強迫性障害の全貌

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強迫性障害でも芸能人になれるか?/強迫観念の汚れは現実と精神を区別しない/強迫行為とポジティヴな心掛けの違いは?

わがままな言動は、人に迷惑をかけることがありますが、自閉症統合失調症だと、そういうことに気付けなかったり、人がどう思おうと無関心だったりしますから、自分の症状を隠そうとしないことで、周囲に対して平気でわがままを言うことがあります。
症状でそうなってしまうのですが、そういう病気でなくても、自己中心的で周囲に対して鈍感な人は、そういう傾向が強くなります。

HSP/HSCや強迫性障害の人は、周囲に対して敏感であるからこそ、人に迷惑がかからないようにと、気質や症状によって周囲と違和感が強くても、あまりわがままにならずに、本人の側が我慢をすることが多くなります。
無理して周囲に合わせるか、何か対策などを考えたりしますが、我慢することでストレスが強まりますから、どうしてもできないことは、回避をします。
強引に我を通せるほど神経が太くないこともあり、わがままにすることでの人との衝突のストレスや、それ以前に周囲の人のネガティヴな反応などの刺激にも耐えられないので、そういうことが起こらないようにと、調和的な行動を取ろうとします。
しかし、何かすれば、強迫観念や何らかのストレス対象に邪魔されて、強迫症状が強まりますから、良いこともし難くなり、できることが限られてしまいます。
気質や症状によって周囲の人と感じ方や考え方が違うので、みんなが平気でできることができなかったり、みんなと同じようにはできないことが多いのです。
強迫性障害の人は違和感に非常に弱く、症状による人との違いで、変に思われることが恥ずかしくて、そのギャップを隠そうとしますが、それが本人にとってはストレスの強いことで、症状が悪化したり、うつになったりします。

強迫観念として、「こうなってしまうかも」という未来の不安が浮かぶ人は多いのですが、それがほとんどありえない事ならば、そういう強迫観念とは別の普通の思考として、「そうでないかもしれない」などと思うことになります。

だからこそ、強迫症の人は、強迫観念を不合理だと思っているという説明が多いのですが、強迫観念に対してそういう面もあると言うだけで、強迫観念そのものは、「こうなってしまうかも」という不安なのですから、それが離れなければ、「そうでないかもしれない」などと思えたとしても、強迫観念によって、「こうなってしまうかも」と、どうしてもそう思えてしまいますから、不安や苦痛も続いてしまいます。

強迫観念を不合理だと思っているという説明が多いのは、妄想だと「そうでないかもしれない」などと思わないので、それとの区別と考えられますが、現実に体験しているストレスでも強迫観念は浮かびます。
「汚れたかもしれない」ではなく、「汚された」という思いとか汚染のイメージのように、現実のこととして確信している強迫観念もありますが、「かもしれない」ではないからと言って、それが妄想というわけではありません。

その場合の不合理感は前回書いたように、「そうでないかもしれない」などと思うことではなく、普通の考えや普通のレベルが分かっていることでの、不合理感や過剰感ですから、それがあるということは、統合失調していないわけで、妄想様の強迫観念であっても、統合失調症での妄想とはまったく違うのです。

強迫観念に対して「そんなの気にするな」と思えても、強迫観念が離れなくなってしまう障害なのですから、強迫観念が離れないことで、どうしても気になってしまうし、「ありえないのに」と思えたとしても、強迫観念がある限り、ありえるように思えてしまう。
それは、不安などの苦痛を強めますから、その強迫観念が現実の何かに対する思いであれば、そのストレスの対処として、現実行動の強迫行為をしないといけなくなります。

強迫観念や強迫行為は、常に普通の思考との対立があり、その葛藤も強迫症での苦しみなのです。

統合失調の場合、妄想や幻覚などの間違った非現実側に普通の思考が統合してしまっているので、正常な考えができなくなります。
それは、周りから見れば、支離滅裂で統合失調しているように見えますが、ある意味、本人的にはまとまっているので、妄想や幻覚と普通の思考との葛藤の苦しみがありません。

