強迫性障害の全貌

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強迫性障害は不安の病気ではない?/強迫状態と躁状態の違い、強迫症と他の病気の関係/強迫観念と考え過ぎの違い/過去からの強迫、記憶強迫

強迫症状は神経過敏の症状ですが、同じ過敏と言っても、心の問題の過敏もあれば、器質性の過敏もあります。
強迫性障害心因性とか、不安の病気と考えるのは極端であり、人によってはそうなのですが、そういう人ばかりではありません。
むしろ、そうではない人も多いのです。

精神障害の診断基準には、アメリカ基準のDSMと、世界統一基準のICDがあり、どちらの基準でもいいのですが、公的な診断書にはICDでの病名やコードを使いますから、ICDのほうが正式といえます。

ICDの最新版(ICD-11)では、強迫性障害は、不安障害とはされていません。
不安の病気ではなく、強迫の病気だからですが、この場合の強迫は、「しなければならない」強迫であり、(未来の危害への不安強迫ではなく)現在過去の危害での不快な思い(または感じ)全般が続いてしまう過敏性の強迫状態のことは、DSMでもICDでも、まだあまり理解していません。
不安障害ではなくなっても、基本的には、未だに不安の病気として扱っています。

ちなみに、日本語版ICD-11では、強迫性障害という病名も、強迫症に変わる予定です。
実際どうかはまだ分かりませんが、強迫性障害のみではなく、障害という言葉を、全部、症にしたいそうです。
強迫性障害(OCD)なら、Obsessive compulsive disorderなのですが、dis/orderという和訳に(order=正、dis=否定=病だれと考えると)症のほうが適切であることと、障害というと、治らない病気のような感じがするからです。
強迫性障害の場合、治らないレベルの人もいるので、(障害者手帳を持っていれば)実際に精神障害者なのですが、若い人とかだと、そういうレベルではなかったり、治せる病気もありますので(可逆性精神疾患)、そういう場合に、障害というと実際よりも重く感じて、精神的に良くないという考えだそうです。

そういうと聞こえはいいのですが、神経症は障害というほどではないから、障害年金の対象にしないという昔からあるような偏った考えを助長することにもなりかねません。
神経症にも実はいろんな人がいて、中には器質的と考えられる症状の人たちもいることが分かり、神経症という言葉自体はあんまり使われなくなりましたが、少なくとも精神病ではないのだから、障害度も低いというという考え自体は変わっていないのです。

言われなくなったものの、強迫症もいまだに神経症の扱いであり、障害年金と同等の基準である精神障害者手帳の診断書でも、強迫症の症状に関わる項目はほとんどありません。
障害年金のほうで、神経症を障害の対象としてこなかったので、精神障害者手帳のほうでも強迫症状(特に強迫行為)を障害として考えていないのです。

例えば、手帳用診断書の生活能力の状態の判定項目として、
身辺の清潔保持
身辺の安全保持
という部分があります。
強迫性障害は、過敏性による危害の回避や対処としてこういうことが過剰になってしまう病気なのですが、「過剰」というのは、選択肢としてありません。
自分で、できるか、できないか、なので、過剰であっても、できるのだから、問題はないということになってしまうのです。
それを人にやってもらわないといけないから、できないというのは、強迫性障害としては、軽症であれば、そうなりますが、重症の人には汚染恐怖がありますから、接触汚染の恐怖で孤立してしまい、付き添いが得られないため、自分ができないことを人にやってもらうこともできません。
何かを代わりにやってもらうことで、その人が汚染されて、その人からの汚染を避けないといけなくなってしまうからです。
あるいは、その人によって、汚染が拡散したりしてしまうので、重症であるほど、自分でしないといけなくなってしまうから苦痛なのです。

いかに「できないか」が生活能力の重症度であり、しなければいけなくなってしまう症状だとしても、どれだけそれが困難で苦痛だとしても、できるのなら問題ないという考えなのです。

これは改善したほうが良いことですから、関心があれば下記の過去記事を読んでおいてください。
強迫性障害(強迫症)と精神障害者手帳

https://locd.hatenablog.com/entry/2019/11/01/144501

そうなっていることの理由の1つが、強迫性障害神経症(心因性)=軽い病気という古い考えが、実際には続いてしまっているからです。

強迫行為をする人には、神経質のような完全な心因の人もいるし、強迫行為による安心依存症のような人もいるし、不安になりやすいことが原因の人もいるし、器質的な神経過敏でしないといけない人もいます。

ですから、強迫性障害心因性とか、強迫性障害=器質性とかではなく、あくまで人によるのです。
心因性とか器質性とか分けなければいいということでもなく、それによって治し方も全然違うし、どれぐらい治せるのか治せないかの予後なども全然違いますから、そういうタイプ分けはしたほうがいいが、正しくするべきなのです。
そして、病気ごとに考えるのではなく、同じ病気でもいろんなタイプの人がいることを理解しないといけません。

最近は神経症という言葉が消えつつありますが、森田療法では、神経症=不安障害として、それらは神経質が原因であるといまだにステレオタイプ化しています。

森田療法の頃の強迫性障害は、強迫神経症という病名でした。
神経症というのは、ノイローゼのことで、神経という言葉を使ったのは、今となっては、実際にはどう考えたか分かりませんが、神経過敏とか、(神経を通じた)ストレス反応での精神症状のことを指したことが考えられます。
ようするに、内側だけの症状(精神病)ではなく、外界と神経で繋がっている上での症状です。

しかし、精神病以外は、神経症としてしまうと、神経の問題がない病気の人たちも、みんな神経症に含まれてしまいます。
同じ神経症でも、全然違う病気もあり、同じように扱うことはできませんから、大雑把な分け方をせずに、病気ごとで分けることになりました。

精神病とか精神病状態という言葉はしばらく残ると思いますが、神経症という言葉は別になくても問題はありませんから、神経症はほぼ使われなくなり、強迫神経症強迫性障害になりました。

神経症心因性という考えは、脳とか神経とかは関係なくて、心の問題だという説なのですが、実際には神経症というぐらいなので、神経過敏の人も多いし、脳機能的な異常も症状に関係していることが分かり、心因性とは限らないから、神経症とも限らないとなったのです。
日本では、森田療法(神経質教)によって、神経症=神経質(ただの気のせい、考え過ぎ)みたいな誤解が増えたことも関係しています。

森田療法によって、神経症全般が神経質(気のせい、考え過ぎ)が原因であるかのような神経質教の布教が全国的に行われたことで、いまだにそれを信じている人がいますが、強迫性障害にしても、神経質で強迫症状が出ているなら、神経質であり、本当は強迫性障害ではないのです。

森田療法の場合、実際に敏感な人の強迫症状は、神経質ではないので、強迫性障害ではない別の病気だとして、強迫性障害には含めませんでした。
そうしないと、強迫性障害には森田療法の理論が通じないからです。

森田が切り捨てても、過敏性の強迫性障害患者は、強迫性障害のままですから、その後長らく、その人達までも神経質者扱いされることになったのです。

そもそも神経質教の以前は、過敏性の強迫のほうが強迫性障害だったのです。
過敏性強迫症=古来の強迫症です。
しかし過敏性の強迫は、神経質(実際には敏感でない人)の理論とは対局しますので、森田としては、強迫性障害として認めたくなかったのです。

森田は、強迫性障害の症状がどうしてそうなっているかは分かりませんでしたが、強迫行為はよく知っていたので、それを本に書いて、こういう症状は、強迫神経症で、それは神経質が原因だと布教したのです。
森田は自身が神経質だったので、神経質とか神経質者の強迫症状にはくわしいのですが、強迫性障害に関しては、どういう症状が出るかは知っていましたが、どうしてそうなってしまうかは、実際には分からなかったのです。
強迫性障害も神経質が原因ということにすれば、得意分野にできますから、そういうことにして布教したのです。
その頃はネットもありませんし、精神障害に関する情報も少なかったので、そういう症状が出ていた人達が共感して、我こそはこの病気だと信じて、神経質信者も増えたのです。
そういう人達が実際に森田療法を受けることはなくても、森田的には自分の思想が世間に認められ、本が売れれば良かったのです。

森田療法の実際の患者は少なくても、本が売れて講演やレクチャーできれば、ビジネスとしては儲かるし、有名にもなれますから、森田のエゴとしては満足できるのです。
しかし、その本も神経質信者にとっては真実ですが、強迫性障害患者にとってはデタラメな内容です。

強迫性障害=神経質=病気ではない、ただの気のせいとしたことで、神経質ではないタイプの患者も、性格の問題だから仕方ないとか、病気じゃないなら治らないととか、軽い病気だと考えてしまって、むしろ治療も生活の工夫もせずに、ストレスまみれの人生になった人達も多いのです。

今でも神経質信者の人達にとっての強迫観念は、考え過ぎ、気のせい、思い込みの不安思考のことなのですが、実際の強迫観念は、考え方とか心掛けに関係ない症状なので、神経質とは無関係です。

過敏性の強迫の人は、森田やその信者達が布教した神経質教を信じてはいけません。
まったく関係ない人達の話なのです。
ネットでは、森田療法で治ったという患者を装った書き込みなどの宣伝も多いので鵜呑みしないように注意してください。

森田療法で治せるとしたら、実際に神経質な人の強迫症状であり、強迫性障害の人ではありません。
神経質は性格みたいなものですが、強迫性障害は病気ですから、神経質は病気ではないというならば、神経質の強迫症状こそ、強迫性障害から除外して扱うべきだったのです。

いろいろな精神障害がありますが、神経質の人は、自身の考え方によって精神障害の症状が出てしまうのです。
森田療法は神経質の治療法ですが、日本独自の仏教思想を土台にした(日本人の神経質教ですから)実際に神経質な人も多い日本では、今でも一部の人達に信仰されていますが、海外には神経質な人が少ないこともあり、日本以外で布教してもほとんど無視されました。

信仰は個人の自由ですが、神経質(考え過ぎ)の治療に、精神障害強迫症を巻き込んではいけません。

重度の神経質で、重度の精神障害や精神病になっている人もいるかもしれませんが、基本的には一般人にも見られるような軽い精神症状の範囲の治療法であり、同じような症状が見られる場合でも、神経質ではない精神症状(特に器質的過敏性による精神障害)には、理論的にもまったく通用しません。

現代版森田療法が、認知行動療法ビジネスです。

認知行動療法でも、考え方を修正して、行動を改善することで、(脳機能の異常を含めて)症状を治すという考えですから、アプローチ的には神経質の治療と変わりません。
それが有効なのは、(強迫観念ではない)考え方や行動が原因となって、(脳機能の異常を含めて)症状が出ている人です。
強迫観念は、そういう本人の意識的な考え方や、どうこうしようとする意向に関わらず浮かぶのですから、どう考えて、どう行動しようにも、それとは無関係に症状が出てしまうのです。

過敏性の精神障害の場合、考え方とか誤った学習(条件付け)の問題でもないので、「そう考えなければ良い」ということにはなりません。
実際の危害への正常な反応なのですが、それが器質的過敏性で強まる病気なのです。
神経過敏による苦痛が実際にあることで、ストレス反応で不快な思いが浮かび、ストレスが続くからこそ、その思いも消えなくなります。
それを、こうやって考えて、こうやって行動して治しましょうと言っても、そういう考えや行動とは無関係に、強迫症状は続いてしまうわけですから、そうしても治らないのです。

認知行動療法には、曝露反応妨害のように、ストレスに慣らせばいいというやり方もありますが、過敏性やストレス耐性の問題は無視した考えですから、大変危険です。
そもそも敏感でストレスに慣れる耐性がないからこその強迫症状なので、それをストレスに慣らすことで治そうにも、慣れないどころか、逆に強迫症状は悪化するわけです。

そういう療法をしている人達は、強迫性障害が過敏性の精神症状であることを理解していないのです。
一般の人には害にならなくても、過敏性の症状があれば、本人には危害になります。
例えば、普通の人なら不安が浮かぶだけでも、強迫観念にはなりませんから、その不安に強迫され続ける状態にはなりませんが、強迫症の人だと、不安が浮かぶ程度のことでも、強迫症状によって、耐えられない苦痛になります。
そういう不安を起こす現実状況だけでなく、症状自体も実際に危害なのですが、普通の人はそうならないので、普通の人には危害ではないというだけです。
もちろん、不安なことだけではなく、恐怖や嫌悪などの様々な不快なことが、普通の人よりも強いストレスになって、実際の危害になります。

実際に危害のあることを過剰に避けてしまうのは誰でも当然のことで、むしろそうならないほうが精神的にも異常なのです。
一般には危害にならないことでも、器質的過敏性によって、本人には実際に危害になってしまう、それを避けるのも正常な反応ですが、強迫症の場合は、その苦痛が強迫観念として長く強く続いてしまいますから、一般よりも苦痛が多く、そういう症状による危害への防御反応で、回避や強迫行為も過剰にしないといけなくなります。
そういう意味で、正常なことを、過敏性で異常にする病気とも言えます。
回避や強迫行為も症状での苦痛ですが、強迫症である限り、それからは逃れられません。

認知行動療法ビジネスによって拡散された強迫性障害への誤解は、いくつもありますが、巻き込みをする人は悪化するという説もそうです。

こういうのは、依存症治療の考え(アル中患者に酒を飲ませると悪化するとか)であり、強迫行為を、その行為をすることでの安心依存症か何かと勘違いしているのです。
何らかの危害への強迫観念を、逃げるから怖くなって、それが浮かぶとしているのです。

本当は怖くないことを、怖がるから怖くなってしまう。
これが「気のせい」とか「考え過ぎ」というもので、怖くないことなのに、逃げているから、怖いんだという考えです。

閉所恐怖症の人に、閉所を避けたり怖がっていると、余計に怖くなってしまうぞ、と言うことと同じですが、閉所恐怖症の人は、閉所から逃げているから怖いのではなく、閉所で実際に怖くなってしまうので、避けたり逃げてしまうのです。

そういう恐怖を感じること全般に強迫されるのが強迫性障害ですから、逃げるから余計に怖いということにはならないのです。
逃げる前から、恐怖はあるのです。

巻き込みをする人は、悪化するという説には、もう1つ、理由があり、それは家族などが、強迫症患者の基準に巻き込まれないようにする(強迫症状の苦痛の軽減に協力しないことの)言い訳にできるからです。

うつ病の人が、何にもできなくなれば、誰かが面倒を見ないといけなくなりますが、何かしてあげたりすれば、余計に何もしなくなってしまうぞ、と言っているようなもので、そうすれば、うつ病の人は無理してやらないといけないことが多くなり苦痛は増えますが、面倒を見るほうはその考えで楽になります。
ただ、うつ病は何もしないことで楽になれるから、楽を求めて余計にうつ病になってしまうのではありません。
そうであれば性格の問題であり、本来のうつ病は、何かをしたくても、できなくなってしまう病気なのですから、何もできないことが苦しいのです。
その状態でも助けが得られないのが、強迫症でのうつ状態です。
うつなのに、強迫行為はしないといけないし、汚染恐怖などがあると、誰かに代わりに何かをしてもらうということも困難になります。

強迫行為をしたいわけではないから、回避が増えるし、人と共同生活すれば、巻き込むことにもなりますが、それもしたいわけではないのですから、そうするからといって、余計に(安心を求めて)強迫行為を求めて、そうさせる強迫観念が強まるということには、なり得ません。

回避したり、巻き込みで悪化するとしたら、行為による安心感への依存症(強迫行為先行型)とか、神経質の強迫症状であり、本当は強迫症ではない人達です。

それらの人を強迫性障害に含める場合は、ちゃんとタイプ分けした上で、好きなように語ってください。
神経質のことなら、神経質タイプの強迫症と言うべきで、森田療法のように、全ての強迫症患者が神経質であるかのように思わせてはいけません。

そういうタイプの巻き込みと、過敏性の強迫症状の巻き込みは全然違う理由で起こります。

強迫症であれば、過敏性によって、一般的には些細なことでも苦痛を感じやすいので、普通はストレスにならないことが、強いストレスになり、強迫状態になって、そのストレスでの苦痛が消え難くなります。
そういう症状の苦痛は、普通の人には起こりません。
普通の人と生活したり、関われば、普通の基準を強いられますから、強迫症患者が一般基準に巻き込まれることで、ストレスフルになり、そこに適応するのが難しく、巻き込まれないようにすれば、社会生活ができなくなります。
ですから、苦痛を減らそうと家族や社会に理解や協力を求めることになりますが、それは、一般の人からすると、強迫症患者の症状に巻き込まれることになります。
強迫症の患者が入院するとしたら、家族が対応できなくて看病放棄され、家族に無理やり入院させられますが、家族としても辛いことです。
実際には、強迫患者の基準に巻き込まれなくないだけなのですが、面倒だし、嫌だからそうしないというのは、ただの治療放棄、看護放棄になってしまいます。
巻き込みをすると悪化することにしておけば、強迫患者に協力しないことの言い訳にできますから、基本的には強迫患者のためではなく、その周りの人達のために作られた話です。

強迫症患者の苦痛は、考えの問題だから、巻き込みすると症状が悪化するということにして、一般の人達に巻き込まれることで強迫症患者が受ける危害は正当化されています。

強迫症患者に巻き込まれないようにすれば、一般の人達はストレスなくスムーズな社会生活、日常生活ができます。
誰だって、そうしたいのですが、強迫症患者は、強迫症状があるので、それができません。

うつ病とか、統合失調症なら、症状でできないことがあったら、他の人にそれを代わりにやってもらうことも可能です。

強迫性障害で汚染恐怖などがあると、何かをやろうとすれば、汚染されないようにやらないといけないので、それを汚染恐怖の強迫観念がない他の人が、代わりにやるということはできません。
例えば、掃除ができなくても、他の人が掃除すれば、その人に汚されてしまうので、そうするこもできずに、汚い部屋のままになります。
汚いからこそ、汚染恐怖で益々掃除ができないのですが、そこに巻き込みはありません。
それは、買い物であっても、何らかの手続きであっても、しなければ生きられない範囲のことは、無理してでも自分でやらないといけなくなります。

重症の人ほど、付き添い人が得られなくて、巻き込みさえできないのですが、それは巻き込みで悪化したのではなく、逆に巻き込みできないことで、巻き込まれる苦痛は減らせても、孤立して、なんでも自分でやらないといけなくなり、元々の症状の苦痛が減らせずに、そのストレスで鬱も強迫も悪化するのです。

