強迫性障害の全貌

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今後の強迫症(強迫性障害)/HSP・HSCや過敏型強迫症の治療にはどう取り組めば良いか/過剰共感/神経科学で過敏性障害は解明できるか?/強迫症を治療する前に知っておきたいこと/トラウマや強迫観念が消えないのはなぜ?/強迫性障害は神経の障害/強迫性障害の新薬/全ての医療関係者、研究者、福祉関係者、および一般の方々へ/一部更新2020.11.5

強迫症(強迫性障害)の人は、神経レベルの過敏性によって、神経に刺激が残ってしまう強迫状態になり、神経や脳にストレスがどんどんため込まれてしまいます。
それで、神経に触れる刺激を避けてしまったり、その刺激の苦痛の増加を防いだり対処するという生理的な病気ですが、今のところ、神経の過敏性を治療するという考え自体がありません。

それ以前に、精神医学、心理学的には、神経が過敏なんていう考え方はないのです。
何かを気にするというのは、神経の過敏性がそうさせるのではなく、不安とかの心の問題でそうしてしまうと考えます。

敏感だから気にするのではなく、気にするから敏感になってしまう。

大したことでもないのに、ストレスに感じるような考え方をするから、ストレスになってしまう(ストレスは神経ではなく心の問題とする)。

過敏だから恐怖するのではなく、そんなに怖がらなくていいことなのに、怖いと思い込んでしまうから、過敏になってしまうという考えです。

神経が過敏という考えがないので、どうして、そんなことをそんなに嫌悪するか?思い込みではないか?不安が強いからでは?そうじゃなければ、妄想があるのでは?
と考えてしまいます。

神経の過敏性によって、不快な感じ(強迫感覚)や不快な思考(強迫観念)が神経と脳に残って消えなくなってしまうので、その対処の行為(強迫行為)も過剰になってしまうのですが、性格的なこだわりが強いのでは?完璧を求めているからでは?
と考えてしまいます。

強迫観念は過敏性思考なのですが、神経が敏感なのではなく、こう思っているから、こう考えているから、こういうとらえ方をするから、そういう心の持ちようの問題だとするのです。
基本的には心の分野の医学だからです。

心因性精神障害(神経症)・・・心の問題
内因性精神障害(精神病)・・・脳の問題
というのはあったのですが、

神経性精神障害・・・神経の問題(過敏性が引き起こす症状)
というのは、なかったのです。

精神病も神経は関係していますが、過敏性とは真逆になります。
内部的な過度の興奮や過鎮静による鈍感化症状ですから、現実への神経的な過敏性がなくなってしまうことで、現実離れしてしまうのです。
妄想幻覚の場合、それは架空の世界であり、現実は関係ありませんし、鈍感症状ですから、普通の人達が気にならないレベルの現実の些細なことを気にする妄想なんてありません。
妄想幻覚以外の精神病症状も現実の何かへの過敏な反応で起こるわけではありません。
周囲は関係ない症状なので、自己中心の世界です。
現実に対応できなくなったり、自分と他人との境界に壁ができて、他人のことを考えなくなったり、自分本位で考えます。
鈍感性により、現実との壁が厚いことで、周囲にうまくまじわれませんから、鎮静鈍感状態であると引き篭もり的になり、興奮鈍感状態であると、自我世界の妄想を周囲に無理やり、こじつけようとする人もいます。

過敏というのも脳の問題とも言えますが、感じることですから、神経そのものとか、神経を伝わった情報の処理(刺激情報の受け皿の機能障害)とかが関係していることは考えられます。
何かに反射したり反応するわけですから、周囲から様々な刺激を浴びせられることになります。
過敏性による思考の場合は、現実離れした思い込みの不安とか妄想とは真逆で、超現実であり、敏感なので、思考的には顕微鏡で見たような世界になります。
それは普通の人には分からないので、一般的ではなくなりますが、実際のことなのです。
強迫感覚や強迫観念が内部に残り続ける、思考や感情などの内部的な刺激への過敏性、これは周囲が関係ないという意味では、精神病的ではあるのですが、基本的には外界の不快な何かが取り込まれた状態ですから、これも完全な内部だけの症状ではないのです。
過敏性の問題でそうなってしまい、そのストレスの対処として、強迫行為をしないといけなくなります。
前回書いた、共感性による思考も、現実の何かに対する過敏な神経反応が浮かばせる思考ですから、頭でどう考えようと、神経的(肉体的)には、実際のことなのです。
共感性によって、自分と他人との境界があいまいになったり、他人のこととか、関係ないことでも、自分のことのように思えてしまいます。
そう考えているのではなく、敏感な神経反応がそう思わせるのです。
過敏性によって、共感強迫→同化恐怖、感化恐怖→悪いことと良いことが結び付いてしまう(関連付き恐怖、連想恐怖)、良いことが悪いことに蝕まれる(安全をおびやかされる恐怖)、良いことが悪いことに染まってしまう(汚染嫌悪、感染恐怖、不潔恐怖)、こういう危害への恐怖、嫌悪、不安などが基本的な強迫観念となって、強迫行為で防いだり、危害による苦痛を対処することになります。

興奮性の病気はアップダウンしますが、過敏性の病気は継続的、慢性的に同じ状態が続きますから、強迫症状には波がありません。
精神的な原因での過敏性ではなく、神経自体が敏感な人は、どうしようと鈍感になれないのです。
この過敏性が強迫性を強めます。

強迫観念は何らかの危害での刺激によって、生理反応的に浮かび、それは神経と脳に残り続けて、また些細な刺激(外部の何かとか、内部の不快な思考や感情や記憶などの刺激)で強く浮かんでしまいますから、神経に触れること(強迫観念を煽ること)を避けてしまいます。
ですから、不快な内部刺激の起こりやすい、うつ病や全般性不安症、PTSDなどの精神障害の人は、脳内部の刺激によって強迫観念が浮かびやすくなります。
強迫症自体は神経の問題なので、精神的には病んでない人もいますが、大抵の強迫症患者は神経の過敏性の問題だけでなく、それらの精神障害を併存しています。
免疫力の低下した人が病気になりやすいように、敏感な人は、精神的な刺激にも弱いので、精神障害にもなりやすいのです。
不安型の人は主に内部の刺激で強迫観念が浮かびますが、過敏型の人は現実の刺激でも強迫観念が浮かびます。
強迫症状が出てしまうと苦痛が強いので、普通の人には些細なことでも、そうさせる対象(外部の刺激)が患者にとっては実際に危害なのです。

関連リンク
共感強迫/情報恐怖・情報汚染/ストレスは心が作るのではなく神経が感じること/ストレスがHSP・HSCやAD/HDを強迫症(強迫性障害)や鬱病にする
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/10/10/173350

過敏性による思考が不快な内容であれば、その刺激性が神経に残ってしまうことで、強迫観念として、なかなか消えなくなり、程度によっては、生涯消えません。
神経に不快感が残ってしまうので、その記憶もあり続けます。
これはトラウマ記憶が残ってしまうことと同じで、敏感な人はトラウマも消えなくなります。

そういう過敏性に強迫される病気が強迫性障害ですが、今まで過敏性は関係ないとしてきたことで、過敏性のない強迫症患者も多く含まれています。
むしろ、過敏型の強迫症患者は、強迫性ディスタンスによって、病院に行く、治療を受けることさえ困難なので、表面的な患者としては少ないタイプですが、なんとか通院していてもまったく治らない人には、過敏性の強いタイプが多いのです。
過敏型は今使えるような精神の薬は全て効きません。
併存疾患にはある程度は効くことがあり、強迫観念が想像上の不安思考だけの人は、軽症化したように感じられる人もいますが、過敏性の生理的恐怖や嫌悪には効きませんし、元々から軽症でない限りは、長期療養しても、すでに神経と脳に刻み込まれている強迫感覚、強迫観念、トラウマ記憶は消せませんから、強迫症状自体はどうしても続いてしまいます。神経の病みが回復しないので、心の病みも晴れません。

過敏型であると、待合室のテレビでの情報とか、そういう刺激でも苦痛に思えたり、トラウマを想起してしまう文字とか、新聞雑誌の記事やテレビ番組に汚されたりする人もいます。
うつ病の人は楽しめなかったり、世間への関心がなくなって、新聞、テレビなどを見なくなりますが、そういうレベルではなく、テレビ、新聞、雑誌などで強迫観念が煽られて、症状が悪化したり、汚されたり、トラウマになったりしますから、情報を無理やり見せ付けられたり、聞かされることが暴力されるに等しくなります。

例えば、敏感な人は、テレビで見た残酷なニュースで、自分のことのようにショックを感じて、他人事なのに自分がそうなってしまったような、そうなってしまうような思いが強まり、なかなか消えなくなります。
強迫症であると、過敏性による強迫状態で、その残酷なことへの嫌悪感やその記憶が消えなくなってしまう付着感を、汚いことの付着=汚染として感じてしまい、そのニュースだけではなく、それに関連すること全般で、物質的な汚れと同じように汚染されるようにもなります。
それが苦痛で、テレビ新聞雑誌、他人の会話などの雑多な情報への拒絶や回避が起こります。
単に恐怖なのではなく、汚されれば、長時間洗ったり、洗えない物は捨てないといけなくなってしまうし、その体験記憶が消えなくなり、新たなトラウマとなって回避対象が増えてしまいます。

そういう実際の害があっても、汚した側は知らんふりをするわけですから、患者側だけで苦しむことになります。

ですから、少なくとも病院などの待合室で、テレビ新聞雑誌などを無理に見せ付けることがあってはいけません。
テレビを置くにしても、テレビ番組の垂れ流しではなく、癒し系の環境映像などを流すべきです。

普通の人なら、見たくない番組なら目を背けたりすれば避けられますが、敏感な人は神経が反応したままになってしまうので、目の前にあれば、気にしないことができませんし、音声も聞こえますから、見なければ良いという話にはなりません。
特に、汚染の強迫観念で汚れてしまう人にはなおさらです。

お薬手帳などの紙製の物(洗えない物)、財布やカバンなどの洗いにくい物とかが継続使用できないとか、人との接触や雑誌広告の見せ付けで汚染されるから電車に乗れないとか、何かに汚染されるから通れない道が多いとか、過敏性によって、危害、危険が実際に多いことで、危険回避、危害回避が過剰になり、何かをすれば、慎重になったり、何度も確認してしまうので時間がかかってしまうとか、違和感が気になって何度もやり直してしまうとか、普通はできて当たり前の日常的なことが、症状の苦痛でできなくなったり、時間がかかってしまうので、それ以上の社会適応も困難になります。
特に汚染恐怖(汚染嫌悪)の人は、1日中、一生汚染を気にして生活することになり、1つのことをするにも、人の何倍も時間がかかり、人間関係も維持できなくなり、社会的に孤立して、セルフネグレストのようにもなります。
性格とか考え方の問題ではなく、そんなことに関わらず、神経がそうさせてしまう病気なのです。
関連リンク
強迫症(強迫性障害患者)とHSP・HSCにも社会的バリアフリーの実現を
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/10/04/150531
うつ病とかだけなら、病院に行けなくても、訪問診療なら受けられますが、強迫症の場合は、汚染恐怖などがあるので、訪問診療さえ困難なのです。
軽症であれば、遠くの大病院に通院したりする人もいますが、重症であると頑張っても近くの小さなクリニックに通える程度です。
それさえも困難なのは、病院側が過敏性の苦痛を理解していないからです。
治療以前に待合室の段階で、強迫観念が煽られて症状が悪化してしまいます。

付き添いが得られる病気なら、サポートも受けやすいのですが、汚染恐怖や不潔恐怖の症状によって人の付き添い自体が受けられなくなってしまうので、家族との同居も困難になり、孤立してしまい、うつ病で気力が出なくても、生きるための最低限のことは何でも自分でやらないといけなくなります。
関連リンク
強迫性障害での鬱病が治し難い理由 その2/タイプや病状ごとの強迫症(強迫性障害)の治し方
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/29/174910

強迫性障害(強迫症)と精神障害者手帳
https://locd.hatenablog.com/entry/2019/11/01/144501
精神障害者手帳の診断書は、強迫症状で家族との同居や入院生活ができない人のことは想定していませんから、人の付き添いや看護が受けられなくて、一人で無理してやっていることでも、援助がなくてもできていることとして見なされます。

精神病的な他人への拒絶は、過剰な興奮や妄想によるもので、特に根拠はありませんから、強い鎮静剤で治せます。
過敏性の拒絶は実際に害があることへの生理的拒絶反応です。
普通の人なら害にならなくても、過敏性によって、強い害になってしまう苦痛があることでの拒絶です。
普通の人は患者の強迫観念の汚れを汚れだと思わなかったり、過敏性(苦痛)に共感できませんから、付き添いや看護や看病によって患者の強迫症状を煽ってしまうわけです。
理解が得られないことで、家族を含めた普通の人達とうまく関われなくなり、社会の中で普通のことがスムーズにできなくなり、孤立してしまいます。

強迫症状は心理学的に考えると、何らかの問題が他にあって、それが解決できない不安を、強迫行為で満たそうとするとか考えるわけですが、実際にはそういうわけではなく、問題に対する直接的対処として行われます。
自己愛が強く不完全な自分が認められないからとかでもなく、過敏性による違和感や不快な体験などでのストレスが神経や脳にとどまって消えなくなってしまう症状の苦痛によって、生理的に強迫行為が起こるのです。

自分の意思に関係なく浮かぶ不快な思考なのに、妄想ではない。
こういう強迫観念は、神経反応が浮かばせる生理的思考です。
考え方、気持ちの持ちよう、物事のとらえ方などは関係ありません。
そんなことは、無視して神経反応が思考するのです。
神経過敏な人は、こういう思いが増えて、なかなか消えません。
現実反応の苦痛ですから、現実行動の強迫行為で対処しないといけなくなります。
元々から神経が過敏で弱いので、ストレスの貯蓄で余計に弱まって、神経にストレスでの苦痛に耐えられるストレス耐性がなくなっているのです。
心の問題ではなく、神経の問題です。
苦痛に反応した神経が患者の肉体に強迫行為を指示するという生理です。

強迫行為は、心理的なことではなく、生理反応の問題であり、強迫感覚や強迫観念、トラウマなどとして、ため込まれたストレスの対処なのです。

強迫症は、心の病気ではなく、むしろそれに関わらない症状ですから、神経科学的に研究しなければ、解明できません。
発達障害も神経の発達障害なのであれば、神経科学(生理心理学など)で解明しないとなんともなりません。

脳機能や神経の問題は、薬での治療も向いていますが、過敏性に関しては、今後も薬も治療法も期待できません。
過敏性の苦痛を無くすと幸せになれますが、それはみんなが求めてしまうし、不安や恐怖や嫌悪などを感じにくくなれば、逆に危険回避をしなくなり、生物的に危険になります。
関連リンク
強迫性障害での鬱病が治し難い理由
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/23/051912

強迫性障害を発症すれば、多くの場合、うつ病も発症します。
強迫性障害と鬱はセットなのです。
過敏性、感受性、共感性の強さ+心の病みが合わさると、様々な強迫症状が起こります。

神経反応によって何らかの不快な思いが浮かべば、その思考が想像上のことであっても、過敏性、共感性によって現実のようにリアルに感じられ、そうなってしまうかもとか、そうなっているように、どうしてもそう思えてしまいます。
妄想ではありませんから、それは自分の思いであることは分かっていますが、神経反応で浮かんだ強迫観念に、神経が現実に対する反応と同じように思考上のことにも過敏反応してしまうのです。

過敏性により、神経レベルでは、イメージなどであっても、現実的に感じられ、その感じに共感してしまい、その不快感による不快な思考にも共感してしまい、強迫観念として長々と残ります。
それは大抵は現実的な危害に対する不安思考とか、実際の危害による不快な思いですから、現実行動で、対策したり、回避したり、対処しますが、強迫感覚や強迫観念はなかなか消えませんから、その行動が過剰になります。

人によっては、共感性の自我障害にもなります。
共感性の強さから、自他の区別があいまいになって、思考上では、私はあたな、私は世界などと思えるようになりますが、生物的には自我がなくなっては危険ですから、肉体的神経反応による苦痛で自他が分別され、現実的には世界との一体化が起こらずに、精神世界と肉体的現実世界とのギャップに悩みます。

共感性の強さではなく、自発的意識的に、無我の境地、無分別、一体性(自他不二)を求める人は、苦行などをして、神経反応での苦痛に慣れることで、身体的にも世界との一体化を求める人もいます。
そういうのは、宗教的な修行僧とか特殊な生活をしている人に多いのですが、身体的過敏性の強い人は、苦痛を人一倍強く長く感じてしまうので、苦痛に弱くなり、神経反応での苦痛に慣らすことができません。
特に過敏ではない普通の人でも難しいことなので、通常は、静かで刺激の少ない環境で、瞑想などをして神経反応を静めて肉体意識を弱めますが、そのままの状態で日常生活をすることは困難であり、普通の状態に戻れば、やはり神経が活動し始めます。
ただ、過敏な人で、特に心が病んでいると、そういう瞑想自体も困難で、逆にトラウマ記憶や強迫観念などの内部刺激に集中してしまい、症状が悪化することもあります。
精神障害に瞑想はあまり向いていません。
心静かに瞑想できるぐらいなら、精神障害では悩みません。
スポーツとか何か楽しいことをするほうが向いています。
精神障害だとそういう気持ちになれず難しくなりますが、できる人はしたほうがプラスです。

神経が過敏であると、感じたり思わされたりの神経レベルで行われることを自分の意思で無視するのは困難です。
過敏であることで、その苦痛にやられてしまうし、苦痛な思考に触れられません。
過敏性によって、精神が、神経レベルの反応の束縛から解放されないのです。

その束縛で、精神も病みますが、その心の病みを癒すことに取り組もうにも、病んだ神経や精神が邪魔をします。

共感力の強さの問題は、過剰共感の苦痛です。
自分だけでなく、親しい人などの辛さを、その人の何倍も感じてしまうことです。
例えば、家族に辛い生き方をしている人がいると、その本人以上に、辛い思いをして心が病んでしまうこともあります。
共感力が強すぎる事で、適切な共感ができなくなってしまいます。
相手が人でなくても、思い入れが強くなったり、嫌なこと、敵対することを無視しようにも、神経が気にしてしまうことでの同化(関連付き)を恐れて、嫌悪や拒絶反応が強まり、強迫症状にもなります。
過敏性によって感じてしまうことなので、頭でどうこうしようと、それに関わらずに、神経反応がそうしてしまいます。

HSP・HSC、過敏性強迫症(過敏型の強迫症)、こういうのは、軽症の人でない限り、症状自体はなんともできませんから、それによる心の病みを治しながら、症状があっても生きていける道を探すことになります。

うつ病と同じで、あんまり焦らない、無理をしないことも大事ですが、そういう生活も苦痛になれば、ストレスになります。
ですから、何もできない原因である強迫症を治そうとするのですが、過敏性が原因だと、自分ではどうにもできないし、人にもどうにもできません。
治しようがないのです。

認知行動療法ビジネス(曝露反応妨害)とか、森田療法(宗教療法)に出てくる強迫性障害は、器質的な過敏性を除外した、それ以外の心の問題(不安の病気)の強迫性障害のことですから、同じ病名でも全然違う病気のことです。
考え方とか行動の問題で、大したことないことを過剰に心配してストレスになっているから、考え方とか行動を変えて、ストレスを軽くして慣れろという考えです。
過敏性を無視しているので、その大したことないことが、患者には実際に強い苦痛であることが、理解できていません。
ストレスで悪化する過敏性の病気なのに、病気になったのは患者の考え方や行動のせいにしているので、治せないなら考えや行動の癖を改めない患者が悪いとするのです。

曝露反応妨害では、強迫観念は過敏性ではなく、不安が浮かばせるのであり、想像上の危害に過ぎないので、強迫行為を我慢すれば、強迫観念はしばらくすると自然と消えて何も害はないとしています。
過敏性という考えがないので、強迫行為をする前から、患者レベルでの過敏性による危害での苦痛が実際にあることは知らないし、当然、過敏反応そのもの、不快な感じ(強迫感覚)や不快な思考(強迫観念)での強迫状態そのもの、症状そのものによる苦痛は実際の害ではないという考えです。
ところが病気というのは、症状そのものこそが実際の害であり苦痛なのです。
過敏性による強迫状態の苦痛を解消しようと、強迫行為をするわけで、強迫行為をする前から、実際に危害があるので、強迫行為をしなくても大丈夫とはなりません。
特に、過敏性の強迫観念は、想像上の危害での不安思考ではなく、今現在とか過去の実際の危害での強迫観念ですから、それが消えなければ、現実での苦痛が続きますから、嫌でも苦痛への神経反応が強迫行為をさせてしまいます。

強迫症状と依存症的な強迫行為はまったく関係ありません。
認知行動療法では、強迫症状を強迫行為での安心依存症と勘違いしていて、家族などへの巻き込みを止めれば、強迫行為も止められると言っている人もいますが、重症患者のほとんどは、単身生活であり、巻き込みさえできないのに、強迫行為は続くのです。
単身者の場合、強迫症状があっても誰にも助けてもらえないのですから、助けてもらうために強迫症状が起こるなんて考えは、まったくの勘違いです。
そういうのは、楽したいから、甘えたいから、うつ病になっているという素人的な考え方と同じですが、強迫性障害の人の場合、うつ病になっても、強迫症状によって、人の付き添いや看護や看病が受けられずに、困難でも自分のことは自分でしないといけなくなります。

なぜ強迫性障害の人は重症であるほど、孤立して人からの助けを受けられなくなってしまうのか?と考えてみれば分かることです。
家族を巻き込むために強迫観念が浮かびやすいなんてあり得ません。
もしそうだとしたら、依存性パーソナリティ障害の神経質的な強迫症状であり、そういう人は、実際には強迫性障害ではありません。
強迫行為を行う理由が強迫性障害患者とは全然違うからです。

患者一人で苦しみを抱えて孤独に生きているのですが、言わない限りは誰にも分からないような症状で、言っても他人には理解し難いので、心理的な問題だとしてデタラメな考えをこじ付けられます。
強迫症状があって、得をすることは何もなく、ただ苦しみが続くだけです。

巻き込みしなければ、治せるかのように言っている人もいますが、汚染の強迫症状のある強迫症患者と同居すれば、巻き込みは避けられないことです。
同居人や家族によって強迫観念を煽られて、症状が悪化するので、それを防ごうとすれば、どうしても巻き込むことになります。
患者としては強迫症状での耐え難い苦痛を和らげたいだけなのです。
巻き込まれたくないなら、患者に我慢してもらうことになりますが、そうすると強迫症状での苦痛が強まり、鬱も悪化しますから、患者一人で生活してもらうしか解決策がありません。
実際、過敏型の強迫症の人は、普通の人とは一緒に暮らせませんから、家族関係が維持できなくて、巻き込みせずに一人で生きている人達が多いのです。

症状で外出困難でも、単身だと無理でも外出しないと生活できません。
元々から余程のお金持ちなら別ですが、大抵の重症患者は社会適応が困難なので、社会的に活躍できるわけがなく、経済力もありません。
強迫症状と依存は関係がないからこそ、そうなってしまうのですが、強迫性障害だと一人ではうまく生きられませんから、どうにもできない冴えない孤独な人生になります。

認知行動療法では強迫行為をしなくなれば問題なしとしてしまうのですが、患者にとっては、強迫観念や強迫感覚の病気であり、その大元には過敏性の苦痛があるのです。
それが消えないからこそ、強迫行為をしないといけない苦痛も生じるのです。
神経反応による不快な感じ、不快な思考が消えなくなってしまう強迫状態が、すでに実際の害なのですから、強迫行為をしなければそのストレスが残り続けて精神が病んでしまいます。
うつ病で頑張れない人に、頑張れと言っても、頑張れないことと同じで、そうしようにもそれができない病気の人に、そうすれば治るというのは、治療とは言えません。

森田療法では、強迫観念は、苦痛だから無くそうとするとは考えないのです。
なくそうとするから苦しむんだから、あったってそのままにすればいいという考えです。
神経が過敏な人はその苦痛に耐えられないのですが、森田療法では神経の過敏性は完全に無視して、精神的気質(性格)、考え方の癖の問題としているのです。
神経質というのですが、想像上の不快なことについて考え込んだり、なくそうとすることで、それを強く意識してしまい、その考えが離れなくなってしまうタイプです。
このタイプは、強迫観念といっても、神経反応の生理的思考ではなく、鬱のネガティヴ思考でもなく、性格的な考え方の問題で起こる過剰思考(ただの考え過ぎ)のことです。
森田が言うように、病気でそうなっているのではなく、神経質は、あくまで病気ではないし、病気は関係していないです。
その範囲の健康人向けのなので、本来、森田療法は、考え方の修正に過ぎません。
森田は完璧主義者でしたから、全か無かの思想で、実際の過敏性での病気の人は治せないので強迫神経症から除外していたのです。

こういったのは病気の治療行為ではなく、訓練ですから、過敏性は一切無視しています。
曝露反応妨害の場合、脳機能も治せると言っていますが、過敏性の強迫症状ではない不安の病気としての強迫症患者のことですから、あくまで神経の過敏性はなく、ストレス耐性が普通にあり、想像上だけの不安思考が原因での強迫症向けです。
過敏反応ではなく、考え方の問題での強迫観念のことであり、実際の危害での強迫観念とか、トラウマがあることでの強迫観念とかは考えていませんから、過敏型の強迫症の人が受けると、むしろ悪化します。
最初から病気レベルではない人とか、そのレベルまで治った人とか、神経質な考え方が原因の人なら良いのですが、過敏型の重症の人が無理に受ければ、治療ではなく、暴力されることになりトラウマになってしまうのです。

残念なのは、多くの病院や強迫症患者の家族、非営利での支援を装ったNPO法人などが、認知行動療法の宣伝をして、ライセンスビジネス、講習・研修ビジネス、出版ビジネス(森田療法のマネ)に加担していることです。
それによって、誤解された情報や間違った情報がネットに拡散しているのです。
病院のホームページなどに書かれている強迫症の解説でもいまだに心の不安が原因の病気として書かれています。
多くは、古い教科書に載っていることをそのまま書いているだけで、バカバカしい考えで悩んでいますなんて、本当に患者がそう言っているのでしょうか?
患者が思ってもいないことを、みんなそう思っているかのように書いてはいけません。
そういう軽い不安の強迫観念があるのも事実ですが、それはごく一部であり、過敏性の強迫観念は、実際の危害に対する不快な思いですから、バカバカしいなんて思えないような深刻な恐怖や嫌悪や不安などの強迫観念が多いのです。

強迫行為を患者自身は無意味だと思っていることになっていますが、本当に、「無意味なことをしています」と患者が言っているのでしょうか?
むしろ大半の患者は無意味なことをしているとは思っていません。
何らかの不安な問題を防いだり、汚染の洗浄のように実際の問題の対処として行っていることを、無意味だと思えるでしょうか?
患者に聞きもしないで、一方的に、患者は無意味だと思う行為を繰り返すとか言っているのです。
強迫性障害はこうあるべきという古い固定観念に取りつかれているのは、そういうことにしないと認知行動療法が適応できないからでしかなく、ビジネス(お金儲け)を優先した考えであり、患者目線で病気を理解できていません。

他人からは無意味なことをしているように思えても、PTSD的な回避行動などの症状を患者自身は無意味でバカバカしくは思えないように、強迫症状も同じことなのです。

不安だけが強迫観念になって、実際の危害での不快な思いは強迫観念にならないほうがおかしな話です。
それであれば、バカバカしい無意味な病気に思える人もいるかもしれませんが、過敏型の強迫性障害患者は、不安だけが強迫観念なのではなく、実際の体験での不快な思いも強迫観念として消えなくなってしまいます。
本来の強迫症は、有りもしないことを過剰に心配する無意味でバカバカしい心の病気ではなく、現実反応の過敏性の病気なので、刺激のあること(不快なこと)全般に弱く、刺激を受ければそのストレスが神経や脳に残り続けて消えなくなってしまうのです。
そういう強迫状態の苦痛の対処や防御として強迫行為をしないといけないのです。
その行為自体も苦痛で嫌なのに過剰にしないといけなくなってしまう。そういう意味で依存症とは全然違うのですが、認知行動療法では、強迫行為をすることでの安心感や満足感、しっくり感の依存症と勘違いしているわけです。
ですから、強迫行為をしなくなれば、問題なしとしているのですが、強迫感覚や強迫観念が消えないからこそ、強迫行為をするのであり、強迫行為をしなくなっても、過敏性の問題が残るので、不快感や不快な思いが消えなくなってしまうという基本の症状は残ってしまうのです。

関連リンク
強迫性障害は不安の病気ではない?/強迫状態と躁状態の違い、強迫症と他の病気の関係/強迫観念と考え過ぎの違い/過去からの強迫、記憶強迫
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/20/054007

強迫性障害は本当に精神の障害なのか?/不安症・恐怖症と強迫症の違いは強迫性・過敏性・全般性/統合失調症の妄想には汚染恐怖や不潔恐怖が無い理由
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/21/100813

強迫性障害を治療する前に、強迫性障害とは何かを知ってください。

過敏型強迫症・・・過敏性の強さが原因なので、頭の中だけでなく、現実の不快な体験での不快な思いも消えなくなり強迫観念となってしまう。
様々な外部の刺激だけでなく、不快な感情、気分、思い、考え、記憶、感覚などの様々な内部刺激による内性過敏(内向性過敏)の苦痛にも強迫されやすく、それらが消えない強迫状態になり、その対処として強迫行為をしないといけなくなります。
強迫観念(不快な思考)ではなく、違和感などの感覚的な不快感(強迫感覚)の対処として強迫行為をすることもある(強迫感覚先行型)。

神経が過敏であると、刺激が自身の外側なのか、内側なのかは関係なく、外部からの刺激で、不快な感情が沸いたり、不快な思考が浮かび上がれば、それが内部刺激となって、敏感に反応してしまいます。
現実の出来事であれ、テレビでの報道であれ、トラウマ記憶や強迫観念のイメージであれ、現実のことであれば、どれも同じような不快体験の刺激になります。
そういう刺激情報が長々と内部に残って、消えなくなってしまうのが強迫状態です。

不安型強迫症・・・不安と共に強迫観念が浮かび、その強迫観念で不安が強まり、実際のことではない(想像上の危害への不安)と分かっていても、その思いが離れないことで、どうしてもとらわれてしまう。
妄想と違い現実への不安な思いではあるが、過敏性は弱いので、現実との結び付きが弱い強迫観念も多く、現実の不快な体験での不快な思いは(不安ではなく実際の恐怖や嫌悪なので)それにとらわれることはなく、強迫観念にもならない。

衝動型強迫症・・・過敏性はなく、完璧主義のような欲求的なこだわり自体にとらわれ、それに反する状況で強迫観念のような不快な思いが浮かぶ(強迫行為先行型)。あるいは特に強迫観念はないが無意味な衝動にとらわれる(強迫行為主体型)。
多くの場合、こだわりを満たすことの満足感、完璧感、完全感などを求めて行為をしますが、過敏性の苦痛はないので、それが自覚できないこともあり、理由もなく、なぜかこだわってしまう状態になります。
快楽を求めるわけではありませんが、病質的には依存症と大差ない人も多くいるし、強迫症ではなく、実際には、強迫性パーソナリティ障害の人も多くいます。

強迫観念の対処として強迫行為をするのは、強迫観念先行型で、強迫観念が浮かびやすいが強迫行為はしない人とか、頭の中での強迫行為しかしない人は、強迫観念主体型とする。

強迫感覚が浮かびやすいが、特に目立った強迫行為をしない人は、強迫感覚主体型として、これが過敏型強迫症の原型であり、HSP/HSCにも多い。

過敏型の人は、不安、衝動、欲求などの刺激にもとらわれやすいので、不安型や衝動型の傾向が重なっている場合もあるが、根本の過敏性が原因なので、不安型や衝動型と同じタイプではない。

考え方が原因で不安思考にとらわれるタイプは、神経質であり病気ではないので、強迫性障害には含めないが、含める場合も、神経質の強迫症状とする。

過敏型の人は、ちょっとした体調の変化や身体的違和感にも敏感になりますが、神経質的な考え過ぎではなく、考えに関わらず、神経が敏感に感じ取ってしまうので、どうしても気に止まってしまうのです。
気にしないようにしても、神経が反応してしまうので、気にしないことができなくなります。

未だに理解ができない人がいるようですが、強迫性障害と強迫性パーソナリティ障害は違う病気です。
「こうしなければならない」みたいな「こだわり自体」にとらわれる病気は、強迫性障害ではなく、強迫性パーソナリティ障害です。

自称心理学者や自称専門家の人には、躁状態やパーソナリティ障害的なこだわりの強さでの症状と、強迫症の症状の区別ができていない人が多過ぎます。
強迫症は過敏性障害であり、興奮性の病気ではないし、性格の病気でもありません。
過敏性の強さで、違和感に弱く不快な刺激が長く残ってしまう強迫状態の苦痛から、強迫行為が起こります。
万能感があって何でも思い通りにしようとしているとか、完璧主義的にこだわってしまう病気は、躁状態や強迫性パーソナリティ障害のほうです。

このブログでは、過敏型強迫症が本来の強迫性障害としています。
過敏性による不快な刺激が長々と消えなくなってしまうのが強迫症での強迫状態で、強迫状態の苦痛への防御や対処として、しなければならなくなってしまうのが、強迫行為だからです。

しかし、現状では、強迫性障害から根本原因である過敏性が切り離され、様々な誤解が拡散されていて、いろんなタイプが同じ強迫性障害となっています。
そういう大雑把な強迫性障害と同じ病気としてタイプ分けすれば、過敏型強迫症になりますが、他のタイプと分けて、別の病気(神経の障害)とする場合は、過敏性強迫症という病名にしています。

関連リンク
過敏性強迫症とは何か?
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/22/033423

精神医学では、過敏性強迫症なんていう考えがないのですから、その治し方もどこにもありません。
そういう病気があることを知っても、どうしていいか誰も分からないのです。

ですから、そういう病気はないことにされているのです。
そうじゃなくて、それは心の問題とするのです。

敏感、過敏であること、それによる苦痛、それによる精神症状、それによる生活や社会での障害、こういう範囲は否定され無視されているのです。

HSP・HSCにしても、どれだけそのことで悩んでいても、過敏性自体は障害では無いとされます。

そのまま社会に無理やり適応させようとすることで、過敏性強迫症うつ病になってしまいます。
過敏性による心の問題なのに、強迫症になれば、そこから急に心の問題の過敏性に変わるのでしょうか?