強迫観念は現実反応ですから、非現実に没頭することで、強迫観念の苦痛から逃れられます。
統合失調症や解離、自閉などの現実逃避的な症状は、強迫症には治療的ですが、そういう症状が出ないからこそ、強迫性障害なので、長年強迫症の人なら、そういう病気にはなりません。
意識的に現実逃避しようにも、現実のストレスから離れられずに、強迫観念も浮かびやすいままになります。

妄想や幻覚には苦痛があるとは限りませんが、あったとしても架空世界の苦痛であり、その苦痛は薬で消せます。

強迫観念には必ず不快感があり苦痛が結び付いていて、幸せな強迫観念というのはありません。
そして、強迫観念は現実の何かに反応して浮かびますから、薬で現実は変えられないので、薬で強迫観念は治せずに、強迫行為をするしか対処方法がありません。

強迫症は自然と治っていくのではなく、敏感でストレス耐性が低いことで、その症状を止めることができませんので、反復性により、自然と悪化して行きます。

一時的なストレスで過敏になって、一時的に強迫症になっている人なら、治せる可能性もありますが、長い期間症状が続いている人は、特に治しにくい病気です。

器質的な過敏性によるストレス反応の強さと、妄想によるストレス反応の強さは別のことで、妄想反応での大げさな反応は、架空の過敏ですから、妄想を治すことで、過敏も治せます。

強迫症の過敏は器質的な原因であり、過敏性によるストレス反応の強さで、強迫観念も強まり、ストレス耐性の低さから、その強迫観念がダメージとして長く残り、なかなか消えなくなります。

それを対処しようと仕方なく強迫行為をしますが、それも苦痛なのです。
そういう一連の強迫症状による苦痛(現実のストレス、強迫観念のストレス、強迫行為のストレス)は、過敏性が強く、ストレス耐性の低い人であると、うまく処理できません。
そういったストレス(刺激や情報など)が神経や精神に残り続けてしまうからです。
だからこそ、強迫性障害と言う病気があります。

強迫性障害から、過敏性の問題を切り離すと、強迫性障害という病気の範囲に、本当の強迫症患者が含まれなくなります。
強迫性障害ではない人(パーソナリティ障害や不安障害、統合失調症の人など)や軽症患者の範囲だけで、治せると言っても、それは強迫性障害の治療とはいえません。

器質的な神経過敏は、心理療法認知行動療法では治せませんから、器質的な神経過敏によって生じている強迫観念も治せません。

認知行動療法では、汚染のように、今現実に起こっているストレス反応での強迫観念も、強迫行為をしなければ、自然と消えることになっていますが、苦痛から逃げると、苦痛が強まるという考えは、過敏性の強迫性障害には当てはまりません。

過敏性が強く、普通の人がストレスを感じないことで、強いストレスを感じて、過敏であることで、そのストレスをうまく対処できなくて、その反応としての強迫観念も浮かび続けてしまうのです。
強迫観念と苦痛は一体であり、それへの対処として強迫行為をするので、強迫行為をしないようにしても、強迫観念の苦痛は消えません。

認知行動療法は、強迫行為を止めて、ストレス対象の曝露に慣れれば平気になれる、という依存症の治療に似た考えです。
止められない行動が欲求的なことである場合は、それができないことで苦痛が生じるので、欲求的行為を求めなくなれば、苦痛もなくなります。

しかし、強迫性障害の強迫行為は、何らかのストレスへの拒絶反応的な行動ですから、強迫行為を止めても、強迫行為を起こさせるストレス対象が消えないのです。
それを我慢して慣れさせようとしても、ストレスへの感受性が強いので、強迫観念が浮かぶのですから、強迫性障害であれば、そのストレスに耐えられるほどのストレス耐性がありません。
強迫性障害向けとされている認知行動療法は、過敏性を無視した、まったく無茶な理論なのです。