ですから、人と同居できたり、付き添いが得られたりして、巻き込みできるということは、まだ軽症ということなのですが、そうできているからこそ、軽症なのです。
巻き込みすることで、親しい人との繋がり維持できて、孤立し難いので、重症化し難いのです。
その段階であれば、巻き込みしながら、人の基準に何とか合わせられるのです。
巻き込みできなければ、我慢が多くなり、ストレスで悪化します。
もちろん、周囲の人は強迫基準に合わせれば、苦痛は多くなりますが、そういう協力がなければ、逆に患者の苦痛が周囲の人によって増やされることになり、そのストレスに対する強迫行為として、必然的に孤立するようになり、さらに悪化します。
ただでさえ、慢性的に苦痛が多いのですが、周囲の人達が強迫基準に合わせられれば、患者が一般基準に巻き込まれることでの、余計な苦痛は減らせるのです。
家族などの周囲の人には、強迫での慢性的苦痛が元々ないのですから、強迫基準に巻き困れることで苦痛が増えても、それでも、患者ほどの苦痛はないのです。
そうしていられれば、患者は軽症で済むので、それが看病というものだと理解してください。

実際のところ、若い内に最初から重症の人も多いので、そういう期間さえなく、早々と孤立する人も多いのですが、その場合も、遠隔的に援助が無いと、患者はさらに孤立して、症状も悪化して散々な人生になります。
そうなりやすいのが、汚染恐怖なのですが、家族とも接触できなくなれば、援助も受け難く、他人との接触もできずに、治療が受けられなかったり、社会的手続きなどもできないレベルだと、完全孤立に近くなり、人間的な生活ができなくなります。

過敏性の強迫症は、そういう重度の病気なのですが、神経質や思い込みの不安で強迫行為をしている人達と、同じ病気だと思われているのです。
認知行動療法での強迫行為をさせるほど強迫観念が浮かびやすいという考えも、巻き込みをすると悪化するというの考えも、強迫性障害を、強迫行為での安心依存症か何かと勘違いしているのです。

依存症と違って、強迫観念は、強迫行為を求めている反動(強迫行為をできない苦痛)で浮かぶのではないし、「しなければならない」という思いが強迫観念ではありません。
どう考えて、何をしているから、浮かんでしまうという思考ではなく、考えに関わらず浮かび、強迫行為をする前から、すでにあるのです。

巻き込みで症状が悪化した人は実際にはいませんが、悪化したとしたら、神経質とか強迫行為先行型であり、強迫行為があっても、本当は強迫性障害ではない人で、強迫ではなく、依存性が悪化するのです。

強迫性障害の強迫行為と、依存症的な行為などの強迫類似症は全然違う病気です。

躁状態が強迫行為を過剰にするという説もありますが、躁状態のような興奮による過活動と、危害回避や危害の対処での過剰な強迫行為を一緒にしてはいけません。

躁状態でも、しなければならない行為が過剰になりますが、強迫状態ではありません。
恐怖やストレスを感じ難くなり、危険をかえりみない行為をするようになりますから、強迫状態とは真逆なのです。
躁状態は危険を感じ難くなりますから、他者に対しても危険な状態です。
強迫状態は逆に危険を感じやすいことでの症状ですから、本人は苦痛でも、他者に対しては特に危険はありません。

ですから、重度の強迫性障害の人なら躁状態はなりませんが、もしなったとしても、強迫性障害には治療的です。

躁状態は周期的で、強迫状態は慢性的であることからも、関連性は低いのですが、鬱と躁が同時に起こっている状態なら、慢性的に続くことも考えられ、その場合、陰性の躁状態のようになって、ネガティヴな回避的活動が止められなくなってしまう可能性はあります。
強迫状態だとうつ病にもなりますが、それでも回避的な過活動はしないといけないので、余計に苦しいわけですが、病態としては躁鬱同時にも近いので、もし躁鬱同時慢性型という病状もあれば、まったくの無関係ということでもありません。

ただ、実際には鬱と強迫が同時に続くというだけで、どれだけ強迫行為が過剰でも、躁状態ではなく、それこそが強迫状態なのです。
躁状態は基本的には興奮状態なので、ストレスに強くなりますが、強迫状態は、恐怖、嫌悪、不安などの不快な状態でのストレス反応です。
躁状態がストレス反応で起こるとしたら、似ているのですが、ストレスに関係のない病気ということになっているし、行動内容的に真逆過ぎるのです。

ですから、双極性障害躁状態が強迫行為を過剰にするのは、ほとんどあり得ないことです。
強迫性障害と、双極性障害が同時発症すること自体はあり得ますが、強迫行為が極度に過剰だからといって、当たり前のことですから、双極性障害と間違えないようにしてください。

ただし、強迫行為先行型でしたら、双極性障害を併発していることで、ごたわりや完璧主義などが強まることは考えられます。

強迫症と他の病気等の関係

強迫性障害(過敏性の強迫観念先行型)を悪化させる病気・・・不安症、恐怖症、PTSDうつ病、慢性疲労

強迫性障害(過敏性の強迫観念先行型)になりやすい発達障害/気質/病状・・・AD/HD、HSP/HSC、神経過敏、感覚過敏
・一般の感覚過敏は、外界の簡単な刺激とか肉体的な刺激への過敏性ですが、強迫性障害での感覚過敏、神経過敏の場合、内面的な刺激(不快感、不快な思いなど)への感覚過敏、神経過敏も含まれます。

強迫性障害になり難い病気(鈍感化症状、症状自体がストレス回避的)・・・重度の統合失調症躁状態、解離症

強迫行為先行型(こだわりや、衝動、欲求的行為自体にとらわれるタイプ)を悪化させる病気/特性/性格・・・真面目、有能、完璧主義、几帳面、きれい好き、依存症、強迫性パーソナリティ障害、衝動抑制障害、躁状態、神経質、自閉症(鈍感で、こだわりの強いタイプ)

強迫性障害と神経質は表面的には似ているようで内面は全然違います。

森田療法の問題で、強迫観念は、考え過ぎのことと思っている人もいますが、考え過ぎと言うのは、実際には大したことがないことを、大したことのように考えることです。

そういう意味では、現実ではないことを、現実だと考えたり、実際にはまったく問題がないのに、問題にてしまう妄想が一番強い「考え過ぎ」状態です。
不安思考であれば、現実の何かへの不安な思いなので、少なからず現実との結びつきがありますが、妄想は現実のことではないので、完全な考え過ぎなのです。

妄想と思い込みだけの不安思考との違いは、妄想はそう考えているわけではなく、そういう脳になって思い浮かんでしまうのです。
本人は興奮状態になって、考え過ぎているとは思えません。
妄想状態だと、実際には完全な考え過ぎなのに、自分でそう考えていることに気付けないのです。

妄想ではなくても、妄想的な思い込みだけの不安思考の場合、妄想と同じように、そういう脳だから、そうなってしまうことも考えられますから、治しやすいとも限りませんが、本当に考え方だけの問題の人もいますから、それであれば治しやすいのです。

神経質的な思い込みでの不安思考と強迫観念の違いですが、強迫観念は過敏性によって、本人には実際に強い危害となっていることに対して、強く反応して浮かぶのです。
過敏性の問題なので、一般の人には危害とならないことなのですが、本人には、本人的には、実際に、大したことに対して、大したことのように考えるのだし、そもそも強迫観念自体は考えに関係なく浮かぶので、考え過ぎているわけではありません。

現実への敏感な反応が強迫観念を浮かばせますから、神経質での思い込み(考え過ぎ)とか妄想(完全な考え過ぎ)とは真逆なのです。

神経質での思い込みは、強迫観念ではなく、どちらかというと、妄想に近いのですが、妄想ではないので、その思いに逃げ込むわけではありません。
現実のストレス回避ではなく、逆に頭の中で、現実のストレスを作り出してしまっているのです。
その対処が神経質者の統合失調症化なのです。
統合失調症はストレスに無関係で発症するのが基本ですが、実際には、神経質な人は統合失調症になりやすいと考えられていて、神経質(強い思い込み)でのストレスで発症したり、神経質が悪化させることも多くあります。

しかし、神経質の強迫症状と、強迫症強迫症状は、表面的には同じでも、内面的に全然違うので、強迫症と神経質は無関係です。

強迫性障害と神経質は真逆ですが、統合失調症の場合、病前性格として、実際に神経質な人も多いので、元々から思い込みとか考え過ぎで不安になりやすい傾向が強いのです。
そういう意味では、統合失調症の前駆症状としての強迫症状は、神経質が悪化しての(頭の中だけの思い込みの不安での)強迫症状が多いことが考えられます。
そういう思い込みが強まり、次に妄想になります。

神経質の思い込みだけの不安は、考え方の問題ですから、例えば、「あの人が悪口を言っている」と思えることで、対人恐怖になりますが、実際にはその人は悪口を言っていないのです。
そういう思いみのは、現実の人のことを言っているのですが、妄想で、「みんなが悪口を言っている」と思う場合は、そのみんなは、現実のみんなのことではなく、妄想のみんななのです。
統合失調症だと、確かに周囲から悪く思われることは増えますが、その現実のみんなは無視して、妄想(あるいは幻聴)にいる、みんなに悪口を言われるのです。
本人や周囲の人も、それを現実に対する思いだと思っていますが、実際には現実とは無関係です。

神経質の思い込みは軽い妄想状態に近いのですが、妄想にはなっていないので、そうではないかもとも思えるのです。
妄想なら確信してしまいますが、本人が妄想(非現実)だと分かっている妄想にとらわれる人も多いので、その場合、神経質の思い込みと区別が難しくなります。
神経質の思い込みが強まれば、そうではないかもともも思わなくなり、妄想との区別は難くなりますが、統合失調症の症状が出ているかどうかで、統合失調症との区別はできます。
統合失調症になれば、不安思考も妄想化しやすくなり、まったく勘違いな不安思考(妄想的な思いみのでの不安思考)が多くなります。
勘違いすることで、現実のストレス(現実反応の不安)は避けられ、神経質での現実的な思い込みが減るのですが、そのことで、現実に対して不調和になります。
しかし、軽い統合失調症だと、現実逃避が不完全になり、現実のストレス反応とか、妄想ではない神経質での思い込みも残ってしまいますから、神経質な(思い込みの不安の多い)統合失調症患者も多くいるのです。
統合失調症も何かに過敏反応することはありますが、それは妄想的判断での大げさな反応でしかなく、妄想があることでの過敏反応ですから、実際に敏感なわけではありません。
知覚過敏とか言いますが、実際には妄想性過敏です。

軽い強迫性障害から、統合失調症に向かう人もいれば、神経質から統合失調症に向かう人もいますが、どちらにせよ、鈍感化症状なので、その素質のない過敏性の強迫性障害の人は、器質的に鈍感になれないので、統合失調症にはなりません。

強迫性障害でも頭の中はかなり複雑になりますが、それでも統合されたままになり、統合失調症にはならないので、現実のストレスから逃れられません。

妄想とか妄想的空想への過集中は、鈍感になれる素質のない人には、器質的に無理なので、敏感な人には、精神症状としてもそういうことが起こりません(起こせません)。
現実への過敏性が強いので、思い込みとしても、そういうこと(空想に入り込んだり)ができないのです。
それができる人とか、精神症状でそうなっている人は、強迫性障害になりません。

強迫症であっても、突飛であり得ないような妄想的な思いが雑念として浮かぶことはありますが、頭の中で消そうとすることはあっても、非現実ななら非現実だと分かりますから、現実行動としての強迫行為をしようとはしないのです。
しても意味がないし、しているとしたら、別の病気(妄想性障害の不安思考とか)なのです。

「思い」自体は、何でもありなので、空想的な内容にはなりやすいのですが、ただの空想や妄想ではなく、強迫観念は現実反応の思いであるからこそ、突飛で明らかに非現実的な内容にはなりません。

妄想と違って、空想なら自由に変えられますが、強迫観念は意識的な空想ではなく、危害への生理反応ですから、自分の意志では自由にできないのです。

過敏性によって、一般的ではない思考内容になりますが、妄想でも空想でもありませんので、強迫観念と言われます。

妄想に強迫される場合は、強迫状態ではなく、妄想状態ですから、強迫症とは関係ありませんが、強迫観念が妄想にならないのは、過敏性による現実反応の思考だからです。

実際には危害のないことを、危害だと思い込むのは、普通の人の(頭の中だけの)不安思考だったり、妄想でも起こりますが、強迫観念がただの思い込みの不安思考ではなかったり、妄想化しないのは、「過敏性によって現実から離れられなくなっている」からです。

空想の中に逃げ込もうにもそうできないから、解離性の妄想も起こりません。

強迫観念は現実的恐怖などで浮かびますが、妄想は恐怖で浮かぶのではなく恐怖するとしたら、妄想自体によって恐怖が浮かぶのです。

妄想の汚れは、非現実の汚れですから、現実は関係ありません。
それで強迫行為(洗浄など)をするとしても、強迫観念(恐怖)がないので、妄想の汚れも怖くはなく、過剰な行為にはなりません。
結果的に妄想で強迫行為は起こりません。

妄想に恐怖して、何らかの強迫観念が浮かぶことはありません。
元々強迫観念がなければ、妄想での強迫観念も浮かばないのです。

例えば、強迫観念のある人が、夢を見て、そこに恐怖対象や汚染対象が出てこれば、夢でも、それに恐怖したり、汚されるし、目覚めてからも、それが強迫観念となって残ることで、不快感が続き、頭を洗浄しないといけなくなったりします。

強迫観念がなければ、当然、そうならないので、強迫観念がないのに、妄想からの恐怖で、何らかの強迫観念が浮かぶことはないし、もしそうなったら、その強迫観念自体も妄想なのです。

もし、妄想恐怖みたいな強迫状態になっても、恐怖対象が妄想なので、その恐怖も妄想なのです。
それで、何か強迫行為をするとしたら、妄想を消すための儀式的行為で、その行為自体も妄想なのです。
過敏性の問題というより、妄想の問題ですから、薬で妄想を鎮静すれば、妄想への恐怖なども消えます。

強迫観念(汚染恐怖、不潔恐怖など)の汚れは、現実の汚れの思考化ですから、その恐怖も薬では静まりません。

強迫観念(現実のストレス反応)は、妄想状態(現実逃避症状)にならない人に浮かぶので、妄想状態の人に強迫観念があっても、それは弱いのです。
ですから、強迫状態の人に妄想は起こりませんが、もし強迫性障害の人が妄想状態になれば、その妄想で強迫観念が浮かぶことはあり得ます。
妄想が消えれば、その妄想での強迫観念は消えますが、強迫性障害なのですから、強迫観念自体は続いてしまいます。
ただし、妄想状態になれるという事は、鈍感化、現実逃避ができるレベルの人なので、過敏性の問題は少なく、不安が強くても、妄想的な思い込みの強さが原因と考えられ、強迫行為が過剰でも強迫性障害としては軽症になり、治しやすいタイプです。

そういう人は過敏性ではなく、考え過ぎることで、何かに敏感になっているタイプで、神経質に近い症状だからです。

強迫観念は現実的苦痛が結び付いていますが、妄想は苦痛自体も妄想によって起こります。
完全な思い込みの汚れでも、現実の汚れに対する嫌悪が強ければ、その不安思考自体による苦痛はありますが、完全な妄想の汚れなら、特に苦痛もないのです。
それを洗うとしても、現実の汚れへの強迫観念とか恐怖がないので、普通の汚れのように普通に洗うだけです。
つまり、妄想で汚染恐怖にはならないのです。
普通の人と同じで、見えない汚れレベルは大したことではなく、統合失調症であれば、現実に鈍感になりますから、むしろ見える汚れで汚れても気にならない人も多いのです。
ですから、妄想の汚れを洗うとしても、現実の汚れと同じように普通に洗うだけで、強迫観念がないので、強迫行為にはなりません。
難しいことは考えないし、薄っすらとは妄想だと分かっている人も多く、その場合も、現実の汚れではないと分かっているのですから、そんなに念入りに洗っても苦労するだけで意味がないので、過剰にはなりません。
そもそもそういう現実のストレスから逃れるための妄想状態ですから、妄想によって、何かストレスの強いことをしなければならない症状は起こり難く、逆に妄想状態だからこそ、妄想が浮かんでも、その思いをあるがままにして、その思いに対して現実行動としては、本人が嫌なこと(ストレスの強いこと)は何もしない人が多いのです。
統合失調症の発症は、ストレスが原因であろうとなかろうと、現実のストレス回避の始まりなので、行き着く果ては、陰性症状での自閉状態であり、ストレス回避をしやすいようになります。

強迫症の場合、そうならないので、ストレスが続きます。
強迫観念は何らかの危害に反応して浮かびますが、過敏性の強さで、はっきりしないこと、見えないレベルまで気になってしまいます。
汚れに敏感な人が多いのは、今現在の日常生活で見えない危害は汚れだからです。
見える汚れでも見えない汚れでも過敏性によって気になってしまい、その苦痛も現実的で強く感じられます。
非現実の妄想と違って、現実の汚れ(現実の汚れの思考化)なので、強迫行為をしないといけなくなりますが、強迫状態で汚れの強さも嫌悪感も付着力も強まってしまうので、過剰な洗浄などをしないといけなくなります。
一般的には些細な汚れでも、過敏性の強さで、敏感に反応して強迫観念が消えなくなってしまうことで、本人には大きな危害となって、大きな事として考えるわけです。

思い込みだけの不安思考の人は、本人が考え過ぎ、過剰過ぎと思えることはありますが、それは実際に、考え過ぎてしまうこと自体が症状なのです。

強迫性障害は、思い込みの不安のような思考上だけの問題の人もいることはいるのですが、自身の思考にとらわれて、不安になっているだけなら強迫性障害ではなく、神経質です。
敏感であるから、過敏性が強くて不安思考にとらわれやすく、思い込んでしまうとしても、その不安思考自体が思い込みに過ぎないなら、そう考えることで不安になっているだけなので、考え方の問題ですから、考え方を変えられれば、過敏性も起こりません。
そういう不安思考だけが強迫観念の人もいるのですが、そういうタイプは、過敏性は強くないので、そういう不安思考だけで済むし、強迫観念の強迫性も低いのです。

神経質は考え過ぎて、強迫行為をしますが、強迫症の人が強迫行為をするのは、考え過ぎが原因ではありません。

普通の思考もできることで、強迫観念に対して、本人が考え過ぎ、過剰過ぎと思えることはありますが、考え過ぎているのではなく、実際に苦痛が強いことがあれば、どうしても不安や恐怖も強まります。
過敏性でストレスが強まることで、その程度に合わせて、強迫観念が浮かぶ(ストレスに思わされる)ので、実際の刺激に対して考えすぎることで、気になって、強迫観念が浮かぶのではありません。