本来の過敏性の上に、強迫性障害があるので、強迫性障害も過敏性の病気なのです。

もちろん、みんながみんな生まれつき過敏というわけではなく、後天的になんらかのストレス体験が続いたり、脳機能の障害などで、神経が過敏になってしまう場合もありますが、その場合でも、強迫性障害は神経の過敏性が引き起こすことは変わりません。

軽症の人とか、後天的に過敏になった人は、神経レベルの障害が回復すれば、生まれつき過敏な人よりは、治せる可能性もありますが、生まれつきの人は、過敏性自体がほぼ生涯続きますから、強迫性障害も一生涯続いてしまいます。

過敏性の問題であると、心の問題でも精神病でもありませんから、心理療法や薬で軽症化できるとかでもないので、過敏性や強迫症状での苦痛も一生続くのです。

病気の苦痛だけではなく、どう生きればいいか?に悩むことになります。

この答えは、症状の度合いにもよりますから、簡単ではありませんが、うつ病であると悩みやすくなりますから、うつ病を治すことに取り組むと良いでしょう。

鬱は過敏性の病気ではありませんが、極端な興奮とか過鎮静にはなりませんから、そこまで現実離れする人はあまりいませんし、鬱はネガティヴな気持ちで、強迫観念はネガティブな思考ですから、病気の質的に強迫と鬱は相性が良く、強迫であれば、多くの人は鬱にもなります。
強迫+鬱で、不快感が益々感じやすくなりますから、不快な体験での印象が残ってしまう強迫症の人だと、強迫症状も悪化してしまい、鬱も悪化して、そうなれば、益々、強迫症状も悪化します。
強迫行為では対処できないような不快な強迫観念も慢性的にあり、過敏性によって気になってしまうことの考え事が止まらなくなったり、現実を見れば、雑念的に不快なイメージが頻繁に浮かび、体験したことの残像にも悩まされます。
例えば、暗い場所とかで強く眩しい光を見た後に、目を閉じると、光の残像がしばらく残りますが、眩しいほど刺激が強く、残像だけでなく、不快感もしばらく残ってしまいます。
普通なら少し経つとそれは消えますが、強迫症の人は、そのように不快な体験で不快な思いが、神経と脳に残像として残ってしまい、それが消えなくなってしまうのです。
実際に不快な体験での残像に悩まされる、残像強迫という症状もあり、不快な体験をした場所と、不快な記憶が結び付いたままになって、その場所を見ると記憶の残像が強く浮かび上がってしまうので、その場所を回避するようになります。
過敏性症状の苦痛から、不快に感じることを過剰に避けますが、それでも日常的に不快に感じることがあるので、対処しないといけなくなり、どうこうしようとする行為で疲れて自身が傷付いてしまいます。

神経が過敏な人は、普通の感覚過敏と違って、外部刺激だけでなく、内部刺激(過敏反応自体や思考や感情など)にも過敏反応し、意味の刺激にも過敏になります。
例えば、悪いイメージの浮かぶ写真を見れば、悪いイメージに対して神経レベルの生理的不快感が起こり、その不快感で、さらに悪いイメージが強まり、その不快感に神経が過敏反応してしまい、不快感もイメージも消えなくなってしまいます。
その過敏性の苦痛から、そういう写真を避けるだけでなく、強迫症の場合は、そういう写真などの視覚情報であっても神経の過敏反応が消えなくなってしまうことで、その不快感も離れませんから、汚染のイメージが浮かべば、それが離れないことで、実際に汚されたりもします。
精神障害のような思い込みの不安とか妄想の病気ではなく、神経障害は現実反応の病気ですから、頭の中の想像上の危害だけでなく、それが現実側にあれば、それによっても強迫観念が浮かぶし、写真などの視覚情報であっても、現実と同じように神経レベルでは反応してしまいます。
刺激がどこにあっても、刺激は刺激であり、神経的には同じ苦痛なのです。
写真だからいいとか、イメージだからいいとか、頭でそう思えたとしても、神経が敏感だと、そういう考えに関わらず、現実のストレスと同じように神経は反応してしまいます。
慢性的に様々な刺激を体で感じてしまいますから、いつどこにいても、気が休まりません。

強迫というのは、過敏な神経活動に身体や精神が乗っ取られる状態です。
神経が考えて、神経が行動するのが、強迫観念や強迫行為です。

神経が過敏であると、思考も神経も休むことができませんので、考え事も多くなります。
考え事が止まらないこと自体は、躁状態とかの興奮でも起こりますが、その場合、非現実的な内容が多くなります。
強迫症の場合、反応性の思考ですので、日常の生活で気になっていることとか、現実の不快なことに対する考え事が止まらなくなります。
過敏性が強いので、鬱でも極端に現実離れはしないのです。
不快な記憶の想起とか、神経反応的な強迫観念の影響を受けて、頭で考える普通の思考も病んでしまい、その思考に神経が過敏反応して、過剰思考が起こり、また神経が反応して、常に考え事が止まらずに、思い悩んでいる状態になります。
これが思考強迫で、考えたくなくても、神経の過敏性によって、考え続けてしまいます。
興奮性の症状ではないので、気分安定剤とかも効きませんし、頭の中だけの非現実の妄想ではなく、現実反応の思考ですから、抗精神病薬も効きません。
現実反応の思考を無理に鎮静させると、生活もできなくなってしまいます。

思考強迫から逃れるには、自発的思考や行動を増やすと良いのですが、強迫症状や鬱が邪魔して、それが困難になります。
強迫観念やネガティヴ思考とらわれて、何事にも時間がかかったり、ストレスに対抗する気力や忍耐力が低下してまったくできなくなったりします。
特に過敏型の強迫症は、普通は我慢しなくてもできることを、過敏性によって、我慢して耐えてやらないといけなくなったしまう病気なので、鬱で我慢ができなくなってしまうと、以前はできていたこともできなくなってしまうし、我慢させられる苦痛から、ストレス対象への敵意も強まり、強迫観念も浮かびやすくなります。
ですから、せめて鬱を治したいのですが、強迫とセットになっているので、鬱だけを治すのも困難なのです。

過敏性強迫症は、神経の過敏性の病気ですから、精神的な病みでの内部刺激だけでなく、ストレスの多い人間関係や環境での外部刺激も悪化の原因になります。
実際に不快感が起こりやすい環境にいれば、強迫観念も浮かびやすいし、実際に醜いことでの身体醜形障害とか心の悩みは、実際の醜さを修正しないと治療困難であるように、体の不調とか、特にニキビ、ヤケド痕などの醜形症状での不快感、羞恥心、劣等感などの悩みが慢性的にある場合も、不快感での強迫状態になりますから、強迫観念は浮かびやすくなります。
ですから、人間関係含めて、ストレスの少ない環境にして、体も健康にしたほうが良いのですが、やはり強迫症状や鬱が邪魔して、それもなかなか困難になります。

強迫性障害は、現実反応ではあるが、神経の過敏性により、普通はストレスにならないことがストレスになったり、そのストレスが内部に残り続けることで、現実の環境や自分の意思に関わらない症状も続くという特殊な病気で、神経症でも精神病でもないのです。
現実反応の症状は、精神病のような内側だけの問題ではないので、内側だけ薬で鎮静させても治せません。
神経反応の症状は、神経症のような心の問題ではないので、考え方や心掛けでは治せません。
そういうことに関わらずに強迫症状続いてしまいますから、どうにもできませんが、気持ちが鬱になりにくい心掛けや、ストレスの少ない生活環境に、できたらしたほうが良いでしょう。

HSP・HSCも過敏性の障害ですが、軽度ではあっても、強迫症に近い状態の人も多くいます。

HSP・HSCが過敏性で悩んでいても障害として認められない理由は、そういう病気があっても治せないからですが、発達障害とすることで、社会的理解や配慮も受けやすくなりますから、HSP・HSCや過敏性強迫症でなくても、神経の過敏性が主症状の発達障害精神障害を何か作るべきです。

ですが、神経の過敏性が主症状としたら、発達障害ならHSP・HSCが適しているし、精神障害なら強迫症が症状的に一番適しています。

過度に過敏であれば、必ず刺激での強迫状態になり、刺激の苦痛、そのことでの不快な思いが消えなくなります。
そういう病気が一番、本人の苦痛が強いのです。

ほぼ神経レベルの問題なので、あまり表面化されない病気ですが、行動とか全ての面に障害が出ますから、医学は過敏性というものにもっと目を向けるべきではないでしょうか。

統合失調症は治しやすくなりましたが、過敏性障害に関しては手付かずのままです。

精神病も神経性精神障害であることは考えられますが、少なくとも過敏性の問題ではありません。興奮性なので治せるのです。

精神病・・・反応性精神病などストレス発症であっても、症状自体は現実反応は関係しない。
過剰な興奮や過鎮静で、現実への神経反応は鈍感化。
現実は関係ないので、興奮や興奮性の緊張症状であれば、内部さえ鎮静させれば良く、薬で治しやすい。
妄想は現実に対する思考(現実反応)ではないので、強迫観念のように、現実の些細な事に敏感に反応して浮かぶ妄想などはあり得ません。あれば、それは強迫観念です。

神経性精神障害(過敏性障害)・・・過敏な神経反応による症状であり、現実との結びつきは強いが、本人の自発的思考や行動、心理にも関わらない。
神経レベルでの現実への過敏性によって不快な感じが消え難いことで、不快な思考も離れなくなり、そういう内部刺激にも本人の意に関わらず、神経が過敏反応してしまうことで、過敏性がさらに強まる。
本人の意向を無視する生理的症状なので、思考だけでのコントロールは困難。
想像上の危害での強迫観念であっても、妄想と違って現実と結び付いているので、現実的行動で対処しなくてはならない。
現実反応の過敏性症状なので、薬で鎮静させても、現実が意識できるレベルだと神経反応も起こり続け症状も続く。
怒りなどの攻撃的感情や思考がもっとも消え難いが、その刺激に耐えられず、感情表現や行動として表面化されないので、自身の内部に攻撃性がこもり続けてしまい、その刺激の苦痛をなくそうと圧し堪えることで、その対象への怒りが嫌悪の強迫観念として続きます。
心理ではなく、神経反応によって生理的にそうなりますが、強迫観念やトラウマの反復性で、神経や脳に繰り返し深く刻み込まれるため、重症患者であると強迫観念もトラウマも二度と離れなくなります。

強迫症的なトラウマのフラッシュバックは、「忘れられない不快な記憶」の強い想起です。
うる憶えとかでもなく、確実に現実にあったことのフラッシュバックです。

解離したりして思い出せなかった記憶の想起(フラッシュバック)であると、架空の記憶(空想上で作られた記憶)であることも多いのですが、それは、解離する人は空想を現実のように思い込む傾向があるからです。

特に神経質の人は、過敏性は関係なく、自身の考え方(自発的な思い込み、想像)によって、敏感になったり様々な病気になりますから、心の問題での解離が起こる人もいるし、記憶に関しても、本人が考えなければ、強迫性はありませんから、ショック体験(思い出したくないこと)を忘れてしまうこともできます。
逆に、忘れていた記憶を想像することで、架空の記憶を作り出すこともあります。

心の問題での解離の場合、思い返したくない都合の悪い記憶を考えないようにして、忘れることができるし、何らかの問題があれば、都合の良い記憶を作り出して、その体験のせいにしたりするのです。
症状であれ、そういうことができる人は、強迫症状は起こりません。
強迫観念を浮かばせる根拠がないからです。
現実と結び付きのない架空の不安思考とか架空の記憶によって強迫症状が起こる人はいないわけではありませんが、そういうのは神経質とかパーソナリティ障害とかの心の問題での強迫症状であり、強迫性障害ではありません。

強迫性障害と、神経症や神経質は全然違う病気です。

忘れてしまいたいのに、どうしても忘れられない、思い出したくない記憶が、ずっと消えなくなってしまう、こういうのが強迫症的なトラウマ強迫であり、これがあると強迫観念も消えません。
思い出したくないことを考えない、(症状であれ)忘れてしまう、思い返さないことができる人は、強迫観念も消しやすいので、強迫症にはなりません。

普通はトラウマというのは忘れられないものですが、忘れていたトラウマ記憶でPTSD症状が出るのが複雑性PTSDです。
フラッシュバックはトラウマ記憶の強迫的な想起ですから、解離とPTSDは真逆なのですが、思い返してしまえば、解離していませんから、PTSDも起こるのです。

なぜ忘れていたのか?

1つは、体験した当時は小さい子供で物事が良く分かっていなかったことで、ショックを受けずに済んだので、普通の記憶として忘れていたが、大人になってから、それに関わる情報や体験がきっかけとなって、その記憶の想起が起こり、大人として思い返すことで、あれは酷いことだったというように後天的に過去の記憶がトラウマになってしまうことがあります。
体験によるトラウマではなく、体験記憶の想起への再認識によるトラウマです。

もう1つは、ショックが強過ぎて、思い返すのが辛いので、記憶をブロックしてしまい、その記憶が抑圧されることで忘れてしまう人もいます。
完全に消えるわけではないので、何らかのきっかけで、フラッシュバックが起こりますが、実際には忘れていたわけではないからこそ、実際の体験の想起だと分かるのです。

忘れていた記憶がフラッシュバックして、トラウマが表面化→複雑性PTSD

忘れられないトラウマ(ショック体験)記憶のフラッシュバック→普通のPTSD強迫症のトラウマ強迫

複雑性PTSDの場合、そういう体験をしたことはなんとなく憶えているが、(思い返したくなくて、心の問題での解離が起こり)はっきりとは思い出せなかったという場合は、実際には忘れていたわけではないので、はっきりと思い出せば、確かにそうだったと本人は分かります。

そういう体験をしたこと自体をほぼ完全に忘れていた場合は、思い出してしまった記憶が実際のことかは確認し難い面がありますが、架空の記憶なのか、実際の確かな記憶なのかは関係なく、フラッシュバックが起これば、PTSD症状に苦しむことになります。

過敏型の強迫症でもトラウマ記憶に強迫されたり、それがあることで強迫観念が浮かびますが、敏感な人は、ショック体験の記憶を抑圧できないので、トラウマ記憶も強迫観念も消えることはありません。
過敏性の強さで、辛い記憶を無視したり、気にしないことができないので、ずっと忘れられずに、強迫症状が続きます。
敏感な人は、普通はトラウマにならないような一般的にはなんてことないことでもトラウマになって、慢性的に忘れられなくなり、それに関連する物事での触発などで、フラッシュバックが起こります。
PTSDのような幻覚様のフラッシュバックは起こりませんが、強迫観念と同じように、そのトラウマ記憶が頭の中で強迫的に浮かび、過敏性によって、その苦痛を体全体で感じてしまうことで、強迫症状が出ます。

過敏型強迫性障害に置いては、トラウマに関連する物事によってフラッシュバックが起こることで強迫観念も浮かびますが、そういう強迫状態を引き起こす体験もトラウマとなり、症状自体もトラウマになります。
その苦痛が強いので、そうならないようにと不安の強迫観念も浮かびやすくなります。

今後、もし神経科学的治療によって、神経過敏自体を治せるようになっても、すでに神経や脳に刻み込まれている強迫感覚、強迫観念、トラウマが残っていれば、生理反応的に症状は続いてしまう可能性が強いです。
ですから、強迫感覚、強迫観念、トラウマが神経や脳に刻み込まれる前に、過敏性の治療をしないと意味がありません。
薬としては、鬱や不安の薬であるSSRIは、過敏型の強迫症状自体にはまったく効きません。
PTSDと同じで、何か保険適用の薬がないと困るので、それがあるという程度のことです。

SSRIが効かない人には、抗精神病薬を使えばいいみたいな考えは、単に他に使える薬が無いという理由でしかなく、浅はかで乱暴です。
トランキライザーは基本的には非反応性の興奮症状(陽性症状、精神病状態)に使う薬です。
陰性症状にもある程度効く薬もありますが、反応性そのものである過敏性の症状に使っても意味がありませんし、もし効いたように思えても、鎮静による一時的な誤魔化し程度の効果しかありません。
現実反応の症状は、現実が意識できるレベルの鎮静では歯が立ちませんから、当然、抗不安薬なども効きません。

エスケタミン(スプラバート)のような麻酔薬や、幸せな気分になれるような麻薬類のほうが効くことは当然のことですが、強迫は慢性症状なので、そういう薬があっても普段、日常使用できないのなら、意味がありません。
強迫症は心の病気(心理療法や精神療法で治せる病気)とされていますから、おそらく日本では使用許可さえないでしょう。

強迫症状は、過敏な神経活動に身体や精神が乗っ取られる状態ですから、心の病気として治療に取り組んでも時間の無駄にしかなりません。

今後も新薬は期待できませんから、すでに強迫症の人は、新たな強迫感覚、強迫観念、トラウマが刻まれないような生活をできるようにして悪化を防いだり、HSP/HSCであれば、強迫症にならないような生活の工夫をすることが大事です。

それは過敏性障害への社会の理解がなくてはできません。

特に、医療関係者、研究者、福祉関係の方々には、このブログを参考にしてもらい、過敏性のある患者や過敏性障害(強迫症HSP・HSC)の治療の取り組みや研究、対応のし仕方などを考えてもらえたらと思います。

神経レベルの症状ですので、完全な解明は困難だと思いますが、治療に結び付かなくても、解明していくことで、治療の可能性も見えてくるし、誤解されたままの病気であるよりも、強迫症の正しい理解を深めることが、患者にとっても治療的になります。
心の問題として不適切な治療を続けることは、患者にとってはストレスにしかなりません。
神経の問題と考えられている重度発達障害と同じように、治せないなら治せないで、生活の工夫や適切な対応の仕方を症状が悪化する前に考えたほうがいいのです。

このブログは、強迫症の正しい知識の普及が目的ですので、ブログ内に書いてある理論や用語などはできるだけそのまま使ってください。
そのほうが説明しやすいはずです。
資料や論文などに引用文献、参考文献などとして、表記する時は、下記のようにしてください。

強迫性障害の全貌 LOCD

一般の方々も同じですが、このブログに書いてある記事は、できるだけ拡散してください。
ブログなどに引用する場合、特に連絡はいりませんが、引用元などとして、できるだけ引用した記事のアドレスまたはトップページにリンクしておいてください。

ブログには研究結果を書いていますので、古い記事と新しい記事では、新しい記事のほうが正確な内容になります。

今後も強迫症の研究を続ける予定ですので、ブログも続けると思いますが、しばらくお休みするかもしれません。

お問い合わせ、ご相談は、ブログを全部読んでから、下記のEメールに。
lavijour●yahoo.co.jp
●の部分は、@にしてください。

LOCD(著作者)

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共感強迫/情報恐怖・情報汚染/ストレスは心が作るのではなく神経が感じること/ストレスがHSP・HSCやAD/HDを強迫症(強迫性障害)や鬱病にする

過敏性強迫症(過敏型の強迫症状)であると、過敏性そのものの苦痛にも強迫されますが、共感力にも強迫されます。
共感力が強いことで、他人のこととか、全然関係ないことでも、自分のことのように思えてしまうのです。
そんなことではあるのですが、そんなことが強迫症状を引き起こすのです。

敏感な人は、そうしたくなくても共感してしまう苦しみ、共感力が強過ぎて、うまく共感できない苦しみに悩みます。
他人の感情に共感すれば、それによる自身の過剰な感情も合わさりますから、特に心が病んでいる人は、人の苦痛に共感すれば、何倍もの苦痛になってしまうし、楽しい気持ちになれないので、人の楽しい気持ちに共感することで、逆に苦痛に思えてしまいます。
病んでなければ、良い意味で共感できるのですが、敏感だと、刺激を感じやすいことで、様々なことが実際の危害になって、そのストレスで心が病んでしまいます。
荒っぽい人を見れば、その感じに攻撃されてしまうし、様々な不快感を感じやすいので、敏感な人は、様々な人(特に不快感を感じる人)の存在自体が刺激になります。

それで、人と距離を空けようとします。
過敏性ディスタンス・・・共感性の苦痛による人との距離。
強迫性ディスタンス・・・汚染恐怖などの強迫性による人との距離
どちらも鬱病が強めます。

HSP・HSCや過敏性の強迫症の人は、共感力が強過ぎて、人の気持ちをうまく読み取れなくなります。
自閉症のように、他人の気持ちが分かり難いのではなく、自然と共感してしまうのですが、過敏性によって、本来のその人の気持ちよりも過剰になって、その自分の気持ちにも過敏反応しますから、思い入れが強すぎる形になり、過剰に読み取ってしまうことで、結果的に読み取り難い状態になり、人との関係が苦手になります。

そうなってしまうことは本人にも苦痛なので、人との距離を置こうとするのですが、そうしていても過敏なので、気にしたくなくても、どうしても他人のことが気になってしまいます。
しかし、気にしないようにしていることで、余計に自分の基準で共感してしまい、その思いによって、人の気持ちをあれこれ考えてしまいますが、うまく読み取っている自信がないので、人間関係が不安になって、過敏性ディスタンスをすることになります。
こういうのは、過敏性のある不安障害の人にも起こりますが、共感性は続きますから、それによる様々な症状が出ます。

不快な刺激に神経が反応して不快な感じ(強迫感覚)や不快な思考(強迫観念)を浮かばせます。
強迫観念は神経反応が浮かばせる生理的思考です。
過敏な人は、それ自体も消え難いのですが、その感じや思考に共感してしまうことで、その思いが余計に離れなくなります。
その思いをなくそうとするから、余計に意識してしまうとか、そういうことではありませんし、妄想とか考え過ぎでもなく、心理は関係ないのです。
どういう考えを持つかに関係なく、神経の過敏性による共感力の強さが強迫観念の強迫性を強めるのです。

HSP/HSCの人は、共感力が強いといわれますが、その共感力によって、強迫性障害になりやすいのです。
過敏であること自体が苦痛なので、過敏性には当然、強迫性があるのですが、過敏であることで、共感したくなくても、どうしても共感してしまうという共感強迫の状態になります。
他人の不快な体験でも、自分のことのように思えて、そのショックが消えないことで、他人のことなのにトラウマにもなります。
共感といっても、感じるのは自分ですから、他人の苦痛も、それを共感することで、過敏性によって、その人の何倍もの苦痛になってしまい、自分が危害を受けたわけでなくても、共感力のショックによって、自分も危害を受けてしまうのです。
見聞きしたの情報でも、自分の基準で共感してしまいますから、そのショックが消えないことで、トラウマになって、それが消えないことで、強迫観念も浮かびやすくなります。

HSP/HSCとか強迫性障害で、過敏性の強い人だと、トラウマができやすくなります。
PTSD的なトラウマは、普通の人のトラウマですから、普通の人でもトラウマになって仕方ないなと思えるような大きな危害でのトラウマなのです。
敏感な人のトラウマは、普通の人からすると、そんなことでトラウマに?と思えるような、一般的には危害に思えないことが多くなります。
敏感だから、些細なことでも傷付いてしまい、そのショックも記憶も消えなくなってしまうのです。
当然、大きなことはトラウマにならないのではなく、それだけではなく、一般的には小さなことでもトラウマになってしまうのが、敏感な人(過敏性のトラウマ)の特徴です。
過敏性のトラウマでもPTSD症状は出ますが、トラウマ記憶自体が強迫観念になったり、トラウマがあることで強迫観念が浮かぶ人は、強迫性障害にもなります。

AD/HDの人で過敏性のある人は、注意困難であることでの不快な体験がトラウマになれば、不安の強迫観念が浮かびやすくなり、過剰に注意する(確認強迫)の強迫行為をするようになります。
AD/HDも敏感な人は多いのですが、今のところ過敏性の障害とは考えられていません。
過敏性が弱ければ、強迫観念の強迫性(固着性)も弱まりますから、一時的に強く浮かんで、しばらく経つと静まるという不安の強迫観念が多くなりますが、実際にそうなりやすい、実際にそうなったトラウマがあってのことであれば、思い込みの不安の病気と違って、実際の危害に対する過敏性の強迫行為なのです。
神経が過敏であることで、思考上の刺激にも敏感になりますから、AD/HDでも強迫行為が見られる人は、過敏性が関係しているのです。

HSP・HSCの人は、現実の刺激への過敏性の強さから、汚染恐怖や不潔恐怖などになりやすいのですが、不安だけでなく、実際の危害での様々な不快な思いにも強迫されます。AD/HDでなければ、確認は比較的軽症で済みますが、洗浄強迫などが強固に続きます。
AD/HD+HSP・HSCであれば、確認も洗浄も強固になります。

ただし、トラウマによって、強迫性障害になった場合の傾向であり、みんながみんなそうなってしまうわけではありませんし、強迫性障害だけど、AD/HDやHSP・HSCではないという人がいても、全然不思議ではありません。
そもそも普通の強迫性障害は神経の問題ではなく、心の問題とされているからです。
それは、過敏性の強迫性障害とは全然別の強迫性障害ですが、精神医学的にはそちらこそが強迫性障害となっていて、現状では過敏性も関係ないことになっています。

敏感な人は、怖い話とか、残酷な話を見聞きする、そういう体験もトラウマになります。
その話自体は、他人のことであっても、そういう情報を知って、ショックが消えなくなってしまう苦痛で傷付いて、トラウマになってしまいます。
一般の人はそうなりませんが、過敏な人は、そうなれば、何年も、何十年も恐怖や嫌悪などの苦痛が続くという実際の害を受けるのです。
それによって、トラウマ強迫での強迫症状も出れば、その体験での苦痛は、終わったことではなく、今もあるし、未来にもあるので、現在形のトラウマになります。

些細なことがトラウマになってしまうというのは、大したことではないのに、深刻に考えてしまう不安の病気ではありません。
そういう心理的な不安の病気とは、全然違うのです。
一般的には、大したことでなくても、過敏性の強い人は、実際に深刻なダメージを受けるのです。

共感強迫が関わっているのですが、例えば、テレビで残酷な情報を見聞きして、それが実際に起こったことであると、ショックとなって忘れられないだけではなく、共感性の強さから、自分がそうなったように思えたり、自分がそうされたように思えたり、自分がそうなってしまうかのように思えたり、情報によっては、自分もそうしてしまうのではという思いも浮かび、そうならないようにと、強迫行為をするようにもなります。
そう思えるのは、心理ではなく、過敏性の苦痛での生理反応的な症状で、神経がそう思わせるので、自分がそうなったわけではないと分かっていても、どうしてもそう思えてしまうのです。

ただ、想像上の危害に悩まされる病気でもなく、その情報により、ショックを受けて、そのことでの不快な思いが消えなくなってしまうという実際の害を受けて、実際に傷付いているのです。

そうすると、その不快な対象に対する恐怖や嫌悪などの思いが強迫観念として離れなくなり、それがあることでの不安も強迫観念になりますから、その苦痛を防いだり対処する形で強迫行為をするようになります。

そうなれば、強迫観念を煽る情報を避けるようになり、汚染の強迫観念がある人は、それと似たような情報の見聞きで汚されるようにもなります。
情報の見聞きなどで汚れることがあるのは、その不快な刺激を感じるのは神経ですから、神経が過敏であることで、体全体で不快感、不快な思いを感じてしまうからです。
情報の不快感を体で感じてしまうことで、嫌悪感とそれよる思考が体に付着したままに思えて、物質的汚れと同じように汚染されます。
そういう感じが強いので、本人だけでなく、その情報を見聞きした場所とか、その情報媒体そのもの(テレビなど)とか、それを見聞きさせた人、情報源を発信した人、雑誌などであれば、その雑誌の輸送ルート、発行所、その建物、その周辺というように、汚染区域ができて、そこからの汚れを避けるようになります。
これは、情報からの汚染だけでなく、物質的な汚染であっても同じことですが、不快感、不快な思いが強迫観念として付着して消えなくなってしまうので、そうさせることに対して、汚れを感じるのです。

強迫性障害は、HSP/HSCとAD/HDを合わせたような発達障害が土台になっていることは考えられますが、HSP/HSCの段階であれば、まだ活かせる範囲の過敏性です。

HSP・HSCの人が強いストレスでの強迫状態が続くと、敏感なことでストレスを直接的に対処できないので、ストレスへのネガティヴな思いとか、攻撃的な感情が内側に篭ってしまい、その対処として強迫行為をするようになります。
ストレスが不安や恐怖であったなら、確認などが増えますが、嫌悪(嫌な思い)が強ければ、洗浄なども過剰になります。
過敏性が強いことで、そういう不快なストレスでのダメージが消え難くなりますから、悪い意味で感化されやすい、染まりやすいので、そういう不快なことと自身が同化してしまう恐怖や嫌悪が強まり、神経レベルではそうなりそうになったり実際にそうなってしまうので、その苦痛を強迫行為で防いだり対処するのです。

強迫性障害になってしまうと、HSP/HSCの過敏性が活かせないレベルの病的過敏性になります。
強迫観念は不快な思考で、強迫行為は本人にしかない強迫観念の対処で、一般的には日常的でつまらない行為ですから無駄なことでしかありません。
慢性的に過敏性の強迫症状があれば、その全ては、日常生活や社会的活動の足手まといになります。

しかし、HSP・HSCも過敏性強迫症も、どちらも障害では無いとされていて、過敏性強迫症の場合、そういう病気の存在自体が認められていません。

それほど、過敏性障害への理解は得られ難いのです。

過敏だから強迫症状が起こるというのは、あり得ないことでしょうか?
むしろ、過敏なら不快なことを感じやすいし、そのダメージも消えなくなりますから、強迫が起こって当たり前なのです。
過敏性がないのに、小さなことを気にしてしまうという不自然な病気にされているのです。
強迫症は、異常に敏感だから一般的には小さな刺激でも、とても気になってしまうのです。
神経が過敏であることで、心の中の刺激にも過敏反応しますが、そういう過敏性による苦痛な思い(強迫観念)と、その苦痛の対処(強迫行為)が症状ですから、自然な病気なのです。

発達障害精神障害にしてしまったり、強迫症を悪化させるのは、過敏性への誤解とか理解のなさによる社会的ストレスです。

関連リンク
強迫症(強迫性障害患者)とHSP・HSCにも社会的バリアフリーの実現を
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/10/04/150531

ストレスは心の問題なのでしょうか?
ストレスは神経で感じることですから、神経の問題なのです。
神経の発達障害の人には、ストレスを受けやすい傾向があり、そのストレスが対処できずに(あるいは対処として)精神障害になります。

昔の人は、ストレス反応の精神症状を神経症と名付けました。
痛いとかかゆいとかと同じように、ストレス対象から不快感を感じて、それによって悩んだりして精神的にも症状が出てしまう病気です。
こういうのは、心の問題(考え方、とらえ方、認知の仕方)ではなく、神経がそう感じて、そう思わせるのですから、神経レベル(感じたり、その感じでの思考の範囲)の問題と考えました。
神経によって現実との繋がりがあるのです。

逆に、精神病(妄想幻覚症状など)はそういう範囲ではありませんから、神経症は、精神病ではない病気という意味が強くなり、心因性の病気という意味になったことで、ストレス反応の症状なのに心の問題として考えられるようになり、神経症なのに神経は関係ないことになりました。
強迫症は、小さなことを気にしてしまう病気なのに、過敏性は関係ない病気とされました。

後に、心因性の病気でも脳機能の問題があるとされるようになってからは、内因性や心因性といった区別があいまいになり、神経症という言葉も今はほとんど使われなくなりましたが、ストレス反応の症状は、心の問題(心因性)だと思っている人達はいまだに多くいます。

強迫症の人達は、ストレス対象から離れても、内面的にストレスが続いてしまう問題があり、環境や状況に関わらない症状でもありますから、普通の神経症とも違うのですが、基本の症状自体は、神経レベルの障害ではあるのです。
神経の状態としては、刺激によって、敏感になりますが、ストレスによって、消耗して脆くなり、余計に過敏になり、精神面の刺激にも敏感になり、精神的には、細かい考えの悩みが多く病んでしまいます。
その病みは心の問題の範囲ですが、過敏性の苦痛、症状の苦痛がそうさせるので、なかなか治せません。

精神病も内部的には神経が関係しているのですが、少なくとも、外界の何かからの刺激(ストレス)で悩んだりする病気ではなく、むしろそんなこととは切り離された本人の内側だけの心の病気なので、精神病と名付けたのです。
神経の状態としては、興奮して強くなったり、極端に鈍感になったりして、ストレスの影響を受け難い状態になり、精神的にも現実離れが起こります。

実際のところまったく環境的ストレスの影響がないわけでもなく、近年では、ストレスでの発症も認められるようになり、統合失調症もストレスで悪化したり再発するという話はあります。
ただ、発症はストレスが引き金でも、症状自体は、基本的には周囲は関係ないので、それでも精神病であることは変わりません。

神経症は周囲から病気にさせられますが、精神病のようにストレスから守るべきだとはならず、考え方でのストレスだから、考え方を変えて、ストレスに慣れるべきだとしているのです。

ストレス反応だから、心(心因性)の病気という考えがあるのは、本来はストレスにならないことが、考え方とか心の持ちようの問題とかで、ストレスに思えてしまったりする人もいるからです。
そういうのとかは確かに心理的ストレスなのですが、それは一部の人だけです。

みんながそうであるかのようにしてしまうのは、本来はストレスにならないことを、考え方でストレスにしているなら、患者が自分で病気になっていることにできますから、社会側の言い逃れにもできるからです。

本来はストレス反応であれば、心理は関係ないのです。
過敏性の神経障害の人は、考えに関係なく、ストレスに弱いことで病気になってしまうのです。

何らかの強いストレスで苦痛を感じて、不快な思いをする。こういうのは生理的に当たり前のことで、人間の心理は関係ない症状なのです。
過敏性が、心理の問題であるわけがなく、過敏であると、そういう苦痛が多くなり、その苦痛もなかなか消えなくなります。
こういうのは、生理的な神経レベルの苦痛ですから、どう考えようと、どういう心持ちでいようと、どうしてもストレス反応が出てしまうのです。

それによって心にも問題が出ますが、根本に生理的な苦痛がある場合は、考え方とかによる想像上のストレス反応ではないので、考え方をどうしようと、それに関係なく生理的な苦痛が続いて、心の問題も消えません。

例えばトラウマとかは、それ自体は心の問題とも言えますが、トラウマがあることでの苦痛は、実際の危害への生理的苦痛ですから、頭でどう考えようと、トラウマを想起するような物事を意識すればどうしても苦痛になってしまいます。

ストレスによる精神症状は、神経の問題と言っても、神経自体に問題があるとは限りません。
考え方とかでは及ばない、神経レベルの生理的症状だということです。

しかし、ストレスへの過敏性の場合は、神経自体の問題であり、神経レベルの生理的過敏性は実際に神経が過敏なので、頭でどう考えようと、神経的には過敏反応が出てしまうのです。

何かへの(心理的)不安や恐怖があることで、その対象に過敏になってしまう場合は、心理的過敏性であり、実際に神経が過敏というわけではありませんが、その不安や恐怖が過敏性による生理的反応の場合は、実際に神経が過敏なのです。

心理的過敏性(精神過敏)・・・何かへの心理的な(考え、想像による)不安や恐怖があることで、その対象に過敏になってしまう。実際に神経が過敏というわけではない。

生理的過敏性(神経過敏)・・・実際に神経が過敏なので、不安や恐怖自体が、考えや想像に関わらない過敏性による生理的反応で浮かぶ。
その不安や恐怖が過敏性を強める傾向もあるが、不安や恐怖によって過敏になっているのではなく、元々の過敏性によって、不安や恐怖が生じている。

神経過敏の人は、神経が過敏なだけではなく、精神も過敏になっているので、外界の些細な刺激だけでなく、内面的な刺激(過敏反応自体、それによる感情や思考など)にも過敏反応します。

過敏反応自体が苦痛→その刺激(ストレス)の対象に対して危害を感じる(強迫感覚)、危害に思える(強迫観念)。

そういう強迫感覚や強迫観念の対処として強迫行為をしないといけなくなりますから、強迫性障害の強迫行為は、無意味にしているわけではありません。

不安型強迫症(強迫観念先行型)・・・考えに関わらない不安の対処としての強迫行為。
このタイプは、不安の病気であり、過敏性は弱いので、実際の危害での不快な思いは、強迫観念にはなりません。
ただの(想像上の)不安なのにと思える人は、強迫行為が無意味に思える人もいるようですが、不安の対処なのですから、実際には無意味ではありません。
このタイプの場合、不安を浮かばせる大元にある恐怖なども、想像上の危害での恐怖である場合も多いのですが、トラウマとか不快な体験記憶が関係している場合は、想像上だけのことではないので、PTSDに近い状態になり、トラウマがある限りなかなか治せません。
この場合のトラウマというのは、見聞きした情報でのショック体験とかも含まれますから、過敏性があることでのトラウマであり、本人がトラウマだとは思っていない記憶が神経レベルではトラウマになっていることもあります。

過敏性強迫症(過敏型強迫症、強迫感覚主体型、強迫観念先行型)・・・過敏性による危害(苦痛)の対処としての強迫行為ですから、無意味には思えません。
想像上の危害であれ、実際の危害であれ、それに対する強迫観念が過敏性によってなかなか消えなくなりますが、実際の危害での強迫観念とか、実体験の生理的恐怖や嫌悪があることでの不安思考は、想像上だけのことではなく、現在過去の実際の危害に対する強迫観念ですから、強迫行為をしないわけにもいきません。
想像上の危害であっても、大元にその対象への生理的恐怖や嫌悪などがあることで、強迫観念の現実味が強く感じられ、頭でどう考えようと、強迫行為をしないといけなくなります。
不安型のような不安の強迫観念(想像上の危害)が浮かばないわけではなく、過敏性が強いことで、それだけでは済まないのです。様々な刺激に強迫されます。

強迫感覚主体型の場合は、不快な思考ではなく、不快な感じに強迫されるので、強迫観念の具体性が弱いため、無意味な行為に思える人もいますが、違和感などの対処として行われるので、実際には無意味ではありません。

強迫行為先行型(完璧主義、行為依存症、神経質)・・・欲求やこだわり、衝動などにとらわれることでの強迫行為。無意味に思える強迫行為。考え方で生じる不安による強迫行為。
基本、器質的な過敏性は関係ないタイプで、強迫性パーソナリティ障害に近いパーソナリティの障害とか、他の病気の強迫症状の人も含まれます。

これらの違いがありますから、同じようには治せません。

過敏というのは、当然、(意識的な)こだわりではありませんから、過敏性の苦痛の対処として強迫行為もこだわりではありません。
汚れた手を洗うのはこだわりでしょうか?
汚れたままだと不快になってしまうし、他の物を触れば全部汚してしまいます。だから洗うのです。
過剰に洗うのは、こだわりが強いのではなく、過敏性によって、汚れの不快感や不快な思考が消えなくなってしまうからです。
生理的苦痛を和らげようとする行為は、こだわりが強いからではなく生理的なしなければならない行為です。
過敏というのは考え以前の感じ方ですから、考え方の問題でもありません。
過敏性は、考えに関わらない神経レベルの症状で、「しなければならない」のは、そうしないと生理的苦痛に耐えられないからです。

過敏性による危害は、一般の人には危害ではないのですが、過敏性が強いと、普通は気にしないような小さなことでも、みんなが気にするような大きなことに対しても、小さなレベルまで強い刺激を感じて、どうしても気になってしまうのです。

精神レベルでの考えに関わらずに、神経レベルで感じたり思考したり記憶に残ったりしてしまうので、精神レベルではコントロールできません。
頭で意識的に考えることと、生理的神経反応が浮かばせる思考は別のものなのです。

今まで過敏性強迫症という病気がなかったのは、強迫性障害というのは、神経ではなく、心の病気であり、有りもしないことへの不安による病気とされてきたからです。
過敏だとしたら、その不安があることで、過敏になっているという考えだったのです。
過敏性が原因だと神経(器質)の問題になってしまい、そう考えてしまうと治しようがないので、そう考えたくないのです。
神経の問題だとしても、不安とか興奮とかなら、薬も効きやすいのですが、過敏性の病気はあると困るから、そういう病気は無かったのです。

別の理由としては、過敏性強迫症には強度の汚染恐怖(汚染嫌悪)や不潔恐怖の人が多く、病院に行けない人が多く、必然的に過敏性の強迫患者が少なくなり、存在が知られませんし、多くの場合、本人も過敏性の苦痛をうまく説明できない状況だったのです。
不安の病気とされていたのですから、そう言っても理解されないからです。

そういう患者が病院にいても、過敏性ではなく、不安もしくは妄想の病気として不適切な治療を受けているので、その治療では治せませんから、他の病気とされたり、症例としても出てこないのです。

強迫性障害の人が病院に行けないので、強迫性障害の人が病院に行けないことも、病院側は知りません。
知っていても、汚染恐怖を知らないので、なぜ来れないのか理解できないのです。

薬物療法の精神科の場合、ほとんど接触しなくても済みますから、小さいクリニックとかならなんとか行ける人も多いのですが、待合室で待っていることが困難だったり、総合病院とかに行けなかったりするので、体調が悪くなっても何十年も病院に行ってないとか、虫歯が多いのに歯医者に行けないとか、健康診断が受けられない、血圧測定や血液検査さえできない人も多くいるのです。

他の精神障害のように、付き添いがいれば通院できるとかそういうことではなく、付き添いが汚染されれば、そこから汚染が拡大してしまうので、付き添いがいると(しかもその人が親しい人だと)余計にストレスになってしまうのです。
症状で援助が受けられないので、人間関係がなくなって、セルフネグレストのようにもなりますが、そうしたいわけではなく、病院側が過敏性の障害に対して理解しようとしないからです。

安心して通院できる清潔で刺激の少ない場所にしてもらえれば行けますが、そういう対応するのがめんどうなので、そういう病気があることを知っても、そんな病気はないとこにしてしまうのです。

関連リンク
強迫症(強迫性障害患者)とHSP・HSCにも社会的バリアフリーの実現を
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/10/04/150531

強迫性障害(強迫症)と精神障害者手帳
https://locd.hatenablog.com/entry/2019/11/01/144501

公共性のある場所といっても、商業性の強い場所は、そもそも不快なイメージを与えないように作られている所も多く、例えば、小ぎれいなカフェとかなら、大画面テレビで残酷なニュース番組とかを垂れ流したりはしていないのです。
お店の雰囲気も商品の付加価値だからです。

ところが一般の人達は、そういう場所は、逆に刺激がなくて退屈になってしまう人も多いのです。
そういう人達にとっては、テレビ、新聞、雑誌などでの雑多な情報が快適に思えるのです。

敏感な人は、残酷でグロテスクなニュースなどを見聞きすると、精神的に傷付いてトラウマになりますが、普通の人はそうなりませんから、そういうニュースを見聞きしても気になりません。
不安、恐怖、嫌悪などが、見聞きする情報程度であれば、むしろ刺激的で求めてしまうのです。
その普通の基準で待合室を作れば、敏感な患者には心配や恐怖などの不快感を与えてしまいます。
強迫症の場合は、強迫観念が煽られて、その体験もトラウマになってしまうので、見なくないものを見せられる、聞きたくない事を聞かされるというのは、暴力されるに等しいのです。

ショックな話を聞かされる、恐怖、嫌悪を煽られる物を見てしまう、普通の人と違って、そういうことでも苦痛が消えなくなって、トラウマになりますから、雑多な情報を遮断するようになります。

病院には接触などによる様々な汚染恐怖が浮かびやすいので、せめて待合室ぐらいは刺激を少なくしてもらいたいのです。

病院に行けば、調剤薬局に行くことにもなりますから、薬局内も不安の強い人や過敏性の強い人達が安心して薬を受け取れるように工夫してほしいと思います。

普通の人達には楽しいことなのに、それが苦痛になってしまう。この差が過敏性であり、社会適応が困難になります。

過敏性は、病気でも障害でもないことになっていのすが、強迫症患者にとっては、それがあることで、人間的に生きられないほどの障害になっているのです。

ただ、強迫症の場合、過敏だけの苦しみではなく、過敏性による強迫状態でも悩まされるのです。

感覚的な強迫と、思考による強迫がありますが、感覚過敏の人が、その刺激での不快感で、強迫状態になってしまうとは限りません。

自閉症の感覚過敏・・・意味のない刺激への過敏性
強迫症の神経過敏・・・意味のない刺激だけでなく、意味による刺激にも過敏反応する

自閉症の場合、特に知能障害があると、意味を読み取ることが苦手な人が多いので、意味による刺激は感じにくいのですが、その分、簡単な刺激には過集中してしまう人もいます。
これは、自閉していることが原因の感覚過敏ですが、実際に神経過敏な人の感覚過敏は、刺激全般に対して過敏反応します。
自閉症の子でも、何かを見ると何かを思い出したり連想してしまうとか、そういう強迫的な関連付きや連想が起こることはありますが、意味の強迫性が弱いので、そのイメージや記憶が強迫観念としては残り難いのです。
こだわり行動があるタイプの場合、感覚過敏での不快感による強迫行為の場合もありますが、意味のない刺激なので、本人でも意識できないことが多く、他人から見ても無意味にこだわっているように思えます。

強迫症の場合は、意味からも刺激を受けます。
その意味が不快な思考、イメージの強迫観念として、消えなくなってしまうのですが、神経質と違って、そう考えるから、消えないのではなく、過敏性によって、生理反応的に浮かび、過敏性によって、消えなくなってしまうのです。
強迫症の人は、実際の危害であれ、想像上の危害であれ、その危害によって浮かんだ不快な思い(強迫観念)が消え難くなります。
何かを見ると何かを思い出したり連想してしまうとかの強迫的な関連付きや連想が頻繁に起こりますが、そうなれば強迫観念が関連付いたままになりますから、それが汚いことであれば、汚染されることにもなります。
汚いというのは意味ですから、感覚過敏だけという場合は、汚染恐怖にはなり難いのです。

意味のある刺激には、思考での刺激とか、体験の刺激、情報の刺激も含まれます。
何らかの物事への恐怖、残酷な物事への嫌悪とか、汚れへの嫌悪とかも意味のある刺激ですが、そういうのが強迫観念として消えなくなってしまうので、恐怖や嫌悪も消えなくなり、不安も強まります。