無理にでも我慢してやったほうが本人のためとか言っている人がいますが、そういう人の言っている強迫症は、性格的な考え方の歪みが問題での強迫症のことですから、それはごく一部の人に過ぎません。
そういう人は、そういうのが全ての強迫性障害だと誤解しているか、ビジネスとしての認知行動療法を普及しようと、強迫性障害をわざと誤解して宣伝しています。
認知行動療法で治せる範囲の強迫症しか語れなくなってしまうのです。

敏感でストレス耐性が低いために、様々なストレスで強迫状態になりやすいのが、本来の強迫症で、そういうタイプの人に曝露反応妨害をすれば、余計に症状は悪化します。
ただ、それ以前に、そういう療法には取り組めませんから、そういう話が少ないだけです。
治りましたと言う症例は、取り組めるレベルの人達なので、軽症とか不安障害レベルの範囲の話しであり、本当に強迫性障害なら、曝露反応妨害のストレスに耐えられないので、それで治せるわけがありません。

ストレスに反応して、強迫観念が浮かび、その強迫観念が離れない状態も大変なストレスになります。

強迫症の人は、元々から現実や強迫観念によるストレスに晒され続けていて、それに慣れるどころか、曝露の連続で、逆に強迫観念の反復性が強まり、強迫症状が強固になってしまうのです。

強迫観念は現実の反応ですから、強迫観念が離れないと言うことは、現実の苦痛も続くことになります。
意識的に空想したりして、現実逃避しようとしても、強迫観念が離れませんので、空想に没頭できず、その空想が強迫観念で病んだ内容になり、妄想様強迫観念になります。
妄想のように風変わりで異常な強迫観念になりますが、現実との結び付きが強く、統合失調症での妄想や幻覚とは違い、薬が効きません。

以前に書きましたが、強迫症であると、狂気的な思考が内面には浮かびやすくなりますが、それは表面化されません。
ネガティヴな気持ちや感情の刺激に弱く、そういう思いが表面化できずに、社会や他人に対するそういう思いも、内側に向かって、自分自身を傷付け、思考が病みます。

非現実的(実際にはありえない事)だけど、さほど不快ではないなら、強迫性は低く、心に頻繁に浮かんでも単に雑念的な思いとして、それほど気に止まらずに、自然と消えていきます。
非現実的(実際にはありえない事)だけど、不快な内容なら、強迫性も強く、それが頭から離れないことは苦痛ですから、頭の中だけでの強迫行為をすることになります。

強迫症の人は、そのような頭の中だけでの強迫行為も頻繁に行っているのですが、それだけでは解消できない強迫観念も多いからこそ、現実行動の強迫行為をすることになります。

強迫観念は何分か放置すれば、自然と消えるという考えは間違いです。

何分か放置すれば消えるなら、強迫症の人は、みんな最初からそうします。

嫌な思いには、なんであれ少なからず強迫性がありますが、自然と消えるなら強迫性は低く、それは普通の不安思考や雑念などのことです。

不安な思いであれば、その強迫性が強いと強迫観念になり、強迫性が強ければ、苦痛も強く、放置することができません。
それを放置できるようなストレス耐性の強さがあれば、そもそも強迫症にはなりません。

放置ができなかったり、放置しても自然と消えないのであれば、それが強迫症的な本当の強迫観念なのです。

トラウマ記憶の想起と同じように、強迫観念そのものが苦痛で、それがなかなか消えなければ、気にしないわけにはいきませし、実際に苦痛なのですから放置もできません。

例えば、映画などのバイオレンスなシーンが苦手な人が、その場面だけを無理やり何度も長々と見せつけられたら、慣れて平気になれるでしょうか?
その映画を見終わった後に、その苦手なシーンが強迫的に頭の中に浮かび続ければ、それが実際のことではなくてもその人は苦痛なのです。

強迫症であると、記憶であれ思いであれ考えであれ、そういう考えたくも思い浮かべたくもないことが、なかなか頭の中から消え難くなっているのです。
トラウマと同じで、苦痛だからこそ忘れられずに、繰り返し思い浮かんでしまうのです。
強迫症的な強迫観念の場合、それは現実の何かへの不安や恐怖や嫌悪なので、そうならないようにと確認などの強迫行為をすることもあれば、その思い自体が苦痛で、不安を消すために強迫行為をすることもあるし、汚染などのように、実際のストレス対処として、強迫行為をすることもあります。

