強迫性障害の全貌

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過敏性強迫症とは何か?

強迫性障害の人は、非常に敏感(過敏)で、普通の人なら平気な、むしろ楽しいことでさえ、危害となってしまうので、普通の人でもやや抵抗のあることは、強いストレスになり、強迫観念が煽られます。

何に強迫されるかは人によりますが、過敏性が弱いと、強迫観念が不安だけと言う人も多く、過敏性が強いと、恐怖や嫌悪など現在にある様々な不快な思いにも強迫されます。

不安強迫・・・不安による強迫観念ですが、未来の危害に対して強迫観念が浮かびます。
不安になりやすいことで、不安な思いが浮かぶのは当然ですが、そういう人は不安が抑えられれば、強迫観念も浮かび難くなりますから、不安症の強迫症状ともいえます。
強迫行為としては、確認が多いのですが、不潔恐怖とかでも「かもしれない」という強迫観念の場合は、不安型の強迫観念です。

恐怖強迫、嫌悪強迫・・・現在過去未来の危害に対して強迫観念が浮かびます。
不安になりやすいから強迫観念が浮かぶのではなく、現在過去の危害があることで、それを避けるために未来の不安も強迫観念になります。
強迫行為としては、洗浄、確認、回避などが多いのですが、過敏性の汚染恐怖は、「かもしれない」という強迫観念だけでなく、実際に汚染されて、その対処として強迫行為をすることにもなります。

過敏性強迫症の人は、小さなことを気にしてしまうだけでなく、大きな刺激も、普通の人より大きくショックを受けます。
大きなことを気にするのは、みんなそうだから、正常なのですが、その苦痛の度合いが違うのです。
小さなことから大きなことまで、様々な苦痛に強迫されますから、いろんなことが不安にもなり、その不安にも強迫されます。

危害のあることを避けるのが人として当然なら、強迫観念が続くことの危害を対処しようと強迫行為をすることも当然で、強迫症状を起こすストレス対象を回避しようとするのも正常な危害回避です。
しかし、強迫症でなければそうならないという意味では異常であり、過敏であることで、過剰になり、本来は正常な反応が、症状として障害にもなります。

敏感であればいろいろなことが気になりますが、危害の強いことに対しては強い過敏反応が出ます。
普通の人にとっては、どうでもいいようなことも、強迫性障害であると、過敏性によって実際に(症状が強まり)危害を受け、苦痛なのですから、気にしないわけにもいかなくなります。

敏感状態であると、あらゆる痛みが強く感じられますから、精神的苦痛のダメージも長く残り、そのダメージには、不快な考えやイメージ(強迫観念)がくっ付いたままになり、その強迫観念からも苦痛を受け続け、ストレス状態が長く続きます。

敏感な人は、ストレスを感じやすいことで、神経の消耗が回復できないままになって、余計にストレスが解消されなくなります。
ストレスの処理ができずに、神経そのものや脳にストレス反応が停滞してしまうが、ストレスでの強迫状態です。
その対処として強迫行為をしないといけなくなりますが、それはそれでストレスになって疲れてしまうので、回避が増えて、不活発になり、精神が病んでいきます。
そういう一連の症状が過敏性の強迫症状です。

強迫症の土台には、敏感症とか過敏症とも言える状態があるのですが、他人の過敏性は、他人には分かり難いことだし、神経障害による精神障害は、精神の病気としては治せないこともあり、過敏性による精神的苦痛の問題は医学的にほとんど理解されてきませんでした。

少なくとも過敏性強迫症というのがあることは理解してください。

このタイプは、不安な思いだけに強迫されるのではありません。

過敏性強迫症の特徴は、未来の危害ではなく、実際の危害での不快な思いに強迫されることです。
それによって、未来への不安も強まりますが、不安が原因で、強迫観念が浮かぶのではなく、過敏性によって、強迫観念が浮かぶのです。

強迫性障害は、心配事とか不安に限らず、恐怖とか、嫌悪とか、そういう不快なこと全般の刺激に強迫され、それらが長く続いてしまう病気です。
当然、強迫症状自体にも強迫されますから、強迫症状は必然的に長く続きます。

それは刺激のダメージが長々と残ってしまう過敏性の問題なので、その苦痛があることで、強迫症の人は、普通は気にならないような、小さなことを気にしてしまいます。

普通は小さなことほど気になりませんが、敏感なほど、気になってしまうものです。

どれぐらい小さいかというと、見えないレベルのことです。
そこには、不確実なこと、はっきりしないことも含まれますから、強迫観念が浮かびやすいのは、未来のことであったり、今現在のことなら、汚れとかです。
その対処としての強迫行為は、未来の危害の回避としての安全確認とか、現在の危害の対処としての洗浄などが一般的です。