言葉、文字、写真、新聞、テレビ、雑誌、人の行為、こういったことによる不快な情報が神経に触れることで、強迫観念が煽られます。

なぜテレビや雑誌などの情報でも強迫観念が煽られるかといえば、強迫観念も情報ですから、強迫観念が消えないということは、頭の中で不快なテレビ番組がずっと映っていてそれが消えないとか、不快な雑誌のページがずっと開かれた状態と同じことだからです。
過敏性の強迫観念の場合、それは頭の中のことでも想像上のことではなく、実際の危害なのです。

トラウマ記憶のある人もよく分かると思いますが、頭の中にあって苦痛なことが、現実側なら大丈夫とかそのほうが変です。

強迫観念と同じ不快な情報が現実側にあれば、それを見聞きすることで、その情報が強迫観念として頭の中に残ってしまいますから、その情報源に拒絶反応が出るのです。
汚染嫌悪の強迫観念がある人は、そういった情報の見聞き、あるいは、その情報媒体での直接的、間接的な接触で汚される人もいます。
神経と精神は結び付いていますから、神経に触れた情報が、精神的にも残ったままになって、そのイメージの付着により汚れてしまうのです。

選択できる情報なら良いのですが、言葉、文字、写真、新聞、テレビ、雑誌、人の行為などは、雑多な情報であり、公共の場では無理やりその情報を浴びせられることにもなります。

いらない情報は、汚いゴミと同じですから、それはもう頭の中にあって、それが捨てられなくて困っているところに、また似たような情報が入ってこれば、不快感が強まり、その情報が消えない=不快な情報の汚染状態になってしまうのです。

普通の人達は、その情報を苦痛には思わないとしても、それで強迫状態になってしまう人にとっては、どうしても危害に思えます。

過敏で、ストレスに弱く、些細なことでもトラウマになってしまう。
このことで、過敏性、全般性、強迫性の揃った恐怖症、嫌悪症になります。
不安、恐怖、嫌悪などが強迫症状を引き起こしますから、それらを感じることの全てで強迫観念が強まります。
実際の危害に対してのストレス反応ですから、認知は正常なのですが、過敏性が強く、強迫状態になってしまうのが苦痛なので、一般の人なら考えないような強迫観念も浮かびます。
患者にとっても、それは考えているわけではなく、危害に対して生理反応的に浮かんでしまう思考ですから、一般的ではない考えだとは分かるのですが、心理に関係なく生理は起こりますから、その生理反応を強迫行為で処理するしかなくなります。

トラウマ記憶と同じように、強迫観念自体もストレスになりますが、その強迫観念を作り出すのが、実際の危害への過敏性ですら、心理で強迫観念が生じるのではなく、生理的に浮かんでしまう思考なのです。

過敏性の精神障害がない理由は、過敏性というのは、精神的なことではなく、神経の問題だからです。
ですから、精神医学の範囲で過敏という場合は、精神的に恐怖や不安が強いことで、その対象に対して過敏になっていると考えるのです。
精神の医学なのですから、神経が過敏だから、恐怖や不安が強いとは考えたくないのです。

過敏症という名の付く病気だと、光線過敏症とか、薬物過敏症とか、体の病気なら割と多くあります。
化学物質過敏症という病気もありますが、それ自体は、精神障害ではありません。
ですが精神的苦痛もありますから、精神に問題が出ないわけでもなく、化学物質で何らかの苦痛な症状が出てしまう人は、それが苦痛を避けようと、化学物質の恐怖症になってしまう場合もあります。
うまく避けられないと、ストレスで鬱になったりもあり得ます。

化学物質で症状が出てしまうと思っていることで、恐怖が強まるのですが、実際にそういう症状が出る人にとっては、思い込みで恐怖しているわけではありません。
化学物質が怖いという思いをなくしても、化学物質にさらされれば、症状が出てしまうので、どうしても化学物質が怖いという思いが消えなくなります。
これが生理的恐怖です。
化学物質過敏症だけど、化学物質は恐怖ではないという人もいるかもしれませんが、それでも化学物質は避けないといけなくなります。
症状が出るのが苦痛だからというのは、心理の問題ではなく、実際の危害に対する生理的な回避行為です。
過敏性自体は、精神の問題ではないのですが、過敏性によって、精神にも行動にも悪影響が出てしまうのです。

一方で、過敏だから化学物質に恐怖するのではなく、化学物質への恐怖が強いから、過敏になってしまうという場合は、本当は、化学物質過敏症ではないのです。
こういう物質的な過敏症の場合、適切なテストできれば、実際の過敏症なのか、恐怖による過敏なのかは簡単に見分けられます。

実際に化学物質にさらされても、それに気付かなければ症状が出ないとか、さらされてもさらされなくてもどっちでも症状が出る場合は、過敏症ではなく、化学物質恐怖症(特定のことでの恐怖症)の可能性がありますが、このタイプは、過敏だから恐怖するのではなく、恐怖していることで、過敏になってしまうのです。
これは、心理的な過敏であり、本当は過敏性は無いのです。

例えば、神経質な性格の人とかは、化学物質過敏症という病気があることを知ると、化学物質が怖いものに思えて、自分もそうなってしまうのではとか、具合が悪いのは化学物質のせいではないかとか考え出して、その考えによって、化学物質恐怖症になりやすいのです。
そういう人は、化学物質があるように思える状況では、緊張や恐怖心が強まることで、そのストレスから実際に体調が悪くなってしまいます。

そうならないようにと、化学物質に対して警戒心が強まり過敏になってしまいますが、実際は化学物質から害を受けるのではなく、自分の考えによる恐怖で害を受けているのです。
こういう思い込み(想像上)の恐怖で過敏になってしまう人を、神経質というのですが、表面的には化学物質過敏症と同じように見えますが、全然違う心の病気です。
現実のことへの恐怖なので妄想ではありませんが、考え、想像によって、本来は関係のない病気への恐怖症になっているので、ほとんど現実との結びつきは無く、考え過ぎでの恐怖なのです。

しかし、恐怖で過敏になっているとしても、その恐怖が神経質のような心理的な恐怖ではなく、生理的恐怖の場合は、PTSDに近い症状になります。
何らかの化学物質で苦痛な思いをして、化学物質恐怖症になっているのなら、実際の(生理的な)恐怖があっての症状なので、少なくとも思い込み(想像上)の恐怖ではないからです。
こういうのは、考えが作る恐怖ではありませんから、考えを変えようとしても、それに関わらず、記憶がある限り恐怖は続きます。

不快なにおいで具合が悪くなってしまうことは、普通の人にもあることですが、特定の化学物質の臭いでそうなってしまう場合も、化学物質の過敏症ではあります。
こういうのも、生理的症状である場合と、におい恐怖での心理的症状である場合もあるし、PTSD的な症状の場合もあります。

化学物質過敏症には確かに神経質とか精神的問題の人達も多くいますが、だからと言って、化学物質過敏症=心の問題としてしまうと、実際に過敏な人達が心の問題とされて不適切な治療を受けないといけなくなります。

それは、強迫症の現状と同じ事で、神経の過敏性ではなく、完全な心の問題とした森田療法もそうですが、精神医学的にも強迫症に関して過敏性という言葉は、禁句のようにもなっています。
そのままだと、神経の過敏性によって強迫症になっている人達が不適切な扱いを受ける状況が続いてしまいます。

過敏性には物質による過敏性(身体症状性の過敏)、心理的過敏性、生理的過敏性などがありますが、どれもその苦痛は神経とか心で感じることです。
生理的過敏性は、身体的には目立った症状は出ませんが、神経レベルでは、ストレスでの苦痛が停滞したままになり、その苦痛に耐えられず、強迫行為に繋がります。
この過敏性の苦痛により、恐怖や嫌悪も強くなりますが、考えることで、恐怖や嫌悪が起こっているのではなく、考えに関わらず生理的に恐怖や嫌悪が浮かびます。
恐怖や嫌悪があるから、過敏なのではなく、過敏性の苦痛が強いので、その対象への恐怖や嫌悪も強まるのです。

心理的過敏性は、考え方の問題ですから、考え方を変えれば治りますが、トラウマのような実体験した生理的苦痛が根本にある場合は、考え方も治せません。

同じように、ネガティヴな考え方で鬱になっているなら、考え方を変えれば、鬱にもなりませんが、鬱になっているから、ネガティヴ思考になっている場合は、鬱を治さないと、考え方を変えられません。

生理的過敏性は、考える以前の反応であり、考えに関わらない過敏性です。
恐怖や嫌悪すること全般に対して過敏になりますが、恐怖や嫌悪しているから過敏なのではなく、生理的に不快なこと全般への過敏性の苦痛があるので、恐怖や嫌悪が起こるのです。

身体症状に出るような物質的な特定のことでの過敏性は、客観的にも分かりやすいのですが、恐怖症と同じように、特定の刺激を避ければ良いのです。
強迫症の過敏性でも身体症状は出ているのですが、強迫状態は神経レベルの症状なので、本人が苦痛を感じることでしか分かりません。
特定のことではなく、刺激自体への過敏性ですから、本人の感覚で苦痛を感じること全てで、強迫状態になります。
苦痛を感じること全てに過敏になりますが、避けようにも避けきれません。

汚染恐怖の場合、元々、何かへの嫌悪であるとか、精神的な汚れが多いので、気付かなければ強迫行為も起こりませんが、だからと言って、想像上の恐怖ということではありません。

例えば、雑誌に汚されるという場合も、その汚れ自体は、他人からは見えませんし、本人も強迫観念がなかったら、分かりません。
しかし、雑誌での情報でのトラウマがあり、汚れを感じるような不快な雑誌があることに気付いてしまえば、強迫観念が浮かんで、実際に汚されてしまいます。
汚されれば、強迫観念が強まりますから、長時間洗ったり、洗えないなら捨てたりすることになります。
もちろん、幻覚や妄想と違って、それが本人だけの思いだとは分かっているのですが、実際の危害で生理的に浮かぶ思いには現実的な強い不快感が結び付いていますから、自分でどうこう思おうと、その思いを変えることはできないのです。

その汚れの元になっているトラウマ的な物事が実際にあって、それへの生理的な嫌悪や恐怖があってのことですから、思い込み(想像上)の問題ではなく、生理的なストレス反応での実際の事に対する恐怖なのです。
こういうのは、考えに関わらない恐怖なので、汚れに気付かなくても、その恐怖自体はあり続けるのです。
気付かなければ、強迫行為をしなくても済みますが、気付かなければ汚れないのではなく、本当は汚れているのに、気付かないことで、汚れたままになってしまいますから、それによって汚染が拡散してしまうのが怖いので、慢性的に汚れに対して注意過剰になって、「気付くようにする」しかなくなります。

ただ、器質的に神経過敏な人は、神経質な性格ではないので、本当は細かいこと、気を使うことが不得意で、注意することが苦手なのです。
ですから、注意していても、うまくできずに、汚されてしまうことも多くなります。
敏感な人は、注意力があるのではなく、注意したくないのに、危害が多いので、常に注意しないといけなくなってしまうのです。

器質的な神経過敏なので、性格が大雑把でも、どういう考えを持とうと、それに関係なく、不快なこと全般に過敏反応します。
小さいことでも、大きなことでも、どちらにせよ、小さなレベルまで気になってしまいます。
その過敏性の苦痛の対処としての強迫行為もめんどうで苦痛ですから、心も病んでしまいます。

過敏性によって、ストレスでのダメージを受けやすく、そのダメージが長く残って、消えなくなってしまう、それを解消しようと強迫行為をする、という症状ですから、心の問題ではなく、生理的症状なのです。

強迫は心理ではなく、生理です。精神ではなく、神経症状です。
神経症状というのは、神経症ではありませんから、精神医学では治せません。

実際に過敏なことを確かめられるかといえば、神経質や強迫行為先行型のように過敏性がなくても強迫行為をする人はいますから、表向きの症状だけで判断することもできませんし、HSP・HSCでの過敏性が確かめられないことと同じで、神経レベルの過敏性は、本人にしか分かりません。

過敏性で一番困るのは、刺激物、ストレス(ストレッサー)です。
それが多くて気が滅入ってしまいます。

考えに関わらず、その前に、ストレスに過敏であるという場合は、心ではなく、神経の問題であり、心理ではなく生理の問題です。

ストレスを感じ取るのは神経ですから、過敏な人は、ストレスが多く、そのストレスが長く続きます。
その上、ストレスに弱いので、ストレスでの強迫状態になり、それを防いだり対処するのが強迫行為です。

過敏性によって、心も病みますが、過敏性自体は、心とは関係ないのです。
心が病むから強迫症状が起こるのではなく、生理的強迫症状によって心が病むのです。

精神的問題で身体症状が出ている病気として、正式な病気ではありませんが、自律神経失調症というのがあります。
これはストレスとか精神的な問題で、自律神経が不調になってしまう病気ですが、自律神経は問題ないのに、心の問題で、自律神経が不調になっているという考えですから、神経質のことでもあります。
実際に自律神経に問題があって症状が出ている場合は、心理的問題ではないのですが、自律神経に問題があるかは確かめ難いので、できる範囲の検査をして何にも問題がなければ、体の問題ではなく、心の問題とするわけです。
ただ、実際に神経に問題がないとも限りませんので、そういう場合は、体の不調の対症療法をしつつ心の問題も治すことになります。

身体醜形障害(醜形恐怖症)というのも、そんなに醜くないのに、すごく醜いと思ってしまう病気のことですから、病気じゃないのに、病気ではないかと不安になってしまう、病気不安症と同じ範囲の病気とされてきたのです。
実際に醜い人でも、同じ症状は出るのですが、実際にそうなら、不安の病気ではないので、身体醜形障害ではないことになります。
では、実際に醜いことで、身体醜形障害になっている人は、精神的に問題がないのでしょうか?
むしろ、実際に醜い人こそ、身体醜形障害になりやすいのですが、実際に醜くてもそうならない人もいますから、そうなっている人は何かが違うわけです。
ここにも過敏性とかそれによる鬱の問題が絡んでくるのですが、精神障害には過敏性という考えが無いので、実際に醜いのであれば、精神障害ではないということになります。

精神障害として考えると、今は強迫グループに入っていますが、この場合も、不安の病気として治しても意味がありませんから、それによる鬱とかの精神的問題を治すぐらいしかできません。

ストレスを精神的に除けたり転換することで出る精神的症状なら、心の問題と言えますが、強迫症は、むしろそういう精神的症状が出ないので、ストレスそのものを、そのまま受け取ってしまい、そのストレスが強迫状態で長く続いてしまうだけなのです。
その強迫状態の苦痛を強迫行為で対処するのですが、それも苦痛でストレスになりますから、気分、感情、情緒、思考、記憶、そういった精神面も害されてしまいます。

敏感であることで、精神面も脆くなりますが、強迫性障害は、他の精神障害とは違って、神経障害としての精神障害なのです。
神経質というのも、神経とはまったく関係のない精神的気質(心の癖)のことですから、強迫性障害は神経質ではありません。
神経質とか神経症の真逆が神経障害ですが、その中でも強迫性障害は過敏性の神経障害になり、一番、精神障害的ではない精神障害なのです。

妄想も神経が関係していますが、過敏ではなく、興奮であり、過敏とは真逆の鈍感状態です。
現実への過敏性が無いからこそ、現実離れした思考が浮かぶのです。
妄想自体は完全に心の問題ですから、一番、精神障害的な精神障害なのです

強迫性障害は、有りもしないことへの不安の病気という前提では、実際には汚れてないと分かっているのに、汚れていると思えてしまうのが強迫観念であり、それを実際に汚れていると思っている場合は、実際ではないことを実際だと思っているから、妄想的ということになります。

それは過敏性の強迫症状を知らないことによる誤解です。
できれば考え方とか心の問題での不安思考、そうでなければ妄想として、過敏性の思考という考え自体がなかったのです。

過敏性の強迫観念は超現実密着型の思考で、細か過ぎて普通の人が考えないような思いが浮かびますから、そういう意味では妄想的でもありますが、超現実離れした思考である突飛な妄想とは真逆の思考状態ですから、同じように治せるわけがありません。

妄想様強迫観念というのは、妄想とか思い込みの非現実的不安思考のことではなく、一般離れした普通はあり得ないようなレベルの非常に細かい思考のことなのです。
強迫観念は、神経レベルの思考なので、現実と感情との結び付きも強く、一般離れはしていても、現実離れした妄想とか空想への過集中とかとは全然真逆の思考です。
これは意識的想像ではありませんが、想像力の強い人は、想像する力があるので、神経レベルの強迫観念も強固になります。
想像力の強いことで、不快感による不快な思いが、リアルに具体化してしまうので、現実味がある分、現実的不快感も強まります。

妄想は現実から切り離された思考であり、強迫観念というのは、現実離れできないことによる不快な思考なので、強迫観念であれば、妄想であるわけがないのです。

興奮を静める薬はありますから、妄想幻覚は比較的簡単に治せるのですが、神経の過敏性は今のところ医学でも精神医学でも治せません。
アレルギーの場合は、神経の病気ではなく、免疫の病気であり、本来は敏感に反応しなくていいことに、過敏反応してしまう病気のことですから、特定のことでのアレルギーであれば、なんとか対処できる場合もあります。
感覚過敏とか神経過敏は、アレルギーではないので、どうしようも治せません。

ですから、過敏という言葉は精神医学的には、禁句のようにもなっていて、ほとんど使われません。
易刺激性という言葉はありますが、これは神経過敏(刺激に敏感)という意味では使われていません。
自閉症とかのそれであれば、易攻撃性とか、易興奮性、易怒性と言うべき事です。
易刺激性・過敏性=周囲から自分が害される。
易興奮性・易怒性=自分で自分を害する、周囲を害する。
という意味で、使い分けをしたほうが良いのですが、それさえもできていません。

過敏性という意味での易刺激性こそが強迫の苦痛の元なのですが、強迫性障害の易刺激性に対してどうこうなんて話にはなりません。
強迫性障害は症状が明らかに過敏性そのものなのに、過敏性の病気ではなく、心の病気と言う考えだからです。

過敏性の苦痛によって症状が起こるのに、そんな苦痛ははあるがままにして、なくそうとしないほうが良いとか、なくそうとするから苦しむんだとか言っているのです。
過敏だけでも苦しいのですが、それで強迫状態になってしまう苦しみ、それによる心の病み、人間らしく生きられない苦しみ、様々な苦痛が重なります。
何かを求めてそうなってしまうのではなく、ただ病気の苦しみがあって、それがなくならないだけです。

過敏性による苦痛が続けば、精神的苦痛も続き、精神は病みます。
神経障害だとしても、精神障害でもあるのですが、過敏性を無視して、心の問題だけ治そうとしても無理なことです。

強迫は心の病気ではなく、神経の病気です。
自分の精神ではなく、肉体の神経がやっていることです。
神経過敏は肉体意識を強めます。
肉体こそが本質になり、精神が束縛されます。
精神は神経によって作られますが、本来、精神自体は自由になれます。
肉体がある限りは、神経の生理的行いの束縛を受けますが、精神的には自分がそうしようとすれば、自由になれるのです。

ただし、精神そのものが病んでいると、精神も自由になれません。
精神的にも自由になれないということは、強迫症だからではなく、心に問題があるのです。
強迫症は治せませんから、心の問題を治すことで、強迫症状があっても、なんとか人間らしく生きられるようにできるのです。

心の問題は、トラウマであったり、鬱であったりすれば、それはそれで神経が関係していて治し難いので、それ以外の精神的自由を体現するようにするぐらいしかできません。

精神の病気でない部分をどれだけ自由にできるかなのです。
それは、人によってはほとんどないかもしれませんから、ほとんどない精神の自由に集中したいのですが、それができないレベルであれば、できないまま生きていくことになります。

できないことをしようとしてもできないので、できることだけするぐらいしかありません。
そういうレベルの人は、統合失調症ではなくても、精神病の強迫性障害なのです。
つまり、精神的に狂っているが、並行して、ある程度は、まともなので、その面では強迫性障害なのです。
精神的に狂っていて、神経的に強迫症という病態です。
神経的に強迫症であることで、精神にまともな面もあるのですから、こういうタイプは、なんともできません。
狂っているだけで、妄想幻覚症状ではないので、薬も効きませんし、精神は狂っているのですから、心理的な治療法も通用しません。
昔は、境界例と言われましたが、一番、なんともできない病態です。

本人は発揮できていない才能があって、いろいろとできると思っていますが、才能が実際にあっても、精神病+強迫症だと発揮できませんから、大抵のことはできません。
できることをできる範囲でしていくしかありません。


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強迫症(強迫性障害患者)とHSP・HSCにも社会的バリアフリーの実現を

様々な強迫症状があるのに、全部同じ治し方をしようとします。
特に生理的症状である過敏性の強迫症を、心理的症状として治療するのは、無理があります。
HSP/HSCの過敏性が病的レベルになったのが、過敏性強迫症なのです。

過敏性の精神障害がないことが問題なのですが、過敏性の発達障害さえありません。

発達障害は、何の発達障害かというと、精神でも知能でもなく、一応、神経の発達障害ということになっていますが、神経過敏(過敏性)が主症状の発達障害はありません。
発達障害でも、精神医学で対応することになりますので、過敏性が原因だとなんともできませんから、病気としてはないことにしているのです。

HSP・HSCも発達障害ではないことになっているし、自閉症に感覚過敏があるといっても、自閉自体は鈍感症状ですから、感覚過敏だから自閉症になってしまうのではなく、簡単な刺激への過集中でそういう一面がある子(人)もいるというだけです。

神経過敏(過敏性)が主症状の精神障害もありませんから、過敏性で精神的に苦しんでいても病気でも障害でも無いということになります。

明らかに、強迫性障害の苦痛は、過敏性そのものの苦痛なのに、敏感であれば、それは考え方とか気のせいということになっているのです。
強迫性障害精神障害なので、そこに神経障害は含められないからですが、神経障害の強迫性障害もあることは事実ですから、その範囲の人達も強迫性障害とされていることで、関係のない不適切な治療を受けることになってしまいます。
神経障害の強迫性障害は、強迫性障害ではなく、過敏性強迫症などとして、別の病気とするか、そういうまったく違うタイプの強迫症(過敏型強迫症)もあるとして扱うべきなのです。

過敏性・・・過度に敏感であることで些細な刺激でも強い苦痛を感じやすい
強迫状態(強迫感覚+強迫観念)・・・その過敏性の苦痛が長く残ってなかなか消えない
強迫状態(強迫行為)・・・その苦痛を防いだり、苦痛の対処としての行為をしなければならない

これらは生理的問題であり、思考でのコントロールが困難な症状です。
そういう症状で、気分、感情、思考、記憶(忘れるのではなく、不快な記憶が残ってしまう)などにも強迫されて、心が病むことで、余計にコントロールが困難になります。

単に敏感で生理的恐怖などを感じやすいだけではなく、その思いが強迫観念として続いて消えなくなってしまう、それが強迫性障害の特徴です。
過敏だから、強迫観念が浮かび、強迫観念に対しても過敏反応してしまうのですが、そういう反応自体の苦痛が強迫症患者にとっては、すでに害される状態なのです。
過敏性の強迫性障害だと、それらの苦痛が重なって、その苦痛の元となっていることに危害を感じます。
それは、普通の人にはなんてことなくても、強迫症状が出る人には、実際に害が強いからです。

不快な感じ、不快な感情、不快な思い、そういうのが長々と消えなくなってしまうので、それを防いだり対処しようと強迫行為をします。

過敏性があっても、その苦痛のストレスに耐えられる人であれば、強迫行為はしなくても済みますが、器質的に敏感な人は、ストレス耐性が低い人が多いので、ストレスに耐え切れずに、強迫行為をしないといけなくなります。
強迫行為では対処できないことなら、回避したり、我慢したりすることになります。
どちらにしても、ストレスは強いのですが、我慢することが続くと、心の病みが深くなります。
前向きに自発的に強迫行為ができたら良いのですが、ストレスに弱いので、強迫行為もストレスになってしまい、特に鬱が重なっていると、刺激を避けて、回避的で消極的に生活しないといけなくなります。

敏感な人でもそうなりますが、敏感なだけなら、一時的な苦痛で済むので、心は病みにくいのです。
強迫症状によって過敏性の苦痛が消えなくなってしまうので、余計に社会適応し難くなり、社会的ひきこもにりなります。

過敏性+ストレス耐性の低さ=強迫状態ですから、精神的な問題ではなく、器質的、生理的な問題の症状です。

神経衰弱という言葉がありましたが、神経が消耗して弱まって、敏感になったりストレスにも弱くなってしまう病状ですが、それによって強迫も起こるとされていました。
しかし、神経が原因の精神的症状だと、精神医学では治せませんから、精神的症状と神経の過敏性は関係ないということにしたり、敏感であれば、考え方とか心の持ちよう(認知の仕方)でそうなっているとして、対応するようになりました。

しかし、精神が神経を作り出すのではなく、神経が精神を作り出すので、考え方とか心の持ちようをどうこうしようと、神経機能を操作するのは困難です。

強迫は考えに関わらない生理的神経機能です。敏感な人が刺激に敏感に反応してしまうのは、生理的には正常ですが、過敏だから障害になってしまうのです。
その過敏反応に強迫観念が結び付き、敏感であることで、強迫観念にも過敏反応してしまい、過敏性の苦痛が消えなくなり、強迫行為をしないといけなくなります。

現実に対して敏感な症状は、周囲にとっては危険ではありませんが、本人だけが周囲からの刺激で苦しむことになります。
周りから害される病気です。

現実に対して鈍感な症状ほど、現実側の他人が迷惑を受けやすいので、危険な状態ではありますが、本人の苦痛が強いとは限りません。
周りを害する病気です。

敏感症状(HSPHSC、強迫)・・・敏感であることで、本人的には苦痛が多くなり、危険回避が過剰になりますが、危険回避の行動は、周囲に対しては危険ではない。
神経過敏の問題ですから、当然、病識は強いのですが、過敏性の症状による苦痛は、本人の内部のことであり、他人からは見えないので、その苦痛も理解され難い。

鈍感症状(統合失調、躁状態自閉症、解離)・・・鈍感化(空気が読めない状態)によって、本人的には問題なくても、周囲の人達に迷惑をかけやすく、危険な場合も多い。
本人が変な状態になっていることが分かっていなくても、現実に対して不調和な症状が出ているまま、現実に関わろうとするので、現実側にいる他人からは違和感が強く異常に見えるので分かりやすい。
解離の場合、症状で現実離れしても、現実に戻った時などに、異変に気付くが、大元の性格が善良であれば、周囲には迷惑をかけ難い。
統合失調の陽性症状だと、症状で性格自体が異常になってしまうこともあり、現実離れしたままだと、本人は異変に気付き難いし、周囲に対しても危険が強い。
躁状態も似たようなものですから、陽性症状と躁状態は、その危険性の強さから、精神病状態として、精神障害の中でも厳重な扱いをすることになります。

そういう症状と、過敏性の強迫症状は真逆です。
敏性の強迫症の人は、器質的に鈍感になれる素質がないため、そういう病気にはなりません。
強迫症状があれば、現実離れできずに、統合性も維持されますが、現実のストレスが消え難く、ため込まれてしまうので、生理的に強迫行為で対処しないといけなくなります。
強迫行為は生理的行為で、強迫観念は生理的思考ですから、心理は関係ありません。

普通の強迫症とか、神経質な人は、器質的過敏性はないので、鈍感化する素質があり、そういう病気になり難いわけではありません。
移行したり、併発することもありますが、重度の強迫症状と、重度の統合失調症が併存することはほとんどあり得ません。
どちらかが重ければ、どちらかが軽くなります。
強迫と解離も敏感と鈍感で質的に反発しますから、併発することはありません。
解離は症状そのものがストレス回避なので、強迫状態になりませんから、強迫行為が起こらないのです。

うつ病・・・本人の苦痛が強いし、不活発になりますから、重症であれば、本人にも周囲の人にも異変が分かりやすいが、強迫症状が重なっている場合、不安、恐怖、嫌悪、緊張感、警戒心などで気分が高まって、危害回避や対処で不活発にもなれないので、うつ病であることが分かり難い。

強迫症状によって、性格が変わることもありますが、うつ病の人が元気になれないことと同じように、慢性的な症状によってその性格に戻れなくなってしまうのであり、本来の性格が消えるわけではありません。

うつ病だけの人は、普通の状態に戻ることもあるので、調子に波がある人が多いのですが、過敏性の強迫症状は慢性症状ですから、普通の状態というものがなく、調子の波が少ないうつ病になります。
過敏性が弱い強迫症の人とか、強迫観念が不安思考だけの人などは、強迫症状自体に多少の波があり、そうであれば、うつにはなりにくいタイプです。

躁状態・・・興奮によって、気分が高まるので、危険をかえりみない行動が増える。躁は鬱との周期的症状であり、躁状態の時は、鬱にはなっていない。
双極性障害ではなく、躁病であれば、鬱にはならないが、そういう人はあまりいない。

強迫状態・・・不安、恐怖、嫌悪、緊張感、警戒心などのネガティヴな感情によって、慢性的に気分が高まるので、危険回避や危害対処の行動が増える。
強迫状態の時は、鬱にもなっているので、強迫があれば、鬱も慢性的に続く。

神経が興奮することと、神経が過敏であることは別のことであり、興奮中はストレスに強くなります。
スポーツ選手などが興奮剤を使用するのは、そのほうが強くなれるからです。
しかし、敏感な人には、興奮すること自体がストレスになって、そうなり切れませんから、興奮しても程度があって、敏感なままなのです。

敏感だと冷静な人が多いのは、過敏性があるので、興奮できないからです。
冷静だから敏感なのではなく、興奮状態になれないので、躁状態や陽性症状にもなり難いのです。
躁状態や陽性症状にはエキサイトになりますが、強迫症であると、器質的にそういう刺激に耐えられないので、症状としても起こらないのです。

強迫症であると、気分だけではなく、感情、思考、記憶などの処理にも障害が起こりますが、れらに問題があって、強迫症になってしまうのではなく、過敏性によってそうなっているのですから、過敏性がある限りは、それらも治し難くなります。
例えば、気分を安定させる治療をしても、過敏性に効きませんから、気分も不安定になります。

興奮を静める薬はありますが、過敏を抑える薬はありません。

過敏性強迫症自体は心の障害というよりも神経の障害なので、心で治そうとしても基本的には治りません。
トラウマは心の問題とも言えますが、実際には脳の問題であり、トラウマによる強迫状態は過敏性が強めます。
PTSDはトラウマにより過敏になりますが、強迫症は、過敏性によって、トラウマになります。
強迫観念も、それが浮かぶこと自体がトラウマになりますから、なかなか消えなくなります。
神経過敏に効く薬はありませんが、それによる恐怖や嫌悪に効く薬は、あっても麻薬類なので、使えません。

過敏性強迫症でも、過敏型の強迫症でも良いのですが、そういう病気、そういうタイプがあることを理解できないと、強迫性障害の全貌は把握できません。

過敏性強迫症(強迫観念先行型)・・・強迫症状自体は治せないので、鬱などの周辺症状を治しながら、環境調整など生活の工夫をして悪化を防ぐ。
関連記事リンク
強迫性障害での鬱病が治し難い理由 その2/タイプや病状ごとの強迫症(強迫性障害)の治し方
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/29/174910

不安型強迫症・・・普通の強迫性障害なので、普通の強迫性障害の治療で治せる可能性はある。

神経質の強迫症状・・・考え方で不安になって、その不安が考え方を強めるので、不安を抑える薬、あるいは、考え方そのものを鈍らせる薬(抗精神病薬)を使いつつ、考え方の癖を修正すると、治せる可能性は強い。
一般的な説明に出てくる少量の抗精神病薬認知行動療法で治しやすいのは、このタイプです。
思い込みが妄想に近い(現実との結び付きが弱い)ほど、薬で治しやすくなります。

強迫行為先行型・・・強迫行為依存症みたいな病状ですから、治すとしたら、依存症治療と同じように、強迫行為を止められる訓練をすることになります。

強迫感覚主体型(過敏型の強迫)・・・強迫観念先行型の原型で、精神障害ではなく、神経障害です。強迫行為を起こす違和感とか不快感に思考が結び付くと、強迫観念先行型になります。
症状としては軽い人が多いので、精神的にも病んでいませんから、環境調整など生活の工夫をして強迫観念先行型にならないようにする(悪化を防ぐ)ことになります。

基本的に、過敏型以外は、普通の強迫性障害の治療で良いのですが、過敏型は普通の強迫性障害とは全然違うので、普通の強迫性障害の治療では治すことができません。
過敏型でも、ストレスにはある程度強く、鬱にもなり難いことで、強迫行為先行型の傾向(強迫行為での安心依存)が重なっているタイプは、そういう面を治すことで、ある程度は軽症化可能ですが、その原因である過敏性は治せないので、症状は続きます。

興奮による鈍感化症状とは真逆ですから、不安定な精神状態のまま人に関わろうとすることはなく、社会適応できなくなれば、社会的に引き籠もろうとします。

社会適応したくても社会側が対応し難い病気なので、お互いに対応困難になりますから、社会と距離を置くしかなくなり、そのほうが人に迷惑もかけ難いのです。

過敏性強迫症は、生理的な症状ですから、自然と治るわけでもなく、むしろ、強迫観念の反復性で自然に悪化します。
心以前の神経レベルの問題は、心ではコントロールできないことです。
神経が心を作るので、心では神経を治せません。

単に脳をいじって、恐怖が起こり難くするということでも、強迫は軽くなりますが、器質的過敏性と心の病みも治さないと、恐怖を感じにくくなってしまうことで、逆に危険な病状になります。

それはもう昔から分かり切っていることで、今後も変わりませんから、過敏性障害への社会の理解と協力がなければ、社会適応も困難です。

HSP/HSCにしても、過敏性は神経の障害ですが、そういう人達がいたとしても、社会的には何もしようとしないままです。

社会的な理解が得られれば、少しは生きやすくなりますが、敏感ならストレスに慣らせば良いという考えに支配されていて、ストレスに慣らせないからこその精神障害であることが理解されないままなのです。

少なくとも、医療機関(病院、調剤薬局など)や福祉関係、その他の公共性の強い場所は、強迫観念を煽らない安心できる場所にしてください。

患者にとっては、危険でも行かないといけない場所ですから、精神的な意味でも衛生的で安全できる場所にしてほしいです。

高齢者向けになっている所が多いのですが、高齢者の認知レベルや鈍感性に合わせていると、過敏な人には、苦痛の強い場所になってしまいます。

多くの医療機関では、待っている患者に向けてテレビ番組を垂れ流ししていたり、恐怖情報の載っている新聞なども置かれています。
待合室がミニシアターのようになっている所が多くあり、待っている患者全員に強制的にテレビ番組(雑多な情報)を見せ付けるようなことをしています。
これは精神的に不衛生です。医療機関が精神症状を悪化させるようなことをしてはいけません。

病気を治したり、障害を支援する場所が、病気や障害を悪化させる場所になっていては困りますから、患者の強迫観念を煽ることしないでもらいたいのです。
不安、恐怖、嫌悪などに強迫されて強迫観念が浮かびますから、不安、恐怖、嫌悪などの不快感を煽ることをしないでほしいのです。
それは他の多くの現実反応型の精神障害者へのバリアフリーにもなります。

できるだけテレビは置かないほうが良いのですが、テレビを置く場合でも、テレビ番組の垂れ流しはせずに、癒し系の環境映像などを流す。もしくは、テレビの向きを工夫して、音量も下げて、見聞きしたくない人はそう出来るようにしてください。

ラジオなど流す場合も、トーク番組などではなく、日本語ではない曲(日本語だと意味が分かるので不快な刺激が起こりやすい)とか、癒し系の音楽放送にしてください。

恐怖や嫌悪するような情報が載りやすい新聞雑誌などは置かないようにしてください。
新聞雑誌を置く場合は、経済新聞、健康雑誌や絵本などの恐怖や不安を煽らない内容の書籍などに限定するか、できるだけ表紙や紙面が見えないように置いてください。
それが困難な場合は、新聞雑誌などのない安全に待てるようなスペースも別で用意してください。

敏感な人は、普通の人がある程度でも不快に思えるようなことなら、強い刺激になりますから、できるだけ不快な感情(不安、恐怖、嫌悪、怒り、悲しみなど)を刺激するようなことを減らして欲しいのです。
汚いこととか、精神的に汚いことも含め、恐怖などの感情を煽ったり、悪いイメージの浮かぶような情報を見せないことです。

聞くと嫌な感情とかイメージが浮かぶような話しはしないようにしたり、患者の他の人達の会話などが聞こえないようにしたり、見ると嫌な感情とかイメージが浮かぶ情報は見せないようにしてもらいたいです。
強迫性障害は、そういう感情やイメージが一度浮かぶと、なかなか消えなくなってしまう病気だからです。
不安や恐怖、嫌悪などが強迫観念を浮かばせますから、そういう情報を見せ付けないでください。

PTSDや恐怖症でもニュース番組が苦手な人はいるし、強迫症だとそういう情報の見聞きによる汚染で汚れてしまう人もいます。
汚されれば、その体験がトラウマになってしまうし、洗ったり、捨てたりしないといけなくなります。

そういう場所に、テレビを見に行きたいわけではないので、無理やり見せてはいけないし、雑誌などは表紙自体も不快感を煽る情報が載っていますから、それを近くで他人が開けば、無理やり見せ付けられることになります。
そういうのは、敏感な人には、暴力をされるに等しく思えます。
不快な思いが消えなくなり、強迫症状が強まり、実際にそういうことが危害になってしまいます。

強迫性障害、不安障害、PTSDなどの患者には恐怖情報を過剰に避けて、見聞きすると拒絶反応が出る人がいます。
特に強迫性障害は恐怖などに強迫される病気ですから、不安、恐怖、嫌悪などを煽られるような情報を見聞きすると、それが忘れられなくなってしまうだけでなく、汚染強迫症であると、その情報が汚れの強迫観念となって付着して、汚れと不快感が落とせなくなってしまうのです。

そういう患者にとっては、テレビ番組を見せ付けられたり、人の読んでいる新聞雑誌などから情報を見せ付けられることは、精神的苦痛になります。
実際に、言葉や映像や写真などでもトラウマになってしまう人も多く、不快な情報を強制的に見聞きさせるのは、暴力でしかありません。
普通の人には無害の刺激でも、過敏性の精神障害を持つ人には、耐えられない恐怖や嫌悪になります。

人の近くに行けない人もいますから、待合室をそのように改善できない場合は、どこか一人で静かに待てる場所を用意してください。

調剤薬局一元化とかも言われていますが、今のところ、行きたいところを選べるし、明るい清潔な薬局もありますから、病院ほどは行き難くないかもしれませんが、強迫性障害患者には、調剤薬局に行くのも不安な人が多くいます。

処方箋には病名は書いてありませんが、飲んでいる薬である程度は分かります。
しかし、薬剤師さんは、薬のことは知っていても、病気自体(特に精神障害)のことはよく知りませんから、事前に話さないと分からないこともあります。
薬局でのやり取りで、精神障害の症状で困難なことは、薬剤師さんに相談すれば、うまく対応してくれるはずです。

薬局でなくても、どこでもそうですが、困難なことは、事前に説明したり、どうしてほしいか相談することを忘れないでください。
精神障害の中でも特に強迫性障害は、誰にでもできる簡単なことさえ出来なくなりますが、普通に見えますから、言わないと、まったく分かってもらえません。

ただ、不安だったり、恥ずかしくてそうできない人もいますから、強迫症の人には、以下のようにしてもえたら薬局もバリアフリーになります。

強迫性障害は簡単に言うと、悪いイメージが浮かぶと、それが消えなくなってしまう病気です。
ですから、それを浮かばせる不快な物事をいつも警戒しています。
嫌なイメージが浮かぶと、なかなか離れなくなったり、それが何らかの良いことと結び付き、汚染になってしまう人もいます。

そのため、聞きたくない言葉がいっぱいある患者もいますから、薬の説明も言い方を工夫してください。

副作用のなどの事前説明も眠気とか渇きとかの不快なイメージが浮かび難いことなら良いのですが、不快感の強まる話(特に言葉自体から不快なイメージが浮かぶこと)は、不安の強まる病気の人には話さないほうが良いのです。
不安で飲み難くなってしまうからです。