強迫観念は、何らかのきっかけ(ストレス対象の曝露)で強まったり、強迫行為で弱まったりしながら、慢性的に続きます。
強迫観念はもちろんのこと、その反射で起こる強迫行為もめんどうで苦痛ですから、強迫症の人の現実のストレス対象は、強迫症状を引き起こす(強迫観念を強めたり、強迫行為をしないといけなくなってしまう)物事になります。

強迫症の人にとっては、不安にさせることが、実際には起こってないことであろうと、ほとんど起こらないことであろうと、強迫観念や強迫行為の苦痛も実害ですから、強迫症状自体を引き起こす物事に対してストレスを感じて、それを避けようとします。

ただし、汚染のように頻繁に起こりえることとか、実際に起こっている問題の対処として、強迫行為をすることもありますから、強迫行為は直接的には実際の問題の解消にはならないと言う説明は不適切です。

強迫観念というのは基本的には嫌な思いなのですが、嫌な思いは誰にだってあります。
ですが、普通の人は、慢性的にそれが消えなくなったりはしないので、強迫観念にはならないのです。

強迫観念は、ほっといても消えないからこそ、強迫行為をしないといけなくなって強迫症状が出るのですから、何もせずに何分か待ってれば消えるようなら、そういう不安思考では強迫症にはなりません。
そういう不安思考に近い普通の人の強迫観念が治せるのは当たり前ですが、それは強迫症の治療ではありません。

例えば、手に泥汚れが付いて、何もせずに放置していれば、自然と洗浄されるでしょうか?
その手で、何かを触れば、他のきれいな物も汚れてしまいますから、汚れたら実際に洗浄するしかありません。
そちろん手とか他の物が汚れようと気にならない人は、洗わなくて済みますが、強迫症であると、過敏で違和感自体に弱いので、小さな汚れとか、直接は見えないような汚れも気になってしまうのです。

そして、強迫観念には、なかなか離れない付着性がありますから、強迫症の人はほとんどみんな強迫観念の汚染恐怖になっています。
様々な強迫行為がありますが、強迫観念を洗浄しようとすることは、みな同じです。

何が不安で何が恐怖で、どの程度それが苦痛なのか、それは感受性などによって、人それぞれですが、強迫症の人は敏感でストレス耐性が低いので、不安や恐怖を感じることが多く、それを神経や脳がうまく処理できずに、強迫観念や強迫感覚として長々と残ってしまいます。

強迫症状は身近な日常のことで起こりますが、普通の人はその範囲では平気なことが多くても、過敏性が強いことで、その安全な範囲でも危険が多くなってしまうのです。
「汚れ」への嫌悪というのは、一種の違和感なのですが、具体性がありますから、何が汚れでどの程度の嫌悪や苦痛があるかは、人それぞれです。

汚れに苦痛を感じるのは、その汚れ自体の不快感だけではなく、その汚れの元となっている物事に嫌悪や恐怖がある場合が多いはずです。
ですから、汚されることの不安や、嫌悪や屈辱感も強くなり、人によっては、その汚れによって、病気になったり、汚れの対象と縁ができてしまうのではとか、そういった不幸ごとへの恐怖にも繋がっています。
汚染恐怖と言うのも強迫的な関連付き(嫌なことと良いことが関連付いてしまう)恐怖なのです。

不道徳なこととか、残酷なこととか、グロテスクな物事とか、そういう不快な刺激を感じることが苦手な人はいますが、それに汚い感じが結び付くと、強迫症の場合、関連強迫によって、その感じが離れなくなってしまいます。
そうすると、その不快な物事への同化恐怖(そうなってしまうのではとかの恐怖)が強まり、それが強迫観念として離れなくなれば苦痛なので、洗浄して無関係にしようとするのです。

そういう症状があるので、避けるべきこととして、考えたくも思い出したくもない嫌なことが常に思い浮かんでしまうのですが、それは実際に本人にとっては危害のあることなので、気にしないことはできないのです。