強迫観念は思考ですから、見えること、見えないこと、現在過去未来、どこにでも強迫観念は浮かびます。
未来の危害もはっきりしませんから、強迫観念になりやすいのですが、今現在のことだと、実際にあるけど見えない危害で、強迫観念が強まりやすく、汚染や感染の恐怖になります。
人の体液(汗など)とか、細菌、病原体、虫、精神的な汚れ(不道徳な行為、残酷なことなど、テレビなどでのそういう恐怖情報など、人間的な汚さに対する嫌悪など)ですが、過敏性の強さによって、それだけでなく、それを連想させること、それに似ていること、などにも同様の反応をしてしまいます。
例えば、そういう不快なことの文字とか話、テレビ、新聞などマスメディアでの情報とかでも汚されるようになります。

強迫観念でそれらが具体化されると、特殊な顕微鏡で見るような世界になります。
見える汚れであっても強迫観念によって、見えないレベルまで汚れが付着してしまい、その見えない分は、強迫観念の汚れですから、見える汚れが消えても、強迫観念が残っている限り、まだ汚れている状態になって、洗浄が過剰になったり、汚染物を捨てないといけなくなったりします。

見えない汚れであれば、強迫観念のみが汚れの程度の基準になりますから、その汚れの不快感が強いほど、汚れも消え難くなります。
見える汚れであっても、強迫観念で見えないレベルの汚れが残ってしまい、見える汚れが消えても、まだ汚れていると思えて、洗い続けることになります。

他人からすれば、見た感じ汚れてはいないのに、長時間洗うのですから、変に見えるし、一般基準からすると、それは汚れではないので、本人の思い込みとか、考え過ぎ、あるいは妄想に近い症状と考えられてきたのですが、強迫症だと、見える範囲だけが汚れではないのです。

過敏性が強いと見えないことでも汚れてしまうのですが、それは現実の何かの実際の汚れの思考化なので、実際には汚れていないのに考え過ぎで汚れるのではないし、妄想でもありません。

もちろん単に考え過ぎの人もいますが、そういうのは神経質であって、気にするから敏感な人です。
強迫性障害は、敏感だから、気になってしまうので、まったく逆です。

危害があるのに、それがよく分からなかったり見えないことでの不安や恐怖そのものも危害となって、強迫観念を浮かばせます。
何らかの危害があっても、それがよく分からなかったり見えないこと自体は、危害にならない人は、そのイメージも浮かびませんかせんから、例えば、コロナが危害だと理解できなかったり、見えないから怖くないという人なら、コロナのイメージも浮かびません。
浮かんだとしても、それにとらわれることはありませんから、すぐに消えてしまうし、危害だと思ってないなら、不快な思いにはなりませんから、まったく気になりません。

敏感だとそういうイメージが浮かびやすく、消え難くなりますから、どうしても気になってしまいます。
強迫性障害の人は、小さなことが気になりますが、大きいことには、鈍感というわけではなく、大きいことに対しても、普通は気にしないような小さなレベルまで気にしてしまいます。

大きなことなら、それは、みんなも多少は気にするので、理解は得られやすいのです。
例えば、コロナ対策なら、みんな協力的ですが、一般の人が危害(ストレス)にならないことに対しては、自分だけで守ることになります。

最近はコロナ対策でお店などの入り口に消毒液のボトルが置かれていますが、これが手動のポンプ式とかだと、押す部分を不特定多数の人達が触りますから、他人の体液(汗、唾液、鼻水、尿など)が確実に付着しているわけです。
普通の人達は、コロナ対策で消毒さえできれば安心できるのですが、汚れに敏感な人は、消毒液のボトルに触れることで、余計に汚れてしまうと思えるのです。
見えない汚れは、それを思考できない人には避けられませんし、思考してもそれにそれほど抵抗がないなら、恐怖や嫌悪は起こりません。
どう思考するか、どういう感情が起こるかは、人それぞれですが、汚染恐怖の人は、汚染恐怖の強迫観念があることで、自然と汚れが思考化されて、見えなくても頭の中で分かってしまうし、本人にしか分からないような精神的な意味での汚れも見えてしまいます。
ですから、消毒液のボトルなども共用使用できませんし、汚れることだけでなく、汚されそうな状況でも、恐怖に強迫されて、嫌悪感も強迫観念も強まりますから、非接触式であっても、共用の体温計を近付けられることなどにも耐え難い苦痛(汚染嫌悪)を感じます。

普通の人は、見えないことにはそれほど気にしないもので、例えば、犬に関する不快に記憶があることで、犬に接近されると怖い人も、犬から離れれば、犬が見えなくなって、怖くなくなります。
敏感な人だと、犬が見えなくなっても、その犬に接近された恐怖体験が、強迫観念となって消えなくなり、犬への恐怖も続いてしまい、恐怖の強迫状態になります。
実際に犬を見ることで、見えない範囲のこと(例えば、その犬が飛び掛って来るイメージとか)が強迫観念として浮かんでしまいます。
実際にはそうならないとは限らない(分からない)からこそ、恐怖が強まり強迫観念になりますが、その思い自体は、不安型の強迫観念ですから、現実のことではありません。
しかし、それ以前に、犬が怖く思えるような体験をして、その不快な記憶に強迫されている場合は、実際には危害のないことを危害だと思い込んでいるわけでもありません。