薬を渡す時に、「こういう副作用があります」と説明される場合はありますが、これだと薬に恐怖条件付けをしてしまいますから、人によっては、プラセボ効果と逆のことが起こりえます。
普通の人ならいいのですが、強迫性障害の人は、恐怖情報が離れなくなってしまいますから、その情報が薬と関連付いて、飲もうとするとそのことが思い浮かび、その不安が消えなくなり、安心して飲み難くなります。

誘導的に「こういう副作用が出ていませんか?」などと、患者が言ってもいない不快な副作用を具体的に聞かせるのは、患者に不快感を与えます。
患者が不快で聞きたくないことはその患者は言いませんから、薬剤師さん側からは、聞くとしても「特に変わりはないですか?」「特に問題ありませんか?」などの患者が答え(言葉)を選べる聞き方にしてください。
本人が口に出せる副作用は、それほど不快ではないことであったり、不快にならないレベルでの言い方なのですから、それについて聞いたり、それと同じ言い方で聞くのは問題ありません。

不快なイメージが浮かぶ話が苦手なので、用法容量の説明とか、飲み残しの確認とかは、まったく問題ありません。
定期の患者さんなら、言い方とか態度が優しければ、それで十分なので、いつものですね。とかの一言でもいいのです。
とにかく、強迫性障害患者としては良いイメージで受け取れれば、それで良いので、できるだけイメージアップして安心できるような場所にしておいてほしいのです。

逆に心配だから聞きたい人もいますから、副作用の説明をしてもいいか、しないほうがいいかを、初めて来た患者には事前確認したほうが良いのでしょう。

薬の説明書には、恐怖を煽るようなことは省略してある場合もありますが、敏感な人は、その範囲でも過敏反応します。
強迫性障害患者には、薬の副作用が書かれた説明書を見れないとか、そういった文字で汚れてしまう人もいますから、薬の説明書を受け取るかどうかも事前確認できたら良いでしょう。
これは、もらわないこともできますから、そうしたい人は、薬局側にそう伝えれば対応してもらえます。

調剤薬局でしていることは、基本的には厚労省の指示ですから、厚労省側が精神障害者のことも考えて、柔軟な対応の仕方を考えるべきなのです。

例えば、汚染恐怖があると、紙の物(汚れても洗ったり拭いたりできない物)の扱いや継続使用が困難になり、お薬手帳なども継続使用できなくなりますが、厚労省は、そういう人の立場をまったく考えていません。
記入式のお薬手帳などは、開いてシールを貼ったりしないといけないので、ビニールパックに密封できませんから、中身が汚れると拭いたりすることもできずに、捨てないといけなくなります。
無理に紙のお薬手帳を強制使用させることがあってはいけません。

電子お薬手帳と言っても汚染恐怖の人は、スマホなども洗い難いので持ち出せなかったり、接触汚染防止で人にスマホを渡したりもできませんから、紙のお薬手帳の代わりとして、全国統一で情報を共有できるカードタイプのお薬手帳を普及させることを考えてください。
少なくとも、お薬手帳がなくても料金が高くならないようにするとか、そういうのがバリアフリーなのですが、厚労省精神障害への理解力がないので、考えようともできません。
普通基準でしか考えないので、スマホとかお薬手帳なんて誰でも使えると思っているのです。

厚労省が目論む薬局一元化も汚染恐怖のある人には困難です。
患者にとっては病院ごとの汚れがあり、渡される処方箋も汚染されています。
病院が違えば、その処方箋を、いつもの薬局に持って行くと、その薬局を汚染してしまいます。病院ごとに薬局も分けることで、汚染を防げるのです。

強迫性障害やAD/HDの人は、並んで待つことが苦痛なので、病院の近くの薬局が混んでいれば、後日、家の近くの薬局で人のいない時間に受け取りたいという人もいます。
こういう人にも薬局一元化は不便です。

精神障害者は、感覚や考え、反応や行動が普通ではない人が多いのですが、厚労省は、普通基準だけで、みんなを普通の人のように扱いますから、精神障害者は大変辛い思いをします。
そういう問題は厚労省精神障害者を軽視しているからです。
それを改善することが、過敏性の精神障害者向けのバリアフリーです。

精神障害者手帳の診断書にしても厚労省が規定しているのですが、強迫症に対しては、「強迫体験」という言葉が使われているぐらいで、強迫症状による生活の障害度を理解できていません。
強迫症患者にはバリアをしているので、これは差別です。
関連記事リンク
強迫性障害(強迫症)と精神障害者手帳
https://locd.hatenablog.com/entry/2019/11/01/144501
今まで強迫症を理解できる人がいなかったので、こんなことも誰にも指摘されないまま長年放置されてきたのです。

コンビニ、本屋などの商業性の強い場所は、どうしても行かないといけない場所ではないので、雑誌などが置いてあっても嫌なら患者が行かなければ危害を受けませんが、公共性の強い場所は行かないわけにはいかない時もあります。

強迫症だと車の運転ができない人も多いので、電車を利用することになりますが、電車内が不衛生過ぎて、それさえ困難な人も多いのです。
男性でも人と密着したくない人は多いのですが、女性専用車両は空いていても男性だと利用し難くなっています。
普通の電車なども、宙吊り広告などで雑誌の宣伝を見せ付けますが、そういう情報でも強迫観念が煽られたり、汚される人もいるのです。
過敏性で強まった汚れは、普通の汚れのように簡単には消えませんから、汚されれば、捨てたり、長時間洗わないといけなくなります。
女性専用車両は女性向けの比較的イメージの良い広告が多いのですが、男性だと乗れる時間が限られてしまいます。

公共の交通機関も、広告のない車両(グリーン車みたいな有料でも可)を作る、小型モニターなどでニュース番組などを無理やり乗客に見せ付けないようにする、車両の一角に他の人に接触せずに立っていられるスペースを作る、拭き難い布張りのイスではなく、撥水性のある素材のイスにしたり、長イスに仕切りをつけたり、隣の人と間隔を空けて座れるイスにするなど、過敏性の精神障害者に対してもバリアフリーにしてほしいところです。

銀行などの公共性の強い場所も、待っている人達に、当たり前のようにテレビ番組を見せ付けてはいけません。
テレビを見に行く場所ではないので、見る、見ないは選択可能にするか、テレビ番組ではなく、刺激のない環境映像などを流してください。

銀行もそうですが、駅などにもイメージの悪い(恐怖を煽るような)貼り紙を貼ってはいけません。
強迫症患者には、不快な写真とか文字でも汚れてしまう人がいるからです。

過敏な人は、普通の人なら楽しいことでも、不快な刺激になってしまいますから、低刺激で安心できる場所にしてください。

患者の家族も強迫症の正しい知識を持ってください。

強迫性障害を社会的に正しく理解してもらうために、森田療法認知行動療法ビジネスによって拡散された間違った情報を、一般の人達がさらに拡散することがないようにしてほしいのです。

彼らはビジネスとしてやっているだけで、患者を支援したいわけではないのです。
自称専門家とか自称第一人者とかも過敏性の強迫があることさえ知らないのです。

強迫性障害は考え方の問題で神経過敏は関係ない、強迫観念は「かもしれないという」不安である、患者は強迫観念や強迫行為をバカバカしいと思っている、強迫行為を止めれば強迫観念は治せる、巻き込みさせると悪化する、こういうのは、誤解による偏見とか迷信です。
森田療法認知行動療法ビジネスの理論を通すために、わざとそういう誤解をさせて、治しやすい強迫症を作り上げて、信じ込ませようとしてきたのです。
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強迫性障害は不安の病気ではない?/強迫状態と躁状態の違い、強迫症と他の病気の関係/強迫観念と考え過ぎの違い/過去からの強迫、記憶強迫
https://locd.hatenablog.com/entry/2020/09/20/054007

不快な思いをして、その思いが消えなくなってしまう。こういうのも強迫観念です。

普通の人の感覚過敏とかは、感じたことが長々と残ってしまうわけではなく、一時的な不快感なのです。
敏感な人は、それが長く残ってなかなか消えなくなりますが、そこに不快な思いも結び付くと、強迫観念になります。

ですから、敏感な人にとっては、強迫観念が不安だけなんてことにはなりません。

想像上での不安思考だけが強迫観念なら、過敏性はないので、今現在とか、過去から強迫されることはありません。
不安強迫は、未来強迫なのです。未来といっても不安自体は現在の苦痛なのですが、未来の危害への不安のことです。

過敏性が強いと、今現在、過去からも強迫されます。
今とか過去に何らかの強迫的なことがあれば、その不快な思いが消えなくなって、その記憶があることで、不安(未来)にも強迫されるのです。

汚染恐怖の場合、汚いかもしれないではなく、汚いと思って洗っている人が多いのですが、こういう現在形の強迫観念が過敏性の強迫観念であり、考えに関わらない生理的思考です。

想像上で不安思考が浮かんで、その思考に対して恐怖するというのは、実際にはないことへの恐怖なのですが、その不安思考が、実際の何かへの恐怖があることで浮かんでいるなら、実際にあることへの恐怖なのです。

不安自体は、未来の危害であったり、実際には起こってないことなのですが、その不安に強迫される場合は、実際に害が無いということでもありません。
例えば、ピストルを向けられて、実際に撃たれてないなら、実際には害がないと言えるでしょうか?
ピストルを向けて、おどすだけでも、実際の強い危害なのです。
不安強迫の場合、そういう状態に近いので、現実の何かへの恐怖があることで、それに不安にさせられてしまうという強迫自体も実際に危害なのです。

その現実の何かへの恐怖が頭の中だけのことなら、その恐怖が生理的であっても、考えが作り出す不安なので、実際には害が無いとも言えます。

しかし、現在や過去で体験した生理的嫌悪や恐怖があることでの不安強迫の場合、頭の中だけで考えて作り出す(心理的な)不安ではなく、現実反応の不安です。
不安な思い自体は実際に起こってなくても、すでに実際に害がある上での不安なのです。
例えば、トラウマ記憶があることでの不安思考などです。
こういうのは、想像上だけの恐怖とは違って、実体験での恐怖なので、考え方の問題ではありません。
実際の危害で不快な思いをして、その思いが続いてしまうというのは、間違った学習をしたわけではありませんから、再学習とか条件付け解除はできません。
学習以前の生理反応の問題なのです。

不安、恐怖、嫌悪の中でも、嫌悪が一番治し難く、考えが作り出した嫌悪なら考えを変えられれば治りますが、生理的嫌悪は治せることではありません。
生理的な感情なので、自然と消えるのを待つしかありませんが、その不快な記憶が残っている限り、嫌悪も続いてしまいます。

想像上の恐怖や嫌悪があることでの不安なら治しやすいのですが、頭の中だけの思い込みの不安ではなく、実際に危害が強いこととか、実体験した何かへの生理的嫌悪があっての、それに対する不安思考は、なかなか治せません。

強迫症の人の場合、何かを見て、恐怖が起こり、その恐怖の強迫が続く苦痛も、実際の危害になりますから、見聞きしただけのことでも、実際の危害として記憶されます。
嫌悪するようなことを見聞きして、嫌悪の強迫状態が起こる、これも実体験の危害なのです。
それがトラウマ記憶となって、不安な強迫観念が浮かびます。

そういう実体験がなく、完全な想像上の不安思考なら、妄想みたいなものなので、比較的治しやすい強迫観念ですが、根本にそれを浮かばせる生理的恐怖があると、それがある限り不安になってしまいます。

森田療法では、不安の強迫観念は、健康でありたい思いが強いから浮かぶとしていますが、例えば、健康でありたい思いが強いから、病気への生理的恐怖が浮かび、その恐怖に強迫されることで、強迫観念が浮かぶとしたら、生理的恐怖を浮かばせる理由が、それ以前にある心のあり方の問題なので、心理的強迫観念です。
こういうのは、過敏性ではなく、考えの問題ですが、本当は強迫観念ではなく、普通の不安思考です。
健康でありたい思いは、ほとんどの人にあるのに、普通の人たちには強迫観念がありませんから、健康でありたい思いが強いから、強迫観念が浮かぶわけではありません。
神経質の人は、恐怖が強まる考え方をしてしまうことで、その考えが強迫観念になります。

そういう思いに関係なく浮かぶのが過敏性の生理的な強迫観念です。
健康でありたい欲求があってもなくても、それに関係なく、病気などへの生理的恐怖があって、その恐怖に強迫されることで、強迫観念が浮かびます。

過敏性による感情も思考も生理現象なのですが、生理的な恐怖とか嫌悪は、「なぜそうなのか」という心理的な意味がないのです。
考えて、その考えによって怖いのではなく、考える前に怖いのです。
そこに思考が結び付く場合は、生理的な思考なので、その思考も、意識的な考えとは無関係に浮かぶのです。
危害に対しては、そういう思いが生理機能として自然と浮かぶようになっているし、危害を受ければ、その記憶は残るようになっています。
そうなっているから、危険回避できるのですが、敏感でストレス耐性が低いと、そういう生理機能的な危害回避が過剰になってしまいます。

過敏性が強いと、過敏性による強迫状態になってしまうので、恐怖とか嫌悪を感じるだけでも、強い害を受けますから、生理的な感情や思考が浮かぶ物事(気害)が多くなります。
それは普通の人にはなんてことなくても、強迫症の人には、実際の危害なのです。
そういう記憶がため込まれることにもなって、関連することとか、似たようなことも危害になってしまいます。
それは危害があることなのですから、どうしても気にしないことはできません。
気にしても、気にしないようにしても、それに関わらない生理的反応として、どうしても気になってしまいます。
自分の意向は関係のない症状なのです。

心理的な恐怖とか嫌悪は、そう思える考え方をすることで、頭の中で作られますが、生理的な恐怖とか嫌悪は、考えに関わらずに体感することです。
過敏性によって、それを感じやすく、感じてしまえば、長く残って消えなくなってしまう。
そういう不快な感じの強迫に、思考が結び付くと強迫観念になりますが、強迫観念がある前に、恐怖とか嫌悪がありますから、頭の中だけの(強迫観念による)嫌悪や恐怖なのではなく、実際にある(体感した)恐怖や嫌悪なのです。

強迫観念自体は誤った考えとか、実際の危害ではなく未来の危害への不安であっても、実際には恐怖や嫌悪するようなことが無いということではなく、そういう強迫観念を浮かばせるような危害が実際にあるので、そう思えてしまい、その強迫観念が誤っているとか、ほとんどあり得ないと分かっていても、そう思わせる生理的な恐怖や嫌悪は消えないので、生理反応としては正しい思いになってしまいます。

例えば、何らかの病気に関する誤った考え方でその病気が怖くなってしまったという場合は、考え方を変えることで、その病気も怖くなくなります。
ところがその病気への生理的な恐怖が先にあって、そういう誤った考えが浮かんだ場合は、その考えに関わらず、病気への恐怖が先にありますから、考え方を変えても、病気への恐怖が続いてしまい、その病気のことを考えれば、また誤った考えが浮かんでしまいます。
誤った考えが修正できても、またそう思えてしまったり、もしそう思わなくても、病気への恐怖自体は消えないのです。
その考えで怖いのではなく、その前に、生理的恐怖があって、その考えが浮かぶので、実際には、考えは関係のない(心理的理由の無い)恐怖なのです。
たまたま何らかの思考が結び付いただけで、そんなことよりも、生理的嫌悪や恐怖が消えないことが苦痛なのであり、その思考自体にも生理的嫌悪や恐怖が起こりますから、そのほうが苦痛なのです。

ではなぜ怖いのか?恐怖を感じるようなことだからですが、恐怖を感じてしまう、それ自体もその病気での危害であり、過敏性の症状の苦痛が起こることで、その病気の存在自体が実際に危害に思えてしまうのです。

強迫観念があっても、それに対して、生理的嫌悪や恐怖が起こらないなら、強迫観念にもなりませんが、生理的嫌悪や恐怖があることでの強迫観念ですから、そこから、生理的嫌悪や恐怖だけ取り除くことはできません。
強迫観念が誤った考えなのか正しい考えなのかは、そんなに関係なくて、その元に生理的嫌悪や恐怖があり、それが続いてしまうことが事実として苦痛なのです。
その元の苦痛(強迫感覚)に、強迫観念がくっ付くのですが、強迫観念の内容は、元の恐怖や嫌悪の具体化に過ぎませんから、その実体としての強迫感覚があることが、強迫観念の苦痛の本質なのです。

例えば、目覚めている時に、悪い夢を見始めてしまったら、それが非現実でも、現実の生理的嫌悪や恐怖が続いてしまいます。
それと同じように、内容はともかく強迫観念が離れなければ、生理的に不快ですから苦痛が続いてしまうし、基本的には現実の危害に対しての観念ですから、その苦痛を消すには、現実行動の強迫行為をしないといけなくなり、生理的にそうしないといけないからこそ、そうさせること(現実の不快なこと)が余計に危害に思えます。

過敏性の問題がなく、強迫状態にもならなければ、危害にならないことが多いのですが、過敏性の問題があり、強迫状態になってしまう人とっては、実際に危害になります。

トラウマ記憶があることで、強迫観念が浮かぶ場合も、なぜそれがトラウマになったかといえば、根本は生理的反応ですから、実際には危害のないことで、ショックを受けたとか、誤った学習をしたわけではないので、それは本当は、ショックなことではないですよ、という説得が通じないのです。
危険の学習ではなく、生理的には実際の危害ですから、学習以前のことなので、学習し直すことができません。
同じ体験をすれば、実際に同じようにダメージを受けて、トラウマになってしまうので、誤った学習をしたわけではないのです。

不快な刺激を感じて、過敏性により、それが消えなくなれば、自然と、不快な思考も結び付きます。
そう考えたくなくても、生理的にそうなってしまいます。
もし、そう思わなければ、その思いが記憶として残りませんから、危害回避をしなくなって、生物として危険だからです。
それが危害にならない人なら、そうなりませんが、過敏性が強く、ストレス耐性が低いと、そういう思いが増えて、危害回避も過剰になります。
そういう不快なことを感じたり、そういう思いが浮かぶだけでも、強迫状態になり、実際に危害を受けてしまうからです。
そうならないようにと、危害回避も過剰になります。

強迫症状が苦痛ですから、強迫患者にとっては、強迫症状を引き起こすことは何であれ、危害になります。

過敏性の強迫観念は妄想のような非現実ではなく、現実に反応した思いですから、強迫観念が患者にとって苦痛だということは、それを浮かばせる現実も害になります。
現実によって、そう思わされているので、思考上だけではなく、現実からの害なのです。

その思いがあること自体も事実ですから、実際には危害がないことを危害に思っているのではなく、症状で強迫観念が浮かぶために、実際に危害になりますから、それを避けようとするのです。
トラウマのある人には、トラウマを想起させることが、実際に危害であることと同じです。

実際の危害での不快な思いと、実際には危害のないことを、危害だと思い込むことでの不安は別の話です。

思い込みに過ぎないとか、誤った考えと本人が分かっていて、違う考え方をしたくても、それに関わらず強迫観念が浮かび離れないので、どうしても不安になってしまうこともあります。
しかし、その思い込みに過ぎない誤った考えであっても、それが頭から離れないのであれば、その思考によって不安になってしまうのは仕方ないことです。
誤った考えであっても、その強迫観念による苦痛は患者にとっては実際にあるのです。

強迫観念が誤った考えだと思うことは、強迫観念ではなく、強迫観念に対する普通の思考です。

その普通の思考に関わらず、強迫観念は浮かぶのですから、強迫観念としては誤った考えだとは思えていないのです。

患者は強迫観念を無意味だと思っているとの説明は多いのですが、同時に無意味だとは思えないからこそ、強迫行為をするのです。

普通の思考で強迫観念に対して無意味だと思っても、強迫観念としては無意味には思っていないのです。
強迫観念が無意味だと思える場合は、その強迫観念が現実との結び付きが弱いからです。
ほとんどあり得ない事だったり、実際のことではない思いが、なぜか浮かんでしまうという意味で、無意味に思えるのです。

ところが、過敏性の強迫観念の場合、実際の現実反応によってその強迫観念が浮かぶので、当然、無意味には思えません。
例えば、実際に危害が強くて心配していることに対して、心配な思いが浮かんだり、生理的に嫌なことを嫌がるのは、普通のことですから、無意味ではありません。
しかし普通が分かりますから、一般的には些細なことでそうなったり、その思い強く長く離れなくなってしまうので、過剰には思えるわけです。

強迫観念が無意味に思える人は、頭の中だけの不安思考で強迫行為をする人が多く、恐怖や嫌悪で強迫行為をする人は、実際の不快なことでの不快な感情や思考に強迫されるので、無意味だとは思えません。

誤った考えで不安になって、それに過敏反応する場合は、不安な思考への不安であって、現実との結びつきが弱いので、違う考え方をすれば、その不安への過敏反応が起こりません。
敏感であっても、不安を起こす対象が考え方の問題(頭の中だけのこと)であれば、治しやすいのですが、強迫性障害は、ありもしない不安な思いにとらわれる病気ではありません。
そういう人もいるし、そういう面もあるというだけで、それだけなら害も少ないし、不安症とほとんど変わりません。

実際には過敏性によって、不安だけではなく、様々な不快なことに強迫されるのです。

実際に苦痛を受けて、その苦痛を無意味に思えるでしょうか?
それは一般の人には苦痛ではなくても、過敏性が強いことで、強迫症状の出る人には、実際に苦痛になってしまうというだけです。
そういう過敏性での一般との差が障害になってしまう病気です。

人は何か意識できる存在があれば、それに対して何かを感じたり思ったり考えたりします。
意識的にそうする場合は止められますが、主に不快なことに対しては、そうしたくなくても自然とそうなってしまうので意識的に止められません。

同じ現実状況で、どういう反応をするかは感受性の強さや経験などでも違うのですが、思考や記憶などの内面的なことへの感受性も人それぞれです。
感じたり思考する脳機能がある以上は、そうなってしまうのですが、過敏性によって、様々な刺激に強迫される病気が強迫性障害です。

強迫観念は不快な思考ですから、感じ、だけではなく、意味があります。
強迫観念を浮かばせる不安や恐怖などの対象が不快なのは、それが不快に思える強迫観念があるからなので、嫌悪の場合は、その意味に嫌悪するのです。
不快な思いに対して、不快な反応をしてしまうのは当然のことですが、過敏性が強いとその傾向が強まり、ストレス反応での思いが、なかなか消えなくなれば、その思い自体が危害になります。

過敏反応することで、苦痛を受ける、これが危害となって、恐怖、嫌悪、不安、心配も強まり、それに強迫されることで、強迫観念が浮かび、それに害されます。
危害だと思わなければ、その対象が危険だろうとストレスにはなりませんが、その反応での症状には実際に危害があるので、そう思わないことができないわけです。

トラウマのフラッシュバックが頭の中のことであっても苦痛なのは、それによってその体験での苦痛が再生されたり、そのことでの不安な思いなどが強まるからです。

想像(イメージ)したくないこととか、考えたくないこと、思い出したくないことは、普通の人でもあるはずですが、もしそれを常時思考せずにはいられなくなったら、その状態に少なからず苦しむはずです。
強迫性障害であると、過敏性によって、そういう思いに敏感に反応してしまい、その思いが強迫観念となって、なかなか消えなくなってしまう症状が慢性的にあるので、普通の人よりも「その思い」があることでのダメージが強くなってしまいます。

だからこそ、その思いをなくそうとするのですが、その思いをなくそうとするから、余計にそのことへの意識が強まって敏感に反応してしまうわけではないのです。
その思いをなくそうとしなくても、その前から、その思いはあるのです。
過敏性によって、強迫観念から実際に危害を受けますから、強迫観念を浮かばせることへの不安も強まるのです。

敏感であると、自分の外側の刺激だけでなく、体調の変化とか、思考とか、感情とか、記憶とかの内面の精神的刺激(不快感)にも過敏反応します。
強迫観念のイメージなどに対しても現実と同じように不快な感情が起こります。

例えば強迫性の嫌悪の場合は、そのストレス対象の現実(実物)、その写真、その映像、そのイメージ、頭ではそういう区別はできても、感じ方としては、そういう区別をする壁がなくなり、実物と同じような嫌悪反応が出て、それがなかなか消えなくなります。

こういう傾向が強い人は、テレビなどの不快な情報を過剰に避けることになったり、嫌悪を煽られるような情報で汚れてしまうなどの症状が出ます。
強迫観念として汚れのイメージが浮かべば、それは現実の何かの汚れなので、そのイメージの汚れが、現実の汚れそのものになり、洗ったり、捨てたりしないといけなくなります。

不潔恐怖という場合は、過剰な思い込みでの不安思考も含まれるし、一般的な汚れに対して、過剰反応する人が多いのですが、強迫症(過敏性の精神症状)での汚染恐怖的な汚れの場合は、一般的な意味での汚れ(不潔なこと)だけではなく、不快で耐えられないことの付着(嫌悪が離れなくなってしまうこと)への恐怖であり、強迫状態そのものが汚染なので、過敏性の強迫症には汚染恐怖が一番多いのです。

普通の人は強迫状態になってしまう症状がないので、汚れることぐらいそんなに心配しなくても済みます。
汚染恐怖のある人でも、汚れることぐらいで、そんなに心配することではないと考える人もいるわけですが、そういう考えに関わらず強迫観念が浮かんでしまうので、汚れることぐらいでも苦痛になってしまうし、汚されれば、捨てたり洗ったりの強迫行為を過剰にしないといけなくなってしまう苦痛もあります。
その症状の苦痛によって、普通の汚れではなく、強迫性の強い汚れになりますから、汚れることぐらいでも、本人には実際に耐え難いダメージになってしまうし、強迫性が強ければ付着も強いので、洗浄に時間がかかったり、洗えなくて捨てることも多くなります。
実際にそういう害を受けるので、汚されることを過剰に避けるようになりますが、それは実際には危害がないことを危害だと思い込んでいる不安思考の人とは、まったく違うことなのです。

自分だけの思い込みで不安になっているから、その対象が危害に思えるのではなく、その対象で強迫症状が強まり、強く害を受けますから、実際に(症状があることで)危害を受けることだからこそ、過剰に嫌悪や恐怖が起こるのです。

強迫観念は、不安だけではありませんが、不安思考にもいろいろあります。

不安になりやすいから、不安思考が浮かぶ→不安の問題なので、不安症。

考え方によって、不安になってしまい、不安思考が浮かぶ→考え方の問題なので、神経質。

鬱でネガティヴな気分になって、不安思考が浮かぶ→鬱の問題なので、うつ病

過敏性によって、不快感を感じやすく、不快な思考が残ってしまうことで、不安思考の強迫観念が浮かぶ→過敏性の問題なので、過敏性強迫症

不安思考の強迫観念が想像上の危害に対して浮かんでいても、その危害に対して、生理的な恐怖や嫌悪がある場合は、想像上の(現実ではない)ことと分かっていても、その思いは消え難くなります。
強迫観念が想像上であっても、現実の危害に対して生理的な恐怖や嫌悪があるから、それが浮かぶという場合は、実際の危害に対して生理的に浮かぶ不安思考ですから、実際に起こってないから心配いらないという理屈が通じ難いのです。

生理的な恐怖や嫌悪ではなく、考え方で恐怖や嫌悪をしている場合は、完全に心理的問題ですから、修正もしやすいのですが、そういうタイプはあまりいません。
何らかの事への生理的な恐怖や嫌悪などがあることで、不安思考が浮かぶ人がほとんどです。
それが実際に体験していないことなら、まだ治しやすいのですか、実際に体験したことでの生理的な恐怖や嫌悪などがあっての不安思考は、実際の危害に対する不安です。
実際には害が無いことを、考え方によって、危害だと思えてしまうこととはまったく違います。
すでに危害を受けているからこその、未来の不安は、想像上だけの危害ではないのです。

強迫症状は過敏性によって起こりますが、精神医学的には、過敏性ではない強迫症状の人達だけを強迫性障害としてきましたから、過敏性の強迫症であっても、それと同じ病気にされてしまいます。
強迫症と過敏性は関係なく、敏感だとしたら考え方の問題だとして、適切とは言えない治療を受けることになります。

過敏性の強迫性障害精神障害としては治療できませんが、発達障害としても治療できません。
神経発達障害は、基本的には先天的(生まれ持った)問題として考えます。
過敏性による強迫症状は、神経障害ですが、発症年齢が15~25ぐらいが多いので、神経発達障害とは言えません。
神経過敏自体は、後天的に起こることも多く、例えば、妊娠出産などでも過敏になりやすいと考えられているし、多感になりやすい思春期の頃に、不安や恐怖、嫌悪などの強迫状態が続くことで、強迫性障害が発症することは多くあります。
そういう人が、子供の頃から過敏性があったとしても、過敏性の発達障害自体がないのですから、発達障害とは関係ないことになります。
もし過敏性の発達障害があれば、それが土台になって発症しているとは考えられますが、その発達障害強迫症の原型と言え、強迫感覚主体型(不快な感じに強迫される)や強迫観念先行型(不快な思いに強迫される)に近いタイプになります。

思春期以前は、強迫感覚や強迫観念があっても我慢することが多くなり、我慢できなければ泣いてストレスを発散したりします。
泣くというのも一種の強迫行為なので、敏感な子供は些細なことでもよく泣きます。
その上、シャイが多いのは、恥ずかしい思いにも強迫されやすいからですが、その恥ずかしさによって、泣くのも我慢するようになります。
そうなれば、強迫感覚や強迫観念があっても、その不快感や思いがそのまま、あるがままになってしまったり、不快なストレス対象を回避しようとすることになりますが、日常的で些細なことが多いので、回避できないことも多く、我慢するしかありません。
そうすると今度は、怒り、嫌悪、憎しみなどの攻撃的な感情や思いに強迫されるようになります。

その場合、過剰な強迫行為は特に起こりませんが、不安、恐怖、嫌悪、怒り、憎しみなどの不快感や不快な思いが消え難いという傾向があれば、すでに強迫症になっているのです。
そういう強迫状態になりやすい傾向自体は、先天的かは分からなくても、幼少期からよく見られることで、それを土台に思春期などに過敏性が強まることで、不快な感じや思いの強迫性も強まり、その不快な感じや思いが神経に付着したままになり、それを振り払おうと、強迫行為をすることになります。
不安とかならまだ軽いほうなのですが、怒り、嫌悪、憎しみなどに強迫されると、それらの不快感の強迫性(付着性)の強さから、その対象は汚れ(不潔なゴミ)に思えて、強固な汚染嫌悪や不潔嫌悪になります。
これは、怒り、嫌悪、憎しみがある限り続きますが、実際に危害を受けて、生理的にそういう思いが浮かぶので、頭でどう考えようと、その記憶がある限りは消えません。

過敏性の強迫症HSP・HSCの共通点は、違和感に弱いことで、それが過敏性の苦痛の原点です。

違和感は比較的苦痛は弱いのですが、敏感な人には強い苦痛になったり、苦痛でなくてもどうしても気になってしまい、気になってしまうことが苦痛になります。

しっくり感を求めて強迫行為をする人の存在は知られていますが、認知行動療法などでは、しっくり感を求めているから、小さな違和感なども気になってしまうと考えるので、強迫行為をしなくなけば問題ないとするのです。

強迫行為先行型のようにそういう人もいるのですが、実際に違和感に弱いことで、強迫行為をしなくてはならない人は、強迫行為をしなくなれば、過敏性による苦痛が長々と残ってしまいます。
強迫行為をしなくても大丈夫と言われても、そうしないと、強迫状態によってその前からある苦痛が消えないので、本人には大丈夫ではないのです。

敏感な人は違和感などの感覚的な不快感にも神経が敏感に反応してしまいますから、その刺激がなかなか消えなくなってしまいます。
不快な感じに強迫されやすいというのは、強迫症の人の共通点で、確認強迫の場合も不安感に強迫されるし、洗浄強迫の場合も汚れの不快感、嫌悪感などに強迫されます。

強迫行為に確認や洗浄が多いのは、過敏性によって日常生活の些細なことでもストレスになり、その刺激で反射的に浮かぶ強迫観念は、妄想と違って現実生活に基づいた思考だからです。
普通の人でも日常的にすることを過剰にしないといけなくなってしまうのですが、それが確認や洗浄なのです。

もちろん細かく言えば他にもいろいろとあり、例えば、強迫観念が浮かばずに、不快な感じだけに強迫される場合、違和感を感じた動作をしっくり来るまでやり直すとか、何らかの行為で中和するとか、単に不快感の強いことを過剰に避けてしまうとかの症状がでますが、どれも本質的には確認や洗浄などと同じこと(過敏性によるストレスの対処)をしているのです。

現実行動の強迫行為では解消できない強迫観念は、頭の中で強迫行為(嫌な思いを良い思いで中和するなど)をすることになりますが、過敏性の強い人は、頭の中だけではなく、日常の些細なことでもストレスになり、症状が出やすく、強迫行為としては安全確認と洗浄が多くなります。

危害回避の安全確認は強迫症的には基本の症状で、何らかの害を防ごうと確認するのですが、強迫症の場合、違和感、不安感などによる強迫での害も含まれます。
慢性症状ですから、そういう害を受けることは日常的にあり、不安になれば強迫状態になりますから、そうならないようにと確認が増えます。
その強迫観念は現実反応(現実への心配など)で浮かびますから、それが浮かばないようにしようと、現実行動の確認をするのです。

敏感な人は、現実にそうなってしまうことだけではなく、そうなりそうな状況、そう思える状況でも不安に強迫され、そのストレスに耐えられません。
その不安な思いでの強迫状態が消えなくなれば、どうしてもそう思えてしまいます。
それが起こらなければ良いということではなく、その前に、そう思えてしまう症状自体が害なので、日常的に強迫症状が出ることで、その害を防ごうと日常的に確認が増えるのです。

不安に思うことが起こりやすい状況なら、余計に緊張状態になって、緊張感や不安感に強迫されることで確認も過剰になりますが、過敏であることで、一般的に考えてそういうことが起こりにくい状況でも、日常での害(そう思えてしまう苦痛)が実際に多くなり、慢性的に緊張状態になって、強迫観念が浮かんでしまいます。

ですが、中には、完璧主義やきれい好きと同じようなに、確認することでのキッチリ感、安心感を求める欲求が強いことで、不安が強まり、何度も確認をする人もいて、このタイプのほうが、行為が過剰になりやすいのですが、これは強迫性障害の症状ではないのです。

強迫症の人には、強迫症状があり、不安や恐怖や嫌悪などを感じると、過敏性によってそれらの強迫性が強まり、その不快な感情と結び付いた思いは強迫観念となり、不安や恐怖や嫌悪などに強迫される(とりつかれる)状態になります。

強迫行為先行型や依存症とかは、強迫症での強迫状態とはまったく逆で、欲求的な思いや行為に自らとりつくことで、そうできない状況での不快感が強まり、余計に、そうしなければならなくなってしまうのです。
「とりつかれる」のが強迫で、「とりつかなければならない」状態は依存です。
特に快楽的には思えないことでも、本人には心地良いという場合はありますから、強迫性障害と強迫類似症状(完璧主義やきれい好きなどの強迫行為先行型、行為依存症、精神病的反復行動、自閉症的なこだわりの強さなど)は、しっかりと区別しないといけません。

強迫症の人は、過敏性が強いことで、不安や恐怖や嫌悪などが普通の人よりも長く強く続いてしまい、普通は気にならないことが、どうしても気になったり、心配することも増えてしまいます。
避けたり、気にしたり、不安に思うことも苦痛なのですが、それは過敏性で浮かぶ強迫観念によって、症状でそうなっているので、強迫症の人には、苦痛でもそう思わないようにしたり、気にしないことができないわけです。

不安症の人でも強迫症状は出ますが、過敏性の問題がなければ、重度の強迫症にはなりません。
自閉症や精神病状態と違って、強迫症の人は、刺激に反応することでの刺激にも弱いので、刺激となっていることに表向きは反応していないようにも見えます。
無言で回避したり、我慢したりしますが、強迫状態でストレスが残ってしまうので、後で一人で強迫行為をする場合が多く、敏感かどうかは基本的に本人が言わない限り分かりません。

何に恐怖するかはその人の経験や知識にもよりますから、頭の中だけでしか強迫行為をしない人とか、確認だけの人に過敏性がないとは限りませんが、過敏性の強さが恐怖や嫌悪対象を増やし不安を強めるので、より敏感なことで、頭の中だけの刺激ではなく、日常の些細なことも刺激となり、確認などの過剰だけではなく、その上に、洗浄も過剰という人が多いのです。

敏感なら、思考や感情などの内面的な刺激への過敏性もありますが、本当に敏感な人は、それだけでは済まないので、現実の刺激への過敏性も強いのです。
それによって、内面的な刺激にも強迫されるわけです。
ですから、過敏性の強い人には、汚染恐怖の症状が強くなります。

汚染恐怖の強い人は、親しい人との共同生活もできませんし、社会適応も困難になります。

強迫症は、一般離れしたレベルの過敏性、敏感過ぎる感受性とストレス耐性の低さが原因となっています。
多くの人との交流には神経を使いますから、刺激を避けて、人間関係は少なくなり、重症患者のほとんどは、社会的に孤立しています。

他人の感情の影響を受けやすいなら、その他人をリラックスさせれば良いという考えもありますが、敏感な人は、他人に接する瞬間に(または接する前に相手の雰囲気などから)悪影響を受けてしまうので、その他人の感情をどうこうすることもできません。

それ以前に、例えば、気の荒い人をリラックスさせようにも、そういう気性の人を敏感な人がリラックスさせることも困難で、それならば、敏感な人は、そういう人を避けるしかないのです。

気が合わないと思ったら、できるだけ避ければいいのですが、避けることも神経を使いますから、避けてもダメージを受けるのです。
しかし、ストレスに慣れないからこその強迫症なので、ストレスを避けないよりは、避けたほうが少しは良いのです。

人は人で、できるだけ気を受けないようにする考えを持っても、その考えに関わらず過敏性により、刺激を受けてしまうのですから、共感力が強いと、考え方では防げません。

また感覚を鈍らせられないからこその強迫症なので、感覚はどうしても敏感なままなのです。
ですから、できるだけ良いことに感覚を使うことが大事になります。
もちろん、それも困難になりますが、できるだけそうするしかありません。

強迫症の人の生き方は、病的に敏感な人がどう生きるかということと同じで、生きている限りは、それに悩むわけで、基本的には解決できないことです。

敏感といっても、良いことに敏感なら、過敏性が症状にはならないのですが、強迫症の人は敏感な上に、ストレス耐性が低いことで、敏感そのものがすでに苦痛になり、過敏性が強迫症状に変わります。
敏感であることで、刺激が気に止まったままになり、そのストレスが対処できないので、強迫行為をすることになります。

心配するのが苦痛なら、心配しなければいいということではなく、強迫性障害の人には、心配するのが苦痛でも、心配しないといけなくなってしまう危害が実際にあり、そこに強迫的な(避けても避けられない)苦痛があるのです。

ストレス反応の症状であっても、恐怖症とかと違って、そのストレスが内面で続いてしまうので、患者本人がいる限り、どこへ行こうとストレスフルになります。
悪化防止で、環境調整はしたほうが良いのですが、本来なら安心できる生活環境の中でも、その状況に合わせて症状は続きます。

症状はなんともできませんから、強迫行為を嫌でもしなければならなくなります。

ですから、しないようにすることではなく、強迫行為をしやすくする環境つくりが大事になります。
そうしても強迫観念の問題は何にも変わりませんが、そういう障害なので仕方ないと思うしかないのです。

人よりも苦痛は多く、無駄なことは増えるし、何をするにも時間はかかります。
強迫行為をしやすくすると言っても、できればしたくないことなのですから、通常はそんなことにも取り組めません。

回避が増えるか、強迫的に何かをするぐらいの生活でしょう。

治せるようになったとか言っている人もいますが、単に治しやすい病気を作り上げているだけで、本当の強迫症は治せないままです。

強迫観念というのは、患者の考え方の問題で、考え方を変えれば、強迫行為も止められるとか、強迫行為を止めれば、強迫観念は浮かばないという考えは、強迫性障害の症状自体を無視しています。

強迫症の人は、用心深いから、そんなに心配しなくても、そんなことは起こらないのに、という人もいますが、そういう人は、不安や恐怖に強迫され続ける強迫症状自体がまったく分かっていないのです。
用心深いと言っても、自分の意思でそうしているのではなく、強迫観念がそうさせているのです。
そんなに心配しなくてもと言ったところで、心配し過ぎてしまうことは本人も分かっているのです。
過敏性の強さで、強迫観念が離れなくなってしまう病気なので、一度浮かんだ心配が大きな刺激となってなかなか消えないわけです。