感受性の強さによって、そういう苦手なことの記憶や思いなどが強迫観念になり、強迫観念の付着性で、そういった物事でも汚染されるようになります。

グロテスクな物が苦手な人は多いし、テレビや新聞の不快な(不幸事の)ニュースなどが見れない人もいることはいるかもしれませんし、PTSDであれば、症状としてそういったことを避ける人はいます。
強迫性障害の情報汚染や精神的汚染の症状がある人だと、そういったことに汚されて、汚された物を捨てたり、洗えるものなら長時間洗浄しないといけなくなります。
だからこそ、テレビ、新聞、雑誌、会話などに拒絶反応が出るようになり、そういう情報に晒されやすい場所(コンビニ、本屋、休憩室、病院の待合室など)に入ることも困難になります。
そして、テレビ局や新聞社、出版社などの近くにも行けなくなり、そういった汚い場所に出入りする人とも接触できません。

なので、汚染恐怖の強い人だと、マスコミに関われませんし、本の出版なども困難です。
芸能人に潔癖症の人は多くいますが、強迫症だと芸能界を汚く感じるので、芸能人にはなりにくい病気です。
もし芸能人が重度の強迫症(情報汚染恐怖)になってしまったら、芸能界にはいられません。
いるとしたら、やはり、一般的な意味での潔癖症か、一般的な説明に出てくる軽度強迫症の範囲か、(病気ではない)完璧主義による強迫傾向のある人でしょう。

精神障害レベルの強迫性障害だと、日常生活だけで精一杯な人が多いので、日常生活のめんどうを誰かにやってもらえればいいのですが、汚染恐怖があると、そういう手伝いで汚されてしまうので、何でも自分一人でやることになり、日常生活以上のことに取り組むのが困難になります。
芸能人に限らず、社会的活躍が難しい病気です。

強迫症の場合、汚れのイメージが(強迫観念として)何かに付着すれば、それがなかなか離れなくなりますが、強迫観念は、現実反応なので、それはイメージであっても、妄想ではなく現実の何かの汚れです。
感覚と強迫観念による、間接的、または、直接的な接触があっての汚染です。
現実と精神の区別はあっても、強迫観念は、現実と精神が同化しています。
イメージだとしても現実との結び付きがあるので、妄想ではありませんが、精神的な汚れでも、物質的な汚れに等しくなります。

視覚的汚染+精神的汚染なのですが、強迫観念自体に、付着して離れない性質があるので、汚れが強迫観念化していれば、その汚れが付着して離れなくなり、強迫的に汚染されるのです。

例えば、不快なテレビ映像が自分に向かって映し出されれば、その映像が普通の一時記憶ではなく、強迫観念化して、強迫観念の付着性により、映し出された映像が自分から離れなくなり、そう思えてしまうと、その思い(強迫観念)が離れなくなりますから、物質的な汚れと同じように汚染されてしまうのです。

ただ、これはもちろん、それを汚れだと感じているから、それが強迫観念になってしまうのであり、汚れだと思わない人なら、映像を不快に思っても、そういう症状は出ません。

汚染恐怖の症状は、普通の人でもある程度は汚いと思う物事を、普通よりも過剰に汚いと思って、強迫症状が出るというだけなら、まだ一般に近い軽症範囲(不潔恐怖)であり、普通なら汚染されないことで汚染されて洗浄しないといけなくなってしまうのが、精神障害範囲の汚染恐怖なのです。

汚染の強迫観念があると、汚い物に近付いたり、そういう言葉聞いたり、そういう文字を見たりでも物質的な汚れと同じように汚れる人は多いのですが、それは、物質の光の反射とか、映像の光とか、音(言葉)による空気の振動とか、そういうレベルでも接触を感じてしまう過敏性があることと、強迫観念自体の付着性による症状です。

汚染恐怖の強迫観念は、時空間的に広範囲にあり、どこどこの汚染区域やどこどこの汚らわしい建物への恐怖があれば、いつまで経っても、そこからの汚れを頭の中で追跡して、汚染されないように警戒してしまいます。