犬への実際の恐怖があることで、その不安も浮かぶのですが、犬だけが怖いなら、恐怖症であり、強迫症だと、過敏性により、様々なことが恐怖となって、その恐怖に強迫されます。

一般的には小さなこと、普通の人には平気なこととか、そんなに気にならないことでも、強迫症の人は、過敏性の症状によって気になってしまうし、強迫状態になり拒絶反応が強まり苦痛の程度が大きくなってしまいますから、頭では些細な事に思えても、どうしても重大なこととして反応してしまいます。
一般的には些細なことでも、普通の人にはない強迫症状があるので、本人には実際に重大な危害だからです。

大きいこととか、確実にはっきりしていることとか、見える汚れでも強迫観念は浮かびますが、見えることだけなら、今現在だけの一時的な恐怖や嫌悪であり、普通の人にも起こることで、強迫性は低いのです。
強迫性障害だと、それだけできなく、見えないこと、まだないこと(未来)や、すでに過ぎたこと(過去)にもその恐怖が伝染して、消えなくなってしまいます。

強迫観念は神経質の思い込みと違って実際に危害があることに対して浮かびますが、何がどの程度の危害なのか、その基準とか苦痛度は、敏感なのか鈍感なのか、ストレスに弱いのか強いのかなどで人それぞれ違います。
過敏でストレス耐性が低いと、一般的には些細なことが本人には危害となり、そのダメージでの不快感や不快な思考などが長く続き、不快なことでの強迫状態になります。
そういう苦痛を受けるので、その対象への恐怖、嫌悪、不安などが強まり、また強迫観念が浮かびます。

強迫観念が浮かぶこと、不快な記憶が消えないことも患者には危害になりますから、そういう症状を体験することも、患者にはトラウマになり、強迫観念やトラウマ記憶によって、別の強迫観念が浮かぶことにもなります。
例えば、実体験(強迫された体験)での恐怖や嫌悪の強迫観念があることで、そのことに対する「そうなってしまうかも」という不安思考の強迫観念が強まったり、トラウマ記憶が苦痛なので、思い出したくなくて、強迫観念が浮かぶわけです。
そして強迫症状自体の苦痛がストレス対象への恐怖などの強迫観念を強めるし、その症状が出ないようにと、不安の強迫観念も強まります。

実際の危害がはっきりしているなら、思考しなくても分かるので、強迫観念は浮かび難いのですが、過敏性が強いと、はっきりした見える恐怖やよく見える危害での不快な思いも強迫観念として消えなくなります。
その危害での苦痛な思いも普通の人よりも強く感じて、長く残って、その思い、その体験の記憶が強迫観念になってしまいます。
そのことそのものだけでなく、それに関する些細なことに対しても、強迫観念が浮かび、見えないレベルの恐怖もプラスされ、その恐怖によって、他のことにも恐怖するというように、恐怖の伝染が起こります。

その恐怖が消えなくなって、過去からも強迫される、そのことで不安になって、未来からも強迫される、そうやって恐怖がいつまでも続いてしまうのが、恐怖による強迫状態です。
過敏性が強いからこらこそ、今現在の恐怖や嫌悪が、その時だけで終わらずに、過去にも残ってしまったり、未来に持ち越されたりするのです。

過去は今はないこと(見えないこと)ですから、それが危害的なことなら、身を守るために、必然的に記憶となり、見える化が起こります。
そういう記憶も自分の思考に関わらない思いですから、強迫観念になりやすいのです。

過敏性が強いと一般的には些細なことでもトラウマになってしまうトラウマ体質になります。
普通の人も強いショックでトラウマになればPTSDにはなります。
敏感な人は普通はトラウマにならないことでトラウマになって、PTSD症状が出ますが、PTSD(普通の人)と違って、敏感であることで、トラウマだけではなく、強迫観念にも強迫されます。
それが過敏性の強迫症状で、トラウマがあることで恐怖や嫌悪の強迫観念が浮かび、不安も強まります。
トラウマでの強迫症状(トラウマ関連のことを避けるなど)に抗精神病薬が効かないことと同じで、過敏性の強迫観念は、一般的ではなくても本人には実際のことですから、抗精神病薬が効きません。

過敏性の不安思考は、トラウマがあることでの不安と同じように、実際の危害への恐怖や嫌悪が強いことでの不安なので、頭の中だけでの思い込みの不安ではありません。
不安といっても現実との結び強いは強いし、敏感であることで、不安だけでなく、様々な強迫観念に強迫されます。