強迫観念が弱ければ、これこれこうだから心配いらないという説得でも安心できるのですが、その場合は、強迫症ではない不安障害なのです。
不安とか恐怖とか嫌悪などは、誰もが持つもので、それによる強迫性の強さで、強迫症かどうかが分かるのです。
強迫性が強ければ、一度浮かんだ不安とか恐怖とか嫌悪などが何年、何十年と強迫観念として続いてしまうので、何十年経っても自然には治りません。

普通の不安思考であれば安心できる言葉でも抑えられるし、妄想幻覚は薬で治せますが、強迫観念はそのどちらでもないので、治す方法がありません。
自分の思考に関わらずに、不快な感情と共に拒絶反応的に浮かんでしまう思考が強迫観念です。
不快な感情が起こらなければ問題ありませんが、現実であれ、それに対する思考であれ、実際に苦痛の強いことを体験すれば、どうしても不快な感情が起こります。
過敏性が強いことで、一般的には些細な刺激でも危害になって、そのダメージも長々と消えなくなってしまう。それにより、不安や恐怖、嫌悪が強まり、強迫観念が強固になります。
現実反応なので、強迫行為で一時的に抑えることはできますが、強迫観念が浮かびやすい病気なので、強迫行為を繰り返しずっとしないといけなくなり、日常生活や社会での活動が困難になります。

恐怖症は、敏感ではないストレスに強い人でも起こる症状ですから、ストレス対象から離れれば、特に問題はないのですが、強迫性障害であるとストレス対象から離れても、そのストレスが強迫観念となって、ストレスから離れられなくなります。
こういうストレスの付着状態が弱い人であれば、強迫行為が見られても恐怖症範囲の人です。

強迫症の人の頭の中には、強迫行為では解消できないような強迫観念も常に浮かびやすくなりますが、恐怖症の人は何かが怖いというだけで、器質的に敏感でもないし、精神的に病んではいないのでそうなりません。

そういう意味では、恐怖症とか不安症は患者の素質的に治せる可能性はあっても、強迫性障害であると素質的に治すことに無理があるのです。

ある意味、一番、精神が関係ない精神症状であり、精神というよりは、神経段階の症状なのです。
そこに精神もくっ付いているから、精神的症状も出るし、精神的に病んでしまうというだけで、精神の問題ではなく、神経の過敏性の問題なのです。

強迫症の人は、過敏性で刺激を受けやすくなり、その刺激による苦痛で不快な感情が起こり、その感情自体も不快な刺激となって、不快な感情での強迫状態になります。
強迫症であると、不快感が強まり消えなくなってしまうだけではなく、そこに思考が結び付き強迫観念になり、この強迫観念が刺激となり、不快な思考での強迫状態に悩まされます。
強迫症患者にとっての危害は、強迫症状を起こす現実の物事ですから、そのストレス対象への恐怖や嫌悪が強まったり、症状での苦痛が起こらないようにと、不安や心配も浮かびやすくなります。
それが強迫観念になってしまうので、過敏性がある限り、強迫症状の苦痛から逃れられません。

嫌なこと、危害のあることでも、ストレス耐性があれば、慣らすことができますが、ストレス耐性が低いからこそ、強迫状態になって苦痛が強まってしまうので、慣らすことができないのです。
そうできないからこそ、強迫症状が出るので、慣らせば良いという話ではないのです。
それができない病気なのです。
普通の人でも、軽い嫌悪とかストレスは慣らせても、実際に危害の強いことに慣れる事はできません。
それができてしまうと、危険回避をしなくなって、生物的に危険なので、生理的に無理なのです。
それと同じで、一般的には害がなくても、強迫症には実際に強い害なので、生理的に無理なのです。

ところが、強迫性患者は一般社会に適応しようと、我慢してしまいます。
我慢することで、表面上は社会に適応できますが、実際には適応できていないのです。
そのストレスで症状が悪化して、そうすることもできなくなりますが、その頃には、うつ病にもなって、治せない病状になっていますから、本当は、その前から、ストレスの少ない生活をしたほうが悪化は防げるのです。
ですが、そうできる社会にはなっていません。
みんなができることは、できて当たり前というストレス社会なので、ストレスに敏感な病気でも我慢できるなら、我慢すればいいという考えなのです。
我慢できないなら、一般社会からは出てくださいとなります。

ですが、敏感というだけなら、病気でもないので、無理でも社会に入らないといけなくなります。
ストレスに弱くても、みんなと同じことをしないといけないので、そのストレスで病気になってしまいます。
過敏性で何かの病気になってしまうとしたら、それが強迫症です。

心因性の過敏であれば、ストレスに対する考え方を変えれば、ストレスに慣れて、治せるかもしれませんが、器質的な過敏性やストレス耐性の低さの問題となっていると、ストレスに慣れることができません。

治らないなら、せめて悪化させないことが大事ですが、それさえも困難な病気なのです。
間違った情報が拡散していることもあり、社会的な配慮が得られ難い病気だからです。

刺激の強い社会の中で、自分で自分を守ろうにもストレスに弱いとできません。
そこからできるだけ離れて、回避的に生きるしかないのです。

悪化させないためには、症状で無理なことは無理にしないようにすると良いのですが、そのためには、症状を理解してもらいながら、自分から「こうすればできる」という提案もしなければなりません。
しかし、そうしようにも、一般社会は他の人が簡単に出来ることはできて当たり前、できないほうが悪いという一般基準で作られますから、強迫症基準で社会に対して理解を求めても、社会が敏感な人に合わせるということはなく、敏感な人は我慢を強いられます。
我慢できなくなれば、一般社会にはいられなくなります。

弱い者は除外される社会なのですが、そういう人は一人ではありませんから、そういう人達もなんとか生きられるようにはなっています。
ただ、そういう生き方でさえも、最低限の社会性は求められますから、その範囲で耐え難いストレスを受け続けることになり、年々悪化して行くのです。

強迫症は、現実反応での精神障害で一番苦痛の強い症状がでます。
なぜなら、不安障害や恐怖症やPTSDなどの強迫性が強まった状態が、強迫状態だからです。
統合失調症や解離と違って、症状が現実のストレスを回避してくれることもなく、ストレスがため込まれてしまうので、強迫行為をしないといけなくなります。
それはモウロクするまで生涯続きますが、強迫性障害自体が精神医学的にもまだ理解されていないので、そういった苦痛も理解されないし、適切な社会対応も受けられません。

本当なら、強迫性障害などの過敏性の精神障害の人は、できるだけ無刺激の特殊な対応が必要なのですが、普通の健康な人を含めた全体と比べれば、強迫症患者は、ごく一部の人ですから、それを理解したり、特別な対応をするのは、社会的にも医療的にも福祉的にも面倒なことなので、やろうとしません。
そこに適応しようとすると、患者だけが苦しむことになります。

治療にしても、過敏性の強迫、そんな人はいない、とされてしまうのです。
そうしたほうが、そういう人達のことを考えずに済むし、面倒にならないからです。

そういった面を改善して行くには、強迫性障害に対する誤解を減らし、正しく理解してもらうことです。


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強迫性障害での鬱病が治し難い理由 その2/タイプや病状ごとの強迫症(強迫性障害)の治し方

強迫症であれば、当然、精神状態は普通ではないし、常時心身落ち着きませんが、統合性は維持されます。
統合性の維持によって狂わないのですが、それがストレスになって、精神が病んでしまいます。

強迫性障害は不安、恐怖、嫌悪に強迫されやすいのですが、そのことで、鬱になれば、鬱にも強迫されて、鬱強迫の状態が慢性的に続き、過敏性によって、強迫性の強いうつ病になります。
この鬱はなかなか離れてくれませんが、これが軽症化できれば、強迫性障害であっても、精神的には少し楽になれます。

いろんなタイプの強迫性障害の人がいますが、全部同じ強迫性障害となっていますから、薬も同じで、基本的には強迫症適応のSSRIを使うことになります。

強迫症状自体には効かないことが多いので、対症療法をすることになり、強迫性障害の症状(神経障害の生理的苦痛)と、その症状での精神的苦痛(精神障害)を分けて治療します。

強迫性障害の診断基準を見れば分かりますが、強迫観念と強迫行為の病気であり、精神的苦痛に関することは特に書かれていません。
症状そのものもとても苦痛なのですが、その程度は人それぞれだし、その症状による精神的な病みも人によって違うからです。
強迫性障害そのものは(過敏性の場合)神経障害と言えますが、その症状による憂鬱感、気分の沈みこみ、悲観的思考、反芻思考(強迫観念以外の繰り返し思考)、楽しめない状態、などは、うつ病の範囲の症状です。
強迫症だと多くの人はそうなりますから、そういうのも強迫症の症状だと思っている人も多いのですが、診断基準に書かれていない範囲の精神的症状は、強迫性障害の症状(過敏性による生理的苦痛とか強迫行為での苦痛)とは別のこととして治療するのです。
抗うつ薬の他にも、不安になりやすい人は、抗不安薬を、寝付きの悪い人は、睡眠薬をという感じです。

強迫性障害の苦痛は、器質的過敏性によって生理的苦痛が強まり消えなくなってしまうこと=強迫状態ですから、心は関係ないので、精神医学では治せません。
頭でどう考えようと、どういう心掛けを持とうと、危害への生理的なストレス反応による症状は止められません。
敏感でストレスに弱いことで、ストレス反応が過剰というのは、ある意味、正常なことであり、治せることでもありません。
その生理的苦痛による強迫症状そのものの苦痛ではなく、その苦痛があることでの精神的苦痛なら、精神医学である程度は対応可能です。
実際にはその範囲も強迫性障害なのですが、診断基準的に強迫性障害の症状には鬱とかは含めていないので、別の病気として治すことになります。

強迫症状があることでの不安とか鬱とが、強迫症状での苦痛を強めますから、そういう面を軽症化したり悪化を防ぐことで、強迫症状の悪化も防げるという考えです。
もしその範囲が治っても、強迫症状による生理的苦痛は続きますから、またそうなってしまいますが、せめてそういうことでもしないと、精神医学的には、何もできることがなくお手上げになります。

過敏性の強迫性障害の場合、気分や感情面でも障害が起こるので、大抵の人は、うつ病にもなります。
本当は、強迫性障害の症状自体が、うつ病と同じというだけなのですが、うつ病は普通の人でもなりますから、強迫性障害とは分けて考えるのです。

精神医学的には、神経過敏は治せませんから、うつ病である事が、強迫症の苦痛を強めると考えて、抗うつ薬を使うのです。
強迫性障害に限ったことではなく、不安症でもPTSDでも重い人は鬱になりますから、強迫性障害にも不安症にもPTSDにも抗うつ薬(SSRI)が使われます。
強迫性障害、不安症、PTSD自体に効かなくても、うつ病の範囲を軽症化して、大元の症状による苦痛を減らすことで、大元の症状自体も軽症化しようという考えです。
症状での心の病みを軽くできれば、症状も軽く感じられるのです。

強迫症の症状でのうつ病ですから、強迫症である限り、うつ病も治せませんが、うつ病自体は、強迫症そのものよりは、軽症化可能な病気です。

同じ強迫症でも強迫行為先行型は、ストレスに強いので、うつ病にもなりにくいタイプです。
こういう人が、SSRIを使ってもあまり意味がありません。

神経質的な思い込みでの不安思考は、妄想に近い(現実と結び付きが弱い)ことも多いので、その場合は、抗精神病薬を使うことで、強迫症状が軽症化することもあります。

過敏性の強迫観念(現実反応での過敏思考)と妄想(非現実反応の思考)はまったく違うものですから、抗精神病薬は使いません。

神経質は実際には神経過敏ではないのに、考え方で過敏になっている人を指す言葉です。

神経質の強迫症もあれば、神経質のうつ病もあります。
神経質の鬱は、自身の考え方で、憂鬱になって、気分が沈み、悲観思考も悪化します。
考え方が引き起こす鬱です。
神経質は、考え過ぎて、その考えが強迫観念になってしまいます。
病んでネガティヴ思考になってしのうのではなく、考え方で病んでしまうのです。
神経質は気質とか性格みたいなもので、病気ではないとなっていますが、心の問題ではあるので、病気として見れば、パーソナリティ障害としての思考障害と言えそうです。

過敏性の強迫観念は、神経質とは真逆で、考えとは無関係に、ストレス(危害)に対して生理反応的に浮かびます。
それによって、考え方もネガティヴになりますが、神経質とは違って、その考えが原因で強迫観念が浮かぶわけではなく、その前に実際の危害に対する強迫観念がすでに生じているのです。
つまり、考え過ぎ、思い込みによる想像上だけの危害ではなく、実際の危害での強迫観念なのです。

そういう思いが消えなくって、強迫行為をする毎日が続けば、当然、気分も沈みます。
よっぽど若い人とかタフな人なら、それでも元気かもしれませんが、長く続けば、普通は鬱になります。
というより、本当は最初から、うつにもなっているのです。

鬱になっても、強迫症であることで、完全には沈み込みませんから、うつ病になっていても分からないのです。

うつ病は、気分とか気持ちが沈みこみますが、強迫状態の場合、ネガティヴな気持ち(不快な感情やその思い)が高まった状態になりますから、ネガティヴハイになります。

鬱は、生活するために、しなければならないことが、できなくなりますが、強迫は、しなければならないことが、できなくても、強迫行為はしないといけなくなります。
鬱と強迫はそういう反発する関係でありながらも、質的には同じネガティヴですから、同質の病気です。

躁と鬱は、質的にも反発しますから、躁の時は、基本的に鬱になりません。

強迫と鬱は、質が同じなので、同時に症状が出るのです。
強迫症のネガティヴと、鬱のネガティヴが重なってしまうので、どちらも悪化します。
強迫性障害だと、物事を悲観的に考えてしまうのは当たり前のことで、実際にそう思える危害が多い上に、鬱にもなっているので、余計にネガティヴになって、不安も強まります。

うつ病の人を無理に頑張らせると、沈んでいる気持ちを無理に上げることになり、ネガティヴハイになりますから、無理させるストレスの反動で、うつが悪化します。
うつ病の人は、元気がなくて暗いから、元気付けようとか、笑わせれば治るだろうとか、そういうことではなく、一時的に無理にそうすると、ネガティヴなままハイになってしまい、ネガティヴは元の状態に戻ろうとしますから、矢を放った弓の弦のように反動で深く沈んで、危険性のある鬱状態になります。

重度のうつ病患者でも、恐怖とか嫌悪みたいな感情は静まりませんから、危害回避の行動はしようとします。
例えば、寝込んでいても、枕元に10センチぐらいの蜘蛛がいたりして、それに気付けば、反応して逃げるとかしようとします。
もしそうしても、鬱が治って元気になったのではなく、恐怖が無理やり気分を高めただけなので、心身疲れますから、またすぐに寝込んでしまいます。

強迫性障害だと、不安や恐怖や嫌悪での強迫症状でのネガティヴハイが続くので、常に無理して頑張る状態になり、ストレスが続き、うつが治りません。
強迫症状が、沈み込もうとする鬱の気分を、無理やり上げてしまうのですが、ポジティヴにするわけではなく、鬱のままの気分を恐怖や嫌悪などがハイにしてしまうのです。

その状態だと、何もしたくなくても、何かすることになり、休もうにも、心身が休めなくなります。
では、無理に休んだほうが良いかと言えば、強迫症状がある限り、それができないのです。

うつ病の人が、頑張って何かをしないとしたら、かなり苦しい思いをしますが、そういう状態が強迫性障害の人は慢性的に続きます。

躁状態は気持ちもハイになっているのでストレスを感じにくくなり、何かをしたくなります。
強迫状態は、気持ちがローなので、何かをしないといけない状態に強いストレスを感じます。

そうしたいわけではないが、沈み込まないので、何かしないといけなくなってしまう。
強迫状態は、ネガティヴな躁状態が慢性的に続くようなものです。

重い強迫症状があって、気分が沈まないということは考えられませんから、強迫性障害であれば、うつ病(気分の障害)も起こるのは当然のことです。

強迫性障害単独で、鬱はないという人は、強迫性障害であっても、精神的には病んでない人であるか、精神的に病んでいるのに、その範囲も強迫性障害と思っているかのどちらかです。

強迫性障害の症状自体は、気分とか感情の高まった状態なので、そういうことに気付けない人もいますが、マイナスの気分とか感情の高まりですから、うつ病がそのまま無理にハイテンションになったような症状なのです。
過敏反応が続きますから、うつ病なのに、沈み込んでいられない状態になり完全なローテンションにはなりません。
強迫行為もしないといけませんから、精神的にも肉体的にも緊張感が続き、気分はネガティヴハイになります。
強迫症によって起こるので、そういう精神状態も全部強迫症の内だと思えますから、うつ病であることを自覚できない人も多いのです。

もちろん、うつ病ではなければ、そう思わないほうが良いのですが、強迫症状の苦痛で心が病んでいる人は、ネットでよくあるような、うつ病チェックテストをしてみると、鬱かどうか分かります。

強迫性障害の人の場合、鬱になっても認知力や記憶力は低下しません。
過敏性で認知過剰(細かいことを気にしてしまうとか、嫌なことが忘れられないとか)になっているからです。
ですから、SSRIの副作用である認知力を低下させる面が、強迫性障害の人にはプラスの作用になりますが、神経過敏そのものに効くわけではありませんので、効果は強くありません。

SSRIは気を強める効果があり、不安や鬱にはある程度効きますが、恐怖、嫌悪の強迫観念には効きませんから、それがあることでの不安思考にも効きません。

強迫性障害は診断基準がシンプルなこともあり、多種多様になっていますから、みんなを同じ治し方で治そうとするのは無理があります。

強迫性障害にいろんなタイプがあるだけでなく、不安症でも、恐怖症でも強迫行為は起こりますから、それらを含めれば、かなり大規模の病気になってしまいます。

強迫状態は、いろんな病気で見られますが、不安症なら不安に強迫され、恐怖症なら恐怖に、うつ病なら、憂鬱気分やネガティヴ思考などに、PTSDならトラウマ記憶やそれを想起させる物事に強迫されます。
それら全てが強迫症の人を強迫状態にします。
それらの病気だけなら、過敏性の問題がないので、それらの不快なことでの強迫性も強迫性障害ほどではありませんし、全般性もなく、他のことには強迫され難いのです。

強迫性障害の強迫状態の特徴は、強迫性、過敏性、全般性です。
その三つで、他の病気の強迫状態と区別できるのです。

不安症でも強迫観念は浮かびます。

不安型強迫観念・・・想像上の現実的危害に対する不安思考
過敏型強迫観念・・・実際の危害による不快な思考、それがあることでの不安思考
妄想・・・現実とは関係のない思考

こういう違いがありますから、間違えないようにしてください。

過敏性強迫症には、過敏性があまりない不安型強迫症と、過敏性の強い全般型強迫症があり、全般型強迫症の人は、不安だけではなく、現在過去未来、自分の内外問わず、様々なことに強迫され、様々な強迫観念(不快感や不快な思い)が浮かび、なかなか消えなくなってしまいます。

過敏性があれば、不安だけでなく、様々な強迫観念が浮かびますが、様々な強迫感覚(感覚的強迫や不快な感情などの強迫)はあるが、強迫観念としては、不安思考しかないという場合も過敏性の強迫症です。
見えないレベルの汚れというのは、思考しないと分かりませんから、感覚的に敏感であっても、そういう強迫観念が浮かぶとは限りません。
何らかの嫌な思いが離れなくても、汚れだと思わなければ、洗浄の強迫行為も起こりません。
そうなれば、敏感でも不安の強迫観念しかないことはあり得ます。

過敏性が強いと、強迫的な関連付きや強迫的な連想が頻繁に起こります。
何かを見ると不快な何かを思い出す、連想してしまうようになりますから、その付着が汚染恐怖にも繋がります。
良いことと、不快なことが結び付いてしまう(汚染されてしまう)怖さ、嫌悪があるのです。

ですから、過敏性強迫症であれば、多くの場合、汚染恐怖もあります。
不潔恐怖の場合も、不潔なことに汚されていく怖さがあれば、それは汚染恐怖と言えます。
汚れと、不潔なことは同じ意味ですが、汚染恐怖の場合は、一般的な意味で言う不潔なこととは限らずに、恐怖や嫌悪していること全般に汚染されます。
そこに不潔恐怖も含まれますが、それだけによる汚れではないのです。
恐怖や嫌悪感、その思い、その記憶が残ってしまう(付着する)ことで、恐怖や嫌悪すること全般に汚染されるのです。

恐怖と嫌悪は、怖いと嫌いの違いがありますが、嫌だから怖いとは限りません。
むしろ、怖くは無いが、嫌というのは普通にあることで、恐怖には考えで作られる想像上だけの恐怖もありますが、嫌悪の場合、その多くは考えとは別の生理的反応ですから、過敏性の強迫観念には嫌悪が多いのです。
汚染恐怖の場合も、過敏性の強い人にとっては、実際には汚染嫌悪になり、これは不安症や恐怖症を治すようには治せません。
生理的反応による不快感は、精神医学ではどうしようもありませんから、治すというよりは、慣れされるというぐらいしかできないのです。
ただ、過敏でストレスに弱いから、そういうことに強迫されるのですから、普通の人でも困難なのに、強迫症の人だと余計に慣れることは不可能になります。
無理をすれば逆に嫌悪が煽られて悪化してしまうわけです。

こういうのは、精神障害ではなく、神経障害の症状ですから、普通の強迫性障害の治療法ではまったく治せません。

過敏性の強迫性障害の場合、何より先に過敏性があって、それによって不安にも強迫されるのですから、過敏性が治らない限り、不安になりやすい傾向も治せません。

しかも過敏性の強迫の場合、不安思考だけではなく、様々な強迫観念が浮かびやすくなります。
強迫観念といっても不快な思考だけではなく、不快な感情も結び付いているので、感情にも強迫されるし、気分とか、感じ(違和感、不快感)にも強迫されやすく、例えば、劣等感とか、恥ずかしい思い、辛い思い、悲しい思い、憂鬱感、無力感、強い怒り、憎しみなど様々ですが、そういった不快な感じの思いが消え難くなり、長々と残ってしまいます。
それも強迫症状で、それらが消えないことで、不安や恐怖や嫌悪の強迫観念が浮かびます。

もしそういう全般性の強迫がなければ、本当は他の病気の強迫症状です。

強迫性障害とは、過敏性によって、そういう不快なこと全般が長々と残ってしまう病気です。
その中で、現実行動の強迫行為で対処できることは、そうしないといけなくなってしまうし、それが無理なことは、回避をしたり、頭の中だけで、その思いを消そうとしたり、良い考えなどで中和しようとします。
それらも全部が強迫行為です。

強迫行為自体は一時的な治療行為なのですが、その行為も、したくてすることではないし、苦痛が強いという意味では、強迫症状に含まれます。
汚れの嫌悪の強迫観念なら、汚れの「イメージ」とか、どこどこの何々の汚れという「考え」とか、汚い「感じ」が強迫観念として残ることで、洗っても、まだ汚れていると思えて、洗浄に時間がかかったり、洗えなくて汚染物を捨てたりすることになります。
見える汚れであっても、そこに見えないレベルの汚れ(強迫観念の汚れ)も重なってしまうので、汚れがなかなか消えなくなってしまうのです。

そういう強迫行為の苦痛も含めた症状が、汚れでの害を実際に強めますから、その苦痛を避けようと、不安も強まるのです。

妄想であると実際には無いのに、それがあると思うのですが、強迫観念の場合、実際にあることの思考化ですから、見えなくてもそれはあるのです。
例えば、コロナが手に付いているかどうかは、見えませんが、手に付着したと思えても、コロナは実際のことですから、無いことをあると思う妄想ではありません。
付いているかどうかはっきりしないことであれば、付いてないかもしれないなという思いもあるのですが、分からないことなので、付着しているかもと思えてしまいます。
付いているかどうかはっきりしないことであるのに、付いてないかもしれないなという思いは無いのなら、妄想のコロナ(現実のコロナとは無関係のコロナ)が付着している可能性はあります。

コロナは実際に危害があるので、そのことが理解できない人とか、重度の精神病とかで、よっぽど現実離れした人でない限りは、それを不快に思えます。
敏感な人は、そういうみんなが危害に思えることにも敏感ですが、それだけでなく、本人にだからこそ、危害に思えることが増えます。
本人にだからこそ、汚れだと思えることの場合は、本人の思い次第ですから、普通の人には汚れではないことでも、それが実際には汚れでないわけではありません。
実際の何かの汚れを本人だからこそ分かるのですが、実際の汚れなのですから、汚れてないかもしれないなという思いが無くて、汚れているとしか思えない場合も妄想ではないのです。

汚染の強迫観念のように、今現在の現実の危害に対して、そう思えるという強迫観念は、そうなってしまうかもしれないという未来の危害への不安思考ではないし、頭の中での思い込みだけでの強迫観念ではないし、非現実思考の妄想でもありません。

強迫観念は現実に対する思いですから、汚染の強迫観念なら現実の何かとか実際の何かで汚されます。
テレビニュースなどで見聞きした情報で汚染されたり、あるいは、不快な記憶の想起などで汚染されたりすれば、強迫観念が分からない人は、それは妄想ではと考えるかもしれません。

しかし妄想というのは、現実の何かとか、実際の何かに対して思い浮かぶことではありません。
現実とか、実際のことは無関係なのです。

妄想であれば、現実のテレビや雑誌の情報で汚染されたり、実際の記憶の想起で汚されたりしませんから、統合失調症にもそういう類の症例はありません。
むしろ、妄想(非現実思考)への過集中で、現実のことは気にならない状態なのです。
逆に現実への鈍感化によって、普通は汚いと思うようなことも、汚いと思えなくなり、不潔な状態にもなりやすいのです。

統合失調の症状そのものが現実のストレスを回避するのですら、現実に敏感になっては、統合失調の意味がないのです。

妄想や幻覚のテレビとか、実際のことではない妄想上の記憶などなら、それもあり得ますが、現実のテレビとか、実際に起こっていることやその記憶は、妄想とは関係がないのです。
現実とか実際のことで汚染されるなら、妄想ではなく強迫観念なのです。
その思いの対象が妄想にあるのか、現実にあるのかの違いで、妄想は現実に対して「そう思える」状態ではありません。
あくまで現実とは無関係な思いが妄想で、現実とか実際に起こっていることや実際に起こったことに対する思いなら強迫観念です。

一般的な思いではないという意味で妄想的強迫観念という場合も、現実の思いなので、非現実の思い(妄想)ではありません。
強迫観念の場合は、「そう思えてしまう」という感じで、その思いが消えないことで、どうしても否定できなくなりますが、現実の思いだからこそ、否定できないのです。
強迫状態は妄想状態ではなく、むしろ真逆なので、強迫症の人は、非現実の思い(妄想)なら、簡単に否定できるのです。
妄想状態だと、それができないのですが、その思いを否定しようとしないのですから、「そう思えてしまう」という感じではなく、そのまま受け入れるのです。
ですから、それを解消しようとする強迫行為も起こりません。

強迫行為は、強迫観念を否定しないといけない苦痛の洗浄なので、強迫観念に抵抗しないなら、強迫行為も起こりませんが、非現実の思いと違って、実際の苦痛なので、実際の危害に対しては、頭でどう考えようと生理的拒絶反応で強迫観念が浮かびます。
それに対して、生理的拒絶反応で強迫行為をします。それは思考では止められません。
生物として普通のことですが、過敏なことでの苦痛ですから、一般の人はそうなりません。
過敏性により苦痛が続いてしまい、その苦痛に耐えられるストレス耐性もないので、強迫行為をしないといけなくなります。

思い込みの不安思考も、未来的なことならその思い自体は、妄想と同じく実際のことではありませんが、通常は、現実のことでの不安な思いなので、妄想とは違うものです。
しかし、過敏性の強迫観念でもないのです。

過敏性ではない強迫症としては、不安症や全般性不安症の強迫症状、神経質の強迫症状、強迫行為先行型の強迫症状などもあります。
特定のことでの恐怖症でも恐怖対象によっては強迫行為も起こりますが、それは恐怖症の症状ですから、強迫症には含めません。
強迫症は特定のことだけへの恐怖に強迫されるわけではないからです。

不安になりやすいから不安型の強迫観念が浮かぶなら、不安症の強迫観念です。

自身の考え方によって、不安になって、不安思考が続いてしまうなら、神経質とか強迫行為先行型の強迫観念です。
考えに関わらず、過敏性によって、恐怖や嫌悪などの強迫観念があることで、不安型の強迫観念も浮かぶなら過敏性の強迫観念です。

不安になりやすい人が、敏感だと、その不安が長引いて、不安思考の強迫観念になります。
過敏性は治せませんが、不安になりやすい傾向を治療することで、不安思考への過敏性も弱まり、強迫症状も軽症化します。
不安症の強迫症状みたいな感じですが、一般的な説明に出てくる強迫性障害もそういう病気のことですから、普通の強迫性障害の治療法で治すことになります。

どうこうと考えることで浮かぶ強迫観念は、不安だから不安の強迫観念が浮かぶのではなく、自身の考え方によって、不安になって、不安の強迫観念が浮かぶのです。
考え方によって不安になりやすい場合は、考え方を修正することで、不安の強迫観念も浮かびにくくなります。
これは神経質の強迫症状なのですが、認知行動療法に出てくる強迫性障害もその範囲の病気ですから、普通の強迫性障害の治療法で治すことになります。

強迫行為先行型は、「こうあるべき」という欲求やこだわりにとらわれることで、それに反することが強迫観念になったり、「こうあるべき」という欲求やこだわり自体が強迫観念になり、そうしたくなくても、どうしてもそうしてしまうのです。
強迫性障害が分類上、不安障害ではなくなったのは、このタイプの強迫行為とか、強迫観念がない(自覚できない)とか、観念ではなく、違和感などの不快感の対処として強迫行為をするタイプも強迫性障害に含めたためです。

診断基準的には強迫行為をしている人で、その時間が長ければ、みんな強迫性障害になります。
一応、依存症の行為と区別して、快楽的ではない行為であることにはなっていますが、強迫行為による安心感とかはそこには含めないので、快楽性のない日常的なことであっても、それを求めてしまう強迫行為による安心依存症みたいな人達は、強迫性障害に含まれてしまいます。

認知行動療法では、むしろそういうタイプが強迫性障害だと思っていますから、強迫行為による安心依存で、強迫観念が浮かぶ、強迫行為をしなくなれば、強迫観念も浮かばないという理論なのです。
このブログでいうと強迫行為先行型のことですが、強迫行為を求めていることで、それに反することが強迫観念になってしまうのです。

強迫観念先行型は強迫行為先行型とはまったく逆で、強迫行為を求めているわけではないので、強迫行為をしなくなっても、それに関わらず強迫観念は浮かんでしまいます。
単に不安の強迫観念なら、それを放置しても実際の害はないのですが、実際の害による恐怖や嫌悪などの強迫観念とか、それがあることでの不安の強迫観念は、すでに害を受けていて、そのことでの不快な思いが消えないのですから、強迫行為をしなくても大丈夫ですよという説得が通じません。
その苦痛がある限り、強迫行為をしなといけませんから、認知行動療法では治せません。

認知行動療法では、汚れるぐらい何も害はないし、見えない汚れを気にするなんておかしい、という考えですが、過敏性が強いと、その程度のことも実際の害になってしまうのです。
実在する何かへの恐怖とか嫌悪があって、その恐怖や嫌悪の強迫観念と結び付いている汚れなので、そのことに汚されることで、その不快な思い(強迫観念)も消えなくなってしまう。
そういう強迫症状があっての汚れは、苦痛が強いのは当然のことで、強迫行為をしなくても、その前から実際に害があるのです。

それが見えないとしても、患者の中では、汚れたことでの不快感、嫌悪感、その考え、イメージなどがなかなか消えなくなりますから、その強迫感覚や強迫観念が続く限り、汚れも続きます。
見えないから、実際にはない(汚れてない)のではなく、見えなくても、患者の立場では、実際にある(汚れている)のです。

普通の人には確かに害のない汚れだし、汚れだとも思えないとしても、強迫症の人には、強迫観念があるので、そう思えないのです。
妄想と違って、実際の汚れなので、実際に洗わない限り、その汚れも消えません。

PTSDの人も、トラウマ関連の物事を避けてしまう強迫症状が出ますが、それはトラウマがあることで、その物事が危害になってしまうのであり、普通の人には、そのトラウマがないので、その物事に危害があるとはまったく思えません。
だからと言って、実際には害のないことを避けているのではなく、トラウマがあることで、それが実際に害になってしまうし、そのことで、不安な思いも浮かびますが、根拠のない不安ではないのです。

それと同じで、現在、過去の危害による強迫観念とか、それがあることでの不安の強迫観念は、実際の危害に対する強迫観念であり、未来の危害での強迫観念と違って、放置すれば自然と消えるということにはならず、どうしても強迫行為で対処しないといけなくなります。

強迫観念は未来への不安だけではなく、現在、過去のストレスでも浮かびますが、何らかの苦痛体験をして、その記憶が消えなくなってしまうことで、強迫観念が浮かびやすいとしたら、過敏性の強迫症状です。

現在のストレスは時間が経てば、過去のストレスになりますが、過敏性でその記憶とストレスが長く残って消えないので、過去のストレスも現在のストレスとなり、そのストレスがあることで、未来への不安や恐怖なども強くなり、それも強迫観念となって、未来のストレスも現在のストレスになってしまいます。

ストレス体験が続くことで、強迫性障害が発症することはよくありますが、不安な体験を長期間耐えていると、不安の強迫観念が浮かびやすくなり、恐怖や嫌悪の体験を長期間我慢して耐えていると恐怖や嫌悪のが浮かびやすくなります。
その体験の記憶と苦痛が消えないことで、同じようなことでも強迫観念が浮かぶようになります。
同じ体験をしても、過敏性がなく、ストレス耐性も強ければ、そうなりませんが、その逆の人だと、強迫症になります。

過敏性強迫症の人は、基本的に強迫観念先行型です。
強迫観念先行型は、何らかの危害に対して強迫観念が浮かび、危害の回避や対処として強迫行為をしないといけなくなり、過敏性が強い人ほど、症状も重くなります。

過敏性強迫症PTSDに近いのですが、強迫症の場合、過敏性によって、大きなことだけではなく、(一般的には)小さなことでもトラウマになり、そのトラウマも強迫観念となって消えなくなります。
PTSDは基本的には特定のトラウマだけに強迫されますが、強迫症は過敏性の強さで、不快な記憶全般がトラウマとなって、関連する物事に対して強迫症状が出ます。
PTSDの人もトラウマがあることで、敏感になりますが、過敏性が原因の病気ではないので、トラウマとかその関連事以外では強迫されないのです。
強迫症も強迫観念があることで、敏感になりますが、その強迫観念自体が過敏性によって浮かぶので、トラウマだけでなく、様々な危害に強迫されます。

強迫性障害の人は、妄想幻覚が起こらないので、目の前にありありと現れるような幻覚様のフラッシュバックは起こりません。
PTSDでもそういう人は少ないのですが、トラウマ記憶が強く想起されることがあれば、それもフラッシュバックなのです。
強迫性障害の人は、慢性的にその状態になり、トラウマ記憶が常時消えません。

PTSDは、普通の人が、強いショック体験で、トラウマになって症状が出る病気ですが、強迫症であると、過敏性の強さでトラウマの強迫性が強くなり、トラウマ記憶自体に強迫されるのは勿論のこと、トラウマがあることで、強迫観念も浮かんで、トラウマと強迫観念の両方に強迫されます。
トラウマほどではない記憶なら一時的に忘れることはありますが、過敏性が強いと、トラウマ記憶と強迫観念、どちらも頻繁にフラッシュバックします。

敏感な人がPTSDになれば、強迫症にもなってしまうことは多くあります。
過敏性で、PTSD症状の強迫性が強まり、強迫性PTSDになり、トラウマそのものに強迫されて、強迫行為をするし、トラウマによる強迫観念でも強迫行為をしないといけなくなります。

PTSDの人も、PTSD症状によって過覚醒になり過敏になってしまうことはありますが、発症自体には過敏性の問題はないので、時間の経過によって回復することもあります。

敏感であることで、一般的にはトラウマにならないことでもトラウマになって、そういうトラウマがあることで、強迫観念が浮かび、症状が出る場合は、過敏性の強迫性障害であり、本人の思い込みでの不安思考による強迫症状とは、別の症状です。

一般的には些細なことでトラウマになってしまうなら、普通の人がトラウマになってしようレベルのショックなことでもトラウマになってしまうのですが、トラウマでのダメージが過敏性によって強まり、普通の人よりも強迫性(付着力)の強いトラウマになって、その記憶も常時頭から離れなくなります。

トラウマ記憶だけでなく、トラウマ記憶が消えないことでの強迫観念にも慢性的に強迫されますが、トラウマ記憶が浮かぶこと、強迫観念を浮かばせること、慢性的に頻繁に苦痛な症状が起こること、それらの苦痛体験や症状が起こること自体もトラウマになり、ストレス反応が消えません。

このトラウマは、当然、抑圧や解離のように忘れられたトラウマのことではありませんし、強迫症に無意識の記憶とかはほとんど関係ありません。
トラウマが抑圧されないからこそ、そのストレスで強迫症になります。
強迫性障害の人は、トラウマ記憶を忘れてしまうような複雑性PTSDにはなりません。

トラウマ関連事を過剰に避けるのもPTSD症状と同じですが、トラウマが多ければ、そういう症状も増えるし、過敏性によって、トラウマでの苦痛も強まりますから、PTSDの人よりもトラウマ関連事での拒絶反応が強く、回避も過剰になります。
強迫性障害での汚染は、不快なことの付着ですから、トラウマ記憶が消えなくなり、そのトラウマに汚いという強迫観念が浮かべば、その汚いイメージが消えなり、トラウマ関連事を、避けるだけでなく、汚染されることにもなり、余計に避けないといけなくなります。

そういう実際の危害に対するストレス反応自体は、普通の人の不安や恐怖や嫌悪などと変わりませんが、普通の人は、過敏性の問題がないで、些細なことではそうなりませんし、それらによって強迫状態にはなりませんから、恐怖症とかPTSDになっても、強迫性障害にはなりません。

強迫性障害人は不安障害にも恐怖症にもPTSDにもなりやすいのですが、それだけではなく、強迫症状にも悩まされます。

強迫性障害の特徴は、強迫性、過敏性、全般性ですから、実際の危害ではなく、そうなりそう、そうされそうな状況でも強迫観念が浮かぶし、過去に恐怖を感じたことだけでなく、それと似たこととか、それを連想させることにも恐怖します。

強迫観念は、何らかのショック体験で、実際に危害を受けることでも浮かび上がりますが、危害のあることに対して、それを防ごうとする思いも強迫観念になります。
身近なことで言えば、うるさい音などでの不快な体験も危害となって、その危害に対する不快な思考が浮かび、強迫状態を引き起こしますが、その症状も危害となって、そうならないようにと不安が強まったり、対策が過剰になり、その思いも過敏性の強迫観念です。

汚染恐怖の強迫観念が浮かびやすい人なら、汚れること(実際のストレス)に弱いだけではなく、汚されそうな状況でも、嫌悪や恐怖によって強迫状態になり、一瞬で汚れの強迫観念が強まってしまいます。
簡単な例でいうと、非接触式でも、体温計を額に近付けられるだけでも、強迫観念によって汚されたことに等しい拒絶(嫌悪)反応が出て、嫌悪や恐怖をともなう汚染の強迫観念が強まり、耐え難い苦痛を感じます。
接触してなくても、強迫観念自体に付着性があるので、汚れたように思えてしまうと、その思いが離れなくなり、結果的に汚れてしまい、汚れた物を捨てたり、長時間洗浄しないといけなくなります。

当然、実際のダメージでも強迫観念が強まりますから、汚されれば、汚されたという思い、考えや、汚れのイメージなども強迫観念になって、なかなか消えなくなります。
不快な刺激であれば、なんであれ危害(ショック)となって、強迫観念は浮かびますが、強迫観念自体からもそういう不快な感情が起こりますから、強迫観念が浮かべば、それが精神的ダメージ(トラウマ)となって、その強迫観念の持続性や反復性が必然的に強まってしまうのです。

それを対処しようと、強迫行為をすることになり、強迫観念が強い分、行為も過剰になります。

強迫性障害の汚染恐怖なら、汚れることでの苦痛が強いだけでなく、それを長時間洗ったり、洗えない場合などは、捨てないといけなくなってしまう危害もあるので、余計に汚れることが危害に思えるのです。

きれい好きでも汚れたくはないのですが、きれい好きなのですから、洗うこと自体には苦痛にならないので、その分、汚れへの抵抗も少なく、だからこそ、掃除もできるのです。
こういうタイプは、神経質ではあっても、過敏性はないので、苦痛は少ないのです。


強迫症の症状そのもので、気が狂うことはあり得るでしょうか?