生理的な反応ですから、考えたくなくても、自分の意に関わらず、強いストレスへの正常な拒絶として強迫観念が浮かびます。
実際の危害への反応なので、当然、不快な内容になり、それが「思い」であっても、妄想と違って、現実との結びつきが強いので、現実的苦痛があります。

強迫観念はストレス反応の過敏性思考ですから、強迫観念やトラウマ記憶が危害となれば、それによってまた強迫観念が浮かび、その症状(強迫状態の苦痛体験)もトラウマになります。
強迫行為で解消できないような様々な強迫観念も慢性的に浮かぶし、不快な記憶の想起などが頻繁に起こるし、そういう思いが浮かばないようにと、強迫行為としての思考も増えるので、常に考え続ける状態になりますが、強迫観念自体はそう考えていると言うよりも、ストレス反応で意(自分の思考)に関わらず、強迫的に浮かぶのです。
そして、その巻き沿いで、自分の考えも続き、考えが止まらなくなりますが、それ自体は強迫観念ではなく、自分の考えなので、強迫行為も起こりません。

強迫観念は、そう考えようとしなくても、考えたくなくても、そういう自らの思考を無視して、何からのストレス対象を敏感に感じ取った段階で、一瞬で自然と浮かび上がります。
不安な思いへの過敏性とか、そのストレス対象自体も思考である場合もありますが(思考だけへの過敏性)、敏感な人であれば、心の中だけでなく、現実にそういう不安な思いを浮かばせる何かがあり、それに対して意に関わらず反射的に強迫観念が浮かびます。

妄想も考え方に関わらず浮かびますが、現実のことではないので、実際には完全な考え過ぎなのです。
妄想の人は妄想状態になって、考え過ぎていても、それが考え過ぎだとは思いません。
そう考えているとか、そう思っていることにも気付けませんが、本物の考え過ぎなのです。
あの人は、こう思っているとか、考えるのですが、妄想状態だと、その人は、まったくそう思っていないのに、妄想での考え過ぎをその人に押し付けて、決め付けてしまいます。
実際には、ただの考え過ぎなのに、そう思えないことが妄想状態や統合失調症の問題なのです。

妄想状態に苦痛があっても、妄想による考え過ぎの苦痛であり、現実にはまったく問題がないのです。

強迫状態の場合、過敏性による現実反応の思考ですから、現実そのものの苦痛が、思考にも結び付いています。

過敏性が強いと、今現在の危害のストレスだけでなく、過去の危害からも強迫され、不快な記憶を忘れたくても消えません。
強迫症であると、記憶の抑圧や解離(解離性の健忘)が起こらないので、記憶にも強迫されやすくなります。

強迫性障害の人は確認したことを忘れるから、解離と関連しているという人もいますが、強迫観念に邪魔されて、記憶があいまいになってしまうことは、解離による健忘とはまったく違います。
忘れたいことが忘れられないから、強迫症状が起こるのです。
強迫行為は、記憶に残ったストレスが消えないからこそ、直接的なストレス対処として行われます。

強迫性障害解離性障害神経症として同じような病気と考えて、同じような治療で治そうとしていた時代もありますが、強迫性障害解離性障害は真逆の病気ですから、同じ方法で治せるわけがありません。

解離は簡単に言えば、ストレスの切り離しとか無意識化の症状ですから、解離すれば、ストレスを意識しなくても良いのですが、現実逃避的な空想への過集中で妄想のような状態になったり、一部の記憶だけ消えたりすることで、記憶に統一性(継続性)がなくなったり、意識できなくてもストレスが完全に消えるわけでもないので、突然に不快な体験を思い出して複雑性PTSDになったり、本人は解離しているのでよく分からないけど、抑圧したストレスが原因となって、体に症状が出たりします。
完全な心理的症状なのか、脳機能障害なのかは、人によりますが、敏感鈍感でいえば、鈍感化症状なので、器質的な過敏性の強い人は、鈍感化する素質がないので、解離をしませんし、ストレスの抑圧が起こりません。

逆に、強迫性障害だと過敏性によって、ストレスを意識し続けて、不快なショック体験なども永遠に消えなくなり、ストレスでの強迫状態になります。
解離すれば強迫状態は起こりませんから、強迫行為をする必要もないのですが、強迫症であれば、解離しないから、ストレスの曝露され続けて強迫観念が浮かびやすく、強迫行為をしないといけなくなります。

強迫症であれば、解離とはまったく逆になり、ショック体験の記憶だけでなく、本人からしてもトラウマというほどではないその他の不快な記憶なども消えなくなってしまうし、どうでもいいような記憶でも、どうでもいいからこそ不快なこととして記憶に残ってしまいます。
そういう小さなトラウマ記憶が離れなくなったり、その記憶が何かと関連付いてしまったりすれば(何かを見るとトラウマを思い出してしまうなど)苦痛ですから、そうならないようにと、そういう症状を引き起こすストレス対象を避けないといけなくなります。
回避しないといけないことで神経を使い苦痛を受けますから、回避せずに済むようにと、余計にストレス対象を避けないといけなくなり、そのことに対して、恐怖や嫌悪や不安などの強迫観念も強まります。

どうでもいいことが記憶されるのはなぜか?

過敏性があると、本人にもどうでもいいと思えることさえ、不快な刺激になって、その記憶も強迫観念化してしまいます。
どうでもいいということは、ゴミ記憶ですから、どうでもいいからこそ、不快な記憶(刺激)として、ダメージが残ってしまうのです。
どうでもいい記憶=ゴミのようないらない記憶→その不快感でのダメージで、小さなトラウマとなって忘れ難くなってしまう。

普通の人は、こういうゴミ記憶をさっさと忘れてしまうものですが、強迫症だと、それが気に止まったままになり、強迫観念化した記憶となって、脳内や神経にその不快感と共にため込まれます。

これは記憶力が良いのではなく、どうでもいい記憶が過敏性によって、小さなトラウマとなってしまうだけなので、抗コリン作用の強いSSRIを使って、記憶力を軽く低下させるレベルでは、まったく効きません。

そういうゴミ記憶が積もっていくことで、神経が消耗して、新たなストレスにもうまく処理できなくなって、ゴミ記憶も余計に消え難くなります。
このことによって、記憶の処理や思考のコントロールもし難くなり、強迫観念も浮かびやすくなり、不安も強まります。

過敏性によって、強迫観念自体や、それをなくそうとする強迫行為も、本人にとっては、危害になってしまいます。
その危害を防ぐために、(そうならないようにと)不安も強まりますが、強迫症の不安には対象があります。

精神医学的に、不安には対象がないことになっていますが、実際には不安障害の人にしても、何らかの状況とか対象があって、不安が強まる人がほとんどです。
対象のない漠然とした不安感が起こりやすいだけの人なら、不安感を抑えるために落ち着ける行為をすることはあっても、強迫症的な強迫行為も回避も起こりません。
現実行動でそうする対象がないからです。
強迫症だと、漠然とした不安感にもとらわれますが、特定の対象があっての不安(恐怖や嫌悪による不安)で、強迫行為は起こります。

対象のない不安感は、思い込みの不安でも起こりますが、対象のない不安思考というのは妄想みたいなものです。

現実には問題がないのに、妄想的な思い込みで不安になって引き篭もる人と、現実に実際にストレスを感じて、引き篭もる人は、全然別の症状です。
前者は薬で治しやすいのですが、後者は過敏性やストレス耐性の低さが根本原因にあると、なかなか治せません。

同じような症状でも原因が全然違ったり、同じ強迫性障害でも、様々なタイプがありますから、強迫性障害患者の脳を検査してどうとか、強迫性障害患者を治したと言う場合は、どのタイプの強迫性障害なのかを明示しないといけません。

今までは、その全部をステレオタイプ化していましたから、強迫性障害患者は完璧主義だからどうこうとか、こういう心理状態になっていると言ったところで、それは全体のごく一部の話で、他の患者には関係ないという状況でした。
過敏性の強さによって、不快感が残りやすいことで、その苦痛をなくそうと行う行為は、完璧主義だから、完璧でないことの不快感に抵抗して行う行為とは、まったく違います。

PTSDの人が、トラウマ関連事を過剰に避けるのは完璧主義だからではありません。
そういう事でトラウマを思い出してしまったり、PTSD症状が悪化する苦痛があるから避けるのです。

同じように、強迫性障害の人が強迫行為をするのも、そうしないとストレスの強迫状態での苦痛が消えないからで、完璧にそうしたいという主義でやっていることではありません。
過敏性で些細な違和感も苦痛になってしまうので、それが続く限り強迫観念も浮かんで、その解消行為が長くなってしまうのです。

そういう生活が続くことで、強迫性障害の人には慢性疲労も消えなくなります。

慢性の強迫症状でエネルギーを消耗するからですが、過敏性によって、殻を作れない、外界との間の壁が作り難いことも関係しています。

妄想の人は興奮した鈍感状態なので、相手を分かろうとしないし、分かっていないのです。
自分一人の世界なので、自閉と言いますが、敏感であると、自閉ができません。
現実から逃れられなくなります。

器質的に敏感であると、様々な雑多な刺激を受け続け、自分の周囲の世界、自分の内面世界の両方からの刺激も受けやすく、自他の境界(の壁)がうまく維持できなくなります。

境界がなくなれば、自己の存在もなくなりますから、精神面においても、生物的にも危険な状態です。
過敏性で他が自己に刺激や影響を与えてくるので、自と他の反発が起こり、世界と自分を切り離そうとしますが、過敏性でそうできないので、強迫行為で、自我を維持します。

逆に世界と自分が分離して、自己中心が肥大したのが精神病状態ですから、精神病であると他者の立場を考えなくなります。

強迫状態の人は、他者のことを分かりたくなくても、何か刺激があれば危害に感じますから、過敏性によるストレス反射的に、そうしたくなくても、どうしても他者が気になって考え(強迫観念)が浮かびます。
他者のことを分かろうとするのではなく、分からないようにしているのに、分かってしまうことで悩むのです。
例えば、人の思いなども見えないからこそ気になってしまい、それを気にしたくなくて、分かろうとしないことで、それがある程度は思い違いかもしれないとは本人も思うのですが、強迫観念としてそう思えてしまうと、その思いにとらわれることになります。

考えたくなくても、そうやって他者の存在が気になってしまうので、他者に迷惑をかけ難いのですが、過敏性により、簡単に他者から迷惑をかけられてしまいますから、どうしても余計に警戒してしまいます。

神経過敏で器質的に敏感な人は、一般的には些細なことが、本人にとっては、強い刺激になってしまいます。
敏感であること自体がダメージと直結して、実際に様々な刺激で危害を受けることが多くなります。
そういう神経過敏状態であると、ダメージを受ける前に、危害回避しなければならなくなり、そうならないとようと、ストレス対象への不安や恐怖や嫌悪などが強まります。
敏感であると、そういった不快な感情も苦痛(刺激)となって、ダメージになり、なかなか消えなくなります。
強迫性障害の人の場合、そういう不快な感じと結び付いた思考が強迫的に思い浮かんで、なかなか消えなくなってしまうことで、その思考(強迫観念)からもダメージを受けます。
そういう強迫観念は現実のことで思い浮かびますから、苦痛を解消しようと現実行動の強迫行為をしなければならなくなりますが、その行為もストレスが強く、ダメージになります。
敏感であると、そういった一連の強迫症状の苦痛(危害)が耐えられないので、そうならないとようと、不安や恐怖や嫌悪などと結び付いた強迫観念が余計に浮かびやすくなり、そのストレス反応と、ストレスの対処行為で、神経が消耗して、慢性疲労の状態になります。

若い内は気力があるので、無理をしてしまいますが、それが続くと重症化しますから、早めに悪化しない生活に切りかえることが大事です。


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HSP・HSC(敏感気質)と神経質の違い、HSP・HSCと強迫性障害の関係/過敏性の精神障害がない理由

HSP・HSC(敏感気質)と神経質の違いは何でしょう?

HSP・HSCは、敏感な感じ方をする気質で、小さなことも気になってしまいます。
気質は日本語的には気の質ですから、体質と違って、感じ方や考え方の性質と考えることができますが、性格と違って、元々から備わっている精神的性質という意味が強くなります。

神経質は敏感な考え方をする気質とも言えますが、森田療法に出てくる神経質の場合は、後天的らしいので、性格的なことです。
敏感に気にして考える気質=考え方の癖みたいな感じで、実際には神経過敏ではないのですが、気にすることで敏感になってしまうそうです。
なぜ気にしてしまうのかというと、健康で長生きしたい欲求が強いから、それに反することに対して神経質になってしまうということです。
であれば、実際には、気にする気質なのではなく、生存欲求が強いだけなので、HSP・HSCとはまったく違うことです。

そういう神経質の場合は、生存欲求にとらわれなければ、それに反することにも気にならなくなり、何も問題はないのですが、HSP・HSCは、気にしなくても敏感なので、気にしないわけにもいかなくなります。

過敏性の強迫の場合は、気にしないようにするから、気になってしまうのではなく、敏感だから気になってしまうのですが、森田療法での強迫症状は、気にし過ぎることを、気にしないようにすることで、強迫行為をしてしまうが、そうしている限り、気にしていることが余計に気になってとらわれてしまうという考えです。
なぜ気にするのかは、健康で長生きしたい欲求が強いから、それに反することに対して気になってしまうということですが、そういう前向きな欲求に素直に従うことで、それに反することも気にならなくなり、神経質も治せるとなっています。
しかし、この神経質は、実際には、気にする気質なのではなく、生存欲求が強いだけなのです。
その理論だと、元々から前向きな欲求に素直に従っていることで、それに反することが気になってしまうのですから、その欲求に従えば、余計に神経質になって、むしろ悪化することになります。

森田自身が神経質だったので難しく考え過ぎていのですが、考え過ぎの人達もそういう理屈が好きですから、神経質者が好きな理屈(考え方)を提示して、信者であれば、それが実際には見当違いでもその理屈を正当化しようとしますから、治療にもなったのです。
当然、神経質者でも神経質教の信者になれなければ、考え方も変わりませんから、治療を受けても治りません。

認知行動療法に出てくる強迫症も、過敏性は関係がないし、あくまで不安だけによる強迫のことで、その不安も自身の考え方によって不安になってしまうという意味です。
基本的には森田療法と同じで、考え方を変える訓練になりますから、患者がその療法の理論を正当化しようと思わない限り、考え方が変わらないので、効果はありません。
ということは、患者が納得できるような理論でないと意味がなく、過敏性の強迫の場合は、そういう心因性の不安とか、神経質向けの理論自体が完全に間違いになりますから、治せるわけがないのです。

神経質というのは、このブログで言うと強迫行為先行型になり、「こうであるべき」「こうしたい」というこだわりや欲求自体にとらわれ、その思いを満たそうと強迫行為を求めることで、それに反する状況で、強迫観念が浮かぶタイプです。
強迫行為を求めなくなれば、強迫観念も浮かばないし、何も問題はなくなります。
気分や感情の障害や衝動抑制障害的な症状などの病的な原因で、欲求にとらわれやすく依存症的になっている場合は、これはこれで治し難いのですが、森田療法に出てくる神経質のように、単に考え方の問題であれば、過敏性の問題もないので、自分である程度はコントロール可能で、比較的治しやすいタイプです。

神経質は敏感に感じることではなく、気にすることで敏感になりますから(心が作る過敏性)、考えなくても敏感に感じてしまうことよりは、修正しやすいと考えられています。

過敏性の強迫症状ではなく、神経質や、思い込みの不安での強迫症状のように、完全な心因性強迫性障害の人も確かにいるのですが、近年では、そういうタイプの中にも、脳機能的な問題で、そうなっている人もいるという研究結果もあり、それであれば、神経質でも実際には神経質ではありません。
このタイプは、比較的SSRIが効くという話もありますが、考え方の問題も無関係ではない(考え方の癖によって脳機能に問題が起こるという説もある)ので、考え方の修正もしたほうが再発し難くなります。

そのタイプであれば、HSP・HSC(敏感気質)と無関係ということでもありませんが、少なくとも森田療法に出てくる神経質は、HSP・HSCとは、全然別物です。

HSP・HSCと強迫性障害の関係

敏感な人といえば、HSP/HSCというのもありますが、それを考えた本人が、発達障害でも精神障害でもないと言っているのですから、敏感であることで苦痛が多くても、病的なレベルではないわけです。
一般社会にもなんとか適応できる範囲の過敏性です。
そのことで、この段階からは、特に社会的配慮も受けられませんが、刺激に弱く、ストレスは感じやすいので、慢性的にストレスが続くことで、ストレス耐性の低い人は、強迫症にもなってしまいます。

HSP/HSCでも過敏というほどではなく、ストレスにも強ければ、(HSCならHSPになりますが)強迫症にはなりません。
敏感といっても一時的なことで、その感じがすぐに消えてしまうなら、不快な感じなどでの強迫状態にもなりませんし、特にそれを気にすることにもなりませんから、強迫行為も起こりません。
しかし、極度に敏感であると、その不快な感じがなかなか消えなくなり、気にしないわけにもいかなくて、気になってしまうことで、その不快な感じに思考が結び付いてしまいます。
そういうのが、過敏性の強迫観念で、頭でどう考えようと、その考えとは無関係に、危害に対する不快な感じによって、生理的反応として浮かびます。
人間は何らかの危害があれば、それに対して、不快に感じたり、不快な思いが浮かんでしまうのです。
それが恐怖や嫌悪や不安などの強迫観念になります。
そうならないと、危険回避ができなくなり、生物として逆に危険な状態だから生理的にそうなっているのですが、極度に敏感であると、実際に危険なことが多くなって、そういう反応も過剰になります。
それで何らかの危害の回避や防御や対処として、強迫行為も過剰になります。

外界の刺激に敏感というだけで、ストレスには強ければ、不快な刺激が長引きませんから、強迫観念は浮かばないのです。
思考や記憶や感情などの内面刺激があっても、それに耐えられれば、気にならないので、すぐに消えていきます。
これが普通の人の敏感状態で、過敏性による強迫状態(刺激が残る状態)とは違い、一時的な過敏反応の症状で済みますから、強迫症的な症状は出にくく、刺激を過剰に避けるとか、不安が多い、子供であれば泣きやすいとかの範囲にとどまり、強迫行為も起こりません。

強迫性障害での過敏というのは、実際にはそんなに刺激のないことなのに、それに見合わない大げさな反応をするという意味ではなく、実際の刺激に非常に敏感という意味です。
過敏性が強いことで、普通の人が気にならないような、小さなことも気になってしまいます。

強迫性障害の場合は、病気範囲の過敏性の強さがあるので、病気の症状が出ます。
特に意味のある刺激(思考や記憶などの内面刺激)への過敏性が強いのが、一般の感覚過敏とかHSP/HSCとの違いです。
不快な刺激が長く残ることで、そこに不快な思考も結び付くのです。