過敏性があると、現実に危害を体験すれば、その時の思いも記憶として残り、その記憶に強迫され、それを想起させる物事を避けるようになり、そうなれば、不安や恐怖も増し、強迫観念も強まります。
こういうのは、PTSDと同じですが、PTSDの場合、特定の恐怖症と同じく、過敏性の問題がないので、全般性もなく、特定のトラウマに悩まされるのです。
強迫症のトラウマ強迫の場合、過敏性の問題で、一般の人が傷付かないようなことでも、傷付いてトラウマになりますから、トラウマがいっぱいあるので、PTSDとは区別できます。

PTSDの場合、普通の人がショックとなって当たり前の(大きな)ことがトラウマになります。敏感な人を想定しない定義なのです。
過敏性の強い人は、普通の人がショックにならないこともショックを受けるので危害に感じてしまうし、何かに恐怖を感じたり、何かで嫌な思いをさせられる、そういうのも実際に害を受けた体験として、いちいちトラウマになります。
そういう過敏性のトラウマは、PTSD的ではなく、強迫性障害のトラウマ強迫の範囲です。

何かを見ると、トラウマ的な何かを思い出すみたいな強迫的な関連付き(連想強迫)が起こりやすくなり、この関連付きの付着性が汚染恐怖などにも繋がります。

こういうトラウマ性の強迫観念は治そうにも治し方はありません。トラウマさえ治し難いので、それによる強迫状態は、余計に治せません。

逆に、もし、強迫観念が、かもしれないという不安だけであれば、比較的軽い強迫観念であり、特別に過敏でもないのです。
そういうのは根拠のない(無意味な)不安ですから、実際には危害を受けていないので、それを無意味でバカバカしいと思うのは、当然のことです。

実際に危害を受けて、恐怖や嫌悪の強迫観念が浮かぶ、あるいは、その記憶があることで、未来への不安が強迫観念として浮かぶ、こういうのは、そう思える根拠がありますから、無意味でバカバカしいとは思えません。
一般的には小さなことに思えれば、普通に考えて過剰だとは思えますが、強迫観念としては、実際の危害の度合いにあった思いが浮かぶのです。
ようするに、頭でどうこう考えることではなく、生理反応的に恐怖や嫌悪によって、強迫観念(それによる嫌な思い)が浮かび、それが消えないことで、未来への不安も強まり、その不安も強迫観念になります。

一般的な説明では、その不安思考だけ取り上げて、強迫観念とすることが多いのですが、その前から、恐怖や嫌悪によっても強迫観念は浮かぶし、それだけでなく、不快に思えること全般が強迫観念になってしまうし、思考ではなく、不快に感じること、その感じそのものにも強迫されます(強迫感覚、感情強迫)。

患者は強迫観念を無意味でバカバカしいと思っているとか、強迫観念は、かもしれないという不安であるという説明も多いのですが、不安に強迫される場合、そういう強迫観念もあるというだけで、それだけではないのです。

不安での強迫は、未来的な危害からの強迫であり、そうなっているわけではないので、無意味でバカバカしいと思えることもありますが、今現在の危害とか、過去に体験した危害からの強迫は、未来的な危害への不安ではなく、実際の危害ですから、無意味でバカバカしいとは思えません。
それが一般的には小さなことという意味では、普通に考えてそう思えることもありますが、反面、強迫観念としては、そう思えないからこそ、苦痛が強いのです。

過敏性の強迫症状は、神経質とか不安が原因ではありませんから、不安にある程度効く薬があっても、それは効きませんし、現実反応の強迫観念は、頭の中だけで作られる幻覚や妄想ではありませんから、抗精神病薬も効きません。
頭の中だけの(思い込みだけの)不安思考なら、抗精神病薬が一時的に効くことはありますが、過敏性の強迫観念は、思い込みとか考え方が作り出すわけではありません。

過敏性の強迫状態になりやすい人は、ストレス対象による恐怖や嫌悪や不安などが、強迫感覚(感じ)や強迫観念(思考、イメージ)となって長々と残って、なかなか離れなくなってしまうので、ストレスから逃れられなくなります。
強迫観念を本人はバカバカしいとか、おもしろく思っているというのは、軽い不安思考の場合、そういうこともあるというだけで、深刻な不安や耐え難い恐怖や嫌悪に強迫されれば、強い苦痛があるだけです。


過敏性による強迫症状は、まったく知られていないわけではありません。

一般的な説明にも出てくることがあって、例えば、ちょっとした違和感が残ってしまうことで、しっくり来るまで同じ行為を繰り返すタイプを運動タイプとか運動性タイプなどとしています。

強迫観念に強迫されるなら、認知タイプなのですが、このタイプは「感じ」に強迫されるので、強迫観念がないのです。
「感じ」も強迫観念に含めればあることになりますが、このブログでは、違和感などの不快な感じに強迫されるタイプを、強迫感覚主体型と読んでいます。