強迫観念は過敏思考です。
現実に対して敏感過ぎて、一般離れした内容にはなりますが、現実離れしているわけではありません。
敏感であることで、現実から離れられないから、現実の危害による強迫観念も離れないのです。

妄想は鈍感思考です。
現実の何かを感じて思い浮かぶわけではなく、現実は関係ないのです。
妄想には敏感になりますが、その分、現実に対しては鈍感になります。
妄想中は現実離れているので、強迫観念も浮かびませんから、現実の些細なことが気になってしまう妄想なんてあり得ません。
もしそういう妄想があれば、それは強迫観念であり、妄想ではありません。

統合失調症とか妄想性障害でも完全に現実離れしていることは少ないので、妄想もあって、それとは別で強迫観念もある人はいますが、強迫観念そのものが妄想という状態にはなりません。
全然別の思考だからです。

思い込みの不安思考の場合、現実に対する思いでも、頭の中でのことですから、妄想に近くなりますが、そういう考えを持っているだけで、妄想でそう思えるのではありませんから、統合失調症のような症状が出ることはありません。

ほとんどあり得ないようなことが、不安思考として思い浮かんだとしても、統合失調症や妄想性障害でなければ、確信することにはなりません。

「かもしれない」という思いに対して「かもしれない」として確信してしまうのは、それが現実であると確信していることとは違いますから、妄想ではありません。

妄想は現実に対する思いではないので、現実に対する不快な思いであれば、妄想ではなく、強迫観念なのです。

二重見当識段階の統合失調症の場合、非現実だと分かっている思いが浮かびますが、妄想だと分かっている妄想ですから、その妄想があっても、それにとらわれての言動はしなくなります。
雑念みたいに、そういう思いが浮かんでしまうというだけです。
その場合も、あくまで妄想自体は非現実であり、思い込みの不安思考のような現実に対する思いではありません。

過敏性の強迫観念は、実際の危害での不快な思いとか、それがあることでの不安ですから、「かもしれない」という不安だけでなく、実際にそうなっていると思える確信的強迫観念も浮かびますが、実際にそうなのですから、妄想ではありません。
「かもしれない」という不安だとしても、その前に実際の危害があっての「かもしれない」なので、想像上だけの危害に対しての(根拠のない)「かもしれない」とは別のことなのです。

思い込みの不安思考でも様々なことが強迫観念になりますが、病気への恐怖や不安が強迫観念の人もいます。
そういう人の中には、病気かもしれないと思い、その心配をなくそうと、頻繁に病院に行ったり、その病気のことをネットで調べ続けたりします。

病気は実際に害のあることですから、それを心配するは正常で、普通の人もある程度は不安に思いますが、その思いが強いと強迫観念になります。

そうなりやすい人にもいくつかタイプがあり、不安になりやすいから、そうなってしまう人もいれば、神経質のように、そう考えることで、不安になってしまう人もいます。
過敏性の強い人の場合は、不安になりやすいからというよりは、敏感だから、不安な思いにもとらわれてしまいます。

神経質での考え過ぎの人は、まったく病気ではないのに、病気かもしれないなど悩むことで、その思考によって不安になっているのです。
病気への考えによって、その考え自体が強まり、不安も強まって、強迫観念になり、頭から離れなくなります。
現実の病気ではなく、「自身の思い込み」に対する恐怖が作り出した強迫観念です。
病気は元から危害がありますが、思い込みによって、余計に怖くなってしまうのです。
その余計な分が、普通の人にはない(考え過ぎでの)不安や恐怖になります。
敏感だから、そういう不安思考にとらわれやすいとしても、その不安は、考え過ぎが原因ですから、考え過ぎを止めれば、問題はなくなり、強迫観念にもなりません。
実際にはそれ程怖くない病気を、強い思い込みが怖くして、強迫観念になります。

このタイプは強迫観念より先に、自分の考え、思い込みがあり、それにとらわれて、その思いが強まり強迫観念になり、その強迫観念で恐怖が強まります。
強迫行為を求めることで、強迫観念が浮かぶわけではなくても、考えが先にあり、強迫観念はその後なので、タイプとしては強迫行為先行型に近くなります。
考え過ぎの場合は、そう考えなければ、強迫観念もないのです。

考え過ぎ、気のせいの思考での強迫症状=神経質タイプです。

神経質の思い込みだけの不安思考も強迫性はあり、強迫観念にもなりますが、強迫性障害の強迫観念とは全然違うもので、神経質の場合は、「想像上の不安や恐怖」なのです。
そしてそれは、不安になりやすいとか、敏感だからとか、病んでいるからではなく、そうなってしまうような考え方をしてしまうことで、そうなってしまうのです。

ただの考え過ぎだとしても、精神的な(思考的な)気質のせいだと、本人だけではなかなか治せませんが、過敏性とかの器質が関係ないので、治療可能な範囲ではあります。
強迫性障害で治せるようになったのは、ほとんどが、この範囲の人達のことです。
考え方で、不安になったり、敏感になったり、病んでしまうことで、余計にそうなりやすい考えも強まりますから、そういった精神的問題への薬物療法をしながらだと、考え方も修正しやすくなります。

「想像上の不安や恐怖」というのは、妄想みたいなものですから、抗精神病薬も効く事はありますが、基本は考え方の問題なので、認知の修正もしたほうが再発し難くなります。

しかし、そういう範囲は本当は強迫性障害ではなく、神経質なのです。
強迫性障害の強迫観念は、神経質の思い込み、気のせい、考え過ぎとかの想像上の不安や恐怖ではありません。

過敏性の強迫観念は、どうこうと考えたり、想像することに関係なく浮かびます。

実際の苦痛な体験に対するストレス反応で浮かんだり、過去に体験した苦痛体験や、トラウマ記憶などがあることで、それに関連することなどが、本人にとっては危害となって、強迫観念が浮かびます。
恐怖症の人が恐怖対象に恐怖したり、PTSDの人がトラウマ関連事を避けるのと同じで、実体験の恐怖とか、過去の苦痛体験の記憶があっての恐怖ですから、想像上の恐怖ではありません。

その恐怖があることで、何らかのことが危害となって、それに対する不安も浮かぶのですが、その不安思考で、強迫観念が浮かぶのではなく、実際の危害による不快な思いが、最初から強迫観念としてあり、それがあることで、未来的な不安も強迫観念として浮かぶのです。
実際の危害による不安は、考え過ぎとか、思い込みでの想像上の不安ではないのです。

病気への不安にしても、過敏性の強い人の場合は、「自身の思い込み」に対する恐怖ではなく、現実の病気そのものに対する恐怖が、即強迫観念になります。
その強迫観念によって余計に怖くなりますが、実際の病気に対する直接的な強迫観念なので、その人のにとっては、実際に怖い病気への正常な恐怖です。
普通の人には強迫観念がないので、そうなりませんが、過敏性によって、一般より過剰な恐怖になります。
どうこう考えて、その思考で病気に恐怖するのではなく、最初から病気への恐怖で直接的に強迫観念が浮かびます。

過敏性の強迫観念は、考えではなく、(恐怖などを)感じることで浮かぶのです。
それが浮かぶことで、そのことを考えてしまいますが、その考えで、強迫観念が浮かぶのではなく、苦痛が強く消えなくなれば、無視できませんから、必然的に、それについて考えてしまうことにもなり、その強迫観念の苦痛を無くそうすれば、またそれについて考えてしまうのです。

その強迫観念に対して、どうこう考えるのですが、強迫観念自体は、そう考えているのではなく、どう考えるかに関わらずに浮かぶので、考え過ぎが原因ではありません。

むしろ、何も考えなくても、浮かんでしまうし、もし考え過ぎても、そういう考えとは無関係に、過敏性のストレス反応として、強迫観念は浮かび強まります。

そうなっては困ると考えているから、そのイメージが浮かぶのなら、考え方だけの問題ですが、実際に危害のあることに対しては、そういうイメージが浮かんでしまうと同時に、そうなっては困るとも考えてしまうものです。
そういう不安は、実際には(まだ)危害がないことですが、それは当たり前のことで、だからと言って、実際には危害がないことを危害だと考えることで、危害に思えるわけでもありません。

例えば、コロナ対策をしようとすれば、コロナを考えることになりますが、考えることで、コロナが怖いのではなく、実際に危害があるから、それについて考えてしまうのです。
このいうのは考え方の問題とは言いませんし、見えないからといって、実際には危害がないわけでもありません。

過敏性が強いからこその強迫観念ですから、一般の人は思わないような内容にはなりますが、現実に対しての思いであり、現実の何かが脳内で具体化されるので、妄想のように単に非現実の心の産物ということではなく、現実のことなのです。

はっきりしたイメージがあるというよりも、汚い感じに強迫される人も多く、その場合、(不快な感じを抑えられればいいので)一見、不合理な(儀式的な)強迫行為をするようになりますが、もし、そうであっても、現実の何かでの嫌悪感なので、妄想状態ではありません。

神経質の不安思考でも強迫行為は起こりますが、それは神経質な性格、考え方の癖(精神的気質)の問題です。
どうこう考えることで強迫観念が浮かぶとしたら、それは強迫観念ではなく、ただの考え過ぎなのです。
強迫性障害ではなく、神経質の人です。全然違う病気なので、これを一緒にしてはいけません。

森田療法認知行動療法では、神経質も強迫性障害に含めていますが、神経質は神経質であり、強迫性障害ではありません。

森田療法認知行動療法ビジネスによって、誤った情報が拡散していますが、どういう病気なのかを理解されない内は、適切な社会的理解や社会的支援を受けることも困難になります。

認知行動療法をやっている人達は、本に書いてあることとか、講師に教えてもらった範囲の強迫性障害のことしか分かっていません。
それはアメリカ式の古い強迫性障害ですが、いまだに考え方とか行動の癖の問題だとしているのです。

彼らは、強迫性障害が実際にはどんな病気か考えようともできないし、ほとんど分かっていないのに、治せない時は、強迫性障害を理解せずに、頑張って治そうとしない患者のせいだと言います。
勘違いの間違った説明を受けて、理解できるわけがありません。

実際に性格とか考えの癖で症状が出ているなら、頑張れば治せることはありますが、頑張って治そうにも、そういう意向に関わらないのが本当の強迫症です。
考えたくも思いたくもないことが思い浮かんでしまい、それによって、しなくもないことをしないといけなくなってしまう。
こういう強迫性の症状は、器質的な過敏性が根本原因ですから、頑張りとか勇気が足りなくて起こるわけではありません。
そんなことは無視して生理的に起こる症状なのです。

考えの問題ではなく、考えに関わらない症状です。
敏感な人は、ストレスに慣れようにも慣れないから、ストレスが続いて、強迫状態になってしまう、簡単なことです。
そういう強迫もあることが分かっているならまだ良いのですが、彼らは自分で考える力がないので、みんなが同じ強迫症だと思っているのです。

治せる範囲の不安障害やPTSDなどの強迫性が強まったのが、強迫症なのですから、治療が困難なのは当然のことです。
治せるとしたら、敏感でなく、ストレス耐性も強い人ですが、そういう人は、強迫症にならないので、治ったとしたら、治せる範囲の不安障害の強迫症状とか神経質です。

森田療法に出てくる神経質というのは、実際には敏感ではないが、心配なことを気にしやすい考え方の癖(精神的気質)があることで、神経過敏のような症状が出てしまう人です。
実際には危害がないことを気にすることで、危害に感じてしまうわけですが、場合によっては、精神病のようにもなります。
精神障害は、どういう原因でそうなっているかはあまり関係なくて、同じような症状が出ていれば、みんな同じ病気(病名)ということになりますから、神経質によって統合失調症の症状が出ても、統合失調症なのです。

神経質だとしても強迫症状があれば、強迫性障害にはなります。
しかし、神経質の人は、気にするから敏感なのですが、強迫症の場合は、敏感だから気にするのです。
全然違う病状ですから、神経質の強迫症状の治療法では、強迫症は治せません。

過敏性の強迫と、神経質はまったく違います。

強迫性障害と強迫類似症の区別もするべきなのですが、強迫行為先行なのか、強迫観念先行なのか、(思い込み的な)不安での強迫症状なのか、過敏性による不安や恐怖や嫌悪などでの強迫症状なのか、違う症状ですから、強迫性障害のタイプ分けができるようにならないと、治療の仕方や予後が正しく判断できなくなります。

思い込みでの不安とは、本来心配しなくても良いことを、心配することで、その思いによって、不安になってしまう状態です。

思い込みの恐怖なら、怖がるほどのことではないのに、怖がることで、その思いによって、怖くなってしまうことです。

実際には危険ではことを、危険だと考えて、その思考で怖くなってしまうのです。
こういうのが、神経質での不安や恐怖で、そういうふうに考える癖があるのですが、強迫行為は、そういう思いを消すために行われます。
強迫行為は、危害の対処とか対策(予防)とか回避ですから、神経質でも、普通の不安思考でも起こります。
ですから、森田療法では、強迫性障害を神経質が原因だとしていました。
神経質は強迫性障害に含めるとしたら、強迫観念先行型ですが、本人の考え方の問題ですから、本当は強迫症(病気)ではありません。

神経質の思い込みと、現実反応(過敏性)の強迫観念の区別ができないので、神経質の思い込みで強迫行為をしている人も、強迫観念で強迫行為をしている人も、同じ強迫性障害となってしまいます。
むしろ、神経質の思い込みでの不安思考こそが、強迫観念ということになっていますが、その区別ができないと、強迫症の理解はできません。

ただ、それは強迫性障害の根本原因である過敏性の問題を無視してきたからです。
それを直視すると、森田療法認知行動療法の理論がまったく通じないからです。

強迫症の人は、不安思考にもとらわれるし、不安思考に反応して、強迫観念が浮かぶこともありますが、過敏性の強いタイプは、その不安思考がすでに強迫観念なのです。
考え方で、不安になって、不安思考にとらわれているわけではありません。
考えに関わらず、危害に対して、生理反応で浮かびます。

過敏性による強迫観念は、思い込みで浮かぶわけではなく、実際の強い危害に対する強い生理反応で、考え方に関わらず浮かびますから、強迫観念が考え過ぎと言うのはあり得ません。

ただ思い込みでの不安思考が浮かばないわけではなく、神経質は考え過ぎて、それが強迫観念になり、強迫症の人は、考える前に、それが強迫観念になってしまいます。

思い込みでの不安思考は、一時的なら誰でも浮かぶもので、現実的な思いもあれば、非現実的な思い込み(考えすぎ)もあります。

人の少ない暗い夜道を歩いていて、後ろから人が歩いてくると、「つけられているのでは」「何かされるのでは」と不安や恐怖が強まるのは、普通の人にも、神経質な人にも、敏感な人にも、妄想の人にも起こる普通の現実的不安思考です。
その時間が長いと、恐怖が強まり、危険かもしれないではなく、危険だと確信的になっても、それ自体は妄想ではありませんし、一時的に普通の現実的不安思考が強まっているだけで、強迫観念でもありません。
実際には、単に帰り道が同じとかでも、そんなことは分からないのですから、実際に危険である可能性もある=現実的な不安思考です。
そんなことはまったく怖くない人もいますが、だからと言って、非現実の妄想状態ではないのです。

妄想の人も頭の中が全部妄想だけという人は少なく、ある程度は、普通の考えもできるし、実際に怖いことにも恐怖するし、「かもしれない」という不安思考とか、神経質的な思い込みだけの不安思考などを持たないわけではありません。
上記のような普通の不安も起こりますが、それとは別で、妄想もあるのです。

強迫症の人も全部が強迫観念ではなく、当然、上記のような普通の不安思考も浮かぶし、「かもしれない」という不安思考も、それが強迫観念になって、離れなくなってしまうこともあれば、そうならないこともあります。

「かもしれない」という不安思考にしても、神経質なら、現実には害はなく、考え方の問題で、不安や恐怖が起こるのですが、強迫性障害(過敏性の強迫観念)なら、上記の例と同じで、何らかの実際の危害に対して、不安や恐怖などの思いが浮かぶのです。
「かもしれない」という不安思考が浮かぶ前に、恐怖や嫌悪などの別の強迫観念が慢性的にあることで、「かもしれない」という一時的な不安も強まり、その不安思考も強迫観念化するのです。

強迫症の特徴は、不安や恐怖や嫌悪などの強迫性の強さだけではなく、全般性もありますが、どちらも過敏性のストレス反応が原因となり、考えは関係ないので治し難いのです。

強迫性障害統合失調症を防ぐという説がありますが、ストレスで気が狂わないように、ストレス対処として強迫行為をしているからです。
ストレスが強いのに、強迫行為でそれを対処しなくなれば、頭がおかしくなって、統合失調症のようになってしまうという考えです。

強迫性障害の人は過敏性が強いため、現実から様々な刺激を浴びせられますが、過敏性によって、現実との付着力が強まり、現実から離れられないことで、統合失調症にはならないのです。
統合失調症は、その真逆で、現実に鈍感になり、現実離れする病気ですから、そういう素質がないのです。
強迫性障害かどうかではなく、敏感な人は(現実から離れらなくて)統合失調症になり難いのですが、敏感でストレスが多くても、ストレス対処として強迫行為をしてない人は、気がおかしくなって、統合失調症のようになってしまう可能性もあります。

統合失調症はストレスで発症しないと頑なに思っている人も未だにいるのですが、器質的な病気=ストレスに無関係ではありませんし、先天的とも限りません。
体の病気にしても、多くの場合、健康だった臓器などの肉体的器質が後天的に病気になってしまうのであり、脳だけが後天的に障害を起こさないなんてことにはなりません。
精神病というのは、症状が(現実の)ストレスに無関係というだけで、発症のことではないのです。
器質的な弱さを、ストレスが刺激して、病気が発症することもあるのです。
統合失調症がストレスと関係ないなら、なぜストレスに弱いとか、ストレスで再発しやすいという話があるのでしょう?
心理が関係ないなら、なぜ陽性症状でもプラセボ効果が得られる人がいるのでしょう?
統合失調症患者が、何らかの体験のストレスでこうなったと言っても、妄想扱いして、聞き入れないことも多いのですが、そういうこともあり得るのです。
発症後の統合失調症の症状自体はストレスとは無関係ですから、そのことを精神病というのであり、その発症自体は、ストレスで起こることは多々あることは、症例としても認められています。
もちろん、まったくのストレスなしで、自然と発症するタイプも多いのですが、ストレスで発症しても、発症後の症状が同じなら、同じ精神病なのです。

うつ病も、ストレスで発症する人と、ストレスに無関係で発症する人がいますが、発症後の症状が同じなら、同じうつ病なのです。

強迫性障害が統合失調を防ぐとしても、強迫性障害が治ったら、統合失調になってしまうわけではありません。
強迫性障害が治ったら、現実との結び付きも弱まりますから、統合失調になり難いとは言えなくなりますが、気を狂わせるレベルのストレスもなくなります。

不安症の強迫とか神経質の強迫とか、強迫性障害でも過敏性のないタイプであれば、鈍感化の素質があるので、統合失調症になり難いとは言えません。
強迫性障害が治った人なら、特にそうです。
過敏性によって、現実から離れられないのが強迫症なので、強迫性障害が治るということは、統合失調症を防ぐレベルの過敏性がない人なのです。

統合失調症の前駆症状は、過敏性のないタイプ(特に神経質の)の強迫症状と同じですから、そのタイプの強迫症から、統合失調症に移行することはあり得ます。
もしそうなったら、強迫症的な症状は弱まるはずですが、統合失調症と言っても、多くの場合、完全に現実離れするわけではないので、軽い強迫症状は続く人もいるようです。

統合失調症を治すというのは、現実に向き合わせることを意味しますから、症状で現実逃避できていたのに、治すと現実のストレスとも向き合わないといけなくなります。
せっかく現実反応の強迫観念を回避できていたのに、それも浮かんで、強迫症状が出てしまう人も多いのですが、その場合も、元々は過敏ではなく普通の人が多いので、神経質的な思い込みの強迫観念が多く、比較的軽い症状で済みます。

強迫症であることで狂わないし、狂わないので強迫症なのです。
狂ったら、強迫症は楽になりますが、狂いそうになってしまうだけで、そうなりません。
狂気の刺激に耐えられないので、異常にまともなのです。

強迫症状というのは、現実の些細なことまで気にしてしまうという、まともなことを異常にしてしまう症状です。
気が狂うというのは、現実離れすることですから、そうならないので、強迫症なのです。

狂気のエネルギーに付いて行けなくて、狂うのではなく、単に病んでしまうのです。
現実から離れられないことで病むのですから、どんなに病んでも、まともな面は維持されて、強迫症は消えません。

しかし、統合失調症といっても、よっぽど重症でなければ完全に現実離れすることはありませんから、強迫症(まともな面)がありながら、並行して統合失調症的な病状も出てしまうことはあり得ます。

強迫症自体が狂うというよりは、強迫症の症状の苦痛で病んで頭がおかしくなった場合は、心因性精神病ということになります。
強迫症が器質性だとしても、その症状の苦痛で精神病になってしまうのは別のこととして考えて、統合失調症ではないが、とても異常な精神状態の人なら、精神病様強迫症とも言います。
病んでしまうことで、強迫症状自体も重症になり、人間的な生活ができないレベルの病状になりますが、ある程度は、まともなので、表向きはそんなに異常には見えません。
強迫観念は、妄想や幻覚ではないし、統合失調そのものでもないのですから、薬も効きませんし、治す方法はありません。
ただ、本人にはそう言わずに、普通の強迫症として治療するかもしれません。
このレベルになったら、回復はとても困難なので、将来性のない人生になりますから、早めにそうならない生活に切りかえることが大事です。


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強迫性障害での鬱病が治し難い理由

現実に対する敏感な反応での苦痛、それによる精神症状、こういうのが、一番治し難いのですが、それこそが強迫性障害なのです。

強迫状態は過敏性によって起こります。
強迫性障害は神経過敏症状そのものなのに、敏感とか過敏性という言葉がほとんど使われてこなかったのはなぜでしょう?

この前も書きましたが、過敏性による精神障害というのはないのです。
それであると、精神の問題ではなく、神経の問題だから、神経障害ということになります。
神経症というのはありますが、ノイローゼの和訳に過ぎませんから、神経障害とか、神経障害による精神症状いう意味ではありません。
昔の日本の精神医学では、精神病と違って、外界と神経で繋がった状態での症状、あるいは神経衰弱の病気と考えて、神経という言葉を使ったのですが、ノイローゼが神経とは関係ない心の問題の症状でしたから、現代的には、むしろ神経(器質的問題)は関係ない精神障害のことを指すのです。

ですから、器質的な過敏性による精神症状は、精神障害ではないし、神経症でもないのです。
精神障害でないのなら、精神医学では対応できませんから、治療に取り組めませんから、神経過敏症状であっても、それを精神医学的に解釈して、考え方とか心の問題での過敏性とすることで、精神障害として治療できるのです。

その極端な例が、森田療法であり、神経過敏症状を神経質という完全な心の問題として、神経障害を得意分野に取り込んだのです。
認知行動療法も同じ事で、器質的な過敏性などというのは、まったく考えていないのです。
もちろん、実際にそういう人なら治せるのですが、少なくとも過敏性の強迫症の人にはまったく関係のない話です。

薬物療法に関しては、器質的な精神症状も前提にしているので、心の問題だとしても、脳が関係しているので、脳を治すことで、精神を治すという考えです。
ただ、頭(脳)が原因だとしても、神経過敏に効く薬はありませんから、器質的な過敏性の病気では困るのです。
実際には神経過敏症状であっても、そのことは触れないようにして、神経過敏そのものではなく、神経過敏による不安とか鬱などを精神障害として治療するのです。
一応、強迫の薬もありますが、あくまで精神障害としての強迫症ですから、過敏性による強迫症の薬ではないのです。
強迫症患者の脳機能がどうで、セロトニンどうとか言っても、過敏性の強迫症患者のことではないのです。
同じ病名でも、別の病気ですから、患者の人は勘違いしないようにしてください。
過敏性の強迫症は、一般的な説明に出てくる強迫性障害とは、別の強迫性障害なのです。

過敏性といっても、精神障害で過敏になっている場合は、精神障害を治せば良いので対応できるのですが、過敏だから精神障害になっている場合は、精神医学では神経過敏を治せませんから、対応困難になります。

例えば、PTSDでは過覚醒という過敏状態が起こることは認めていますが、それはトラウマという精神的問題があることでの過敏ですから、トラウマ治療をすることで過敏性も治せます。
トラウマも治療困難ではありますが、精神のことなので、過敏性そのものの治療よりは、精神医学的に対応しやすいのです。

統合失調症でも知覚過敏が起こるとされていますが、過敏だから精神病状態ということではなく、精神病状態だからこその過敏ですから、精神病の治療に取り組むことで、治せる過敏なのです。

そういうのは、精神状態が作り出す過敏ですから、精神医学で対応可能です。
神経過敏で悩んで精神科に行けば、何らかの精神障害が原因での過敏性として治すのです。

現実の何かでの(過敏性による)苦痛ではなく、心が作り出すことへの反射的な苦痛なら対応できるのです。
妄想は脳の問題ですが、妄想自体は心の問題です。
妄想と、その妄想での苦しみは、別のことですが、妄想が原因の苦しみなら、妄想(心の問題)を消すことで、苦しみも消えます。

過敏性の苦痛によって、強迫症状が出ますから、強迫症状の苦痛は、過敏性の苦痛がある限り続くのです。
強迫観念を消しても、過敏性は続きますから、また強迫観念が浮かび、苦痛もなくなりません。

強迫性障害の場合は、過敏であることで、精神状態が異常になってしまうのです。
過敏性が作り出す精神障害は、強迫性障害しかありません。
強迫性障害であることで、過敏性が強まるとしても、強迫性障害自体が過敏性が原因なら、精神ではなく、過敏性の問題なのです。

しかし、そのままだと、それは精神の問題ではなくて、神経の問題ですから、治せません。で終わってしまいます。
精神医学では手の打ちようがないので、治療といっても、どう考えて、何をしていいのか分かりません。

ですから、精神医学としては、そういうタイプの患者であっても、不安とか心の問題での強迫性障害として治すことになります。
治せないことは分かっていても、そうしないと、精神医学としてはアプローチできません。

その場合は、強迫性障害による不安とか鬱による憂鬱な気分や思考とか睡眠障害とか心の問題を治療することで、強迫性障害を軽症化する、悪化を防ぐ、少しでも生活しやすくするという考えです。
強迫自体は神経過敏の症状であっても、その周辺症状であれば精神障害として精神医学で対応できるのです。

強迫性障害に効く薬を探している人も多いと思いますが、過敏性の精神障害に効く薬はありません。
強迫というのは、単独の症状ではないので、何に強迫されるかを考えないといけません。
強迫観念の場合は、観念に強迫されますが、主に、不安、恐怖、嫌悪などの不快な観念に強迫されます。
ということは、不安、恐怖、嫌悪に効く薬であれば、そういう思いが浮かんでも、気になりませんから、強迫にも効くのです。
不安ならまあまあ効く薬はありますが、恐怖や嫌悪に効く薬がないので、その強迫状態である強迫にも効く薬がありません。

強迫観念が不安な思いだけの人なら、軽症化可能ですが、根本に過敏性の問題があれば、過敏性がある限り、不安にもなってしまうので、普通の不安症の人よりも、なかなか治しにくくなります。

恐怖、嫌悪に効く薬は、幸せな気分になれる薬、楽しくなれる薬、勇気が出る薬とかですから、あるとしても、麻薬類になりますから、一般の人は使えません。
使ったら使ったで、強迫を抑えるレベルだと、恐怖感を感じにくいことで、危険回避をしなくなり、逆に危険な状態にもなりかねません。
だからこそ、そういう薬は規制されるのです。

強迫に効くサプリとかも、あれば、即規制されます。

ですから、今後も薬には期待できませんし、治す方法もないままです。

ちなみに、強迫行為先行型の場合は、衝動、欲求、こだわり自体に強迫されます。
安心できる行為への依存症みたいな状態ですから、過敏性はなく、治し方もまったく別です。

過敏性による精神障害がない理由は以上のようになりますが、発達障害精神障害ではありませんし、そもそも生まれ付きの器質的な問題と考えているのですら、過敏性の問題があれば、精神的な過敏ではなく、器質的な過敏として扱います。
ただ、それによる精神障害となってくると、対応困難ですから、発達障害精神障害は別々で考えるのです。

強迫性障害は精神の病気としては、非常に扱い難い、治し難い、だからこそ、扱いやすい病気(神経ではなく心の問題)として解釈することで、なんとか対応してきたのです。

強迫性障害であっても、そのことで精神的に病まなければ、なんとか生活できることは書きましたが、強迫性障害であるのに、精神的に病まないというのは、なかなか困難です。

なぜ病んでしまうのか?

不快な思いに強迫され続けるのに、憂鬱な気分にならないことができるでしょうか?
ストレス耐性が強ければ可能ですが、そういう人は、ストレスでの強迫状態になりませんから、不快な思いに強迫され続けることにもなりません。

強迫観念といっても、敏感な人は、感じ、気分、気持ち、感情、感覚、記憶などにも強迫されることになります。
例えば、何か不快なものを見て、嫌な思いをする、それだけなら普通ですが、その時の、感じ、思い、記憶がずっと消えなくなってしまうとしたら、苦痛もずっと続きますから、そういう苦痛が増えないように、不快なもの見ないようにするようになります。

運動して疲れたとかそういうことなら、神経過敏であることでの疲れではないので、特に嫌な感じは残らないのですが、過敏性を刺激するようなことで、何かで酷く疲れれば、その疲労感も残りやすいし、その体験での不快な思い、その記憶も残りやすくなります。
敏感であると、生きているだけで、いろんなことで疲れますが、それが消えなくなって、慢性疲労にもなります。

神経過敏自体は精神障害ではないのですが、それによって、精神的に病んでしまうのです。
精神的に病んでしまうのは、過敏性の強迫状態になりやすいことで、不快な感じ、思考、記憶、などが、ストレスとしてため込まれる状態になってしまうからです。
その上に、神経過敏での不快感がまた入ってくると、余計に苦痛が強く感じられます。
それが続きますから、憂鬱にもなれば、人によっては、頭がおかしくなります。

日常の些細な刺激(不快なこと)でも強迫観念は簡単に煽られる、これが過敏性の苦痛の発端です。

過敏性の強さで、感じること自体が、すでに苦痛なのですが、その不快な感じが続くだけでなく、不快な思いも強迫観念として続いてしまいますから、余計に苦痛なのですが、それだけでなく、それによって、強迫行為をしないといけなくなってしまう苦痛もありますから、元々は些細なことでも、重大な苦痛に感じるし、思えてしまいます。
強迫症の人には、実際にそうだからです。

過敏性の強迫観念は、実際の危害に対して、考え方に関わらず浮かびますが、そういうのは強迫観念として扱われてきませんでした。

実際に害があることで不安とか恐怖とか嫌悪の不快な思いが浮かぶのは、当然のことだから、強迫観念ではないと言えるでしょうか?
その不安とか不快な思いが一時的であれば、普通のことですが、それが消えなくなれば、それも不安とか恐怖とか嫌悪での強迫状態であり、その不快な思いは強迫観念なのです。

強迫観念というのは、実際には害がないことを、危害だと思うことで、危害になってしまうわけではありません。
それは神経質的な考え過ぎでの不安思考です。
神経質な人にはそれも強迫観念になりますが、過敏性の強迫観念とは違うものです。

しかし、今までの強迫性障害は、不安の病気とされてきましたから、強迫観念=不安思考のことだったのです。

●●恐怖という場合も、実際には怖くない(害のない)ことなのに、それを怖がることで、怖く思えるという考えだったのです。
汚染恐怖であれば、汚いないのに、汚く思うことで、それを過剰に避けたり洗ったりすると考えられていたので、それを実際に汚いと思う場合は、現実への洞察力がないとか、妄想に近い不安思考(非現実への確信)とされてきたのです。

アメリカ式の診断基準でも、強迫行為は現実の危害への直接的な対処ではないこととなっていますから、ありもしないことへの思い込みだけの不安思考こそが、強迫観念なのです。
それを現実だと思う人は、現実が理解できない=洞察力がない、妄想的とされます。

その基準だと、現実のストレスへの対処として強迫行為をする人は、逆に強迫性障害ではないことになります。
過敏性の強迫観念は、「かもしれない」という不安とは限らずに、汚れの嫌悪のような実体験での不快な思いも強迫観念になります。
そういう強迫観念は、現実のことへのストレス反応で浮かびますから、「かもしれない」ではなく、現実にそうなっています。
形としては思考ですから、当然、現実そのものではなく、自分だけの思いだとは分かっているし、それが一般的でない思考内容でも、そのことも分かるので、洞察力があり、現実が理解できていますから、妄想でもありません。

敏感であれば、一般的には些細なことも強い危害となりますから、ストレス対象(危害)が増えて、必然的に強迫観念も強迫行為も増えてしまいます。

実際に危害のあることを避けるのは、正常な人なら誰もがすることですが、強迫性障害であると、過敏性の強迫症状によって、一般の人なら危害にならないことが危害になってしまうので、その差が障害になってしまいます。

神経過敏はそういう生理的な症状なので、心の問題ではないのですが、それによる鬱とかは心の問題なのです。

精神医学的な不安には対象がありませんから、何らかの怖い思いが浮かんで、それは実際には起こってないことなら、対象がないとして、不安に含まれます。
不安に思うことで、不安になっているだけで、実際にはそうなっていないからです。
これは特別なことではなく、普通の人の不安も大抵はそうなのですが、不安障害とか神経質な人はそういう不安が多くなります。

現在の何らかの危害とか、そういう記憶があることでの不安は、対象があるので、恐怖や嫌悪などになります。
恐怖や嫌悪があることで、そのことへの不安な思いも浮かぶのですが、恐怖や嫌悪には対象があるので、その不安にも対象があるのです。

現在過去の実際の危害によって、未来の不安が浮かぶ場合は、思い込みとか、考え過ぎの不安(想像上だけの不安思考)ではなく、当然、妄想でもありません。
実際の危害での不安思考=恐怖や嫌悪などで、こういうのは過敏性の不安思考です。

現実反応の不安思考自体は誰にでも起こりますが、過敏性が強く、ストレス耐性が低いと、ストレスの苦痛が長く消えなくなりますから、不安が浮かびやすいし、それも消え難くなります。

強迫観念が浮かびやすいのは、何らかの危害に対してです。
はっきりしている危害でも強迫観念(そのことでの恐怖や嫌悪などの不快な思い)は強まり、過敏性によってその思いは消え難くなりますが、未来のことのようにはっきりとしないこととか、現在のことでも見えないことなどは、分からなかったり、見えないからこそ、その危害を思い浮かべてしまうことになり、強迫観念が強まりやすくなります。

普通の人からすると、実際の危害というのは、特定の人ではなく、一般の多くの人達にとって危害になっていることや危険に思うことなどであり、あくまで一般基準での危害のことです。
しかし、過敏性の強い人は、普通の人が恐怖しないことで、恐怖したり、普通は気にならないようなことも気にしたり、何らかの危害に対して不快な思いなどが浮かべば、その思い自体も危害になってしまいます。
そういうのは、一般の多くの人達にとって危害になりませんが、本人にとっては実際のことなのです。

強迫状態によって、その危害での苦痛が消えなくなれば、そのことに対する恐怖や不安なども強まってしまうし、その状態が続けば、対処として強迫行為をしないといけなくなり、その症状自体も含めた一連の苦痛を危害に思えます。

同じ強迫性障害でも、過敏性のない人であれば、不安な考えが離れないことだけが本人だけの実際の危害なのですが、過敏性の強い人は、それだけでなく、現実の危害での不快な思い(恐怖や嫌悪など)も強迫観念になってしまうのです。
しかし、それは過敏性が強いからこその危害であり、過敏性の問題がないので、一般の人は危害にならないというだけです。
敏感な基準は、一般基準ではありませんが、だからと言って、実際には危害のないことでなく、本人には実際の危害なのです。

敏感肌の人が、些細な刺激でも簡単に肌が傷付くことと同じで、一般的に些細なことでも、その人にとっては、実際の危害なのです。

実際の危害や、過去の危害が何なのかは、人それぞれの感受性や経験などでも違うし、生理的反応での恐怖や嫌悪なども、本人が基準になりますから、みんなに共通することばかりではありません。
敏感な人は、そういう危険が多い分、恐怖や嫌悪などの思いも増えるし、それがあることで、不安も強まり、それらの思いが消え難くなります。

強迫観念が消え難いのは、神経過敏で、その思いの刺激が残るからですが、妄想と違って、現実に対する思考です。
意識的に自分で考えているわけではなく、危害への生理反応で反射的に浮かびますから、自分の意思で、考えないように思わないようにしたくても、そうなってしまいます。

強迫観念は自分の意識的な思考(自分の考え)に関わらずに、危害に対する生理反応として浮かびますから、「自分の考え」と「強迫観念」という思考の二分化が起きます。
この葛藤があるのが妄想との違いでもあり、これが苦痛なのです。
強迫観念のほうは、「自分の考え」を無視しますから、どう考えようと自由にできませんが、「自分の考え」のほうは、「強迫観念」の悪影響を受けます。
危害に対する生理反応なのですから、無視することもできないのです。
そうすると、「自分の考え」が「強迫観念」に汚染されて病んでしまい、強迫観念が慢性的にあることで、「自分の考え」も慢性的なネガティヴ思考になり、それも消えなくなってしまいます。
それも「強迫観念」になりますが、「自分の考え」も続きますから、「自分の考え」としては、常に思い悩む状態になり、行動も消極的で回避的になります。
そういう生活でも、日常の些細な刺激(不快なこと)でも強迫観念は簡単に煽られますから、強迫行為はし続けることになります。

不快な思いが残り続けるというのは、すでに精神的に病んでいるのですから、そういう精神状態で生活し続けて、憂鬱な気分にならないとか、病まない(鬱にならない)ほうがおかしいです。

強迫症状での心の病みと、うつ状態が同じなので、強迫症の人は必然的に、鬱病にもなります。

これは、双極性障害の人が、鬱にもなってしまうのは、躁状態の反動ですが、強迫観念と鬱の場合は、最初から同じなのです。

普通の人は、鬱病になっても、過敏性の問題ではないので、何かに対する思いというよりは、憂鬱感そのものだったり、そういう状態での人生そのものに対して、悲観思考が起こります。
器質が原因、ストレスが原因、どちらにしろ鬱自体は、神経過敏ではなく、精神的な問題なのです。
過敏であると、それだけでなく、日常の些細な刺激に対して、悲観思考が起こり、強迫症状も出ます。
元々から、過敏性による憂鬱感にも強迫されているのですから、鬱病になれば、その憂鬱感がさらに強まり消え難くなります。
単にうつ病なら、過敏性の問題がないので、何もできなくなれば、そのままになりますが、鬱になっても、過敏性は続きますから、強迫症だと強迫行為をしないといけないので、その疲れで余計に憂鬱になってしまうのです。

仮に強迫行為をしなくていいなら、強迫観念と、鬱の憂鬱感や悲観思考などの問題しかないので、苦痛も少ないのですが、その状態で、何かをしないといけなくなってしうのが苦痛なのです。
強迫行為が億劫なので、そうならないように回避も過剰になりますが、億劫でも過敏性による苦痛や強迫観念はなくならず、強迫行為はしないといけないので、心だけでなく、体も休めなくなりますから、鬱もなかなか治らなくなります。

過敏性の不快な思いで憂鬱思考、悲観思考が浮かび、それも強迫観念となってしまいますが、そういうのは、うつ病の症状ですから、現実行動の強迫行為では対処できません。
うつ病と同じように、それがある限りは、そのままなのです。
そして、過敏性が強い分、その思いも強迫観念となって、消えなくなってしまいます。
強迫症の人が、うつ病になれば、うつに強迫されることで、うつ病が離れなくなって、何十年も続きます。

こういうタイプのうつ病には、調子の波がほとんどないのが特徴で、調子の悪い日がずっと続くことになります。
悲観思考が多くなりますから、強迫性障害にも悪影響です。
逆に、うつ病さえ治せれば、強迫性障害でもある程度は楽しく生きることは可能なのです。

強迫性障害を治すことよりも、いかに憂鬱気分とか、悲観思考にとらわれなようにするか、それを考えたほうが合理的に生活の質も向上させられます。

ただ、うつ病だけでもそれが難しいから、うつ病なのですから、うつ病強迫性障害の人にはかなり困難なことです。

ですから、うつ病が悪化する前に、うつ病を治療することが大事です。
強迫性障害が軽症だと、うつ病もまだ軽症なので、うつ病になっていても、そのことに気付かない人も多いのです。
強迫性障害の憂鬱感(憂鬱気分)とか悲観思考なのかなと思うだけで、うつ病だとは思わない人も多いのですが、憂鬱感とか悲観思考の範囲は、うつ病であり、それに強迫されるのが、強迫症の範囲です。
軽症の人は、うつ病の範囲がまだ重症ではないので、強迫性障害も軽症化できる可能性はあるのです。
うつ病が重症になれば、強迫性障害による心の病みも重症化しますから、強迫性障害による苦痛が余計に消えなくなってしまいます。

ですから、強迫性障害そのものというよりも、強迫性障害による心の病みをいかに減らすか、これに取り組んだほうが、強迫性障害そのものに対しても、治療的になります。

強迫性障害であっても、深刻に病むことがなければ、なんとか人間的に生活できるということですが、強迫性障害が悪化すれば、うつ病も悪化しますから、なかなか困難なのです。

強迫性障害は神経の障害ですから、なんともできませんが、うつ病とか、不安症範囲の症状であれば、精神の障害ですから、気持ちの持ちようで、ある程度は改善できることです。

ただ、過敏性の強迫には、トラウマでの強迫観念も多く、これもトラウマ(実際の危害)への生理反応の問題ですから、心の問題といっても、心掛けとかでは治せないことです。
そういう面は、仕方ないと考えて、心の持ちようで、治せる範囲を治していくしかありません。


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過敏性強迫症とは何か?