HSP/HSCが、病的レベルなら全般性過敏症というべきで、それに強迫観念が結び付いたのが強迫性障害ですから、全般性過敏強迫症みたいな病状になります。

HSP/HSCによくあるような、気質的過敏性による感覚的な不快感に、器質的過敏性による強迫観念が結び付くと強迫症になり、不快な感じだけではなく、不快な思いにも強迫されます。

強迫性障害は過敏性の精神障害なので、強迫観念(嫌な思考)は、嫌な感じから浮かびます。
この感じが、敏感な人には、苦痛であり、危害なので、その危害に対して、反射的に思考が結び付きます。
これはある意味、当然のことですが、敏感でなければ、そんなに起こらないことなので、障害レベルにはなりません。

HSP・HSCのように特別に敏感であると、ストレスが多くなり、嫌な感じ(強迫感覚、感情強迫)も多くなりますが、その「感じ」が、思考化されると強迫観念になります。
「感じ」自体は、思うことというよりは、感じることなのですが、その感じの思考化というのは、その感じで思い浮かぶ思考です。
それが何なのか、なぜそうなったのか、そうならないためには、などの(感じの意味)を、考えたり、思ったり、イメージすることも含みますが、そうならなくても、その体験の記憶が残れば、その記憶を嫌でも思考する(思い浮かべてしまう)ことになります。
意味のない(思考しない)感覚的刺激(不快な感じ)に、意味のある刺激(不快な思考)が結び付いたのが、強迫観念です。
敏感であることで、感じだけではなく、意味による刺激での不快感や違和感にも強迫されて、ストレス耐性が低いことで、その苦痛の停滞状態が長く続くので、その対処として強迫行為をすることになります。

敏感だと刺激を受けやすく、そのダメージも長く残りますから、過敏性が強迫性を強めます。
強迫性の症状は、長らく、考え方の問題とか、考え過ぎとか考えられてきましたが、過敏性の(強迫症的な)強迫観念の土台には、感覚過敏、神経過敏、AD/HD、HSP/HSCといった神経や脳を含めた体質的(器質的)問題があるのです。

しかし、神経過敏での精神症状があることは、今までは隠されてきました。

神経過敏自体は、器質的な問題ですが、心因性の敏感な症状もあるし、脳内の神経回路のことなどは分かり難く、器質性とはっきりと分かることでもなく、だからと言って、症状はストレス反応ですから、内因性でもなく、だからと言って、過敏性は心理的な問題ではなく、器質的な問題ですから、心因性でもないので、精神医学や心理学では扱い難いのです。

精神医学的には、PTSDでも過敏性のトラウマではいけないし、実際に醜い場合は、身体醜形障害(醜形恐怖症)ではありませんし、強迫観念も、過敏性(実際の危害での不快な思い)ではなく、思い込みの不安思考(想像上の危害への不安)でないといけないのです。

同じ強迫性障害で、過敏性があるかどうかを見分けるのに、症状で分かります。

過敏性の少ないタイプ(不安型)=未来の危害に対して浮かぶ不安の強迫観念しかない。
強迫行為としては、その危害を回避する安全確認などが過剰になりやすい。
このタイプは、不安になりやすいことでの強迫観念ですから、強迫観念がはっきりとなくても、不安感にも強迫されます。
一般的な説明に出てくる強迫性障害は、(過敏性は関係のない)不安の病気ですから、基本的にはこのタイプのことです。

過敏性の強いタイプ(恐怖、嫌悪型)=現在や過去の実際の危害に対して、恐怖や嫌悪などの強迫観念が浮かび、それがあることで、未来への不安思考も強迫観念として浮かぶ。
強迫行為としては、確認だけでなく、洗浄なども過剰になりますが、過敏でストレス耐性が低いことで、そういう行為も苦痛で危害になってしまうので、回避が過剰になります。
しかし、回避するのもストレスが強く危害になって、何もしてなくても頭の中に強迫観念が残ってしまっているので、それも危害となって、何かをすることになり、そうすると強迫観念が浮かんで、強迫行為をしないといけなくなり、といった感じで、どうしようと慢性的に気が休まりません。
このタイプも、不安感や不安思考にも強迫されるのですが、不安になりやすいから、強迫観念が浮かぶというよりは、過敏性によって、様々なことに強迫され強迫観念が浮かび、その中に不安も含まれるのです。
強迫観念がはっきりとなくても、些細な違和感などでも強い刺激となり、強迫行為や回避に繋がります。
このタイプは、一般的な強迫性障害の説明には書かれません。

なぜなら、精神障害というのは、器質的過敏性が原因であってはならないという考えがあるのです。
器質性の神経障害だと、精神医学や心理学などでは対応できません。
もし器質性の神経障害の場合でも、症状自体は、精神(心)の病気でなければいけません。
明らかな脳機能の障害で、強迫症状が出ることもありますが、その場合でも、神経過敏の病気ではなく、不安の病気としての強迫症状=普通の強迫性障害が、脳機能の障害で発症したと考えるのです。

統合失調症も器質的原因が明確なら、精神障害ではないのですが、神経過敏症状ではないので、症状自体は精神障害統合失調症の薬で治せますから、統合失調症として扱えるのです。
認知症も器質的な病気であれば、精神障害ではありませんが、認知症の症状も神経過敏症状ではないので、精神科である程度は対応可能です。

しかし神経の過敏性は薬では治せないので、その過敏性での精神症状も治せません。

器質的な過敏性は、精神障害の原因としては想定していないので、過敏症とか敏感症みたいなのは、精神障害にはないのです。

PTSDであっても、一般の人がトラウマにならないような体験でのトラウマ(過敏性によるトラウマ)は含めませんし、恐怖症にしても過敏性による恐怖ではありませんし、強迫性障害にしても、頭の中での(想像上の危害)への不安思考こそが強迫観念であり、実際の危害での不快な思いに強迫されても、それは強迫観念ではないとされてきました。

そういう病気は、過敏性の症状であってはいけない(心の問題でないといけない)ので、このブログに書いてあるような、過敏性の強迫状態は、今までの基準からすると精神障害ではありませんし、強迫性障害でもありません。

しかし、実際には、どうして強迫行為をしているかということは関係なく、強迫性障害の症状が見られれば、何でも強迫性障害になりますから、実際には神経質であろうと、不安症や恐怖症であろうと、過敏性の強迫であろうと、全部同じ強迫性障害(不安思考による強迫の病気)として扱われるのです。

過敏性の強迫症は、不安だけに強迫される病気ではないし、過敏性は、考えの問題ではなく、考えに関わらないことですから、不安思考での強迫性障害と同じように治そうとしても、治せるわけがないのです。
不安に効く薬も関係ないし、認知行動療法森田療法もまったく通じません。

過敏性による強迫状態は、症状としては精神障害なのですが、精神医学や心理学などでは治せませんし、精神科でなくても脳の神経回路をどうこうするような治療法はありませんから、どこに行こうが治せません。
一応、脳深部刺激療法というのはあり、アメリカでは何をしても治らないような人が、受けることもありますが、大雑把に、恐怖を感じ難くしますから、正常な恐怖までも抑えられてしまうという危険があり、それを受けた患者が自殺してしまった例もあるし、そもそも過敏な人が受けられるような安全な方法でもありません。

強迫性障害患者の脳機能がSSRI認知行動療法で改善したという場合も、あくまで、不安の病気としての強迫性障害ですから、過敏性の強迫症患者のことではないのです。
過敏性強迫症の人達は、治らない患者に含められるか、そこにさえ含められません。
過敏性の病気なら、不安の病気ではないので、強迫性障害の治療としての実験や研究の対象にならないのです。

そういう理由もあって、強迫性障害には実際に敏感な人が多くいると分かっていても、実際には敏感でなくて、考え過ぎで敏感になっているだけとか、不安だから敏感になってしまうとか、敏感でも実際には神経には問題が無いとしてきたのです。

表向きはそういうことにしてきただけなのですが、そのことが分からずに、本当にみんなそうだと思っている人も多いのです。

神経過敏といっても、神経そのものには問題はないかもしれませんが、脳内の神経回路や脳内での神経を通じた情報の伝達や処理といったことを含めれば、神経過敏は神経に問題があることは十分に考えられます。

実際に、以前、ブログ書いた京都大学での脳の尾状核の研究結果なども、不安の研究なのですが、これは強迫状態の研究でもあります。
持続する悲観的な意思決定の源となる神経メカニズムを解明 -不安が頭から離れない原因とは-

http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2018/180809_5.html
研究内容については、↑このリンク先のページの下のほうにPDFファイルがあります。
過敏性は不安だけの問題ではありませんが、今後、神経レベルで強迫性障害が明らかになったとしても、人間には難し過ぎて、過敏性を適度な状態に維持することができないのです。

器質的にストレスに弱いので、ストレスに強迫される症状が出るのですのですが、ストレス反応でも心因性ではなく、器質性ということなら、精神の病気としては扱い難くなります。

神経過敏での症状は、器質性だとはっきりしないという意味では、内因性とも言えますが、内因性の場合は、ストレスに関係しない病気であり、ストレス反応である強迫性障害は、内因性ではありません。
しかし、神経過敏=過度に敏感な状態=心の問題と考えるのは無理があり、過敏性は、考え方とか心理の問題でもないので、心因でもありません。
もちろん、考えに関わらないなので、神経質とも関係ありません。

過敏性の強迫症の場合、考え過ぎの神経質とか心因性の症状と違って、考えに関わらない生理反応での症状ですから、考えすぎではありませんし、もちろん妄想とかでもないので、内因性でもありません。

内因性というのは、自身の内側に問題があるが、心因性(心の問題)というわけでもないし、器質性とも言い切れないタイプです。
心因性の場合、少なからず、外界の影響を受けた症状が出ますが、内因性の場合は、症状自体も内因性であり、現実のストレスに弱いとかそういうことではなく、患者の内側だけの問題なのです。

例えば、妄想の場合、本人はそれを現実のことでの思いだと思っていますが、現実はほとんど関係ないのです。
妄想は頭の中だけのことで、現実に対する思考ではありません。

精神病というのは、基本的にはそういう内因性の精神障害という意味ですが、重い精神障害という意味もあります。

心因性精神病というのは、内因性ではない精神病(重い精神障害)のことですが、精神病自体は基本的に内因性(ストレスは関係ない)ですから、それと区別して、ストレス反応による精神病の場合は、心因性精神病と言い、神経質や神経症でも心因性精神病にはなります。

ストレス反応による精神障害は、心因性の病気ですが、そういうのは、心の問題(心理的な原因)という意味が強く、過敏性の強迫症状は、心の問題(心理的な原因)ではなく、過敏性の問題なので、ストレス反応であっても心因性ではありません。

妄想と、不安思考の違いは、現実と無関係の思考か、現実のことでの思考かどうかですが、心因性の不安思考(過敏性ではない思い込みの不安)などは、現実に対する心であっても、現実との結び付きが弱い=心だけの問題ですから内因に近いのですが、心理的な原因ですから、心因となります。

妄想も心ですが、現実に対する心ではないので、思考や思いとは言わず、妄想と言い、その場合、ストレスも関係ないので、心因性ではなく内因性ということです。

過敏性の強迫観念は現実に対する心ですが、思い込みの不安思考ではなく、過敏性により生理反応的に浮かびます。
ですから、外因性(器質性)精神障害で、症状が重い場合は、外因性(器質性)精神病となりますが、脳だけでなく、身体的な神経過敏も絡んでいれば、症状性精神障害とも言えます。
しかし、神経の過敏性は外側から他人が見れることではなく、その過敏性の強さも本人にしか分からないことですから、器質性と言い切れることでもありません。
原因がはっきりしないという意味では、内因とも言えますが、強迫観念は現実に対する心で、ストレス反応ですから、内因性ではありませんし、心の問題ではなく、過敏性の問題なので、心因性心因性精神病でもありません。

そのような区別をすることに無理がある病気なのですが、神経の過敏性=器質性ですから、外因性(器質性)精神障害と考えるのが無難ではあります。
ストレスで症状が出ますが、それは二次的な原因であり、一次的には器質性の神経過敏が原因です。
そのストレスが強迫観念として、内面に長く残り続けるという面では、ストレスに無関係な内因的な症状とはまったく逆で、内因性でも心因性でもないからこそ、治し難いし、重い精神障害という意味で=外因性(器質性)精神病にもなります。

しかし、心因性強迫性障害の人も多いのは確かですから、強迫性障害=器質性ということにもなりません。
現状では、どうして強迫行為をするのかというのは、診断基準的に関係ないので、心因性なのか、器質性なのかは、あくまで、人によるということです。

強迫性障害は多種多様な病気ですから、強迫性障害心因性であるとかではなく、今後は強迫性障害のどういうタイプがどうなのかと、考えることになります。

そうすると、強迫性障害はこう治しますとか、強迫性障害患者の脳を調べた言っても、どのタイプなのかが肝心なので、それを示さないといけません。

ですから、強迫性障害のタイプ分けをしないといけないのに、この病気は、いまだにほとんど理解されていません。
どういう症状が出るかは明らかですが、どうしてそういう症状が出るのかが、今で分かっていなかったのです。

強迫症状が出ていれば、なんでも強迫性障害にしてしまう現状は本当は良くありません。
神経質や思い込みだけの不安思考による強迫症状と、強迫性障害強迫症状は、表面的には同じでも、内面的にまったく違います。

しかし、一般的には、強迫観念は、神経質とか思い込みだけの不安というのが定義なので、それらを強迫性障害から除外することはできませんから、過敏性の強迫観念で強迫行為をするタイプが、強迫性障害ではないのなら、過敏性強迫症とか新しく病名を創らないといけません。

それができないなら、同じ強迫性障害としたままタイプ分けをすることになります。

強迫性障害は、大きく分けると、(強迫観念が浮かぶので強迫行為をする)強迫観念先行型と、(強迫行為を求めることで、それが得られない苦痛から強迫観念が浮かぶ)強迫行為先行型があります。
強迫行為先行型の人は、強迫行為を求める反動で強迫観念が浮かびますが、強迫観念先行型は、強迫観念があることで、強迫行為をしないといけなくなります。

強迫行為先行型は、以前は強迫行為主体型と書いていましたが、WHOの言っていた、主として強迫観念タイプ(頭の中だけで強迫行為をする人)と重なってしまうので、強迫行為先行型と呼ぶことにしました。

現状では、どうして強迫行為をするのかなんてことは関係ないので、神経質とか強迫行為先行型も(強迫行為があるので)強迫症に含まれますが、しなければならないことがあるから、強迫症なのではなく、どうしてそうしなければならなかいかでまったく違うのです。

頭の中だけで強迫行為をする人にも、強迫行為先行型と強迫観念先行型がいるし、皮膚むしりなども、吹き出物とかの違和感に耐えられないことでそうなってしまう人と、刺激とかスッキリ感を求めてそうする人と、無意味にそうしてしまう人がいますから、同じような強迫行為でもそうする原因は様々です。

強迫観念にもいろいろと種類があるというか、強迫観念自体がはっきりとは定義できませんから、神経質とか思い込みだけの不安思考も含まれば、実体験での不快な思いなども含まれて、何が強迫観念かが特定できないことで、そうなっているので、強迫観念と普通の不安思考や恐怖思考との区別もしないといけません。

次回以降、そういう説明をします。


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強迫症患者が一般基準に巻き込まれないためには?/過敏性に効く薬はあるか?/強迫の苦痛を減らすには?

強迫は慢性症状で、その過敏性は一般とは全然違うので、強迫症の人は、人とうまく共同生活するのは困難です。

強迫症の人は、巻き込みをすると言われていますが、普通の人達は、自身の基準に合わせようと、強迫症の人を巻き込んではいないのでしょうか?
強迫症で巻き込みと言われているのは、多くの場合、危害回避であり、誰かに巻き込まれて害を受けないようにしたいとか、ダメージを減らしたいだけなのです。
ストレスの基準が違うまま、どっちの基準に合わせるかということをすれば、結局、巻き込みになってしまいます。
社会の中では、強迫症の人達が巻き込みをするよりも、逆に、一般基準の人達に、強迫症の人が巻き込まれて害を受けていることのほうが圧倒的に多いのです。
強迫症患者は家でもそれを我慢するしかないとしたら、人との同居などの共同生活はできなくなります。

若い内は家族と暮らすことで、周りを巻き込むこともあるかもしれませんが、基本的に、強迫性障害の人は、過敏性によって本人が周りから迷惑を受ける病気なのです。
その状態で、人と生活すれば、ストレスから身を守ろうと、巻き込みするのは仕方がないことです。
社会に出れば、強迫性障害の人にとってのほとんどの刺激(ストレス対象)は、一般の人にはどうでもいいことなので、患者が我慢するしかなくなります。
家の中ぐらいでは我慢しなくて済むようにしたいのですが、そこでも一般基準を強いられ、巻き込まれてしまいます。

非現実の妄想と違って、強迫観念は現実によって思わされる思考です。
日常や社会での生活上で浮かぶ現実反応の思いですから、一般の考えと、強迫観念は、常時反発しています。
強迫症患者の場合、強迫観念と並行して、一般の考えも理解できますから、非現実の思いは非現実だと分かるし、同じこと(本人のストレス対象)に対して、普通の人達がどう思っているかも分かります。
しかし、普通の人には、強迫症患者の強迫観念が分かりませんから、強迫症状の苦痛も理解されません。

強迫観念は現実のことでの思いなのですが、過敏性によるストレス反応の思考なので、他人はそう思いませんし、そのことが本人も分かっています。
強迫観念を相手と共有できないことも分かってはいるので、社会の中では、危害を我慢する(一般の人達に巻き込まれる)か、そういう状況を避けることが多くなります。
そういった犠牲的な対応ができるので、精神病やボーダー扱いにならないのですが、他人にはどうでも良いことでも、自分にとっては実際に危害なのですから、それを避けるには、他人に理解してもらわないといけない状況もあるし、他人から危害を受けやすい病気ですから、そうなった時には口論になってしまう場合もあるでしょう。
しかし、それもストレスが強いので、できれば避けようとするのです。

社会以前に、家族との関係でもそうなりやすいので、重症の強迫症の人は、ほとんどが単身で、社会的引き篭もりになっています。
そういう生活だと悪化し難いわけではありませんが、それが一番、他人を巻き込みにくいし、他人に巻き込まれて害を受けることを減らせるからです。