こういうのが過敏性強迫症の原型で、例えば、汚染恐怖や不潔恐怖の人も、はっきりした強迫観念はないが、汚れている感じが残ってしまうことで、長々と洗ったり、洗い直しが増えたりすることも多いのです。
確認強迫にしても、不安な感じがして、何度も確認する人も多いのです。
その不快な感じに思考が結び付くと、強迫観念になります。

運動タイプの定義はまだはっきりしていませんが、強迫観念も強迫感覚(違和感など)がなく無意味に同じ行為を繰り返す人も含めているようですから、運動性タイプ=過敏ということでもないはずです。
過敏性が強ければ、様々なことに強迫されて、違和感にとらわれますから、特定のことだけ気になってしまうとか、特定の行為だけ無意味に繰り返すとかなら、神経質的な心因性の症状とか、精神病的な繰り返し行為であることも考えられます。
強迫症の強迫行為とは全然ちがう症状ですが、そういう傾向がある人が強迫症になれば、強迫行為が悪化する可能性はあるので、まったくの無関係とも言い切れません。

注意したいことは、子供とかだと違和感を感じていても、感覚的なことは言葉にし難いので、うまく表現できません。
そうだとすると、本人が違和感を自覚していないように思えてしまいます。
本人が意識できないような些細な違和感などの対処として強迫行為をする人もいますから、自覚していなくても、過敏性がないとは限らず、違和感というのが何なのか分からない人もいるのです。

認知タイプの場合は、強迫観念の対処として強迫行為をしたり、頭の中だけで強迫行為をする人になりくすが、そういうタイプ分けだけでは、病状の区別ができません。

運動型にも認知型にも、強迫行為先行型と強迫観念先行型(運動タイプの場合、強迫感覚先行型)がいるので、それによって、どう治療するか、治せるか治せないか等の予後が全然違うのです。

運動性タイプも、「こうでないといけない」みたいなこだわりが強いことで、そうでない状態が違和感になってしまう人と、実際に違和感に弱いから、どうしても気になって、その苦痛をなくそうとする行為にこだわってしまう人は、タイプが違うのです。

認知タイプと運動性タイプに分けることにはあまり意味がなく、強迫感覚も強迫観念に含めて、強迫観念先行型と強迫行為先行型に分けたほうが合理的です。

「こうしなければならない」という考えを、強迫観念だと思っている人もいますが、何からの危害での不快な思いが強迫観念であり、それがあることで、「こうしなければならない」状態になりますが、それ自体は強迫観念ではありません。

「こうしなければ」「こうあるべき」という思い自体にとらわれて行為をする人が、強迫行為先行型ですが、強迫観念がないので、それをすることが無意味に思えます。
なぜか分からないけど、「こうしなければ」「こうあるべき」という状態になってしまう人も多いのです。

「こうしなければ」という思いの強い人は、意識してそうやって思わなくても、慢性的にそういう思いがあるのですが、強迫観念と違って、その思い自体はそれほど苦痛ではないので、「こうしなければ」という思いが強いことに気付けない人もいます。
こういう無意味なこだわりによる行為は、習慣化して癖になって、止め難くなります。

「こうしなければ」という思いが強いと、マイルールにとらわれやすくなり、例えば、コロナ対策で「消毒しなければ」となって消毒が習慣化すると、「消毒しなければ」という思いは否定されずに消えなくなりますから、「消毒しなければ」にとらわれたままになり、それが癖として、しようと意識しなくても、してしまう行為になり、止め難くなります。
こういうのは、過敏性の問題でもないし、強迫観念があるわけでもなく、「こうしなければ」という思いにとらわれていることが原因なのです。

「こうしなければ」と行為をすることで、それに反する状況で強迫観念のような思いが浮かびやすくなり、それにもとらわれることになりますが、自分で作り出す強迫観念ですから、過敏性の強迫観念のような強い苦痛はありません。

求めている行為を止める(我慢する)と不快な思いをしますが、それは強迫観念ではなく、「こうしなければ」という思いとその行為にこだわることで、「それができないこと」での不快感なのです。
依存症で見られる欲求の反動での不快感と同じです。

強迫行為先行の人は、多くの場合、過敏性の問題はなく、有能でストレスに強い人が多いので、こだわり行動をすることでの満足感(完全感)と、そのことへの実行力の強さが行為を過剰にします。

強迫性障害の人には、「してはいけないこと」の思いにとらわれる人もいます。

「してはいけないこと」が思い浮かぶことは誰にでもありますが、その思いが離れないことで、そうしてしまうのでは、という不安思考の強迫観念にもとらわれるのです。
そういうのは、自分からすることですから、自分からしない限り、絶対に起こらないことなのですが、その思いに従ってそうしてしまうのでは、という不安思考が離れないことで、自らしなければ防げることなのに、そう思えてしまうわけです。
あるいは、そうしてしまう心配はないが、そう思えて、その思いが消えなくなってしまうことが苦痛なのです。