その汚れの程度は、視覚ではなく、強迫観念の嫌悪感や付着感の程度によりますから、嫌悪感が強いほど、洗浄が長くなったり、汚染が取れないと思えれば、捨てることも多くなります。

汚れの考えイメージなどが強迫観念となって何かに付着すれば、それは汚染として認識され、その強迫観念が消えないからこそ、汚れも離れなくなりますが、その汚れも大抵の場合は、不幸なことへの恐怖と繋がっていて、不幸になってそれを対処できないことでの恐ろしさが汚染恐怖を強めるのです。

しかし、強迫症の人の場合は、ストレス耐性が低くて、実際にそうなればダメージが大きいので、妄想的な心配ではありません。
実際に、日常生活さえままならない症状があるのですから、大変な状況になれば、さらに生きるのが大変になり、そうならないようにと、自然と強迫症になってしまうのです。

強迫観念はネガティヴなので、強迫行為というポジティヴで中和、浄化したりするのですから、強迫行為は楽しい気持ちで積極的にできれば一番良いのですが、現実のストレスや強迫観念への拒絶反応的(生理反応的)な行為なので、そのように意識的で自発的なポジティヴ行動として強迫行為をすることができません。

ポジティヴ行動というのは、強迫観念を解消しようと仕方なくすることではなく、そういったことに関わらず、自由な意思で行うことです。

上に書いたように、強迫症の人は、何かをしようにも強迫症状に邪魔されますから、ポジティヴ思考やポジティヴ行動が難しくなります。

できなくてもそれを心がけることで、多少は強迫症状にも良い影響があるかもしれませんが、それも難しいのです。

ポジティヴ思考で行動すれば、何らかのストレス対象に曝露されやすくなり、反射的に強迫症状に邪魔されれば、ポジティヴの反動(落差)で、その時のダメージや落ち込みを大きく感じます。
強迫観念を持ったまま慎重に用心しながら行動したほうが、不安なことが起こり難いし、ダメージも減らせますから、ポジティヴ思考やポジティヴ行動が怖く感じてしまうのです。
ただ、慢性ネガティヴが続き、うつにも良くありません。

何らかのストレス対象に曝露された時に、ポジティヴ思考でポジティヴ行動を取れるようなら、そもそも強迫性障害にはならないので、強迫性障害である限り、そういう前向きな人生を送れません。

強迫性障害が治れば、それもできますが、強迫性障害であれば、ポジティヴ思考でポジティヴ行動をし難いので、ポジティヴ思考やポジティヴ行動で、強迫性障害を治すことはできません。

心理的な原因の病気なら、ポジティヴな心掛けが効きますが、強迫性障害は器質的な病気なので、ポジティヴな心掛けとかに関係なく、強迫症状は続いてしまいます。
むしろ、ポジティヴに生きることが怖くなってしまう病気なのですから、ポジティヴ思考やポジティヴ行動というのは、強迫性障害を治してから、できることなのです。

その逆は強迫性障害であれば、できません。
どんなダメージも受け入れる覚悟があればできますが、そういう人は強迫症にはなりません。

しかし、まったくできないことはないし、多少でもそうできるのであれば、強迫性障害を治すためではなく、それとは別の意味で、できる限りはしたほうが幸せが増えるはずです。

少なくとも、強迫性障害(強迫症状)だけの人生よりは、そうしたほうが充実します。

強迫性障害は治せませんから、強迫行為が増えるのは仕方ないので、症状で落ち込んでも、強迫行為を済ませたら、またポジティヴに物事に取り組めるようにすることを、できるだけ意識するのです。

当然、強迫性の抑うつ症状(神経に触れることを避けての不活発状態)のある人にも難しいことなので、無理なく休みながら、少しだけでもポジティヴになれることを増やす程度で良いのです。

何で幸せを感じるかは、人それぞれの面もありますが、強迫行為とは別で、自発的に心地良くなれることに素直に心開ければ、心の闇にも光が差すでしょう。

そうすれば、今までよりは安心して未来に向かいやすくなります。


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