妄想状態だと人に迷惑をかけていることが分かりませんから、その人に関われば、必然的に周りが巻き込まれます。

強迫症の人は、迷惑をかけることもしたくないので、できるだけ巻き込まないようにしたいのですが、強迫症状がある限り、他の人と関われば、我慢するか、巻き込むかをしないといけなくなります。
我慢をするのも辛いので、その両方を避けて、自ら孤立してしまうのです。

強迫症患者が一般基準に巻き込まれないためには、一般に関わることを可能な限り避けるしかありません。
社会以前に医学的にもまだ理解されていない病気なので、病院などでも我慢を強いられることになりますから、(特に汚染恐怖や感染恐怖の人は)病院に行けない人も多いのです。

強迫性障害の人は、なぜ病院に行かないのかとか、重症でも入院しないのかと言っている人もいますが、症状で行けなかったり、症状で入院生活が困難だからです。
他人との共同生活や、自宅以外での寝泊りが困難な病気だし、入院しても治せませんから、入院しないのです。
他の精神障害と違って、重症であるほど、入院生活では気が休まりませんし、治す薬も方法もないし、特に汚染恐怖、感染恐怖の人は、入院生活で強迫症状は確実に悪化しますから、重症の強迫症であるほど、自宅療養が向いています。

統合失調症の場合、特に陽性症状だと、人に迷惑をかけやすいという意味でも入院が向いていますが、強迫症は、入院生活が逆にストレスになって症状を悪化させます。

病院側が強迫性障害患者に合わせて、待合室からテレビや新聞などの強迫観念を煽りそうな物(不快な情報)を撤去したり、他の患者さんと違う場所で待てるようにしたり、病院内の物などに接触しなくて良いようにしてくれれば、通院も少しは楽になりますが、そのような対応をしてもらえなければ、通院さえ困難なのです。

統合失調症はストレスに無関係に発症する場合と、ストレスによって発症する場合とがありますが、どちらにせよ、症状で現実逃避が起こり、現実からのストレスを回避することになります。
ストレスによって発症した人の場合、ストレスで再発しやすい面もありますから、本人のためには治さないほうが良い場合もありますが、そうすると周囲に迷惑がかかってしまうので、ある程度は治さないといけなくなります。
ただ、ずっと生活のめんどうを見てくれる人がいたり、病院にずっといられるのであれば、無理に治さずに、病気(陰性症状)のままにしておくこともあります。
陰性症状であれば、そういう生活でも苦になりません。

強迫症は、現実逃避が起こりませんから、現実からのストレスを受け続けるし、強迫状態になって、ストレスを対処ではないことで、強迫行為をしないといけなくなります。
陰性症状にならないし、何もしてなくても以前からある強迫観念は続くので、回避的な生活をしてもストレスが続きます。
汚染恐怖や不潔恐怖などでの接触(汚染)拒絶が強まると、親しい人との付き合いとか、家族の付き添いも困難になりますから、重症の人ほど、単身生活しかできなくなります。
症状でできないことが多くなっても、無理でも一人で生きるしかなくなり、そのストレスでも悪化し続けます。
他の精神障害なら、重症であるほど付き添いを必要としますが、それさえできない病気なのです。

強迫症は、過敏性によるストレスへの弱さが原因で発症する場合がほとんどです。
ストレスに無関係に発症したように見えることもありますが、それは過敏性でのストレス反応は、一般的にはそれといって大きな危害ではないこともあるので、話を聞いてもどれがストレスなのか分からないこともあるし、本人にとって辛い記憶であれば、人にも話せないからです。

学校や家族関係などの特定のストレスとか、ストレスの積み重なりで発症したりしますが、ストレスを避ければ症状が出ないということではなく、器質的な過敏性が原因なので、同じような状況で普通ならストレスにならなくても、過敏性によってダメージを受けやすく、ストレスを避けても、そのストレスが感情や思考や記憶などとして残こってしまうため、ストレスが続くのが強迫状態なのです。

神経過敏は生まれつきとは限りませんから、人によっては一時的な症状で済むこともあります。
思春期、妊娠期間、出産前後、PTSD等でも神経過敏状態になりますから、その神経過敏が続いて、強迫症も併発することはよくあるのです。
ただ、そうなりやすいのは、ストレスやトラウマによる強迫症状で、神経が活発になったり消耗したからなので、元々から神経的な弱さがあって、ストレス耐性が低いことで、強迫状態になりやすかったからというのも考えられます。
普通の人がPTSDになって、神経過敏になったとしても元々が普通ならその過敏性は低いので、強迫症にはならないのです。
元から敏感な人がPTSDになれば、トラウマにも強迫観念にも強迫されます。

産後などは、鬱にもなりやすく、おそらくホルモンバランスの乱れなども関係してそうですから、一時的な症状で済むこともあるようですが、生まれ付きの神経過敏が土台にある人の強迫症は、過敏性が治せないので、ストレス耐性も低いままですから、ストレスの低い生活をするしかありません。

PTSDが神経過敏になりやすいように、強迫症状もストレス反応ですから、強迫観念も強迫行為もその症状自体が神経過敏を悪化させます。
悪化するほど、苦痛も大きくなりますから、できるだけ早めにストレスの少ない生活をできるようにすることが大事です。
ただ、軽症の内は、気力もあるし、そうできるような社会的な理解は得られ難いこともあり、無理して社会適応しようとしますから、なかなか気が休まりません。
重症化することで、社会適応が無理だと分かることで、ストレスを減らすよりなくなります。
ストレスを避けるのもストレスにはなりますが、無理して我慢し続けるよりは、可能な限り避けたほうが少しは良いのです。
重症化するとそうするしかなくなりますが、慢性症状でのストレスがありますから、一旦重症化すれば、悪化し続けます。

症状自体はそうなので、社会的な苦痛は減らしたいところですが、強迫性障害という病気への社会的な理解がなくてはできません。

社会には強迫症の人が避けている刺激が平気どころか、むしろ好きな人も多いので、強迫性障害の人は社会に馴染めないのです。

例えば、強迫症の人には汚く思えても、他の人達がそう思えなければ、社会的には汚れとは言えません。
汚されても我慢するしかなく、自分で対処することになります。
普通の人が1回で確認できることを、何回も確認していれば、のろま、心配し過ぎと言われます。
症状があることで一般とのそういう差が出やすいので、社会適応がストレスになります。

強迫症の人が社会の中で自分の基準を通そうとすれば、他の人には過剰に思えて効率が悪くなりますから、迷惑をかけてしまうし、人格障害者や精神病者扱いされる可能性もあります。
精神病ではないので、それが分かるからこそ、我慢をするのですが、それも辛いので、社会的引き篭もりになります。
無理して社会適応しようとしても、ストレスで強迫も鬱も悪化するので、それもできないのです。

強迫症患者に合わせて社会は動きませんから、自分で身を守らないといけなくなります。
そういう状況になってしまうので、不安や恐怖なども増えて、強迫観念も余計に浮かびやすくなります。

一般社会だけではなく、医療や福祉の現場でも、強迫症自体がほとんど理解されていないか、誤解されているので、これといって特別な対応はしてもらえませんから、自分から症状とか症状でできないことは説明しないといけません。
精神病とか重度のうつ病とかなら、入院してもらえばいいのですが、強迫症の場合、症状で入院生活も困難とか、入院しても治す方法も薬もないのですから、一人で引き篭もるしかなくなります。

強迫症の場合は、本人だけの苦痛が大きいので、治したほうが本人のためにも良いのですが、治す方法がありません。
強迫行為を続けて、生きて行くしかないので、強迫行為を起こすようなストレスを減らし、その上で、強迫行為自体のストレスを減らすために、しなければならない強迫行為をしやすくする環境作りが大事になります。
ただ、そうしてもこの病気である限りは、大したことは何もできませんから、高望みせずに、生きていられればいいという程度で良いのですが、陰性症状にはなりませんから、そうした生き方はストレスになります。
できなくても、希望とか目標を持つのは良いことで、困難でも、できる範囲で、そこに向かう生き方になります。

回避的生活にはなりますが、そうしたいわけではなく、症状の苦痛を普通の人達が分かってくれないので、そうするしかないのです。
しかし陰性症状でもない限り、何もしない生活は苦痛になってしまうし、単身だと引き篭もりもできませんし、何もしないわけにも行きません。
何かすることになれば、その範囲で強迫症状に悩まされるし、何もしなくても強迫観念が続き、日常範囲でのストレスで強迫行為を続けることになり、症状から逃れられません。

強迫の人は刺激への過敏性で引き篭もりやすいのですが、妄想の人は、興奮して鈍感になっているので、妄想で人に迷惑をかけようが気にせずに、強引に人に関わろうとします。
妄想で何かを恐怖している場合、その対象は現実ではなく、妄想の中にあるのです。

強迫の人は、現実に敏感なので、現実のことはよく分かっているのですが、妄想だと現実の対象には鈍感になっているので、現実がよく分からないのです。

妄想状態の人が、あなたに向かって話している場合、現実のあなたではなく、妄想化されたあなたに話しているのです。
現実のあなたのことは、実際には無視していますが、二次妄想の場合などで、妄想自体は現実とは無関係でも、現実のあなたに対して、妄想での考え(非現実)を向けることはあります。
そうやって、現実に対して、妄想(非現実)を押し付けてくる人がいるので、妄想には危険性があります。
どちらにしても、妄想状態特有の特有の症状(言動)が出ますので、見れば分かりますから、強迫症の人との区別は簡単です。

強迫症であれば、正常な思考に並行して、強迫的な考えや思いが常にある状態にはなりますが、正常な思考が分裂しているわけではなく、それはまともなまま維持されますから、妄想状態にはなりません。

強迫観念の場合、過敏性によって些細なことで浮かびますから、日常的な範囲の汚染とか危害回避的な内容が多く、一般的な思考内容ではなくても、突飛で支離滅裂な言動をすることはありません。
現実反応なので、非現実的なことをしても何にもならないからです。
本人の中では、かなり複雑な精神状態になりますが、統合失調することはないので、強迫症のままなのです。

統合失調症の人は、本人的には、精神的に病んでいるわけではないのですが、症状で周りからはそう見えるわけです。
強迫性障害の人の精神は実際に病んでいて、本人も分かっていますが、それが表面化されない病気なので、周りからは病んでいるようには見られ難いのです。

強迫性障害統合失調症はまったく無関係の病気ですが、統合失調症の症状は結果的に強迫性障害には治療的なので、重度の統合失調症の人には、重度の強迫症の人がいません。
ですから、統合失調すれば強迫症も治りますが、統合失調しない脳だから、強迫症なので、統合失調することで治ることもないわけです。

同じように、躁状態になれば、恐怖や不安などを感じ難くなり、強迫症状も落ち着きます。
逆に強迫行為先行型の人だと、恐怖や不安などではなく、欲求的な強いこだわり(完璧主義、きれい好きなど)で、行為を繰り返しますから、躁状態が余計にそれを過剰にすることはあります。
ただ、強迫行為先行型は本来は強迫症ではないし、陽性症状や躁状態のような精神病症状にならないからこそ、現実反応の過敏性での強迫症状が出るので、強迫性障害ということは、精神病にはなり難い人なのです。
過敏性によって、現実を意識し続けて、現実が離れませんから、精神病にもなりません。
しかし、過敏性によって、一般よりも現実に対して過剰な反応が出て、現実のストレスからも逃れられませんから、強迫症状が起こるのです。
この現実反応の強迫状態では、妄想状態にはなり得ません。

強迫観念は、そう思いたくなくても、そう思えてしまうのですが、妄想(現実から切り離された思考)と、現実のことへの敏感な反応での過剰思考(一般的ではない内容の強迫的思考)は、まったく別です。
強迫観念は自分の意識的な思考とは関係なく、過敏性のストレス反応として浮かんでしまうのですが、自分の意識的な思考は維持されますから、その強迫観念が(意に関わらず浮かぶとしても)自分だけの思いであることは本人が分かります。

妄想の人は、妄想に対して自分の意識的な思考でどうこう思えないので、妄想だけがあり、現実に対して「そう思えてしまう」状態ではありません。
妄想中は現実は無視しているのです。

強迫観念は現実に対する思いです。
何かに恐怖したり嫌悪するということは、同時にその対象を思考してしまうわけです。
コロナ対策するには、コロナを思考することになりますが、そういう思考は思いたくないわけではありません。
強迫観念は、思いたくなくても、それが浮かんで、離れなくなって、対策しないといけなくなります。

不安思考とか強迫観念が浮かぶ状況は、見えないこととか、未知の事への不安が強まる時なので、強迫観念の汚れは、見えない汚れが多くなります。
見えない汚れは思考でしか認識できませんから、患者は強迫観念によってそれが見えるようになって、恐怖や嫌悪は強まりますが、見えることで対処しやすくもなります。
しかし、見えるといってもイメージとかですから、強迫観念が強いほど、落とし難くなってしまうのです。
最初から視覚で見える汚れだとしても、そこに強迫観念の汚れが重なってしまうので、その場合でもなかなか落とし難くなります。

強迫観念として、未来への不安が浮かびやすいのも、未来はまだ見えませんから、思考としてしか認識できないからです。
考えたくなくても、不安になれば思い浮かんでしまうのです。
そういう不安なイメージが浮かんで消えなくなってしまうことで、そうなっては困るという気持ちも強まりますから、その対象も自然と強く意識してしまいます。

強迫観念の場合、その思い自体が苦痛ですから、それをなくそうとするのですが、現実反応の思いですから、未来的な不安思考であっても、実際の危害回避として、現実を変える行動をしないといけなくなります。

妄想の場合は、それ自体が苦痛とは限りませんし、現実が分かっていない上での病的な空想への強い思い込みですから、現実をどうこうしようと、妄想はどうにも変わりません。
周囲の人からすると、現実をどうこうしよとしているように見えても、非現実の思いに元付いた言動しているだけであり、あまくまで非現実世界のことなのです。
軽症であれば、妄想内容を人に言う言わないは、ある程度コントロールできますから、すぐには分かり難いこともありますが、支離滅裂な話し方をしたり、明らかに現実ではないこと現実のことのように口走ったりしている人が多いです。

ほとんどあり得ない不安にとらわれて、強迫行為をするからといって、それが現実のことへの不安であれば、妄想ではないので、精神病症状も出ないのです。
強迫観念が妄想的という場合は、一般離れしている考えという意味で、妄想のような現実から切り離された思考ではありません。
変わった思考でも、強迫観念は、現実反応です。統合失調症的な症状がないなら、統合失調症とはまったく違う状態なので、この二つの病気を混合して扱わないように注意してください。

統合失調症はストレス回避症状で、強迫症はストレスを回避できない症状です。
ストレスの強迫状態を強迫行為で対処するのです。
強迫での苦痛は、妄想での苦痛とは意味も強さも全然違いますが、強迫症の場合は、精神障害の苦痛だけでなく、神経過敏での苦痛も重なります。
体の病気のような苦痛もあるわけですが、体の病気での苦痛は重要視され、精神障害の症状による精神的苦痛は軽視されます。
考え方のせいだから我慢するべきとか言う人もいますが、考え方で神経過敏になっているとしたら、神経質であり、強迫症とは別の状態です。

病気というのは、症状自体が苦痛なのですが、強迫症の場合は、強迫症状自体での苦痛を無視して語られてしまいます。
過敏性の苦痛は、本人だけの苦痛で、過敏でない人とか共感力のない人とか鈍感な人には理解され難いことだからです。
強迫症患者を一般の人と同じようにしか考えられませんから、過敏性による危害回避をしている人に、勇気が足りないとか言うのです。
同じ刺激でも、それによる苦痛が強迫症の人には過敏性で大きく感じられる。その程度のことも分からないのです。

敏感な人は、強迫症になりやすいのですが、敏感というだけなら強迫症にはなりません。
過度に敏感だと刺激による不快な感情が続くことで、不快な思考も浮かび上がり、強迫観念になりますが、ストレス耐性が低いことで、それに耐えられず、強迫行為が起こります。

強迫症になってしまうと、HSP・HSCのように普通よりも敏感というだけでなく、その過敏性には強迫観念がともなっています。
当然、不快な感じの感じ自体にも過敏反応しますが、思考や記憶などの(意味のある)刺激への過敏性も重なっているのです。
敏感なだけでなく、ストレスに弱いから、強迫観念が強まってしまうし、強迫行為をしないといけなくなります。

強迫観念は、不安、恐怖、嫌悪など結び付きやすいのですが、不安の場合、こうなってはいけないという思いがあれば、当然のようにそういう状況が思い浮かびます。
敏感な人は、そういう不快な思い自体にも過敏反応が出ますから、気に止まって強迫観念になってしまうのです。

敏感な人はストレスに害されることが多くなりますから、こうなってはいけないという思いは強くなります。
特に強迫性障害の人は、強迫症状により日常生活さえ困難になりますから、それ以上の困難があれば、乗り越えられませんから、余計にそういう不安が強まります。
敏感であることで、様々なことが強迫的に感じられるのですが、そういう過敏性の強迫感と、完璧主義的な「こうでなれば」という強迫感とは、まったく別の話です。

完璧主義のような強迫行為先行型の人は、強迫行為をすること(こだわり)自体にとらわれて、そうでない状況で不快な思いが浮かびますが、その思いは、「こうでなれば」という強い気持ちの反動で生じます。
これは強迫観念ではないのです。

「強迫観念」先行型の人は、刺激に敏感であることで、一般的には些細なことでも、そうなってはいけないという気持ちが強まり、「こうあるべき」という思いも強くなります。
しかし、強迫行為先行型のように「こうあるべき」という強い欲求的なこだわりの反動で強迫観念が生じるのではなく、その前から強迫観念があって、危害を避ける目的で、「こうでなければ」という気持ちが強まるのです。

過敏性により刺激を強く感じる苦痛、症状で強迫状態になり、その苦痛が強まり長引く、それを強迫行為で対処しないといけなくなってしまう苦痛、こういった苦痛に晒され続けると、「そうなっては困る」という不安が強まります。
敏感な人はストレスを乗り越え難く、そうなってからでは、ダメージも強いし、うまく対処ができない心配があるのです。
特に強迫症の人は、症状の苦痛から、そういう危害を乗り越えられないので、余計に不安も強まるわけです。

そういう不安は、考えの癖ではなく、過敏性によって、考えに関係なく、ストレス反応で浮かびます。
過敏性の精神疾患は、心理的な病気ではないので、心理学的に考えてもまったく的違いになり、心理療法認知行動療法などでは通用しません。
無理にそういう療法で治そうとするから、病気自体がその療法に適するように、わざと誤解され病気の内容が変えられて行ってしまうのです。

そのことでの問題の1つは、治せる病気、軽い病気と言う考えから、治せない重い病状の人までも、適切な理解や援助が得られなくなってしまうことです。

そういう問題をなくすには、強迫性障害と、それと似たような症状を区別する事が大事で、強迫スペクトラムみたいな考え方をするよりも、過敏性の強迫症の人を、その他の強迫類似症状の人と、しっかりと区別するほうが良いのです。

そのためには、強迫症の正しい知識が必要になりますが、認知行動療法ビジネスによって、間違った説明がはびこっているのです。

強迫観念は無意味で侵入的な不快な思考という説明が多いのですが、本当に無意味なのでしょうか?