してはいけないことを、してしまうかもという不安が浮かびやすいのは、そうしてしまうことで自分が害を受けるのが怖い場合と、自分の行動を抑制できない不安がある場合の二タイプあります。
後者は、「こうであるべき」「こうでありたい」という欲求によって、しなければならない行為自体にとりつかれるタイプ(強迫行為先行型)に多くなります。
普段から、自分の思いにとらわれて行動してしまうので、してはいけないことを、思っていることで、それをしてしまうかもという不安が浮かびやすいのです。

そのタイプで、してはいけないことが思い浮かぶ場合は、例えば完璧主義とか生真面目な性格で、悪いことをするべきでないという思いが強過ぎて、逆にそういう思いが浮かんで、そうしてしまうような恐怖の強さから、そういう思いが強まってしまいます。
「そういう考え方をしていることで、不安になって強迫観念が浮かんでしまう」のです。

こだわりや欲求自体にとらわれていることの反動での強迫観念ですが、本人はそういう欲求があるとは思っていない人も多く、なんだか分からないけど、なぜかこだわって行動をしないといけなくなってしまうのです。
その行為を抑えたり、コントロールできない状態になりやすいので、自分の意に反して、してはいけない行為をしてしまうような不安が強まり、「実際にそうしてしまうかも」という思考が浮かぶようになります。

過敏性の強迫症(強迫観念先行型)は、自分を守るために強迫行為をしますから、「してしまうかも」という不安が浮かぶとしたら、そうすることで、自分が危害を受ける場合になります。
自分がすることではなく、されること(危害を受けること)への恐怖が強まりやすく、危害を受けることで、防御的にそうしてしまうかもという不安が強まることはありますが、自分からしないと起こらないことなら、人からされることではなく、自分次第ですから、恐怖になりません。
してはいけないことが思い浮かんでも、悪いことをしてはいけないとか、そうするべきでないという思いの反動ではないので、それ程抵抗がなく恐怖にもなりません。
自分からしなければ防げることで、それが嫌なことなら実際にするわけがないのです。

普段から欲求的な思いで行為にとらわれるわけではないため、欲求的な「してはいけない」思いが頻繁に浮かぶ場合も、そうしてしまう可能性が低いことが分かるので、それを「してしまうかも」という不安にはなりません。

「してはいけない」ことが思い浮かぶことは、どちらのタイプにもありますが、それを、してしまうかもという強迫観念に縛られるのは、強迫行為先行型に多いわけです。

強迫観念先行の人は、普段から行為自体にとらわれるわけではないので、自分がしなければそうならないことなら、それを実行している思いが浮かんでも、実際に実行してしまうようには思えないのです。
現実反応の強迫観念にはとらわれますが、非現実的な思いであれば、現実行動の強迫行為では対処できないので、強迫行為が起こりません。
その非現実の思いが嫌なら、頭の中で消そうとしたり、欲求的な思いであれば、頭の中だけでそれをするとかになりますが、ストレスに弱いので、そうすることにもストレスを感じて、妄想的な思いなら雑念のように放置するとかになります。

過敏性の強迫の場合は、どうこうと思考をするから、不安が起こるのではなく、どうこうという思考に関わらずに、ストレス反応で不安が起こり、その不安が消えないことで、強迫観念も浮かんで消えなくなります。
自分の思考で引き起こす強迫観念ではないので、自分の思考ではコントロールできませんし、考え方の問題ではないので、考えを変えようとしても、実際に刺激のあることへのストレス反応は変えられません。

実際に刺激のあることへのストレス反応がなくせるなら、全ての人から苦痛をなくせます。
苦痛を受けなくなれば、恐怖や不安もなくなり、危険回避もしなくなりますが、その状態こそが危険なので、生物は実際の危害に対する不快な思いを無くせません。

ストレスに強い人なら、危害は少なくなりますから、それによる不快な思いも少ないし、そういう思いに強迫されることもありません。
敏感な人は、ストレスが多い分、苦痛によって不快な思いも浮かびやすく、その思いへのストレス耐性もないので、強迫観念になります。

強迫行為先行型のように、求めていることとか、こだわっていることがあって、それ自体にとらわれて、そうしなければならないなら、本当は強迫症と言うよりも、依存症的な症状です。
それが得られないことで不快な思いが強まっても、強迫症的な強迫観念(危害への反射的な思考)ではありません。

この前、躁状態と強迫状態は真逆であることを書きましたが、強迫行為先行型は、強迫観念とか過敏性の症状ではないので、もし躁状態になれば、完璧主義などのこだわる傾向が強まって、行為依存を悪化させることはあります。
これは強迫行為に見えて、強迫行為ではなく、安心できる行為への依存症です。
躁状態は依存症を悪化させますから、強迫行為での安心依存も悪化させます。