強迫性障害の人は、非常に敏感(過敏)で、普通の人なら平気な、むしろ楽しいことでさえ、危害となってしまうので、普通の人でもやや抵抗のあることは、強いストレスになり、強迫観念が煽られます。

何に強迫されるかは人によりますが、過敏性が弱いと、強迫観念が不安だけと言う人も多く、過敏性が強いと、恐怖や嫌悪など現在にある様々な不快な思いにも強迫されます。

不安強迫・・・不安による強迫観念ですが、未来の危害に対して強迫観念が浮かびます。
不安になりやすいことで、不安な思いが浮かぶのは当然ですが、そういう人は不安が抑えられれば、強迫観念も浮かび難くなりますから、不安症の強迫症状ともいえます。
強迫行為としては、確認が多いのですが、不潔恐怖とかでも「かもしれない」という強迫観念の場合は、不安型の強迫観念です。

恐怖強迫、嫌悪強迫・・・現在過去未来の危害に対して強迫観念が浮かびます。
不安になりやすいから強迫観念が浮かぶのではなく、現在過去の危害があることで、それを避けるために未来の不安も強迫観念になります。
強迫行為としては、洗浄、確認、回避などが多いのですが、過敏性の汚染恐怖は、「かもしれない」という強迫観念だけでなく、実際に汚染されて、その対処として強迫行為をすることにもなります。

過敏性強迫症の人は、小さなことを気にしてしまうだけでなく、大きな刺激も、普通の人より大きくショックを受けます。
大きなことを気にするのは、みんなそうだから、正常なのですが、その苦痛の度合いが違うのです。
小さなことから大きなことまで、様々な苦痛に強迫されますから、いろんなことが不安にもなり、その不安にも強迫されます。

危害のあることを避けるのが人として当然なら、強迫観念が続くことの危害を対処しようと強迫行為をすることも当然で、強迫症状を起こすストレス対象を回避しようとするのも正常な危害回避です。
しかし、強迫症でなければそうならないという意味では異常であり、過敏であることで、過剰になり、本来は正常な反応が、症状として障害にもなります。

敏感であればいろいろなことが気になりますが、危害の強いことに対しては強い過敏反応が出ます。
普通の人にとっては、どうでもいいようなことも、強迫性障害であると、過敏性によって実際に(症状が強まり)危害を受け、苦痛なのですから、気にしないわけにもいかなくなります。

敏感状態であると、あらゆる痛みが強く感じられますから、精神的苦痛のダメージも長く残り、そのダメージには、不快な考えやイメージ(強迫観念)がくっ付いたままになり、その強迫観念からも苦痛を受け続け、ストレス状態が長く続きます。

敏感な人は、ストレスを感じやすいことで、神経の消耗が回復できないままになって、余計にストレスが解消されなくなります。
ストレスの処理ができずに、神経そのものや脳にストレス反応が停滞してしまうが、ストレスでの強迫状態です。
その対処として強迫行為をしないといけなくなりますが、それはそれでストレスになって疲れてしまうので、回避が増えて、不活発になり、精神が病んでいきます。
そういう一連の症状が過敏性の強迫症状です。

強迫症の土台には、敏感症とか過敏症とも言える状態があるのですが、他人の過敏性は、他人には分かり難いことだし、神経障害による精神障害は、精神の病気としては治せないこともあり、過敏性による精神的苦痛の問題は医学的にほとんど理解されてきませんでした。

少なくとも過敏性強迫症というのがあることは理解してください。

このタイプは、不安な思いだけに強迫されるのではありません。

過敏性強迫症の特徴は、未来の危害ではなく、実際の危害での不快な思いに強迫されることです。
それによって、未来への不安も強まりますが、不安が原因で、強迫観念が浮かぶのではなく、過敏性によって、強迫観念が浮かぶのです。

強迫性障害は、心配事とか不安に限らず、恐怖とか、嫌悪とか、そういう不快なこと全般の刺激に強迫され、それらが長く続いてしまう病気です。
当然、強迫症状自体にも強迫されますから、強迫症状は必然的に長く続きます。

それは刺激のダメージが長々と残ってしまう過敏性の問題なので、その苦痛があることで、強迫症の人は、普通は気にならないような、小さなことを気にしてしまいます。

普通は小さなことほど気になりませんが、敏感なほど、気になってしまうものです。

どれぐらい小さいかというと、見えないレベルのことです。
そこには、不確実なこと、はっきりしないことも含まれますから、強迫観念が浮かびやすいのは、未来のことであったり、今現在のことなら、汚れとかです。
その対処としての強迫行為は、未来の危害の回避としての安全確認とか、現在の危害の対処としての洗浄などが一般的です。

強迫観念は思考ですから、見えること、見えないこと、現在過去未来、どこにでも強迫観念は浮かびます。
未来の危害もはっきりしませんから、強迫観念になりやすいのですが、今現在のことだと、実際にあるけど見えない危害で、強迫観念が強まりやすく、汚染や感染の恐怖になります。
人の体液(汗など)とか、細菌、病原体、虫、精神的な汚れ(不道徳な行為、残酷なことなど、テレビなどでのそういう恐怖情報など、人間的な汚さに対する嫌悪など)ですが、過敏性の強さによって、それだけでなく、それを連想させること、それに似ていること、などにも同様の反応をしてしまいます。
例えば、そういう不快なことの文字とか話、テレビ、新聞などマスメディアでの情報とかでも汚されるようになります。

強迫観念でそれらが具体化されると、特殊な顕微鏡で見るような世界になります。
見える汚れであっても強迫観念によって、見えないレベルまで汚れが付着してしまい、その見えない分は、強迫観念の汚れですから、見える汚れが消えても、強迫観念が残っている限り、まだ汚れている状態になって、洗浄が過剰になったり、汚染物を捨てないといけなくなったりします。

見えない汚れであれば、強迫観念のみが汚れの程度の基準になりますから、その汚れの不快感が強いほど、汚れも消え難くなります。
見える汚れであっても、強迫観念で見えないレベルの汚れが残ってしまい、見える汚れが消えても、まだ汚れていると思えて、洗い続けることになります。

他人からすれば、見た感じ汚れてはいないのに、長時間洗うのですから、変に見えるし、一般基準からすると、それは汚れではないので、本人の思い込みとか、考え過ぎ、あるいは妄想に近い症状と考えられてきたのですが、強迫症だと、見える範囲だけが汚れではないのです。

過敏性が強いと見えないことでも汚れてしまうのですが、それは現実の何かの実際の汚れの思考化なので、実際には汚れていないのに考え過ぎで汚れるのではないし、妄想でもありません。

もちろん単に考え過ぎの人もいますが、そういうのは神経質であって、気にするから敏感な人です。
強迫性障害は、敏感だから、気になってしまうので、まったく逆です。

危害があるのに、それがよく分からなかったり見えないことでの不安や恐怖そのものも危害となって、強迫観念を浮かばせます。
何らかの危害があっても、それがよく分からなかったり見えないこと自体は、危害にならない人は、そのイメージも浮かびませんかせんから、例えば、コロナが危害だと理解できなかったり、見えないから怖くないという人なら、コロナのイメージも浮かびません。
浮かんだとしても、それにとらわれることはありませんから、すぐに消えてしまうし、危害だと思ってないなら、不快な思いにはなりませんから、まったく気になりません。

敏感だとそういうイメージが浮かびやすく、消え難くなりますから、どうしても気になってしまいます。
強迫性障害の人は、小さなことが気になりますが、大きいことには、鈍感というわけではなく、大きいことに対しても、普通は気にしないような小さなレベルまで気にしてしまいます。

大きなことなら、それは、みんなも多少は気にするので、理解は得られやすいのです。
例えば、コロナ対策なら、みんな協力的ですが、一般の人が危害(ストレス)にならないことに対しては、自分だけで守ることになります。

最近はコロナ対策でお店などの入り口に消毒液のボトルが置かれていますが、これが手動のポンプ式とかだと、押す部分を不特定多数の人達が触りますから、他人の体液(汗、唾液、鼻水、尿など)が確実に付着しているわけです。
普通の人達は、コロナ対策で消毒さえできれば安心できるのですが、汚れに敏感な人は、消毒液のボトルに触れることで、余計に汚れてしまうと思えるのです。
見えない汚れは、それを思考できない人には避けられませんし、思考してもそれにそれほど抵抗がないなら、恐怖や嫌悪は起こりません。
どう思考するか、どういう感情が起こるかは、人それぞれですが、汚染恐怖の人は、汚染恐怖の強迫観念があることで、自然と汚れが思考化されて、見えなくても頭の中で分かってしまうし、本人にしか分からないような精神的な意味での汚れも見えてしまいます。
ですから、消毒液のボトルなども共用使用できませんし、汚れることだけでなく、汚されそうな状況でも、恐怖に強迫されて、嫌悪感も強迫観念も強まりますから、非接触式であっても、共用の体温計を近付けられることなどにも耐え難い苦痛(汚染嫌悪)を感じます。

普通の人は、見えないことにはそれほど気にしないもので、例えば、犬に関する不快に記憶があることで、犬に接近されると怖い人も、犬から離れれば、犬が見えなくなって、怖くなくなります。
敏感な人だと、犬が見えなくなっても、その犬に接近された恐怖体験が、強迫観念となって消えなくなり、犬への恐怖も続いてしまい、恐怖の強迫状態になります。
実際に犬を見ることで、見えない範囲のこと(例えば、その犬が飛び掛って来るイメージとか)が強迫観念として浮かんでしまいます。
実際にはそうならないとは限らない(分からない)からこそ、恐怖が強まり強迫観念になりますが、その思い自体は、不安型の強迫観念ですから、現実のことではありません。
しかし、それ以前に、犬が怖く思えるような体験をして、その不快な記憶に強迫されている場合は、実際には危害のないことを危害だと思い込んでいるわけでもありません。

犬への実際の恐怖があることで、その不安も浮かぶのですが、犬だけが怖いなら、恐怖症であり、強迫症だと、過敏性により、様々なことが恐怖となって、その恐怖に強迫されます。

一般的には小さなこと、普通の人には平気なこととか、そんなに気にならないことでも、強迫症の人は、過敏性の症状によって気になってしまうし、強迫状態になり拒絶反応が強まり苦痛の程度が大きくなってしまいますから、頭では些細な事に思えても、どうしても重大なこととして反応してしまいます。
一般的には些細なことでも、普通の人にはない強迫症状があるので、本人には実際に重大な危害だからです。

大きいこととか、確実にはっきりしていることとか、見える汚れでも強迫観念は浮かびますが、見えることだけなら、今現在だけの一時的な恐怖や嫌悪であり、普通の人にも起こることで、強迫性は低いのです。
強迫性障害だと、それだけできなく、見えないこと、まだないこと(未来)や、すでに過ぎたこと(過去)にもその恐怖が伝染して、消えなくなってしまいます。

強迫観念は神経質の思い込みと違って実際に危害があることに対して浮かびますが、何がどの程度の危害なのか、その基準とか苦痛度は、敏感なのか鈍感なのか、ストレスに弱いのか強いのかなどで人それぞれ違います。
過敏でストレス耐性が低いと、一般的には些細なことが本人には危害となり、そのダメージでの不快感や不快な思考などが長く続き、不快なことでの強迫状態になります。
そういう苦痛を受けるので、その対象への恐怖、嫌悪、不安などが強まり、また強迫観念が浮かびます。

強迫観念が浮かぶこと、不快な記憶が消えないことも患者には危害になりますから、そういう症状を体験することも、患者にはトラウマになり、強迫観念やトラウマ記憶によって、別の強迫観念が浮かぶことにもなります。
例えば、実体験(強迫された体験)での恐怖や嫌悪の強迫観念があることで、そのことに対する「そうなってしまうかも」という不安思考の強迫観念が強まったり、トラウマ記憶が苦痛なので、思い出したくなくて、強迫観念が浮かぶわけです。
そして強迫症状自体の苦痛がストレス対象への恐怖などの強迫観念を強めるし、その症状が出ないようにと、不安の強迫観念も強まります。

実際の危害がはっきりしているなら、思考しなくても分かるので、強迫観念は浮かび難いのですが、過敏性が強いと、はっきりした見える恐怖やよく見える危害での不快な思いも強迫観念として消えなくなります。
その危害での苦痛な思いも普通の人よりも強く感じて、長く残って、その思い、その体験の記憶が強迫観念になってしまいます。
そのことそのものだけでなく、それに関する些細なことに対しても、強迫観念が浮かび、見えないレベルの恐怖もプラスされ、その恐怖によって、他のことにも恐怖するというように、恐怖の伝染が起こります。

その恐怖が消えなくなって、過去からも強迫される、そのことで不安になって、未来からも強迫される、そうやって恐怖がいつまでも続いてしまうのが、恐怖による強迫状態です。
過敏性が強いからこらこそ、今現在の恐怖や嫌悪が、その時だけで終わらずに、過去にも残ってしまったり、未来に持ち越されたりするのです。

過去は今はないこと(見えないこと)ですから、それが危害的なことなら、身を守るために、必然的に記憶となり、見える化が起こります。
そういう記憶も自分の思考に関わらない思いですから、強迫観念になりやすいのです。

過敏性が強いと一般的には些細なことでもトラウマになってしまうトラウマ体質になります。
普通の人も強いショックでトラウマになればPTSDにはなります。
敏感な人は普通はトラウマにならないことでトラウマになって、PTSD症状が出ますが、PTSD(普通の人)と違って、敏感であることで、トラウマだけではなく、強迫観念にも強迫されます。
それが過敏性の強迫症状で、トラウマがあることで恐怖や嫌悪の強迫観念が浮かび、不安も強まります。
トラウマでの強迫症状(トラウマ関連のことを避けるなど)に抗精神病薬が効かないことと同じで、過敏性の強迫観念は、一般的ではなくても本人には実際のことですから、抗精神病薬が効きません。

過敏性の不安思考は、トラウマがあることでの不安と同じように、実際の危害への恐怖や嫌悪が強いことでの不安なので、頭の中だけでの思い込みの不安ではありません。
不安といっても現実との結び強いは強いし、敏感であることで、不安だけでなく、様々な強迫観念に強迫されます。

過敏性があると、現実に危害を体験すれば、その時の思いも記憶として残り、その記憶に強迫され、それを想起させる物事を避けるようになり、そうなれば、不安や恐怖も増し、強迫観念も強まります。
こういうのは、PTSDと同じですが、PTSDの場合、特定の恐怖症と同じく、過敏性の問題がないので、全般性もなく、特定のトラウマに悩まされるのです。
強迫症のトラウマ強迫の場合、過敏性の問題で、一般の人が傷付かないようなことでも、傷付いてトラウマになりますから、トラウマがいっぱいあるので、PTSDとは区別できます。

PTSDの場合、普通の人がショックとなって当たり前の(大きな)ことがトラウマになります。敏感な人を想定しない定義なのです。
過敏性の強い人は、普通の人がショックにならないこともショックを受けるので危害に感じてしまうし、何かに恐怖を感じたり、何かで嫌な思いをさせられる、そういうのも実際に害を受けた体験として、いちいちトラウマになります。
そういう過敏性のトラウマは、PTSD的ではなく、強迫性障害のトラウマ強迫の範囲です。

何かを見ると、トラウマ的な何かを思い出すみたいな強迫的な関連付き(連想強迫)が起こりやすくなり、この関連付きの付着性が汚染恐怖などにも繋がります。

こういうトラウマ性の強迫観念は治そうにも治し方はありません。トラウマさえ治し難いので、それによる強迫状態は、余計に治せません。

逆に、もし、強迫観念が、かもしれないという不安だけであれば、比較的軽い強迫観念であり、特別に過敏でもないのです。
そういうのは根拠のない(無意味な)不安ですから、実際には危害を受けていないので、それを無意味でバカバカしいと思うのは、当然のことです。

実際に危害を受けて、恐怖や嫌悪の強迫観念が浮かぶ、あるいは、その記憶があることで、未来への不安が強迫観念として浮かぶ、こういうのは、そう思える根拠がありますから、無意味でバカバカしいとは思えません。
一般的には小さなことに思えれば、普通に考えて過剰だとは思えますが、強迫観念としては、実際の危害の度合いにあった思いが浮かぶのです。
ようするに、頭でどうこう考えることではなく、生理反応的に恐怖や嫌悪によって、強迫観念(それによる嫌な思い)が浮かび、それが消えないことで、未来への不安も強まり、その不安も強迫観念になります。

一般的な説明では、その不安思考だけ取り上げて、強迫観念とすることが多いのですが、その前から、恐怖や嫌悪によっても強迫観念は浮かぶし、それだけでなく、不快に思えること全般が強迫観念になってしまうし、思考ではなく、不快に感じること、その感じそのものにも強迫されます(強迫感覚、感情強迫)。

患者は強迫観念を無意味でバカバカしいと思っているとか、強迫観念は、かもしれないという不安であるという説明も多いのですが、不安に強迫される場合、そういう強迫観念もあるというだけで、それだけではないのです。

不安での強迫は、未来的な危害からの強迫であり、そうなっているわけではないので、無意味でバカバカしいと思えることもありますが、今現在の危害とか、過去に体験した危害からの強迫は、未来的な危害への不安ではなく、実際の危害ですから、無意味でバカバカしいとは思えません。
それが一般的には小さなことという意味では、普通に考えてそう思えることもありますが、反面、強迫観念としては、そう思えないからこそ、苦痛が強いのです。

過敏性の強迫症状は、神経質とか不安が原因ではありませんから、不安にある程度効く薬があっても、それは効きませんし、現実反応の強迫観念は、頭の中だけで作られる幻覚や妄想ではありませんから、抗精神病薬も効きません。
頭の中だけの(思い込みだけの)不安思考なら、抗精神病薬が一時的に効くことはありますが、過敏性の強迫観念は、思い込みとか考え方が作り出すわけではありません。

過敏性の強迫状態になりやすい人は、ストレス対象による恐怖や嫌悪や不安などが、強迫感覚(感じ)や強迫観念(思考、イメージ)となって長々と残って、なかなか離れなくなってしまうので、ストレスから逃れられなくなります。
強迫観念を本人はバカバカしいとか、おもしろく思っているというのは、軽い不安思考の場合、そういうこともあるというだけで、深刻な不安や耐え難い恐怖や嫌悪に強迫されれば、強い苦痛があるだけです。


過敏性による強迫症状は、まったく知られていないわけではありません。

一般的な説明にも出てくることがあって、例えば、ちょっとした違和感が残ってしまうことで、しっくり来るまで同じ行為を繰り返すタイプを運動タイプとか運動性タイプなどとしています。

強迫観念に強迫されるなら、認知タイプなのですが、このタイプは「感じ」に強迫されるので、強迫観念がないのです。
「感じ」も強迫観念に含めればあることになりますが、このブログでは、違和感などの不快な感じに強迫されるタイプを、強迫感覚主体型と読んでいます。

こういうのが過敏性強迫症の原型で、例えば、汚染恐怖や不潔恐怖の人も、はっきりした強迫観念はないが、汚れている感じが残ってしまうことで、長々と洗ったり、洗い直しが増えたりすることも多いのです。
確認強迫にしても、不安な感じがして、何度も確認する人も多いのです。
その不快な感じに思考が結び付くと、強迫観念になります。

運動タイプの定義はまだはっきりしていませんが、強迫観念も強迫感覚(違和感など)がなく無意味に同じ行為を繰り返す人も含めているようですから、運動性タイプ=過敏ということでもないはずです。
過敏性が強ければ、様々なことに強迫されて、違和感にとらわれますから、特定のことだけ気になってしまうとか、特定の行為だけ無意味に繰り返すとかなら、神経質的な心因性の症状とか、精神病的な繰り返し行為であることも考えられます。
強迫症の強迫行為とは全然ちがう症状ですが、そういう傾向がある人が強迫症になれば、強迫行為が悪化する可能性はあるので、まったくの無関係とも言い切れません。

注意したいことは、子供とかだと違和感を感じていても、感覚的なことは言葉にし難いので、うまく表現できません。
そうだとすると、本人が違和感を自覚していないように思えてしまいます。
本人が意識できないような些細な違和感などの対処として強迫行為をする人もいますから、自覚していなくても、過敏性がないとは限らず、違和感というのが何なのか分からない人もいるのです。

認知タイプの場合は、強迫観念の対処として強迫行為をしたり、頭の中だけで強迫行為をする人になりくすが、そういうタイプ分けだけでは、病状の区別ができません。

運動型にも認知型にも、強迫行為先行型と強迫観念先行型(運動タイプの場合、強迫感覚先行型)がいるので、それによって、どう治療するか、治せるか治せないか等の予後が全然違うのです。

運動性タイプも、「こうでないといけない」みたいなこだわりが強いことで、そうでない状態が違和感になってしまう人と、実際に違和感に弱いから、どうしても気になって、その苦痛をなくそうとする行為にこだわってしまう人は、タイプが違うのです。

認知タイプと運動性タイプに分けることにはあまり意味がなく、強迫感覚も強迫観念に含めて、強迫観念先行型と強迫行為先行型に分けたほうが合理的です。

「こうしなければならない」という考えを、強迫観念だと思っている人もいますが、何からの危害での不快な思いが強迫観念であり、それがあることで、「こうしなければならない」状態になりますが、それ自体は強迫観念ではありません。

「こうしなければ」「こうあるべき」という思い自体にとらわれて行為をする人が、強迫行為先行型ですが、強迫観念がないので、それをすることが無意味に思えます。
なぜか分からないけど、「こうしなければ」「こうあるべき」という状態になってしまう人も多いのです。

「こうしなければ」という思いの強い人は、意識してそうやって思わなくても、慢性的にそういう思いがあるのですが、強迫観念と違って、その思い自体はそれほど苦痛ではないので、「こうしなければ」という思いが強いことに気付けない人もいます。
こういう無意味なこだわりによる行為は、習慣化して癖になって、止め難くなります。

「こうしなければ」という思いが強いと、マイルールにとらわれやすくなり、例えば、コロナ対策で「消毒しなければ」となって消毒が習慣化すると、「消毒しなければ」という思いは否定されずに消えなくなりますから、「消毒しなければ」にとらわれたままになり、それが癖として、しようと意識しなくても、してしまう行為になり、止め難くなります。
こういうのは、過敏性の問題でもないし、強迫観念があるわけでもなく、「こうしなければ」という思いにとらわれていることが原因なのです。

「こうしなければ」と行為をすることで、それに反する状況で強迫観念のような思いが浮かびやすくなり、それにもとらわれることになりますが、自分で作り出す強迫観念ですから、過敏性の強迫観念のような強い苦痛はありません。

求めている行為を止める(我慢する)と不快な思いをしますが、それは強迫観念ではなく、「こうしなければ」という思いとその行為にこだわることで、「それができないこと」での不快感なのです。
依存症で見られる欲求の反動での不快感と同じです。

強迫行為先行の人は、多くの場合、過敏性の問題はなく、有能でストレスに強い人が多いので、こだわり行動をすることでの満足感(完全感)と、そのことへの実行力の強さが行為を過剰にします。

強迫性障害の人には、「してはいけないこと」の思いにとらわれる人もいます。

「してはいけないこと」が思い浮かぶことは誰にでもありますが、その思いが離れないことで、そうしてしまうのでは、という不安思考の強迫観念にもとらわれるのです。
そういうのは、自分からすることですから、自分からしない限り、絶対に起こらないことなのですが、その思いに従ってそうしてしまうのでは、という不安思考が離れないことで、自らしなければ防げることなのに、そう思えてしまうわけです。
あるいは、そうしてしまう心配はないが、そう思えて、その思いが消えなくなってしまうことが苦痛なのです。

してはいけないことを、してしまうかもという不安が浮かびやすいのは、そうしてしまうことで自分が害を受けるのが怖い場合と、自分の行動を抑制できない不安がある場合の二タイプあります。
後者は、「こうであるべき」「こうでありたい」という欲求によって、しなければならない行為自体にとりつかれるタイプ(強迫行為先行型)に多くなります。
普段から、自分の思いにとらわれて行動してしまうので、してはいけないことを、思っていることで、それをしてしまうかもという不安が浮かびやすいのです。

そのタイプで、してはいけないことが思い浮かぶ場合は、例えば完璧主義とか生真面目な性格で、悪いことをするべきでないという思いが強過ぎて、逆にそういう思いが浮かんで、そうしてしまうような恐怖の強さから、そういう思いが強まってしまいます。
「そういう考え方をしていることで、不安になって強迫観念が浮かんでしまう」のです。

こだわりや欲求自体にとらわれていることの反動での強迫観念ですが、本人はそういう欲求があるとは思っていない人も多く、なんだか分からないけど、なぜかこだわって行動をしないといけなくなってしまうのです。
その行為を抑えたり、コントロールできない状態になりやすいので、自分の意に反して、してはいけない行為をしてしまうような不安が強まり、「実際にそうしてしまうかも」という思考が浮かぶようになります。

過敏性の強迫症(強迫観念先行型)は、自分を守るために強迫行為をしますから、「してしまうかも」という不安が浮かぶとしたら、そうすることで、自分が危害を受ける場合になります。
自分がすることではなく、されること(危害を受けること)への恐怖が強まりやすく、危害を受けることで、防御的にそうしてしまうかもという不安が強まることはありますが、自分からしないと起こらないことなら、人からされることではなく、自分次第ですから、恐怖になりません。
してはいけないことが思い浮かんでも、悪いことをしてはいけないとか、そうするべきでないという思いの反動ではないので、それ程抵抗がなく恐怖にもなりません。
自分からしなければ防げることで、それが嫌なことなら実際にするわけがないのです。

普段から欲求的な思いで行為にとらわれるわけではないため、欲求的な「してはいけない」思いが頻繁に浮かぶ場合も、そうしてしまう可能性が低いことが分かるので、それを「してしまうかも」という不安にはなりません。

「してはいけない」ことが思い浮かぶことは、どちらのタイプにもありますが、それを、してしまうかもという強迫観念に縛られるのは、強迫行為先行型に多いわけです。

強迫観念先行の人は、普段から行為自体にとらわれるわけではないので、自分がしなければそうならないことなら、それを実行している思いが浮かんでも、実際に実行してしまうようには思えないのです。
現実反応の強迫観念にはとらわれますが、非現実的な思いであれば、現実行動の強迫行為では対処できないので、強迫行為が起こりません。
その非現実の思いが嫌なら、頭の中で消そうとしたり、欲求的な思いであれば、頭の中だけでそれをするとかになりますが、ストレスに弱いので、そうすることにもストレスを感じて、妄想的な思いなら雑念のように放置するとかになります。

過敏性の強迫の場合は、どうこうと思考をするから、不安が起こるのではなく、どうこうという思考に関わらずに、ストレス反応で不安が起こり、その不安が消えないことで、強迫観念も浮かんで消えなくなります。
自分の思考で引き起こす強迫観念ではないので、自分の思考ではコントロールできませんし、考え方の問題ではないので、考えを変えようとしても、実際に刺激のあることへのストレス反応は変えられません。

実際に刺激のあることへのストレス反応がなくせるなら、全ての人から苦痛をなくせます。
苦痛を受けなくなれば、恐怖や不安もなくなり、危険回避もしなくなりますが、その状態こそが危険なので、生物は実際の危害に対する不快な思いを無くせません。

ストレスに強い人なら、危害は少なくなりますから、それによる不快な思いも少ないし、そういう思いに強迫されることもありません。
敏感な人は、ストレスが多い分、苦痛によって不快な思いも浮かびやすく、その思いへのストレス耐性もないので、強迫観念になります。

強迫行為先行型のように、求めていることとか、こだわっていることがあって、それ自体にとらわれて、そうしなければならないなら、本当は強迫症と言うよりも、依存症的な症状です。
それが得られないことで不快な思いが強まっても、強迫症的な強迫観念(危害への反射的な思考)ではありません。

この前、躁状態と強迫状態は真逆であることを書きましたが、強迫行為先行型は、強迫観念とか過敏性の症状ではないので、もし躁状態になれば、完璧主義などのこだわる傾向が強まって、行為依存を悪化させることはあります。
これは強迫行為に見えて、強迫行為ではなく、安心できる行為への依存症です。
躁状態は依存症を悪化させますから、強迫行為での安心依存も悪化させます。

本来の強迫症的な強迫状態の人は、強迫行為での安心依存症ではないので、強迫行為を求めているから、それが得られないことで強迫観念が浮かぶのではありません。
過敏性で、恐怖やストレスを感じやすく、実際の危害の対処や回避として、しなければならない行為が過剰になります。

元々は強迫観念先行でも、強迫観念が軽くストレスにも強いタイプは、強迫行為先行型になりやすい傾向があります。
強迫行為をしなければならないといっても、それ自ら求めることで、しなければならない苦痛を減らせるし、予防的に強迫観念を抑えられます。
ただし、そうすることで、そうしなければならないという思い自体に強迫されることになります。
ストレスに強い人はそうなりますが、過敏でストレスに弱いと強迫行為が苦痛過ぎてそうならないのです。
ある程度は過敏性の問題があっても、ストレスに強い人ならば、混合型のようになりますが、通常、過敏性の強い人は、ストレスにも弱いので、強迫行為先行型になり難いのです。

強迫観念先行型は、強迫観念が先にあって、その解消として行為をするタイプです。
認知行動療法では勘違いしていますが、強迫行為ができないことでの不快な思いなのではありません。
強迫行為以前の何らかの危害に対する強迫観念なのです。

強迫観念にも不安、恐怖、嫌悪などといろいろあり、不安型の強迫観念だけの場合は、比較的軽症なのですが、恐怖や嫌悪型の強迫観念が浮かぶ人は、そのことで不安や心配も多くなり、不安型の強迫観念も浮かびやすくなりますから、症状も複雑で重くなります。

軽い強迫観念は、強迫観念とは言いませんが、それであれば、不安症でも恐怖症でも神経質にも見られます。
不安だから不安思考が浮かび、それが消えなくなってしまうなら、不安症的な強迫観念ですが、神経質者の場合は、不安だから思考してしまうというよりは、不安になってしまうことを思考してしまうから、不安になっているのです。
自分の思考で引き起こす強迫観念です。

こういう本人の頭の中だけの思い込みの不安は、敏感であるから、それにとらわれてしまうのではなく、思い込みが強いから、それにとらわれてしまうのです。
この場合、本人もその不安な思いを、あり得ないとか、不合理でバカバカしく思えるし、バカバカしい思いだからこそ、その思いで不安になって、強迫行為をするのが無意味なことに思えます。
一般的な説明に出てくる強迫観念は、そのような、本人の頭の中だけの思い込みによる不安思考のことなのです。
現実反応の思考だとしても、現実との結びつきが弱く、妄想(非現実の思考)に近い状態ですが、現実のことの思いではあるし、本人が不合理でバカバカしく思えるなら、妄想ではないということになります。

強迫性障害が重症なら抗精神病薬を使うという考えは間違いで、強迫観念は現実の危害へのストレス反応なのです。
過敏性の問題ですから、些細なことが多くなりますが、現実のことだからこそ、些細なことなのです。

妄想の人が現実の些細なことを気にして、それが妄想化するなんてことはあり得ません。
妄想は、最初から最後まで現実に対する思いではありません。

過敏性の強迫観念ではなく、神経質のように、自分の思考で引き起こす強迫観念とか、思い込みでの不安のほうが、現実との結びつきが弱く、妄想に近くなってしまうので、こういうタイプであれば、抗精神病薬は効くのです。
現実ではなく、考え方の問題ですから、考えを鈍らせれば良いのです。

本人の頭の中だけの思い込みの不安思考であれば、妄想ではなくても、実際には現実に問題がないので、抗精神病薬で思考を鎮静させれば良いということなのです。
本人が非現実だと思っているが、その思いにとらわれるという妄想状態もありますから、それに近い強迫観念であれば、抗精神病薬が効きやすいのです。
妄想も神経質の不安思考は違うものですが、どちらも同じ考え過ぎを抑えられれば良いので、思考を鎮静させれば良いのです。
妄想の場合は現実は関係ないので、現実が意識できるレベルの鎮静で良いのですが、神経質は現実とある程度は繋がっているので、思考を鈍らせるだけでなく、考え方の修正もしないといけません。

ようするに、不安思考でも妄想でも何であっても現実との結びつきが弱いほど、その思考は抗精神病薬が有効なのです。

汚染恐怖などでも見えないことが見えてしまうとも言えますが、幻覚妄想ではありませんし、思い込みでもありません。

妄想との決定的な違いは、強迫観念は現実とか実際の危害に対する思考(現実の思い)で、妄想は現実とか実際のこととは無関係の非現実思考だということです。

強迫観念も妄想も自分で考えるわけではないのですが、妄想は頭の病気で思い浮かぶと考えらていて、
強迫観念の場合、危害に対する生理的な反応として、自分の意に関わらず浮かんでしまいます。

何か危害があれば、そのことでの恐怖、嫌悪、不安などが起こりますから、そういう思いも思い浮かんでしまうのです。
それ自体は普通のことですが、器質的な過敏性により、一般の人が危害にならないことが危害になってしまい、それによる苦痛も消え難くなります。
あるいは不安になりやすいことで、そういう思いが浮かびやすくなり、消え難くもなります。

過敏性の思考は、妄想ではないので、一般離れすることはあっても、現実離れすることはありません。

強迫性障害だと、不快な思いが消えなくなってしまうのですが、妄想が消えないことは、まったく別のことで、強迫観念が現実から切り離されることはありません。

強迫観念が一般離れしていたり、症状での生活への障害度が重い人は、精神病様の強迫症という場合はありますが、それでも強迫観念は妄想にはならないし、強迫状態と妄想状態は逆ですから、精神病状態の強迫症というのは実際にはないのです。

妄想の中には現実はなく、妄想しかありません。現実に無関係の思いに惑わされているだけです。

強迫観念は、現実反応(現実に対する思いとか、現実のことで思い浮かぶ)思考ですから、強迫観念の中には現実があります。

コロナが不安で、実際には付着しているか分からなくても、「付着しているかも」または「付着している」と思って、手などを頻繁に消毒する行為は、当然、現実反応であり、妄想ではありません。

付着してるとは限らないのに、付着していると思うことが妄想なのではなく、現実のストレス対象への思い(現実反応の思考)なのですから、確信的であっても妄想ではないのです。

「付着しているかも」「付着している」という思いとか考え、イメージが強迫観念化すると、なかなか消えなくなりますから、頻繁に消毒する行為も過度になりますが、現実のことへの不安が強まっているだけで、妄想状態ではないのです。

妄想の場合、現実への思いではなく、頭の中だけの非現実世界にとらわれている状態です。

強迫観念は対象が現実にあり、妄想は対象が妄想(妄想化した現実)の中にしかありません。

強迫症では、一見、妄想的に思える強迫観念もありますが、現実に反応してそういう思いが浮かんでしまうだけで、妄想のように現実に無関係の反応ではないのです。

例えば、情報汚染の強迫症状のように、不快な文字や汚い写真を見ると汚されるという場合も、それを見て嫌悪感が消えなくなってしまうことだけでなく、汚れの思い、イメージが強迫観念として浮かんで、それが離れなくなってしまうから汚れるのです。
過敏であるから、普通の人よりも汚れることが増えるだけで、その思いの対象は、あくまで「現実のこと」ですから、妄想ではありません。
ストレス反応での強迫的な思いにとらわれてしまう病気と、妄想にとらわれる病気は、まったく違う状態です。

不快な貼り紙やテレビ番組などで汚される場合も、現実の情報(貼り紙やテレビなど)によって、嫌悪感が起こり、その情報が汚れのように付着するイメージが浮かび、その嫌悪感やイメージが離れなくなってしまうのが強迫性障害なのですから、一般的ではなくても、強迫症状としては普通のことです。

むしろ、そういった普通は汚れないことで汚れたりしないなら、強迫性障害としてはごく軽症であり、その範囲なら、不安症に近い強迫症状なので、治せる可能性はあります。

治せるか治せないかというのは、どの程度、ストレス対象を我慢ができるかにもよりますが、我慢できるのであれば、強迫性障害というほどの強迫観念がない人なのです。

軽い不安や恐怖とか、欲求的なこだわりとかなら我慢しやすくても、実際にダメージの強いことほど、我慢がし難く、特に汚染恐怖のような生理的嫌悪は、敏感でストレス耐性の低い人には、耐え難いわけです。

過敏性の強迫観念は、現実反応の実際の危害に対する恐怖とか嫌悪の思いですから、非現実的な不安思考ではないので、抗精神病薬は効きません。
前に書いたように、この場合は現実が意識できないレベルにしないと、強迫観念も消えません。

強迫行為先行型は、強迫行為を求める病気なので、それを止められるようになれば、強迫観念も静まります。

神経質とかの考え方の問題での不安(想像上の危害)での強迫行為なら、それを止めても実際には害はありません。

過敏性の強迫の場合、強迫行為を止めると、過敏性での実際の苦痛が続いてしまいます。
強迫行為をする前に実際の危害があるので、強迫行為をしなくても大丈夫という説得が通じません。
無理に止めれば、危害のダメージで精神的に傷だらけになり、症状も悪化します。

過敏性が強くても、強迫行為をすることで、ストレスを対処して、なんとか生きていけるので、このタイプは、過敏性が続く限り、強迫行為もなくなりません。

治療薬もあっても麻薬類になり使えませんから、症状があるままなんとか生きられる道を探すことになります。


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強迫性障害は本当に精神の障害なのか?/不安症・恐怖症と強迫症の違いは強迫性・過敏性・全般性/統合失調症の妄想には汚染恐怖や不潔恐怖が無い理由