ある時、何らかの不安な思いが急に浮かんで、その思いによって不安になり、安全確認などの強迫行為や危険回避を過剰にする。

そういう時に、無意味に思い浮かんだ強迫観念の内容が、ほとんどあり得ない事に思えれば、無意味だと思うかもしれませんが、少なくとも不安などの不快感があれば、その思考自体は無意味ではないのです。

強迫観念が無意味に思い浮かぶというのは、意識的に自分で思い浮かべていることではないという意味での無意味なのです。
自然と浮かんでしまうという意味ですが、無意味の意味はいろいろなとらえ方ができます。

トラウマ記憶の想起は無意味に起こるのか?

ふと、何かへの不安が思い浮かんだ場合は、無意味に思い浮かんだとも言えますが、トラウマ記憶と同じように、強迫観念というのは程度の波はあっても慢性の症状なのです。
反復的に持続している思考ですから、ある時に、ふと、思い浮かぶこともありますが、汚れのイメージが離れなくなってしまう時のように、明らかに現実の状況に対して反射的に思い浮かぶ場合もあります。
その場合は、ストレスによって思い浮かぶので、無意味に浮かんでいるとは思えません。

実際に、その人の感受性の強さでは、害のあるレベルのことを危害だと思うのは正常なのですが、そのストレス反応で強迫観念が浮かびます。

それは一般の人なら取るに足らないバカバカしいことだし、普通の人だったら、気にしなくていいこと、やらなくていいことだと分かっているからこそ、患者本人もバカバカしいと思う場合もありますが、同時に、過敏性によって、本人にとっては、それが大変な苦痛になっています。

強迫観念の内容を(あくまで一般的に考えれば)バカバカしいと思えても、それが消えなくなってしまうことで、気にしないわけにもいきませんから、一般的にはバカバカしいことによって、本人は全然バカバカしくない深刻な状態になり、強迫行為をしないといけなくなります。

危害回避で確認強迫をする人は、未来的なことへの不安がふと思い浮かぶことが多いのですが、実際にその危害を受けることは少ないわけです。
ですが、そうなってしまうこと以前に、そうなってしまうかもという不安に強迫されますから、その不安強迫の苦痛で、確認しないといけなくなります。

強迫症の人は、強迫に弱いので、実際に危害を受けること以前に、そうなってしまうような状況による強迫感でも強迫観念が浮かぶのです。

汚染や不潔恐怖の場合、不安の対象(汚れなど)に実際に曝露された状態にもなりやすい(実際に危害を受ける)からこそ、警戒心も強まり、汚れる以前に、汚されそうな状況でも、汚れの強迫観念が煽られてしまいます。
そうすると汚れたように思えたり、汚されたことと同じよう思えて、その思いによって強迫状態になり、洗浄しないといけなくなったり、その不快な体験が忘れられなくなります。

強迫観念の反復性で、特に不安を煽られる状況でなくても、ふと不安な思いが浮かぶことで、不安になってしまうこともあるのですが、その不安は、現実の何かのことですから、妄想のような頭の中だけの産物ではないのです。

妄想に近い思い込みの強さからの不安思考であれば、その不安は現実のことではないので、抗精神病薬も効くことはありますが、通常の強迫観念は間違ったことを思い込んでいるのではなく、現実への正常な反応が、過敏性によって、一般的ではないということですから、抗精神病薬を使っても意味がありません。

妄想に近い思い込みというのは、実際に大したことがないことを、頭の中の妄想的思考によって、大したことにしてしまっている人です。
害がないことを過剰に怖がったりしますが、過敏性の強迫症の人は、本人にとっては害のあることを過剰に怖がるのですから、正常といえば正常でも、一般的ではないので、社会の中で困ってしまうのです。

実際には危害がないことを危害があると思い込んで、強迫行為や回避をしている人なら、敏感ではありませんし、ストレス耐性が低いわけでもなく、単に考え方を修正するか、妄想を抑える薬を使うことで治せます。

過敏性の強さから、思いに関わらず、(本人にとっては)実際に害になっていることに敏感なストレス反応が出てしまうタイプは、思い込みとかの問題ではなく、過敏性のストレス反応で起こる症状なので、PTSDに近い強迫症になります。


強迫症から過敏性を切り離したい人がいるのはなぜか?

器質的な過敏性が問題だとすると、心理療法などでは治せないからです。

強迫症には敏感でない人もいるから、強迫性障害と過敏性を関連付けないという考えでは、強迫性障害はいつまで経っても理解されません。
同じように強迫行為をしていても、なぜそれが起こるか、どういう強迫観念なのかの違いがありますから、そこを分けて考えないと、どれもこれもが強迫症ということになり、それでは適切な治療ができるわけがありません。
一部の人には適切でも、他の人にはむしろ悪化するということも起こるのです。

強迫性障害を理解するには、強迫行為と、そうでない反復行為の違い、強迫観念と、そうでない強迫的な思考の違い、などの区別をしないといけません。
そういった説明を書いてきましたが、一般的にはまだまだ分かっていない人のほうが多く、あれもこれも全部同じ病気として、同じように治そうとしています。

強迫性障害の一般的な説明は、強迫性障害を分かってない人が、誰かの書いた古い情報の本などを読んで、それをそのまま書いているだけです。
そういう人にとって、強迫性障害は無意味な不安にとらわれる不安障害なのです。
そういう人もいるし、そういう一面もありますが、それだけなら苦痛も少ないのです。

強迫行為は、現実のストレスとかそれと結び付いた強迫観念を解消しようと行われます。
そうであるのに、それがなぜ無意味に思えるのでしょう?
強迫症の人は、統合失調しませんから、強迫観念が浮かんでいても、同時に、普通の考えを維持できます。
強迫観念に並行して、一般的に考えれば、役に立たない無駄で非効率な行為に思えるのです。
しかし強迫観念が消えない人にとっては、それをなくそうと行うのですから、その面では、意味のある行為でもあります。
ですから、無意味だと思っているとしても、並行して、そうとも思えないという二重思考状態になっていて、無意味に思えないからこそ、行為が過剰になってしまうのです。

この場合の過剰も、ストレスの度合いに見合ってないと意味でのやり過ぎではなく、一般とか普通のレベルを知っていることでの過剰(やり過ぎてしまう)という意味ですから、そこを間違えて解釈しないようにしてください。

それと、強迫観念というのは「かもしれない」という心配や不安だけで起こるのではなく、当然ですが、実際のストレス体験でも、その記憶、そのことでの思いが、不快な強迫観念として残ってしまうのです。

例えば、汚染恐怖や不潔恐怖の人は、そのストレス対象への恐怖や嫌悪によって、不安もあるのですが、実際に汚されれば、その汚れとか、そのことへのストレス反応的な思考も強迫観念化してなかなか消えなくなります。
だからこそ、なかなか汚れが落とせなくなってしまうのです。

不快な体験をしてしまうと、誰でも不快になりますが、過敏性によって、不快感が強まり、強迫症状が出ることによって、その苦痛も強まりなかなか消えなくなります。
記憶が強迫観念化すると、忘れようにも、忘れられなくなり、反復的に想起してしまいます。
その苦痛が続くのが強迫状態ですから、苦痛が続くことで、ストレス対象への嫌悪や不安も強固に続きます。
こういう人達にとっては、強迫観念が無意味に思えるということはないのです。

もし本当に無意味だと思って強迫行為をしている人がいれば、強迫観念が無い人の反復行為であり、癖とか依存症的な欲求的反復行為であったり、脳機能障害とかでの(無意味で何の動機もない)反復行為も考えられますが、それらは強迫症ではありません。

妄想による反復行為も、本人は妄想上のなんらかの思いに基づいてしているとしても、妄想自体に実際には筋がありませんから、強迫症の強迫行為とは全然違うことです。

妄想状態では、現実の何かに過敏になっているように見えても、その対象は現実ではなく妄想の中にあるのです。
現実に対しては、あくまで鈍感になっているで、現実逃避が起こり、妄想状態になっているのです。
妄想状態や陰性症状的な自閉状態であれば、現実のストレス反応からは逃れられるので、強迫症にもなりません。
統合失調症とか解離性障害においては、記憶さえも妄想や(ストレス防衛での)妄想的な空想の中にある場合があります。
そういう記憶があったほうが身を守れる場合は、そういう記憶が作り出されるのです。

強迫観念は現実反応であり、それを浮かばせる記憶やトラウマも現実に体験した事実です。
強迫性障害の人は、ストレスに敏感なのですが、ストレス回避的な精神症状が出ませんから、強迫行為をしないといけなくなります。

強迫症状自体は特別に難解と言うことでもなく、PTSDの人がトラウマ関連の物事を避けようとすることと同じようなストレス反応なのですが、敏感であることで、一般的には些細なこととか、思考上の刺激にも過敏反応して、強迫症状が出るのです。
PTSD的なトラウマと同じように、強迫観念も非現実の妄想ではなく、現実のことですから、PTSDの人がトラウマ関連の物事を避けようとすることと同じように、強迫観念を強めることを避けようとしたり、避けられなかったら対処するために、強迫行為が起こります。

強迫観念が浮かびやすいことを性格の問題として、ああすればいい、こうすればいいと言うのは、まったくの素人的な考えです。
強迫性障害が治し難いのは、本人が頑張って、治そうとしないからだという人もいますが、そういう人は、強迫症状自体をまったく理解していません。
強迫観念を普通の不安と同一視して、強迫症患者を普通の人と同じように考えているわけです。

性格的に几帳面な人が強迫性障害になりやすいとかの話もありますが、強迫性障害になりやすいのは、性格というよりは、器質的な神経過敏がある人です。
神経過敏によって、几帳面なことをしなければならなくなってしまう場合は、そういう性格ではないし、そもそもストレスに弱くて、几帳面なことが苦手な人も多いのです。

元々から几帳面な人の強迫症状は比較的楽なのですが、神経過敏でも、性格的には大雑把な人だと、性格と症状が反発しますから、過敏性で細かいことを気にしてしまったり、強迫行為で細かい面倒なことをしないといけなくなったり、神経過敏であること自体でも強い苦痛を感じます。
同じように、注意をしないといけなくなってしまう病気なので、元々から注意力のある人なら、比較的楽なのですが、注意力がない人だと、持続的に細かく注意をしないといけなくなってしまう症状のストレスが強くなり、そうしていても、うまく注意できないことで、不安になって繰り返し確認したり、汚れたりする(回避対象に曝露してしまう)ことも多くなります。

注意というのは神経を使いますから、神経過敏な人だと、注意過剰で気力体力を消耗して、注意力が維持し難いのです。
AD/HDの薬を飲めば、うまく注意できるようになって、確認などが減るかというと、AD/HDの薬(ストラテラ、インチュニブ)は多動を抑えることで、落ち着いた分、集中力が上がるということはあり得ますが、覚醒作用がないので、注意力を上げる効果は、それ程ありません。

インチュニブは副交感神経を優位にすると考えられていますから、実際に副交感神経が優位になれば、普通の人ならある程度はリラックスできるはずです。
強迫症の人でも多少の効果はあるかもしれませんが、元々の過敏性が強過ぎて、大きな効果は得られません。
特に思考を使う意味のあることへの過敏性は、その人の経験とかトラウマとか、脳の神経回路も関わっていますから、副交感神経を優位にしても治らないのです。
得られたとしても最初の内だけで、もし本当に過敏性を抑える効果が持続するなら、苦痛も減るし、気分が良くなって、依存する人が増えるのですが、そういう麻薬的な作用はありませんから、依存しないのです。
副交感神経を優位にして多動を抑えるためには、増量することにはなっていますが、神経過敏の薬ではないので、増量すれば過敏性への効果も上がるというわけではありません。

AD/HD薬は治験でも精神障害を併発している人ではなく、発達障害の人だけですから、病人ではない元気で多動で活発な人が多いのです。
そういう人の場合、増量しても良いのですが、副交感神経を優位にすると、余計に不活発になってネガティヴ思考が増えて鬱が悪化する面もありますから、鬱の人には慎重に投与してください。
適量なら、軽く多動を抑えることで、「鬱でも多動な状態」でのストレスは減らせます。

長期間投与する場合には、薬物療法からの離脱を含めて、休薬期間を設定するなどして定期的に有用性の再評価を実施し、漫然と投与しないようご注意ください。と使用説明にも書いてありますが、多いほうが効果が得られる人は、増量したままで良いし、少量のほうが効果が得られるなら少量で良いし、効果が得られなくなったら、しばらく休薬してから飲むと良いのです。
しかし、この薬も抗コリン作用は強いので、薬を止めると離脱症状が強く出ますから、そういう意味でも慢性的な過敏性を抑える目的で長期的に使うのであれば、少量使用のほうが向いています。

インチュニブは眠気も感じられますが、睡眠薬ではないので、それほど強くありません。
特に強迫症の人だと、普段から緊張状態になっていて、寝る前に記憶の想起や考え事が止まらなくなり、寝付きが悪いので、それを眠らせるほどの強さはありません。
中途半端な眠気が続きますから、入眠時幻覚(頭の中で声が聞こえたり、寝てないのに夢を見始めて、夢に体が反応してしまう)が起こることもあるし、寝つきの悪い人には、むしろ寝てから効き始めるので、寝起きに眠気が続いて、なかなか起きられなくなります。
面倒を見てくれる人がいれば良いのですが、強迫の人は、症状で付き添いが受けられずに、単身の人が多くいます。
最低限のことは自分でしないといけませんから、不活発になっても困るわけです。
神経過敏を改善するために使うとしても、強迫症であれば、小量が向いています。

強迫症にはAD/HDの人も多く、ストラテラかインチュニブなら、インチュニブのほうが使いやすいし、神経過敏にも向いているのですが、どちらも強迫症に効くほどの効果はありませんから、依存することもありません。

依存性があると良くないように言われますが、使い続けると効かなくなってしまう薬もあるからで、病気を治そうと適量で使う分には依存しても良いわけです。
病気が治ったのに、その薬での効果を求めると、依存していることになります。

ですから、病気の人には役に立ち、病気が治った人とか普通の人には役に立たない薬なら依存性は低いのですが、病気の人にもあまり効かない薬が一番依存しない薬です。

睡眠薬などに依存しやすいのは、眠れない人を眠らせる効果があるからで、依存性が低い薬は、求めている効果がそんなに得られない薬ということです。
強迫性障害であると、なかなか寝付けませんから、抗不安薬とか睡眠薬が一番役立ちますが、強迫症状そのものは眠気では治せませんから、これも最少量が向いています。

SSRIは交感神経を優位にする賦活作用がありますから、うつ病の人が休養している間に飲むなら良いのですが、うつ病が治った人とか、普通の人とか神経過敏な人だと、逆にイライラしやすくなったりしますから、求めている効果が得られない=依存しないのです。
不安を抑えるとも言われますが、強迫状態を抑える効果はありませんので、強迫症の人の不安には効きません。

SSRI的な抗不安というのは、抗うつと同じで、抗コリン作用によって、交感神経が優位になり、気が強まるような感じになりますから、副交感神経が優位になりやすい人の(気弱な)不安感とか、社交不安とかには、向いています。
思い込みで不安になっている人も、抗コリン作用の刺激程度でもプラセボ効果が得られやすいので向いています。
それプラス、セロトニン効果で、リラックスできて、安心感が得られれば良いのですが、真逆の抗コリン作用のほうが強く出ます。
増やしてもそれは変わりません。
そのため、不安症とか、うつ病だけなら向いていますが、過敏性による不安などの精神症状とか、強迫症にはほとんど効果が得られません。
強迫症の人にはSSRIを最大量を使うという考えは間違いです。

強迫症は「不安ではなく、神経の過敏性が原因」なのです。
抗コリン作用は、主に粘膜系が乾燥して、体からの分泌物が出にくくなり、目が乾く、喉が渇く、そういう分かりやすい症状が出ますから、敏感な人はその苦痛に耐えられません。
抗コリン作用が出にくい人はそうしてみても構いませんが、無理に増やせば、賦活作用で逆に神経過敏になり、イライラすることになります。

ストラテラ、インチュニブを麻薬みたいな物だと考えている人もいますが、麻薬みたいな物はコンサータであり、コンサータと、ストラテラやインチュニブは全然違う薬です。

コンサータは覚醒系の薬ですから、スマートドラッグ類になり、注意力や集中力を上げる効果はあるようです。
しかし、飲んでいる時、飲まない時の落差が大きい、交感神経優位になり過敏性が悪化する可能性、それ以前に、取り扱いが制限されているのでテスト使用が難しいという問題はあります。

過敏性を治せれば良いのですが、治す薬はあっても、ハッピードラッグ(麻薬類)になって使えませんから、強迫症レベルで敏感な人は、どうしようもありません。

強迫症の人は、精神病にはならないので、精神病の薬も効きません。
頭の中だけの妄想、幻覚と違い、強迫観念は現実に反応することでの思考です。
一時的に頭の中だけ強く鎮静させても、現実が意識できるようになれば、強迫観念もまた浮かんでしまいます。

ハッピードラッグやアルコールなどは、不安や恐怖が弱まり、一時的に効くことはありますが、強迫を抑える強さだと、健全な(あったほうがいい)不安や恐怖なども消えてしまうので、躁状態のようになり、正常な危険回避をしなくなってしまいます。

基本的に、何かを飲んで治すという病気ではなく、特に重症であれば、治しようがありません。
回避的に生きながら、できる範囲のことをするぐらいしかありません。

ただ、強迫観念やトラウマの反復性で重症化して行くので、初期段階とかの内は治せることもあるし、過敏性の強迫観念ではなく、普通の不安思考でも強迫行為は起こりますから、頭の中だけの不安しかない人とか、自分の思い込みで不安を強めるタイプであれば、治すことも可能です。


強迫の苦痛を減らすには?