本来の強迫症的な強迫状態の人は、強迫行為での安心依存症ではないので、強迫行為を求めているから、それが得られないことで強迫観念が浮かぶのではありません。
過敏性で、恐怖やストレスを感じやすく、実際の危害の対処や回避として、しなければならない行為が過剰になります。

元々は強迫観念先行でも、強迫観念が軽くストレスにも強いタイプは、強迫行為先行型になりやすい傾向があります。
強迫行為をしなければならないといっても、それ自ら求めることで、しなければならない苦痛を減らせるし、予防的に強迫観念を抑えられます。
ただし、そうすることで、そうしなければならないという思い自体に強迫されることになります。
ストレスに強い人はそうなりますが、過敏でストレスに弱いと強迫行為が苦痛過ぎてそうならないのです。
ある程度は過敏性の問題があっても、ストレスに強い人ならば、混合型のようになりますが、通常、過敏性の強い人は、ストレスにも弱いので、強迫行為先行型になり難いのです。

強迫観念先行型は、強迫観念が先にあって、その解消として行為をするタイプです。
認知行動療法では勘違いしていますが、強迫行為ができないことでの不快な思いなのではありません。
強迫行為以前の何らかの危害に対する強迫観念なのです。

強迫観念にも不安、恐怖、嫌悪などといろいろあり、不安型の強迫観念だけの場合は、比較的軽症なのですが、恐怖や嫌悪型の強迫観念が浮かぶ人は、そのことで不安や心配も多くなり、不安型の強迫観念も浮かびやすくなりますから、症状も複雑で重くなります。

軽い強迫観念は、強迫観念とは言いませんが、それであれば、不安症でも恐怖症でも神経質にも見られます。
不安だから不安思考が浮かび、それが消えなくなってしまうなら、不安症的な強迫観念ですが、神経質者の場合は、不安だから思考してしまうというよりは、不安になってしまうことを思考してしまうから、不安になっているのです。
自分の思考で引き起こす強迫観念です。

こういう本人の頭の中だけの思い込みの不安は、敏感であるから、それにとらわれてしまうのではなく、思い込みが強いから、それにとらわれてしまうのです。
この場合、本人もその不安な思いを、あり得ないとか、不合理でバカバカしく思えるし、バカバカしい思いだからこそ、その思いで不安になって、強迫行為をするのが無意味なことに思えます。
一般的な説明に出てくる強迫観念は、そのような、本人の頭の中だけの思い込みによる不安思考のことなのです。
現実反応の思考だとしても、現実との結びつきが弱く、妄想(非現実の思考)に近い状態ですが、現実のことの思いではあるし、本人が不合理でバカバカしく思えるなら、妄想ではないということになります。

強迫性障害が重症なら抗精神病薬を使うという考えは間違いで、強迫観念は現実の危害へのストレス反応なのです。
過敏性の問題ですから、些細なことが多くなりますが、現実のことだからこそ、些細なことなのです。

妄想の人が現実の些細なことを気にして、それが妄想化するなんてことはあり得ません。
妄想は、最初から最後まで現実に対する思いではありません。

過敏性の強迫観念ではなく、神経質のように、自分の思考で引き起こす強迫観念とか、思い込みでの不安のほうが、現実との結びつきが弱く、妄想に近くなってしまうので、こういうタイプであれば、抗精神病薬は効くのです。
現実ではなく、考え方の問題ですから、考えを鈍らせれば良いのです。

本人の頭の中だけの思い込みの不安思考であれば、妄想ではなくても、実際には現実に問題がないので、抗精神病薬で思考を鎮静させれば良いということなのです。
本人が非現実だと思っているが、その思いにとらわれるという妄想状態もありますから、それに近い強迫観念であれば、抗精神病薬が効きやすいのです。
妄想も神経質の不安思考は違うものですが、どちらも同じ考え過ぎを抑えられれば良いので、思考を鎮静させれば良いのです。
妄想の場合は現実は関係ないので、現実が意識できるレベルの鎮静で良いのですが、神経質は現実とある程度は繋がっているので、思考を鈍らせるだけでなく、考え方の修正もしないといけません。

ようするに、不安思考でも妄想でも何であっても現実との結びつきが弱いほど、その思考は抗精神病薬が有効なのです。

汚染恐怖などでも見えないことが見えてしまうとも言えますが、幻覚妄想ではありませんし、思い込みでもありません。

妄想との決定的な違いは、強迫観念は現実とか実際の危害に対する思考(現実の思い)で、妄想は現実とか実際のこととは無関係の非現実思考だということです。

強迫観念も妄想も自分で考えるわけではないのですが、妄想は頭の病気で思い浮かぶと考えらていて、
強迫観念の場合、危害に対する生理的な反応として、自分の意に関わらず浮かんでしまいます。