ストレス反応=心の問題ではありません。
考え方でストレスになっているなら心の問題なのですが、過敏性の強迫観念は、考えとか、心掛けとかに無関係の症状なのです。
考える前にストレスを感じて、そのストレスで不快な思いが浮かぶのです。
ストレスへの生理的反応での症状ですから、心理とはむしろ関係が無い症状なので、少なくとも心理学では治せません。
神経過敏での強迫症状は、器質とか器質的な気質の障害なのです。
それは昔からとっくに分かっていることなのですが、強迫性障害精神障害なので、神経過敏での強迫症状の人も、強迫性障害なのであれば、心の問題としないといけなくなってしまうのです。
ですから、神経過敏での強迫症状の人は、本当なら強迫性障害と診断してはいけないのですが、心の問題というのは、原因であって、強迫性障害は症状なので、原因はともかく症状としては強迫性障害そのものですから、強迫性障害の診断になってしまいます。
そうなれば、強迫性障害=心の問題ということになりますから、まったく関係ない病気の治療を受けないといけなくなります。

過敏性強迫症の問題は、そのストレスでの精神的苦痛によって精神が病んでしまうことも含まれますから、うつ病はセットになります。
うつ病の面では確かに精神障害ですが、考え方の問題とかで強迫症になっている人達とは違って、精神が「原因」ではなく、その病んだ精神は、過敏性による「症状」なので、全然違うわけです。
このうつ病の場合、強迫症が原因なので、過敏性が治らない限り治りません。
ということは、精神障害強迫性障害となっている内は、強迫も鬱も治らないのです。

強迫症状自体は、精神ではなく、過敏性の問題ですから、脳の病気として過敏性強迫症とか、全般性過敏症みたいなのを作らないといけないのです。
逆に、強迫性障害から心の問題の人達を除外するのも良いのですが、その区別をする方法がないし、そうすると強迫性障害精神障害ではなくなってしまうので、精神医学的にそういうことはできません。

うつ病強迫性障害を併発している場合、強迫性障害のほうが重症でも、それは実際には器質の問題であり、精神の障害ではありませんから、うつ病のほうを主病名としてください。
そのうつ病強迫性障害である限りは治りませんが、治療と療養で多少は改善することもできます。
(過敏性の)強迫性障害のほうは治療法がありませんから、そちらをメインで治療しても無駄なのです。
普通の鬱よりも複雑なので、普通のうつ病の治療で治るわけではありませんが、重いうつ病でも強迫行為をしないといけないというのは、かなり苦痛で、余計に精神が病んでいきますから、うつ病を治すことを考えるだけでいいのです。

強迫性障害のほうは、今後も不安の病気とか、考え方の問題として扱われますが、精神医学としては、精神の病気でないといけないのですから、それは仕方がないことです。
ただ、過敏性の強迫症とは全然違う病気のことですから、自分の病気のことだと勘違いしてはいけません。
過敏性はまったく無視しているのです。
精神の病気としては、うつ病だと思えばいいのです。
強迫性障害単独ではなく、うつ病強迫性障害の病態であれば、精神障害なのです。

つまり、強迫症状による精神の病みが、精神障害なのです。
精神医学のほうでもそう考えています。

強迫性障害精神障害ではない神経障害か何かなら、精神障害としては障害度は低いわけで、そこにうつ病が合わさることで、精神障害的な病気に変わるのです。
仮に強迫性障害が脳の研究によって、神経障害ということになれば、強迫性障害単独でも神経障害としては障害度の重い病気ということになりますが、それであると、精神障害ではありませんから、重い症状が出ていても精神障害的には軽い病気になります。

ただ、精神病でなくても器質が関係しているのではというのが、近年の考え方なので、そういうのが明らかになってこれば、精神障害=体(脳とか神経)の病気でもあるということになり、強迫性障害単独でも、症状が重ければ、精神障害としても重いということになります。

統合失調症の場合は、頭の中だけの病気ですから、器質的な病気だとしても、明らかに精神だけの問題なので、最初から最後まで精神障害的なのです。
外界からのストレス反応ではないので、器質性でも、完全に(精神)心の病気として扱えるのです。

強迫性障害の場合、神経過敏での病気ですから、精神障害的ではないということです。
それを精神障害として扱うのが本来は困難なことなのですが、精神障害とするのであれば、精神の問題とすることになります。
そういうことにしないと、治療といっても、何をしていいのか分かりません。

だからと言って、体とか脳の病気として病院に行っても、よく分かっていないことは治せません。

ですから、強迫性障害を治そうとする(何らかの理由で治療を受けないといけない)のであれば、精神医学での考えと、その治療法を受け入れるしかありません。
他にどうしようもできないからです。

ただ、そうすると治療がストレスにしかならないので、強迫性障害というよりも、うつ病を治すことを考えればいいのです。
うつ病はある程度は治せますから、治療する意味ができます。

強迫性障害のことはどうしようもないので、強迫性障害による悩みというのは、うつ病の症状だと思えばいいのです。
それで病んでしまうことが精神障害だからです。

強迫性障害であっても、精神的に病まなければ、なんとか人間的な生活が可能になります。

強迫性障害の症状とは関係のない心、そこをポジティヴにすることが大事です。

とは言っても、うつ病だと、なかなか難しいことなので、うつ病のほうを治したいのですが、強迫性障害があっての、うつ病ですから、これもなかなか治せません。

ということは、やはり強迫性障害を正しく理解してもらい、過敏性の強迫性障害にも効くような薬を使用可能にしてもらうしかありません。

薬が効かない人は、考え方の問題だからというのは偏った古い考えで、精神の薬には元々それほど種類がないので、過敏性とか、恐怖や嫌悪に効く薬はなく、それによる強迫状態には余計に効きません。

それらも治せないのに、それらの強迫状態である強迫観念が治せるわけがないのです。
PTSDの場合は、過敏性の問題でトラウマになったわけではないので、トラウマの強迫性が低く、自然と治ったり、治療で治せることもありますが、強迫性障害のトラウマは、器質的な過敏性の問題ですから、自然と消えることはなく、薬で治せることでもありません。

ただ、同じ強迫症でもいろんなタイプがありますから、SSRIが効く人もいることは知られています。

SSRIが効きやすいタイプ・・・不安障害の強迫症状(不安になりやすいことで強迫観念が浮かぶ人)、鬱状態による不安思考での強迫症状など、不安や鬱での強迫観念の人
不安障害の強迫症状と言っても、過敏性があるからこそ、不安になりやすい人もいて、その場合は、薬にも敏感なので、SSRIも無理に増やすと、抗コリン作用の賦活で、攻撃性が強まったりイライラする可能性があります。

SSRIがほとんど効かないタイプ・・・過敏性の強迫症状(敏感なことで些細な刺激も危害となって強迫観念が浮かぶ人、不安だけでなく、嫌悪や恐怖などでの強迫が多い人)、トラウマ(過去の危害)があることで、強迫観念が浮かぶタイプで、尚且つ過敏性の強い人

SSRIが効き難いタイプ・・・恐怖症の強迫症状(特定のことへの恐怖の対処で、強迫行為をしているタイプ)

SSRIでなければ、抗精神病薬ぐらいしかありませんが、強迫観念には効きません。

妄想幻覚、思い込み(考え過ぎ)の不安思考、不安感による不安思考、過敏性の強迫観念、この中で、一番治しやすいのは、妄想幻覚です。抗精神病薬が効くので短期間で治せます。

飲んでいる間だけなら治ったと言わないと言っても、飲んでいる間さえ治らない病気と比べれば、治ったに等しいのです。
思い込みの不安思考の場合、考え方の問題なので、考え方の修正できれば、不安も消えますが、抗精神病薬は考え方を鈍らせますから、ある程度は効果があります。
つまり、完全な神経質か、精神病の人向けが抗精神病薬です。

不安になりやすいことでの不安思考(不安障害の強迫観念)の場合は、SSRIが効くこともありますが、過敏性の強迫観念(現実の危害やその記憶での恐怖や嫌悪、それらがあることでの不安思考)は何も効きません。

過敏性の強迫観念の場合は、現実の危害とか、その記憶によって、生理反応で思い浮かぶので、完全に意識(思考や感覚)を無くさないと、強迫観念も消えません。
麻酔で完全な無になれば、苦痛も消えますが、何もできなくなりますから、治療とはいえません。

妄想幻覚の場合は、薬でそれを鎮静する(思考力を鈍らせる)にしても、ある程度までで良いのです。
現実は関係ないので、強く鎮静するにしても、現実を意識できるレベルで構わないのです。

幻覚が一番簡単に治せますが、過敏性の強迫症状以前に、(現実反応の)恐怖や嫌悪などにも効く薬がありません。
現実反応の恐怖や嫌悪も麻酔を使って意識を弱めたり眠らせれば一時的には静まりますが、麻酔が効かなくなれば元に戻るし、強迫性障害の場合、恐怖や嫌悪の対象が多いので、そんなことをしながら生活できません。
恐怖や嫌悪などに慢性的に、全般的に強迫される状態は、一時的な効果では意味がないのです。
過去(不快な記憶)からも強迫されますから、その記憶がある限り、強迫観念も浮かんでしまうし、現実からも強迫されますから、意識が戻れば、症状も元に戻ります。
未来(先のことへの恐怖や嫌悪)からも強迫されますから、汚染恐怖があると、一時的に麻酔で誤魔化していた間の汚染とか、その分の洗浄や汚染物放棄などの強迫行為をしないといけなくなってしまう恐怖が強迫観念として浮かび、麻酔が受けられません。
特定のことへの恐怖症と違って、全般性がありますから、麻酔を受けること自体も恐怖となり、その恐怖の強迫状態となって、強迫観念が浮かびます。
その強迫状態で、麻酔する人とか器具などへの汚染恐怖があると、そもそも接触できないので、麻酔が受けられません。
麻酔を受けることでの汚染恐怖は、麻酔では抑えられません。

幸せな気持ちにになれる薬で恐怖や嫌悪を消すのも良いのですが、そうやって治す薬があれば、それは必ず麻薬類になりますから、あっても使えません。
実際に強迫性障害に麻薬類は効くという実験データもあり、効く薬も作れるのですが、使えませんから、意味がありません。

SSRIは鬱とか不安障害には向いていますから、不安の強迫なら効くこともありますが、恐怖や嫌悪には効かないので、恐怖や嫌悪の強迫には、まったく効きません。
恐怖症も治せないのに、恐怖に強迫される強迫性障害がどうして治せるのでしょう?

治せるほうがおかしいことで、今使える薬が効くとしたら、不安障害に近いタイプとか、思い込みだけの不安思考の人です。
思い込みの強い人は、薬が効くという思い込みでも治せますから。

過敏性の強迫は、考え方とか不安の問題ではないので、森田療法とか認知行動療法ではまったく通用しませんし、不安障害に効く薬もほとんど効きません。

不安障害の強迫症状は、それが今までの普通の強迫性障害ですから、過敏性がなくても強迫性障害に含めることになりますが、過敏性の強迫症状とはタイプが違いますから、強迫観念が不安だけの人は、少なくとも不安型みたいなタイプ分けはするべきです。

強迫性障害には、過敏性、強迫性、全般性がセットになっています。

全般的にいろんなことに不安な人は、全般性はありますが、不安での強迫性が弱ければ、強迫観念がなく、強迫症状が出ないので、全般性の不安障害ということになります。
強迫性がないのは、不安障害は、過敏性の問題ではなく、不安の問題だからです。
不安が起こり難く消えないから、不安な思いも消えないのですが、不安なだけなら実際のことではないので、過敏性の強迫観念ほどの苦痛はないし、強迫行為も起こりにくいのです。

敏感な人は不安になりやすいのですが、器質的に敏感であれば、不安だけに強迫されやすいということにはなりません。

同じことでも、それを怖がらない人もいれば、怖がる人もいますが、強迫症であると、過敏性で恐怖対象が多いだけでなく、恐怖に強迫されるので、その苦痛から、恐怖対象への恐怖、嫌悪、不安、拒絶も強まります。

器質的に敏感な人は、特定のことだけに敏感なのではなく、本人にとっての不快な刺激に全般的に敏感になります。
外界の刺激だけでなく、思考、記憶、感情、刺激反応自体など、内面の刺激にも過敏反応します。
そのストレスが長々と消えなくなってしまうので、強迫行為をしないといけなくなります。

そういう全般性が強迫症の特徴ですが、その中には特定のことへの恐怖なども含まれ、何で強迫されるかは、人それぞれの面もありますが、特定のことへの恐怖症とは別の症状なのです。

特定のことへの恐怖症であれば、その恐怖に強迫されない(強迫観念にならない)ので、その恐怖対象さえ避ければ良いのです。

普通の人も恐怖は当然起こりますから、例えば、コロナが怖ければ、コロナ恐怖(感染恐怖)とか、コロナ汚染恐怖(コロナが付着する恐怖)になってしまいます。
コロナは手に付着しただけでは感染しませんが、それを口に入れたりすれば感染リスクが高くなり、そういうものが付着したと思えれば恐怖には感染します。
そういう恐怖が強ければ、消毒や洗浄などが過剰になりますが、ある程度までなら普通のことです。
もし病的レベルであっても、特定のことにだけ恐怖するなら、特定のことでの(限局性)恐怖症であり、強迫行為が見られても、強迫性障害ではありません。
そういうのは、汚染の強迫観念があるから、コロナ汚染に恐怖するのではなく、その汚染恐怖はコロナ恐怖が引き起こしているので、基本的にはコロナさえ避けられれば良いのです。
コロナ問題が長引いていると、その分長くなりますが、一時的な(強迫性の弱い)病気ですから、やがて恐怖対象がなくなれば(コロナの危険性が弱まれば)、それによる恐怖症状も消えますから、強迫行為もしなくなります。

強迫性障害の人も不安症や恐怖症にはなりますから、それによる(一時的な)強迫行為もするのですが、それと強迫性障害の(慢性的な)強迫行為は別なのです。

強迫性障害の感染恐怖や汚染恐怖の場合も、コロナ恐怖は起こりますから、それによる洗浄なども過剰になりますが、それだけではないのです。
過敏性によって、様々な恐怖に強迫される病気ですから、恐怖対象(ストレス対象)から離れても、強迫観念や記憶強迫(トラウマ強迫)によって恐怖が続いてしまうし、その恐怖対象にも継続性、全般性がありますから、恐怖対象自体がなくなりませんし、ストレス対象も消えなくなってしまうのです。
不安や恐怖や嫌悪なども続いてしまい、その思い(強迫観念やストレス体験の記憶)も消えなくなります。
それが強迫状態で、普通の人はそうなりません。

過敏性が強いと、一度感じた恐怖がなかなか消えなくなりますが、そこに思考が結び付いて、強迫観念となって、さらに消え難くなってしまうので、その症状の解消や対策として、過剰な強迫行為や回避が起こるのです。

コロナ恐怖の場合、実際にみんなにとって危害のあることへの恐怖ですから、過敏性の問題でもなく、強迫性の問題でもなく、ある程度は、そうなって当たり前のことであり、病気でもありません。
しかし、もし病的レベルになってしまえば、不潔恐怖とか汚染恐怖の症状と基本的に変わりませんし、実際に不安症や恐怖症での強迫行為でも強迫性障害に含めて来ましたから、病状次第では、強迫性障害として治療することも考えられます。

実際に治療する人はいないとは思いますが、SSRIでは恐怖症とか、恐怖や嫌悪での強迫性障害は治せませんから、むしろカウンセリングとかが向いているはずです。
恐怖が起こりやすいとか、強迫されやすい病気ではないので、考え方とか一時的な気持ちの問題だからです。
そういう心理的な恐怖こそ、カウンセリングの対象なのですが、コロナ恐怖の人だと、この状況の中、通院するのも怖いかもしれません。

強迫性障害だと、不安が強くて、強迫行為をするタイプならカウンセリングも向いているかもしれませんが、強迫観念自体は危害への生理反応ですから、心理的な問題ではありません。

強迫観念は、「かもしれない」という不安な思い、思いこみとか考え過ぎでの不安→現実的でないことへの過剰な心配、という説明が多いのですが、勘違いしています。
そういう不安思考は、現実がどうかではなく、頭の中で、そう考えることで、不安になってしまうので、神経質な人の強迫観念のことです。
普通の不安思考を、考え過ぎてしまうことで、それにとらわれて、強迫観念のようになります。

生理的恐怖や嫌悪などは、考えてそれが浮かぶのではないので、考え方を変えても、その恐怖や嫌悪は消えませんから、考え過ぎではありません。

強迫観念は普通の思考に関わらずに、ストレス反応で強迫的に浮かび上がりますから、簡単には払い除けられません。
強迫観念自体から不快な感情が起こり、患者にとっては、それも症状としての実害になりますから、強迫観念を強める物事への敵意も強まります。
それは普通の人なら、強迫症状が出ませんから、なんてことなくても、強迫症の人は、強迫症状の苦痛がありますから、過剰に避けることになります。

不安になりやすいために、そのことを考え過ぎてしまうなら、不安障害(不安の問題)と言えますが、不安になってしまうようなことを考え過ぎて、その思いで不安になっているのなら、神経質(考えの問題)です。

強迫性障害だと、不快な思いなら、なんであれ強迫観念になり、過敏性の不安な思いも強迫観念になりやすいのですが、その不安の元になっている、怖いと思いとか、嫌な思い、不快な思い全般が強迫観念としてあり、そういう不快感での強迫状態になり、それらの苦痛が消え難くなっていることで、そうならないようにと不安にも強迫されます。

神経質的な不安は、ただの考え過ぎなのですが、実体験で危害を受けていること、そういう記憶があって、何かを危害だと思うというのは、実際に危害があることへの不安や恐怖ですから、考え過ぎとか思い込みの不安ではありません。
強迫観念は不快な思いのことですから、こういう実際の害での嫌な思いも、当然、強迫観念になります。
記憶も思い浮かぶものですから、トラウマや不快な記憶も、強迫観念になります。
こういうのは、神経質ではない=強迫性障害の強迫観念です。

敏感な人は、何らかの事で辛い思いをすることは多くなりますが、強迫症だと、そういう不快な思いが消えなくなります。
一般的には些細なことも、本人にはいちいちトラウマ体験となり、その記憶が消えなくなり、強迫観念になります。
何かを見て嫌悪感が湧くとしても、それが強迫観念化することで、一時的ではなく、ずっと続いてしまいます。
そういう苦痛が強いので、そうなってしまうことを実際の危害として避けるようになりますが、こういうのも考えて、嫌悪感や恐怖が起こるのではないので、考え過ぎではありません。

過敏性の強迫観念を、神経質や思い込みの不安(性格や考え方の問題)と勘違いして、ああしろこうしろと言われても過敏性の強迫症だと、そんなことしても治せませんし、そんなことはできませんから、そういう間違った考えを無理やり押し付けられて、そういう乱暴な扱いを受けることが、過敏性の強迫患者には強いストレスになります。
その誤解によるストレスへの強迫行為(回避)として、社会的に孤立してしまうのです。

そのストレスに加担しているのが、認知行動療法ビジネスや森田療法の宣伝です。

神経質の場合、自身の考え方で不安が起こり、その考えが強迫観念になりますから、危害が実際にはなく、自身の考え自体が想像上の危害になります。
神経質も強迫症状が出るので、強迫性障害に含まれてきたことで、強迫性障害への誤解も多くなりました。
神経質での(心因性)精神病様状態を、統合失調症としないことと同じで、強迫症様状態の神経質は、過敏性の強迫症状とは全然違う症状ですから、性格(考え方)の病気として扱うべきで、強迫症状があっても、強迫性障害に含めるべきではありません。

もしそれを続けるなら、過敏性の強迫性障害に、新しい病名を付けるべきです。
そうしないと、実際には全然違う病状の人が、同じ病気となってしまいます。

自分自身の考え方の問題で不安になっている場合は、神経質ですので、不安障害でも強迫性障害でもありません。
神経質の強迫症状の場合、不安とか過敏性とか恐怖の問題ではなく、考え方(思い込み)の問題なので、プラセボ効果が得られやすい面もありますが、基本的には考え方を修正しないと治せません。

ただ、頭の中だけでの思い込みの不安とか、考え過ぎでの強迫観念も、脳機能の問題での症状ではないかというのが現代的な考え方です。
そうであれば、完全な神経質と、脳機能障害での神経質が両方いるということになりますが、脳機能の問題で、不安になりやすいことで、神経質になっている場合は、実際は神経質ではありません。
不安の問題だったり、妄想的な症状だったりするので、SSRI抗精神病薬が効く人も多いですが、神経質(考え方の癖)の傾向もあれば、考え方の修正もしたほうが再発し難くなります。

過敏性の(古来の)強迫性障害の場合、自分の考えに無関係に、何らかの危害に対して、強迫観念が浮かびます。
その強迫観念自体も危害になりますが、実際の何らかの危害での生理反応的な強迫観念ですから、考え方の問題(思い込みの危害)ではありません。

恐怖症も基本的に考え方の問題ではありませんが、強迫症とは別の病気です。

恐怖症の場合は不安というよりは恐怖に悩まされますから、未来の危害だけではなく、今現在とか過去の危害による恐怖も起こります。
しかし、過敏性の問題がないので、その恐怖に強迫され続けるわけでもなく、強迫観念にもなりませんから、強迫症にはなりません。
恐怖自体は強迫性は強いので、恐怖での強迫は普通に起こりますから、恐怖症でも強迫行為は起こりますが、過敏性の問題がないので、基本的には特定のことへの恐怖しか強まりませんから、強迫行為をするとしても、恐怖に全般性がないので、強迫症ではなく、特定の恐怖症ということになります。

簡単に言えば、強迫症状が特定の恐怖で起こるのか、それとも恐怖することに全般性があり、その全てで強迫症状が出るのかの違いです。

強迫症は恐怖するだけでなく、その恐怖に強迫される病気で、特定のことではなく、様々な恐怖に強迫されます。
強迫性障害の●●恐怖という場合、その恐怖症という意味ではなく、その恐怖に強迫されるという意味ですが、汚染なら汚染で、特定のことだけでなく、(本人の基準で)汚れに思えること全般に症状が出ます。
汚いこと全般に強迫観念が浮かびますが、強迫観念は思いですから、それが汚れに思えることなら、汚染恐怖になり、そう思える様々なことに汚されることになります。
本人が不安に思えること全般、恐怖や嫌悪すること全般、不快なこと全般に強迫されますから、例えば、感染恐怖の場合でも、特定の感染症だけでなく、感染すること全般に強迫されますから、肉体的な病気(感染症など)だけでなく、人によっては、精神的な感染(不幸事や不幸感などの強迫)にも恐怖します。

身体醜形障害(醜形恐怖症)でも強迫行為的な症状が出ますが、その対象が自分の顔とかだけなら、強迫症ではなく、恐怖症なのです。
もし、それだけでなく、醜さ全般の恐怖があるなら、様々な醜いことに恐怖することになり、全般性の醜形恐怖症ということになりますから、強迫性障害に近くなります。

身体醜形障害の場合は、実際にはそれほど醜くない人の(思い込みの)病気なのですが、強迫性障害であるなら、実際に醜いことでも起こります。
そして、身体醜形障害だけではなく、他の醜いことでも強迫症状が出ます。

過敏性が強いと、醜形恐怖が消えなくなって、強迫観念として慢性的に続いてしまいますから、その場合は、強迫症醜形恐怖ということになります。
この場合、醜形(表面上の醜さ)だけではなく、それと似たようなこと(例えば汚さとか、精神的な醜さ)などでも強迫されることになります。
ですから、醜形恐怖が汚染恐怖や不潔恐怖に繋がることはよくあるし、汚染恐怖(不潔恐怖)のある人には、醜形恐怖もある人が多く、基本的には同じ症状なのです。
醜いことも強迫性(付着性)が強く、汚れと感じが似ているので、その強迫観念(恐怖感染)が離れないことで、汚れと同じように嫌悪反応をします。
醜さも汚れと感じてしまうと、その思いが離れない=汚染となって、醜い物事全般に汚されるようになり、洗浄などをしないといけなくなります。

身体醜形障害といっても、美しくありたい気持ちが強くて、醜く思えるというのは、神経質な症状で、普通の人にも起こります。
身体醜形障害の場合、本当はそんなに醜くないのにという条件付であることからも、思い込みの病気=神経質なのです。
ただ、神経質は統合失調症病前性格(思い込みが強い状態)でもありますから、神経質での恐怖症だと、後に統合失調症化する可能性もあります。

神経質な人は器質的には敏感ではないので、鈍感化する素質がありますから、統合失調症になりやすい脳の人だと、神経質が悪化することで実際にそうなります。

神経質での思い込みの強さ(精神的気質)により、普通の人よりもそうなりやすいのです。
神経質は思い込みで実際に病気になってしまうこともあるのです。

逆に、強迫症の人の場合、考え方の問題ではないし、器質的に鈍感になれないので、統合失調症になりません。

神経質ではない、(実際に)過敏性の強いタイプは、美しくありたいという気持ちが特別強いわけではなく、その前から、醜いこと自体の嫌悪が苦痛となったり、醜いことで実際に何らかの害を受けていたり、醜いことを気にして、なんらかのことができなかったりと、醜いこと=害となっていて、その苦痛の対処として、きれいになりたいと思うのです。

きれいになりたいと思っていることでの、神経質的な身体醜形恐怖とはまったく逆なのです。

敏感な人だと、一般の人には危害にならないことが、敏感過ぎることで(過敏反応で苦痛が強まるので)、本人にとっては、実際に危害が強いことになってしまいます。
特に強迫性障害だと、一般の人には些細な刺激でも強迫症状が出て、苦痛が消えなくなりますから、そういう症状の苦痛も含めて、それを引き起こすストレス対象が実際に危害になってしまうのです。
何らかのストレス対象で、嫌な感じが起こり、それが消えなくなってしまうことで、嫌な思考も思い浮かんでしまいます。

一般の人でもイメージとか思考から恐怖を感じることはあるし、当然、何らかの情報を見聞きして怖くなったりすることはあります。
怖い話を聞いて、しばらく恐怖感が残ったり、嫌なものを見て記憶に残って、しばらく嫌悪感が残ったりは正常なことです。
そうなれば、そのことへの不安も強まり、防ごうとするでしょうが、敏感状態でなければ、回復力がありますから、いつのまにかそれほど恐怖もなくなり、生活に支障が出るほどにはなりません。

例えば、人参の嫌いな人は、基本的には人参を食べなければ良いのですが、人によっては、人参の写真などでも嫌悪反応をします。
その場合、写真なども避けないといけませんが、強迫観念にならなければ、その時だけの不快感であり、長くは続きません。
その不快な思いが強迫観念になってしまうと、人参の写真から離れても、人参の写真での嫌悪反応が続いてしまいます。
なぜなら、写真を頭の中で見せられ続けるような状態だからです。

これは妄想とか思い込みではなく、写真での嫌悪は、実物の人参への嫌悪なので、その強迫観念による嫌悪も、実物の人参での嫌悪の苦痛(実際の害)なのです。
普通の人は、人参が嫌いでないなら、恐怖もしないし、危害はまったくありませんし、人参恐怖の人も、強迫観念にはなりませんから、それほど危害に思えなくても、強迫観念による強迫状態になってしまう人は、恐怖だけでなく、強迫症状が出ることで実際に苦痛を受けるので、大きな危害になってしまいます。
人参恐怖だけなら、なんとかできても、その恐怖で強迫状態になってしまうと、慢性的に恐怖が続き、そうならないようにと、人参を連想する物事(例えば、人参という言葉、文字など)を過剰に避けないといけなくなったり(連想強迫)、食べ物(レトルト食品など)を買う時に、不安になって何度も材料を確認してしまったり、強迫観念の付着性を汚れに思えれば、人参に関する情報でも汚されてしまい、汚されることで、さらに過剰に避けてしまう症状が出ます。

実際には、強迫性障害の場合、味の好き嫌い(嫌な感じ)だけではなく、強迫観念(嫌な思考)の病気なので、特定の食べ物への恐怖で強迫状態になってしまう人はいないと思いますが、人参そのものでなく、人参に何かの不快な記憶が結び付いていたり、人参で何かを連想して強迫観念が強まるので、それを避けようと、人参を過剰に避けることなら、強迫性障害としてもあり得ます。

例えば、デスという言葉で強迫観念が浮かぶ人は、「~です」という言葉は日常的にみんな使いますから、人の会話などを過剰に避けないといけなくなります。
会話が聞こえてこれば、その会話への恐怖心や嫌悪が強まりますが、その時の不快な反応にも強迫されます。
そういう強迫状態にならないようにと、デスという言葉を避けるのですが、それはそうしたいという欲求ではなく、ストレス反応です。
会話が聞こえてくると強い拒絶反応が出ますが、会話を避けているからそうなってしまうのではなく、会話が聞こえてきた時の拒絶反応(症状による実際の害)が苦痛なので、会話を避けてしまうのです。

デスという言葉自体は、他の人にとっては危害になりませんが、その言葉で強迫状態になってしまう人は、デスという言葉を聞くと、強迫観念(何らかの悪いことが起こるという不安思考など)が離れなくなってしまうし、それを避けないといけなくなったり、会話などに拒絶反応が出ますから、そういった一連の症状が患者にとっては大きな苦痛になります。

他の人は、そういう強迫状態の症状が出ないから危害がないのですが、だからと言って、実際には危害がないことを危害だと思い込んでいるのではなく、そういう症状が出る場合、デスという言葉自体が実際に危害になってしまうのです。

同じ物事に対して、他の人には、トラウマがなくて、危害だと思わないことでも、ある人には、トラウマがあることで、(PTSD症状が出て)実際に危害になってしまう。こういうトラウマでのストレス反応(トラウマ記憶やそれを想起させる物事を避ける症状)と同じことです。

強迫観念もタイプがあり、デスという言葉を聞くと、何らかの悪いことが起こる気がして、その思考(強迫観念)が離れなくなってしまうというのは、不安型の強迫観念です。

デスという言葉を聞くと、何らかの悪いことが起こる気がして、その思考(強迫観念)が離れなくなってしまうことで、(症状での)実際の苦痛を受けることにはなりますが、強迫観念自体は、「こうなってしまうかも」という不安思考なので、実際にそうなっているわけではありません。
この場合、食わず嫌いのように、本人の頭の中だけの思い込みによる(実際にはないことでの)不安なのであれば、デスという言葉自体には実際には危害がないと考えられなくもありません。

しかし、デスという言葉を聞くと、トラウマ記憶が強く想起されて(強迫性フラッシュバック)、その状態が過敏性によって、強迫観念として長く続いてしまう、その症状の苦痛があるので、デスという言葉を避けてしまう。
この場合、トラウマ記憶は実際にあったことなので、想像上の不安思考なのではなく、PTSD的な症状と同じように、実際の恐怖や嫌悪なのです。

あるいは、デスという言葉でトラウマ記憶や何らかの不快なイメージが強迫観念として浮かび、それが離れなくなってしまう付着性で、苦痛が強まり、その付着を汚れのように洗浄しないといけなくなってしまう、こういうのは、嫌悪型の強迫観念による過敏性の症状です。

些細なことを気にしてしまうというのは、過敏性があってこそなのですが、同じ現実反応の症状でも、神経質のような考え方での過敏と違って、強迫症の場合は、考える前に過敏なのです。

そして、不安症と違って、不安だから、強迫観念が浮かぶというよりは、敏感だから、強迫観念が浮かぶのです。

強迫性障害の場合、対象のない不安(不安感)の問題ではなく、対象のある恐怖や嫌悪が多く、それによって不安にも強迫されるというだけですから、不安障害として治療しても治りません。

強迫観念は「かもしれない」という不安だけではありませんから、例えば、汚染恐怖の場合、「汚れたかもしれない」とか「汚されそう」という不安型の強迫観念だけではなく、実際に汚れてしまうことでも、汚れの強迫観念が浮かび、その強迫観念で汚れの付着が強まり、その苦痛から、汚れないようにと不安思考も浮かぶのであり、不安思考だけではないのです。

汚染の強迫観念によって、実際に汚れてしまう場合は、「汚れたかも」ではなく、すでに実際に汚れているのです。
これは過敏性が強さから、強迫的な関連付きや印象付き(何らかのことに、悪いイメージや不快な記憶が関連付き(付着して)、それを見るとその不快な記憶やイメージを思い出してしまうなど)が起こりやすいことによる症状です。

過敏性によって、違和感が残りやすく、洗っても「嫌な感じ=汚れている感じ」が続いてしまうことで、汚れているように思える強迫観念が浮かび、長時間洗ったり、洗い直したりしないといけなくなります。

確認にしても、不安感が残ってしまうので、強迫観念が浮かんで、また確認するのですが、強迫症状は、不安の問題ではなく、「不安への過敏性」の問題なのです。

感情は正常なのですが、過敏性の強さで、不快な感情や思考が消えなくなってしまうのです。

不安もいろいろあり、不安思考での強迫行為と、不安型の強迫観念による強迫行為を区別することも大事です。

不安だから強迫観念が浮かぶというよりは、強迫観念が浮かぶことで、不安になっている傾向が強い場合、神経質と同じように、考え方で不安になっている人もいれば、考え方に関わらず恐怖や嫌悪などの強迫観念が浮かぶことで、不安になっている人の2タイプあります。

前者は神経質の強迫症状で、後者が強迫症です。

過敏性はないが、不安になりやすいから、不安思考が浮かび、強迫行為をする場合もあり、これは不安症の強迫症状です。
過敏性がない分、強迫性も弱く、強迫状態というほどではないが、不安になりやすいことで、そういう思いが浮かんでしまうのです。
この場合、過敏性があっても弱いので、不安症が悪化して強迫症になっても、不安型の強迫観念しか浮かびません。

注意したいのは、神経質(考え方の問題)=強迫性障害(過敏性の問題)ではないのですが、神経質が原因での強迫性障害の人も実際に多くいるということです。

なぜなら、今までの強迫性障害は、過敏性は関係がないので、現実の危害での不快な思いに強迫されも、それは強迫観念ではないし、その恐怖があることでの不安思考も強迫観念ではないということになっていました。
そう思っているなら、本人の考え過ぎ、思い込みで、実際には危害がないのに、危害だと思っているだけと考えられていました。
あくまで不安の病気であり、神経質な考え方や思い込みだけでの不安思考こそが強迫観念とされてきたのですが、この考えは明らかに間違いです。

強迫というのは、不快な思いが離れなくなってしまうことなので、不安だけに強迫されるのではありません。
強迫という言葉は、一般会話では馴染みがありませんが、一般的に使われる、おどす意味でのきょうはくも、強迫に含まれます。
そうされれば、そういう状態が続いてしまうわけですが、おどす、というのは、実際には危害は(まだ)ないから、ただの不安であるということではなく、おどす、こと自体がすでに精神への暴力であり、実際の危害なのです。

同じように、強迫状態自体がすでに危害なので、実際には危害がないことへの(考えで作り出される思い込みの)不安思考とは、まったく違うのです。
妄想とか思い込みの不安は、頭の中の考えだけがストレスなのですが、過敏性の強迫状態の場合、現実の危害に対する強迫観念ですから、その強迫観念自体も現実からの危害なのです。
それを対処する強迫行為も現実行動ですから、現実に苦痛があり、その症状自体も危害に感じます。

未来のことはまだ見えませんから、未来の危害が強迫観念として浮かびやすいのですが、強迫観念は(実際にはないことへの)不安思考ということではなく、現在の恐怖などでも浮かぶし、過去の恐怖などでも浮かびます。
その恐怖があることで、未来への不安思考も強迫観念になってしまう。
こういうのが、過敏性の強迫観念で、実際の危害への強迫観念なのです。

その危害となっていることが、(現在なら)見えない、(未来なら)はっきりと分からない、(過去なら)記憶の場合もあるだけで、それが実際には、ないわけではありません。
例えば、強迫観念によって見えない汚れも分かってしまうと、見える汚れに等しくなりますが、それは現実の何かの汚れなので、非現実の妄想ではありません。
妄想での恐怖対象は、現実ではなく、妄想の中にあるので、全然違う思考状態です。
だからと言って、普通の思考でもありませんから、考え過ぎでもありません。

人前で緊張すると思っているから、実際に緊張してしまうのが、気のせいとか、考え過ぎの不安思考による緊張であり、これは、神経質が原因です。
不安症だと不安によって、不安思考が浮かびますが、神経質は考え方で、不安になります。
その不安で、考え方が強まって、強迫観念にもなります。
不安を抑えることで、考え方(不安思考)もある程度は抑えられますが、元々は考え方で不安になっているのですから、考え方を修正しないと治せません。

そういう神経質タイプも強迫行為をする人はいますから、強迫性障害に含められますが、前回説明したように思い込みでの強迫症状ですから、実際には強迫性障害(病気)ではなく、神経質なだけなのです。

不安症の場合は、考え方で不安になってしまうのではなく、不安になって、不安思考が浮かびますが、不安症と強迫症の違いは何でしょう?

簡単に言うと、不安による強迫性の強さの違いと、過敏性と全般性がセットであるかどうかの違いです。
不安になっても、不安での強迫状態にならないなら、それは長くは続きませんし、強迫観念にならないので、不安にさせられる対象から離れれば、不安が落ち着くとか、一時的な症状で済みます。
逆にそうならないなら、不安に強迫されて、強迫症状が出ますから、強迫性障害ではありますが、不安になって、不安思考が浮かぶのですから、基本的には不安の強迫観念(未来の危害からの強迫観念)しか浮かびません。
つまり、今現在とか過去の危害による強迫観念(嫌悪や恐怖の不快な思いが続く状態)ではないのです。

全般性の不安症もあり、そういう人がもし今現在の危害とか過去の危害で不安が起こるとしても、過敏性の問題がないので、(一般的に考えて)小さなことに対しては、不安が起こりにくいのです。
今現在の小さなことというのは、実在しているが、はっきりしないこと=見えないレベルのことです。

妄想と強迫観念の違い

妄想・・・現実とか実際のことに対する思いではなく、それとは無関係の頭の中だけの思考
鈍感症状なので、小さなことは妄想にならない

強迫観念・・・現実とか実際の危害に対する不快な思い
敏感症状なので、小さなことが強迫観念になりやすい

前回、妄想には汚染恐怖がない話をしましたが、汚染恐怖や不潔恐怖などは現実の汚れ(現実に汚されること)への恐怖ですから、現実の何かに恐怖しているとしたら、妄想ではないからです。
妄想だと現実には鈍感になり、見える汚れでさえ気にしなくなりますから(気にするとしたら妄想ではない)、その状態で、現実にある「普通は気にしないような見えないレベルのこと」が気になって、恐怖が起こるわけがありません。
鈍感なのに、些細なことを気にするということはなく、逆に妄想の場合、現実離れして、突飛で大げさな内容の思考が浮かびます。
鈍感化することで、思い切り現実離れしてしまい、その症状自体が現実のストレスを回避することになりますから、汚染恐怖のような過敏性による現実へのストレス反応での思考(一般的には些細なことへの過敏反応の思考)には悩まされません。

統合失調での妄想は過敏性症状とは真逆なので、妄想での強迫行為は起こりません。
現実の小さなことが気になってしまえば、現実逃避(現実のストレスの回避)にならないので、統合失調が起こる意味がないのです。

何らかの病気なら、大抵は、症状自体が苦痛なのですが、精神障害は症状があれば苦痛とは限らず、症状自体が苦痛な病気と、病気ではあるが本人はそれほど苦痛ではない病気もあります。
なぜなら、興奮状態になって苦痛を感じ難くなったり、症状自体が苦痛(ストレス)の対処である病気もあるからです。

強迫性障害は、逆にまったくそうならない病気で、ストレスに敏感で、ストレスが停滞してしまうので、強迫行為で対処しないといけなくなります。
過敏反応での苦痛、そのストレスで強迫観念が残る苦痛、その対処の行為をしないといけない苦痛、症状の全てが苦痛なので、症状が強まること自体もストレス体験(トラウマ)になって、それを引き起こす危害への不安も強迫観念になります。

器質的な神経過敏の問題があるからこそ、ストレスに弱くなったり、そのストレスで発症、悪化したりする病気が強迫です。

まったくストレスに関係ない病気なら、全ては本人が引き起こします。それが精神病です。

神経質的な思い込みで不安になって、強迫行為をする人は確かにいますが、それは病気ではないし、強迫性障害でもないし、神経質なのです。
現実のことをあれこれ考えて、自分の中でストレスにしてしまうのですが、そういう精神的気質なで、そうなってしまうそうです。
自分で作り出す病気ですが、妄想と違って、自分の考えで作り出されるので、性格的な問題と考えられています。

強迫性障害の過敏は器質的な気質ですから、考えに関わらない過敏であり、神経質とは真逆です。
器質的にストレスに弱いので、周囲から病気にさせられるのです。


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