そこに適応しようとすると、患者だけが苦しむことになります。

治療にしても、過敏性の強迫、そんな人はいない、とされてしまうのです。
そうしたほうが、そういう人達のことを考えずに済むし、面倒にならないからです。

そういった面を改善して行くには、強迫性障害に対する誤解を減らし、正しく理解してもらうことです。


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