何か危害があれば、そのことでの恐怖、嫌悪、不安などが起こりますから、そういう思いも思い浮かんでしまうのです。
それ自体は普通のことですが、器質的な過敏性により、一般の人が危害にならないことが危害になってしまい、それによる苦痛も消え難くなります。
あるいは不安になりやすいことで、そういう思いが浮かびやすくなり、消え難くもなります。

過敏性の思考は、妄想ではないので、一般離れすることはあっても、現実離れすることはありません。

強迫性障害だと、不快な思いが消えなくなってしまうのですが、妄想が消えないことは、まったく別のことで、強迫観念が現実から切り離されることはありません。

強迫観念が一般離れしていたり、症状での生活への障害度が重い人は、精神病様の強迫症という場合はありますが、それでも強迫観念は妄想にはならないし、強迫状態と妄想状態は逆ですから、精神病状態の強迫症というのは実際にはないのです。

妄想の中には現実はなく、妄想しかありません。現実に無関係の思いに惑わされているだけです。

強迫観念は、現実反応(現実に対する思いとか、現実のことで思い浮かぶ)思考ですから、強迫観念の中には現実があります。

コロナが不安で、実際には付着しているか分からなくても、「付着しているかも」または「付着している」と思って、手などを頻繁に消毒する行為は、当然、現実反応であり、妄想ではありません。

付着してるとは限らないのに、付着していると思うことが妄想なのではなく、現実のストレス対象への思い(現実反応の思考)なのですから、確信的であっても妄想ではないのです。

「付着しているかも」「付着している」という思いとか考え、イメージが強迫観念化すると、なかなか消えなくなりますから、頻繁に消毒する行為も過度になりますが、現実のことへの不安が強まっているだけで、妄想状態ではないのです。

妄想の場合、現実への思いではなく、頭の中だけの非現実世界にとらわれている状態です。

強迫観念は対象が現実にあり、妄想は対象が妄想(妄想化した現実)の中にしかありません。

強迫症では、一見、妄想的に思える強迫観念もありますが、現実に反応してそういう思いが浮かんでしまうだけで、妄想のように現実に無関係の反応ではないのです。

例えば、情報汚染の強迫症状のように、不快な文字や汚い写真を見ると汚されるという場合も、それを見て嫌悪感が消えなくなってしまうことだけでなく、汚れの思い、イメージが強迫観念として浮かんで、それが離れなくなってしまうから汚れるのです。
過敏であるから、普通の人よりも汚れることが増えるだけで、その思いの対象は、あくまで「現実のこと」ですから、妄想ではありません。
ストレス反応での強迫的な思いにとらわれてしまう病気と、妄想にとらわれる病気は、まったく違う状態です。

不快な貼り紙やテレビ番組などで汚される場合も、現実の情報(貼り紙やテレビなど)によって、嫌悪感が起こり、その情報が汚れのように付着するイメージが浮かび、その嫌悪感やイメージが離れなくなってしまうのが強迫性障害なのですから、一般的ではなくても、強迫症状としては普通のことです。

むしろ、そういった普通は汚れないことで汚れたりしないなら、強迫性障害としてはごく軽症であり、その範囲なら、不安症に近い強迫症状なので、治せる可能性はあります。

治せるか治せないかというのは、どの程度、ストレス対象を我慢ができるかにもよりますが、我慢できるのであれば、強迫性障害というほどの強迫観念がない人なのです。

軽い不安や恐怖とか、欲求的なこだわりとかなら我慢しやすくても、実際にダメージの強いことほど、我慢がし難く、特に汚染恐怖のような生理的嫌悪は、敏感でストレス耐性の低い人には、耐え難いわけです。

過敏性の強迫観念は、現実反応の実際の危害に対する恐怖とか嫌悪の思いですから、非現実的な不安思考ではないので、抗精神病薬は効きません。
前に書いたように、この場合は現実が意識できないレベルにしないと、強迫観念も消えません。

強迫行為先行型は、強迫行為を求める病気なので、それを止められるようになれば、強迫観念も静まります。

神経質とかの考え方の問題での不安(想像上の危害)での強迫行為なら、それを止めても実際には害はありません。

過敏性の強迫の場合、強迫行為を止めると、過敏性での実際の苦痛が続いてしまいます。
強迫行為をする前に実際の危害があるので、強迫行為をしなくても大丈夫という説得が通じません。
無理に止めれば、危害のダメージで精神的に傷だらけになり、症状も悪化します。

過敏性が強くても、強迫行為をすることで、ストレスを対処して、なんとか生きていけるので、このタイプは、過敏性が続く限り、強迫行為もなくなりません。

治療薬もあっても麻薬類になり使えませんから、症状があるままなんとか生きられる道を探すことになります。


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