強迫行為を楽しめば苦痛は減らせるのですが、できればやりたくないが、しないといけないのが、強迫行為です。
自分の欲求でする行為は比較的止めても安全なのですが、過敏性のストレス反応での行為は、止めるとダメージを受けてしまうのです。
ストレスに強い人なら、平気なのですが、そうでないから、強迫行為をしないといけなくなります。
強迫行為の依存症になれればまだ楽なのですが、そういう強迫行為は、自分から積極的に求めたり、楽しんで行うのは困難です。
強迫症の人はストレス耐性が低いことで、器質的にそうなれません。

依存症でも、求めていることが得られない時の苦痛から、求めずにはいられない、そうしなければならないことにも苦痛を感じますが、過敏性の強迫状態とは別の症状です。
過敏性があるから、求めていることが得られない時に生じている苦痛を感じやすいから、依存しやすい人もいるとは思いますが、過敏性の苦痛は、欲求の反動ではなく、求めてなくても受けてしまうダメージなのです。

依存症に近い強迫行為先行型であれば、ストレスに強いことで、強迫行為(こだわり)をプラスに転じることが可能です。
本来の強迫性障害(強迫観念先行型)の人の強迫行為は、過敏性の強迫観念があることでの本人にとってのストレス対処として行われますから、その強迫観念がない他の人には無意味であり、社会的に役立ちません。

ただし、軽い不安や違和感などの不快な感じ(強迫感覚)に弱いからしてしまう強迫行為(しっくり感、安心感などが得られる行為をすること)は、違和感や軽い不安自体は普通の人でも感じることなので、社会的に役立たせられる場合もあります。

そういう時間を増やせると、少しは人間的な生活にできるかもしれません。


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強迫行為のタイプ分け/敏感な人は気が休まらないので、強迫観念が浮かびやすい/テレビに汚染される/悟りで強迫症は治せる?/強迫性障害の苦痛を和らげるために

強迫とは不快なことに、とりつかれて、それが離れなくなってしまう状態。
敏感な人は、ストレスを感じやすが、強迫症の人は、その上、ストレス耐性が低いことで、ストレスが残りやすく、そのストレスと結び付いた思考、感覚、記憶、感情、気分、情動などにも強迫される。
そういう強迫状態の苦痛から、そうならないようにと、危害回避が過剰となり、確認強迫などの様々な症状が出るが、強迫状態は付着状態でもあるため、(耐えられない嫌なことの)付着恐怖として、汚染恐怖や感染恐怖などにもなりやすい。

強迫性障害の人は、過敏性によって、強迫状態になりやすく、その苦痛の対処で強迫行為をしないといけなくなってしまう。
こういった強迫行為と、強迫行為に見えるその他の繰り返し行動を区別しなければならない。

過敏型強迫行為・・・刺激に敏感なことで生じる強迫観念の対処として行われる。
強迫観念には、違和感などの感覚的な不快感(強迫感覚)も含まれ、一見、無意味に見えるが、(特に子供の場合)不快な感覚に強迫されての行為である場合が多い。
敏感な人は、刺激への反応が長く残るので、ストレスへの反応自体にも強迫され、その反応で浮かぶ思考や、その体験の記憶そのものや、反応としての感情や気分にも長々と強迫されやすい。
憂鬱な気分に強迫されれば、ネガティブ思考に強迫されるが、その憂鬱感が現実への過敏性によるものでなければ、強迫行為は起こらない。
うつ病だけの人は、抑うつ症状で憂鬱であるから、ストレスに敏感になってしまうのであり、強迫性障害の人は、ストレスに敏感であるから、憂鬱感(抑うつ症状)にも慢性的にとりつかれてしまう。
強迫性障害の人は、うつ病にもなりやすいが、うつ病の人は、(元々は敏感でない人も多いので)、強迫性障害になってしまうことは少ない。
強迫性障害うつ病には、本来のうつ病の症状だけでなく、強迫症状自体のストレスによる憂鬱感や、神経に触れることを避けての不活発状態も重なっているので、根本に過敏性の問題がある限り、普通のうつ病よりも治し難い。

欲求型強迫行為・・・行為によるシックリ感、安心感、完全感など、それ自体にとらわれて、繰り返す行為。
そういった欲求が強いことで、(そうでない状況だと)不快な思いが浮かびやすい。
そういう不快感さえ感じずに、「こうでないといけない」「こうあるべき」という強いこだわり自体にとらわれる場合もあるし、習慣化された行動へのこだわりが強まることもあり、完璧主義、きれい好き、几帳面といった性格的な偏りだったり、単に癖で繰り返す行為も含める。
こういうタイプは、強迫行為を人に見られても気にならなかったり、むしろ強迫行為でしていることを人に話そうとする人が多いようです。
病的レベルであっても、強迫性パーソナリティ障害とか、行為依存症、あるいは自閉症的なこだわり行為なので、強迫性障害ではないが、強迫性障害に含める場合は、強迫行為先行型もしくは欲求型強迫症などとして区別する。

例えば、完璧主義的なきれい好きは、汚れへの恐怖があるから、きれいにするのではなく、きれいにしていたいから、汚れへの恐怖が強まり、完璧に掃除しようとして苦労する。
この場合の汚れへの恐怖とか、しなければならない掃除は、完璧主義的な欲求が引き起こすのであり、恐怖が引き起こすのではない。

違和感に弱いことの反動で、安心できる行為への欲求が強まり、症状が悪化する場合は、混合型であるが、この場合も、行為への欲求が原因で、違和感に弱くなっているわけできないので、欲求さえ抑えれば治るということではなく、違和感に弱い過敏性が強い限り、その反動での欲求は抑え難い。
混合型も強迫観念先行型なら、あくまで苦痛の対処として、行為を求めずにはいられなくなってしまう状態なので、本来的な意味での欲が強いわけではなく、強迫行為先行型の強迫行為とは真逆の症状です。

強迫観念ではなく、強迫感覚による行為の場合は、違和感の対処としての強迫行為を、社会的に役立たせることができる可能性はあるが、強迫観念の解消としての行為は、本人だけの感覚での苦痛の対処なので、他の人には役に立たず、社会の中では単に無駄な行為になってしまう。

普通の強迫症(強迫観念先行型)は、強迫行為を求めているのではない(欲求的な行動ではない)からこそ、行為での苦痛も強く、強迫行為を回避しようとする。

過敏性の強迫観念は、欲求的行動の反動で浮かぶわけではなく、ストレス反応で、欲求や思考に関係なく浮かぶのです。
強迫行為自体も苦痛なので、その行為がストレスになって、強迫観念が浮かび、その対処として、回避が過剰になります。

例えば、汚染恐怖の人は、強迫行為としての洗浄や洗濯は過剰にしないといけなくなってしまうが、本来はそれさえもしたくはないことなので、それ以外の部屋の掃除などが(汚れへの恐怖で)なかなかできない。
恐怖の対処としての行為なので、掃除をすることで汚されることになれば、それを洗浄しないといけないので、掃除をすることそのものが恐怖となり、その恐怖に対する強迫行為として、掃除の回避をしないといけなくなってしまう。
重度の強迫症の人は、様々な刺激に弱く、そのストレスを対処する行為自体の刺激にも弱いことから、セルフネグレストのようにもなりますが、強迫の苦痛で、ほとんど何もできなくなり、そうするしかなくなってしまうのです。

それらを含めて考えれば、強迫行為の時間が長いほど、重症という考えは間違いです。
重症の場合、強迫行為の回避が増えるし、強迫行為先行型であると、強迫行為は長くなりますが、強迫症的な苦痛の対処行為ではないからです。

精神病型強迫行為・・・過敏性による苦痛の対処でもなく、欲求的反復行為でもなく、こだわり自体にとらわれるわけでもなく、まったく無意味に同じことを繰り返す行為。
何にも強迫されず、強迫感覚や強迫観念もないので、強迫性障害ではない。
精神病の人に多いが、アルコール中毒患者などでも見られる。

軽い認知症でも、習慣化されたことでの安心感にとらわれて、(変化を恐れ)こだわりが強くなったり、忘れっぽくなって、不安が強まり、確認が増えたりすることもあるが、過敏性の問題ではないので、強迫性障害にはなり難い。
モウロクすることで、気になってしまうことは減り、こだわりも弱まるが、それはそれで、別の問題があります。


強迫症は説得で治せるか?

その説得しようとしていることを、本人はすでに分かっているのですが、その思考に関係なく、過敏性によって症状が出てしまうのです。
過敏性の強迫観念やそのストレスの対処としての強迫行為は、考えとか心掛けに関係なく、症状が出てしまうので、説得や対話でもコントロールできないのです。

敏感だと気が休まらないから、ストレスが気(神経や脳)に停滞したままになり、現実のストレス反応のダメージやそれによる強迫観念も消え難くなります。
こういう症状は、考え方が原因ではないので、考え方では治せません。

逃げるから怖いんだという考えは、強迫症状の苦痛を無視しています。

そもそも回避したり強迫行為をすることで、強迫観念が浮かぶわけではないし、癖で強迫行為をしているわけでもないのです。

例えば、汚染恐怖の人は、触られるのを「避けているから」、他人に触れらると強いショックを受けるのではありません。
人触れらると強迫症状の苦痛が出て、それに耐えられないから、触られないようにしているのです。
避けている(逃げている)から、怖いわけではなく、接触を避けること以前から、症状の苦痛が実際に危害としてあるので、だからこそ、避けるのです。

汚染恐怖や不潔恐怖や感染恐怖などの強迫観念が慢性的にあっても、多くの場合、発達障害(AD/HD)が土台にあることもあり、人に触られるのを避けるという注意が(油断したり忘れやすいことで)できない時もあるし、注意をしているつもりでも、急な接触だと避けられない時もあります。
油断しやいのは、ボーっとすることで、できるだけ刺激を意識しないようにしたり、刺激に反応しないようしてしまうからですが、気を付けたり注意をし続けるのは、神経を消耗するので、神経過敏の人には続けられないことも理由です。

汚染恐怖の人は、特に過敏で汚れを意識しやすいことで、汚れること自体が普通の人よりも多いのですが、強迫観念がその汚れの付着を強めますから、洗浄にも時間がかかります。
それが苦痛で、過剰な注意が増えますが、注意することは神経を使いますから、敏感な神経の人は注意が苦手なのです。
できれば、注意したくないのですが、過敏で刺激に弱いとそういうわけにもいかず、注意しないといけなくなります。
ですが、注意をしているつもりでも、注意が苦手なので、うまく注意しきれずに、余計に汚されることが増えてしまいます。

過敏性で、汚れを感じやすい上に、その汚れを避けることが苦手なので、汚れてしまうことが多くなってしまうのです。

実際に刺激に敏感であることで、一般的には些細なことでも実際に(本人には)危害になりますから、生理反応的に、それらを気にしてしまい、嫌でも注意をしなければならなくなります。

神経過敏→神経質ではなく、過敏であるから意識的に(性格として)神経質にすることが困難なのです。
それを神経質な考え方の癖の治療(森田療法認知行動療法)で治せるわけがありません。

過敏性によって強迫観念が浮かびやすいため、その苦痛を防ごうとしているのですが、思考力は正常ですから、注意が苦手なことも自覚できます。
注意がうまくできないことで、慢性的な警戒心や心配や不安が強まり、余計に苦手な注意をしないといけなくなり、それが苦痛で、そうしなければならない状況を回避するようになります。
当然、回避しているから、苦手なのではなく、苦痛だから、回避するのですが、そういう回避も注意をすることですから、結局、気が休まらずに、神経が消耗して疲れやすくなります。

こういう神経疲労を、昔は神経衰弱と言ったようですが、強迫症の症状がそれを引き起こして、神経疲労が余計に強迫症を悪化させます。

強迫観念の汚れの場合、(現実の汚れの)イメージとか考えですが、強迫観念が離れないことで、その汚れも消えなくなります。
感じる汚れなので、視覚的に見えるかどうかではありません。
通行人がすれ違いに接触してきたり、並んでいたら急に後ろの人に少しでも接触されたりすると、汚染恐怖の強迫観念が離れなくなって、強迫行為をしないといけなくなってしまう強迫症状が出ます。
その症状の苦痛で、人に触られるのを避けるだけでなく、共用のイスなどの公共物への接触による間接汚染なども避けないといけなくなります。
汚れると、その苦痛が離れないからです。

避けていることが原因となって、強迫観念が浮かぶなら、触られるのを避けなければ、確かに、強迫観念も消えますが、触られるのを避けていなくても、接触されれば症状が出るのですから、避けていること自体が原因となって、強迫観念が浮かぶわけではないのです。

認知行動療法などでは、その点を勘違いしています。

強迫症状の苦痛が強まることが原因で、そうさせるストレス対象を避けないといけなくなっているのです。
これが過敏性の強迫症で、考え方が原因ではありません。
行動が問題となって、強迫観念が浮かびやすいわけでもないので、こう考えさせて、こうさせるという認知行動療法はまったく無意味です。
強迫観念は、考え方や行動の癖が原因ではないので、考え方や行動だけを修正しようにも、強迫症は治せないのです。

行動としてどうこうするから、強迫観念が浮かぶわけではないし、癖で強迫行為をしているのでもないので、表面的に、症状の対処としての強迫行為の仕方をどうこうしようとするだけでは、強迫症は治りません。

根本的原因の神経過敏を無視しては、治せるわけがありません。

森田療法の教祖は、強迫症の人は、神経が過敏になっているわけではないと言いますが、その根拠の1つとして、神経衰弱に効果があるという療法や迷信療法など、何をやっても治せなかったからだと言います。
しかし、昔も今も器質的な神経過敏を治す療法はないので、何を何年しようと治らなくて当たり前です。

森田自身の神経質による完全主義によって、治せないから、治せないことの原因(器質的な神経の過敏性)を除外して、神経質という治しやすい病気を作り出し、強迫症のみんながそうであるかのようにして、治せると言い出したのです。

森田は、仏教や禅の思想などに共感して、悟りを得たつもりになり、森田療法を考え出しました。
治そうとしないことで治るという大発見をしたつもりで、それを精神医療に持ち込んで有名になりたかったのですが、そもそも病的完璧主義による誇大解釈で仏教を理解できていなかったからこそ、(妄想として)悟りを得られたのです。
その妄想的勘違いで考え出された理論は、絵空事であって、現実には通用しませんから、その理論に合わせて、強引に現実(実際の病気)を変えることで、認められようとしたのです。
神経質(現実反応ではなく、完全に心の問題での苦痛)であれば、それは通用したので、強迫症の症状も神経質であることにしたかったのです。

森田療法は病気の強迫症の治療法ではなく、治せないことを治そうとすることでの苦痛を減らすことです。
神経質の場合は、治そうとすることでの苦痛しかないのかもしれませんが、過敏性によって、ストレス耐性の低い人は、その元の苦痛で症状が出るのですから、治そうとしなくても、その元の苦痛は消えません。
それも消そうとせずに、あるがままにすればいいと言っても、過敏性によって、それに耐えられないからこそ、強迫症状が出るのだし、元々から、治そうとする(消そうとする)ことでその苦痛が生じているわけではないので、森田療法の言う治そうとしないことで治すという理論はまったく通じません。
苦痛が消えなくてもそれを放置して、他のことに取り組めば良いというのは、ただの我慢であり、療法ではありません。

前回書きましたが、何らかの欲求が強いことで、その反動として不安になって、強迫観念が浮かぶわけではありません。
気のせいの精神症状も確かにあることはあるのですが、そういう心理的な不安状態や神経質を治すことと、過敏性の強迫症状を治すことは全然違うので、当然、森田療法で本来の強迫症は治せません。

認知行動療法でも、強迫行為をしないといけなくなったら、それを我慢する。そうすると、強迫行為を止められる。としていますが、それができない病気が強迫症なので、そうできるなら、強迫観念ではなく、(未来的なことへの)不安を抑えるための行為をしているのです。
そういう不安は、強迫行為をしなくても、それがすぐには起こるわけではないので、我慢もしやすいのですが、汚れのように、すでに実際に起こってしまったことでの(現在の苦痛による)強迫観念は、それ自体の不快感や屈辱感だけでなく、(それが汚れと感じられる原因になった)過去の記憶への嫌悪も重なっていますから、強迫行為をする前から、実際のことでの苦痛がすでにあるわけです。
それに重なって、汚染されることで「こうなってしまうかも」という未来への不安や恐怖も結び付いているのであり、(未来的なことへの)不安だけが強迫観念だと誤解すると、強迫症の理解はできません。

強迫観念が(未来的なことへの)不安だけという人もいるのですが、その場合でもその不安が強迫観念化して消えなくなってしまう苦痛や、それによって、強迫行為をしないといけない苦痛は、(未来的なことへの)不安が実際に起こらなくても、現在のこととして実際に起こっている苦痛なのです。
そういう症状による苦痛に耐えられないので、強迫観念を浮かばせるような状況の現実が(本人には)実際に危害になってしまうのです。
強迫行為をすること自体も症状の苦痛なのに、それをしないければ問題ないというのは、治療ではありません。
それをしなければ、強迫観念の苦痛が残ってしまい、それは放置していれば消えるような不安ではないからこそ、強迫観念というのですから、強迫観念であれば、放置ができないのです。
放置できないことを、何分か放置していれば、消えるというのは、治療ではありません。

何分かで消えるような普通の不安と、不安による強迫状態は違うのです。

恐怖症と強迫観念の恐怖は変わらないという人もいますが、恐怖と、恐怖による強迫状態の違いを理解できていません。

普通の不安や恐怖による精神症状の場合、それを感じるストレス対象から離れれば、基本的には問題ないのですが、強迫症の場合、その不安や恐怖が強迫観念となって残ってしまいます。

過敏性によって、嫌な感じが残ってしまうからですが、不快な感情が消えなくなれば、その対象も、当然、思い浮かんでしまいます。
不安や恐怖や嫌悪だけでなく、怒りを感じたこととか、そういう不快なこと全般が(トラウマになって)忘れ難くなります。

その不快な思考や記憶、そしてその感情自体にも神経が長々と過敏反応してしまいますから、頭でどう考えようと、そういった嫌なことが全般が離れ難くなります。

そういうのが強迫状態なのです。

身体醜形障害(醜形恐怖症)という病気は、周りから見れば、それほど醜くないのに、本人的には(自分のことを)醜いと思い込んで、過剰に気にしてしまう病気ですが、これも基本的には過敏性の精神症状です。
ただ、強迫性障害の場合は、それ以外にも何らかの強迫症状があるのが普通で、自分のことだけではなく、グロテスクな物事全般に恐怖して、その物事に感染してしまい、洗浄強迫などが起こります。
強迫症であると、不潔恐怖、汚染恐怖、感染恐怖、醜形恐怖などが起こりやすいのですが、不幸な物事全般への感染恐怖がある人も多いようです。
強迫症状によって、そういったことで実際に危害を受けて不幸になり、その状態に強迫(付着)されますから、洗浄するのですが、それが苦痛でそういうことへの不安や恐怖が続きます。

そういった強迫観念と妄想の違いは簡単に区別できます。
妄想の場合は、不安や恐怖を感じるとしても、それを感じさせる対象自体が非現実のことなのです。

例えば、コロナ妄想のように、妄想状態の人が、コロナがどうこうと言っている場合、現実のコロナのことではなく、妄想化されたコロナのことなのです。
現実のコロナが元(妄想の情報源)になっていますが、それが妄想に取り込まれて、現実から切り離されているのです。
本人の頭の中だけのことであり、現実は無関係なのですが、聞いてる人は、現実のことを言っているのかと思えますから、変な人に見えるのです。
本人は現実と思っているというよりは、統合失調や認知症で、現実を把握しようとしないので、頭の中ことを言っているだけなのです。

強迫観念の場合、現実に対する感じ方の強さの違いはありますが、現実のことなのです。
頭の中だけの非現実にとらわれる妄想とは違い、現実のことに対して浮かぶ思考が過敏性によって強迫観念になり、それにとらわれます。
統合失調していませんから、現実はしっかりと把握できての上で、強迫観念が浮かびますから、本人は、それが自分だけの思いであることは分かっています。
頭の中のことと、現実の区別も当然ありますが、現実に反応した頭の中のことなので、感受性の違いから、一般的ではなくても、本人の感覚では、現実のことで、実際にも現実なのです。
その苦痛な思いが離れなくなって、耐え切れずに、強迫行為をすることになります。

妄想の場合、頭の中のことと、現実の区別がないので、妄想によって、様々な異常な症状が現実側に表面化します。
強迫観念は現実のことへの反応で浮かびますから、それを解消しようと、現実行動の強迫行為をしないといけなくなりますが、現実のストレス反応でそうなってしまうので、そうすること自体は正常なのです。
強迫観念や強迫行為は、過敏性によって、一般的ではありませんが、強迫観念の場合、自分の内側だけの症状であり、自分だけの苦痛の対処として強迫行為をすることになります。
ですから、(話さない限り)表面的にはほとんど他人には分からない病気で、だからこそ理解され難いのです。
身近な人なら、巻き込みなどで、変であることがなんとなく分かるかもしれませんが、強迫観念の悩みは本人にしか分かりませんし、通常、重症であると他人との共同生活や集団行動が困難になり、社会的に孤立します。

強迫観念は、妄想ではないので、妄想を抑える薬では治せませんし、ただの不安症状ではないので、不安を抑える薬も効きませんし、心理が原因ではないので、心理療法も通用しません。

単に、不安が強いということなら、回避的生活(引き篭もり)ができますが、不安が強迫観念となってしまうと、引き篭もっても不安が消えないので、その思いを消そうと、強迫行為をしないといけなくなってしまうし、過敏である限り、日常の些細なことで強迫観念が浮かぶので、引き篭もっても症状は続きます。

過敏性(過剰に敏感な反応)によって、気になったことが気になったままになり、考え事が止まらない状態にもなりますが、ひきこもってもそれは止まりません。
しかし、躁状態や妄想状態で興奮して思考が活発化することは、全然違うことで、躁状態や妄想状態ではストレスに強くなっているので、そういう考え事で悩みませんし、興奮して、現実を把握できなくなり、実際にはあり得ないようなことでも信じ込んでしまいます。

強迫の人は、自閉も統合失調もしませんから、不安としていることが、ほとんどありえないことなら、それを他人に言われなくても、その前に本人はそう思っています。

ですが、その普通の思考と並行して、強迫観念としては、ありえるように思えてしまい、その思いは、普通の思考よりも強迫性が強いので、自分の意志ではコントロールできずに、半面思考で、ほとんどありえないと分かっていても、その強迫観念がある限りは、どうしてもありえるように思えてしまいます。

それが実際に起こらないにしても、そう思えてしまう強迫観念が続くこと自体も苦痛ですから、そうならないように、強迫行為をするのです。

認知行動療法などでは、不安に思っていることが起こらないと分かれば、患者は安心できるかのように言っていますが、起こらないと分かっていても、強迫観念によってそう思えてしまう症状自体も苦痛なのです。

例えば、ニュース番組で、病気の情報を知り、その病気のことが頭から離れなくなって、(病気への恐怖強迫や感染恐怖や情報汚染などの)強迫症状が出たとします。
その病気になっていなくても、強迫症状による苦痛がトラウマとなり、その苦痛が強まったり、またそういう苦痛が起こらないようにする為に、ニュース番組自体とか、テレビ自体を見れなくなってしまうのです。
この場合、病気そのものだけではなく、その病気への恐怖での強迫症状自体も苦痛なのです。
その危害(症状の苦痛)を与えたのが、ニュース番組なので、この場合のストレス対象は病気そのものだけではなく、その情報を見せ付けてきたニュース番組になりますから、その病気だけではなく、ニュース番組(その病気の情報や同様の恐怖を煽られる情報)も避けるのです。

その症状自体は、実際のことですから、現実の苦痛です。
強迫観念も妄想ではなく、現実の何かでの思いですから、現実を変える強迫行為をすることで、その現実反応の強迫観念も弱まるのです。

不快な情報を避けて、テレビなどが見れなくなってしまうのは、PTSDでも起こりますが、PTSDの場合、トラウマのみが原因であり、強迫観念がないので、それで汚れたりすることもなく、洗浄などの強迫行為は起こりません。
PTSDは普通の人に起こる病気ですが、強迫性障害の人の場合、過敏性の問題があるので、些細なことでもトラウマになり、PTSD症状の上に、強迫症状が重なって、PTSD症状も重度になります。

実際には害のないテレビを避けるなんて、妄想でとは考えるのは間違いです。
それは強迫症と言う病気そのものを無視しています。
テレビによって、強迫症状が出るのですから、本人にとっては実際に害が強いのです。

そういった強迫観念がコントロールし難いのは、意識的に思考することではなく、不快な感情がそれを浮かばせるからで、神経過敏であると、不快に感じたことがショックとなって印象付いて長引いてしまう分、強迫観念も浮かんだままになってしまうのです。
自分で意識して考えていることではないので、自分の考えでは変えられないのです。

ただ、過敏性と、ストレス耐性の低さだけではなく、一旦気になったことが、頭の中で繰り返されてしまう状態になっていていることも強迫に関わっています。
そのリピート現象自体は嫌なこととは限らないので、強迫観念ではありませんし、そうなっては困ると思っているから、思い浮かんでしまうわけでもないし、楽しいことでもないので、欲求があっての願望でもありません。

おそらく、ショック体験の記憶や強迫観念の反復想起によって(そういう想起に巻き込まれて)、他の記憶や思いや、たまたま印象に残ってしまったことなどが、反復しやすいの脳になってしまうのではと考えています。

それが起こる1つの理由としては、ショック体験の記憶や強迫観念の反復想起が浮かび続けてしまうので、それを意識しないようにと、それではない何かの思いとか、考え事とかが(頭の中での強迫行為として)自然に浮かんで、なかなか止まらなくなってしまうのです。

精神病的な無意味な繰り返しとか、単に考え方の癖で、頭の中で同じことの繰り返しが起こりやすいのではなく、ショック体験の記憶や強迫観念が強く浮かばないようにしているわけで、これも強迫症状なのです。

その症状があるので、余計に、過敏性によって印象付いたことも、頭の中に何回も浮かんでしまったり、繰り返し確認などの衝動の反復にも繋がっているようです。

同じ心配も何度も浮かんでしまうので、特に緊張する状況だと、やろうとする物事に時間がかかったりしますが、これは、マイルールへのこだわり自体にとらわれる緩慢とは別のことです。

刺激に弱い人は、心を静かにさせたいので、周囲から見ると、落ち着いていて、時にボーっとしているようにも見えます。
強迫症でもそうなのですが、内面的にはいろんな反応で慌ただしいので、その刺激を和らげようと、落ち着かせているのです。

HSP・HSCのような感覚過敏な人も、ボーっとしているから、敏感になってしまうというよりは、ボーっとすることで、周囲からの刺激を弱めようとします。
無意識に現実の刺激を避けているのでAD/HD的なミスに繋がることもあり、HSP・HSCだと、AD/HDにもなりやすいのです。
それを防ごうと注意過剰になって、強迫症状にも繋がりますから、強迫性障害には、HSP・HSCもAD/HDも多くいます。

上にも書きましたが、強迫性障害だと、注意ができているのではなく、注意が苦手だから、注意過剰になってしまうのです。
いろんな刺激を弱めようと、ボーっとしながらも、様々な刺激や強迫観念が邪魔して、ハッと気付いて、いろんな注意をすることになります。
覚醒と鎮静が混ざっていて、丁度良い状態にはなかなかなれません。
心を落ち着かせようにも、刺激への過敏性で、刺激回避ができずに、完全な現実逃避もできませんから、中途半端な寝ぼけ状態のようにもなって、自然と思考や記憶も反復しやすくなります。

自閉や統合失調や解離は、症状自体が自然と現実からのストレスを避けますから、強迫観念が残りません。
そういう症状自体で神経過敏や感覚過敏になってしまうこともなく、簡単な刺激へのオーバーなリアクションは、自閉していることでのその刺激への過集中とか、統合失調の妄想状態による過剰反応であり、実際の神経過敏や感覚過敏とは別のことです。
陰性症状の場合、刺激に鈍感になっているから、ボーっとするのであり、ボーっとしていることで、簡単な刺激には敏感になってしまう面もありますが、単にボーっとしていることでの反動であり、実際には神経過敏ではありません。

本当に敏感だと、刺激への反応が内側に向かって、内面では強い衝撃を受けますが、表面的にはオーバーなリアクションができません。
ストレスを表に発散したりも内面での対処できないので、処理されないまま神経に長々と停滞してしまいます。
そこには不快な感情があり、その感情は強迫観念と共に消えなくなりますから、その苦痛を強迫行為で対処するわけです。

統合失調や解離は症状自体が現実のストレスを避けるので、強迫行為も起こりません。
そのかわり、統合失調や解離の症状によって、現実面に鈍感になり、妄想状態になったり、現実からストレス対象が切り離されること(現実のストレスの放棄)で、現実の一部を思い出せなくなったりします。

強迫症では、そういうストレス対処の症状が出ないので、現実のストレスや強迫観念が解消できずに、強迫行為で対処するのです。
ストレス回避で空想に入り込もうにも、現実への不安や刺激によって、意識が現実に戻されてしまうし、嫌な記憶を忘れることができずに、PTSDにもなります。

反復思考に関しては、それが何であれ、不快な感情が起こらないなら、頭の中で何回繰り返されようとそんなに邪魔になりませんから、放置できるのです。

強迫観念の場合、必ず何らかの嫌な感じをともないますから、放置ができませんし、放置してもなかなか消えません。

うつ病の自殺願望はストレス回避で浮かぶのですから、強迫観念というよりは、頭の中での強迫行為的な症状です。
強迫行為と同じで、できれば、そうしたくはないが、(うつ状態とか人生の苦痛とかの対処として)そう思えてしまう状態なので、元になっている(憂鬱にさせる症状も含めて)ストレスがなくなれば、そう思わなくても済むのですが、うつ状態によって、ストレスがなくならないので、何度も頭の中に浮かんでしまうのです。
元になっている(憂鬱にさせる症状も含めて)ストレスがなくなれば、本当はしたくないことなので、願望でありながらも、それが怖かったりして、そうできないことでも苦しむのです。
うつ病であると、そういった苦しみのストレスの対処ができないので、自殺願望として頭の中で仮の強迫行為をするのですが、実際の強迫行為と同じで、それが繰り返し浮かぶことも苦痛なのです。
そうしたくなくても、そう思いたくなくても、そうしたいと思わなければならない症状が続くこと自体が苦痛だということです。

強迫行為と同じで、ストレスへの反応ですから、自殺願望を思い浮かべなければ良いということにはなりません。
(現実や症状での)ストレスが続く限り、そうしないといけなくなってしまいます。
うつ症状やそれと結び付いている現実のストレスが原因なのですから、それを解消するしかありません。

ストレスの少ない環境にして、しばらく休むことが大事なのですが、うつ状態の内面症状が気が休まらずに、それもできませんので、これもなかなか治療が難しいのです。

ただ、うつ病の場合は、元々は健康で普通の人も多いので、元々からストレス耐性のある人でしたら、しばらく療養すれば回復します。

強迫症の人も大抵は、鬱になりますが、強迫症は、ストレス耐性の低さから、不快な感情などが続きやすい病気なので、一旦うつになってしまうと、そのうつ状態にとらわれてしまい、普通の人のうつ病よりも治しにくくなります。

強迫行為はストレスの対処なので、適度に強迫行為をしないと、逆に悪化してしまうのですが、過敏な分、ストレスが多くなり、過剰に強迫行為をしないといけなくなって、ストレスの対処によっても、ダメージを受けてしまうのです。

実際にストレスを対処するには、ストレスが強いほど、かなりのエネルギーを使いますから、環境調整などをしようにも、ストレスに弱い人はなかなか困難なのです。

うつ病は不活発になりますから、強迫行為をしなければならない状況の回避が増えますが、過敏性の問題があり続けるので、回避的生活でも、強迫観念が浮かびやすく、どれだけうつ病が重症化しても強迫行為という過剰な行為をしないといけなくなります。

そのことから、重度のうつ病ではないようにも見えますが、重度のうつ病の症状に重なって、強迫症状が続く感じなので、うつ病だけの人よりも、苦痛が多くなり、そのことで、鬱が治りません。

強迫症うつ病を強めますが、うつ病によって不快な感情やネガティヴ思考が強まり、強迫観念が悪化するので、強迫行為も強固になります。

日頃から我慢できることは我慢している上での強迫であり、そうしないと生活できないのですが、我慢すればではできていたことも、気力の低下から、我慢ができなくなってしまいます。

その中には、一般の人には我慢の必要のないことや、むしろ普通なら楽しいことも多いのですが、ストレス耐性が低いことで、耐えられることの基準とか、刺激によるストレスの(苦痛の)程度が一般とは全然違うので、社会にいれば、普通の人よりもストレスを受けることが多くなり、それらを我慢する無理が続くことで、鬱や強迫も悪化して、我慢が困難になったり、何かしようにもどうしてもできないことが増えてしまうのです。

単に嫌だとか怖いとかなら、我慢もしやすいのですが、特に汚染の強迫症の場合は、普通は汚れないことで、自身やその場所一帯が汚染されたりもしますから、そうなれば、全身洗浄とか、洗濯とか、(汚れが落とせなくて)捨てたりとか、汚染された場所(汚染区域)の回避なども増えてしまいますから、強迫観念が離れない苦痛と、強迫行為の苦痛も含めて、そういう症状の苦痛を起こさせる対象が危害になって、それを生理反応的に回避するのです。


汚れとはなんでしょう?

何が不安で、何がどの程度怖くて、何が嫌なのか、そういうことは、人それぞれですが、気にならないことは、強迫観念にもなりません。

強迫観念が消え難いのは、不快な感情が結び付いているからで、例えば、汚れても、その汚れが嫌でなければ、強迫観念にはならないのですが、うつで、ストレス耐性もさらに低下するので、余計に刺激に弱くなり、不快な感情が浮かびやすく、汚染恐怖の人は、汚されることも増えます。

何がどの程度汚れなのかも、人それぞれの基準があり、それは汚れに対してどういう反応が出るかで決まります。
どんなに汚れても嫌でないならば(不快な感情が起こらないなら)その汚れは気になりませんから、汚れではなくなり、洗浄もしなくて済みます。
周囲の人からは汚れているように見えても、その人には何も苦痛はありません。
本人の範囲では、汚れの無い人とも言えますが、そうすると清潔でもないのです。

うつ病で、汚いとは思っていても、洗うことが億劫で、汚れたままにしてしまう場合、そのことに不快感を感じるかもしれません。

うつ病の人は、不活発な状態になりますが、陰性症状と違って、したいことができないことに苦痛を感じるのです。

汚染恐怖の人は、うつ病で、どれだけ億劫でも、汚されると不快感が強烈に強まり、それが消えなくなりますから、どうしても洗わないといけなくなり、汚されることが大変なストレスになります。

統合失調症では症状で鈍感になり、不潔な状態にもなりますが、本人は苦になりません。
病気でなくても、どん感な人は、他人への共感力が無いので、自分の基準でしか物事を考えられず、全てがそうなのだと思い込み、統合失調症では現実への理解力も低下しますので、妄想にもとらわれやすくなります。

自閉症統合失調症には独り言も多いのですが、統合失調症の場合、鈍感性によって、現実の把握力や理解力も無くなり、妄想で思い浮かんでいることを何でも言うようになります。
それを現実だと思っているというよりは、現実なのか非現実なのかの区別もできないのです。
それを聞いて不快に思う人がいたり、変な人だと思われても、共感力がなかったり、周囲のことを気にしなくなっているので、迷惑をかけていることに気付けないのです。
特に陽性症状の場合、興奮して鈍感になっていますから、普通なら不快に思う言葉を使うことにも本人はストレスを感じないのです。
この鈍感性によって、本人は平気でも、周囲は迷惑を受けるのです。

逆に過敏性が強いと、一般的には些細な刺激で本人だけ苦痛を受けて、強迫症状が出たりもするのですが、(普通の人は過敏ではないので)周囲の人は、同じ状況で同じ体験をしても平気なのです。
強迫症の場合、考え事は止まらなくなりますが、周囲にだけではなく、自分自身にも敏感なので、何か言えば、自分で聞くことになりますから、特に不快を感じるようなことは言えませんし、他人からそれを聞くのも耐えられないのです。
そもそも感覚から入ってくる様々な刺激に過敏反応してしまうので、見た感じ気性の荒い人とか鈍感な人、汚い人などを避けます。
強迫観念を煽られるような言葉や文字を見聞きできなかったり、そういった視覚や聴覚情報でも(物質的な汚れと同じように)汚れてしまう人もいます。

それが情報汚染です。

日本は外国からすると清潔らしいのですが、強迫症の人からすると、そうでもありません。
特に情報による汚れや暴力に鈍感になっていて、精神的なことでも汚れてしまう強迫症の人だと社会適応できなくなっています。
恐怖、不安、嫌悪、そういったことを引き起こす情報を垂れ流しにするのは良くありません。
そういった不快な情報にも感染してしまう病気が強迫性障害なのです。

情報汚染というのは、不快な映像、音声、会話、文字などが汚れとして付着して汚染されることです。
ただそれは、現実の何かが、思考上で考えやイメージの形の強迫観念(表象幻覚)として付着するのであり、真性の幻覚のようにありありと見えているわけではありませんし、自分だけそう思えること(他の人はそう思えないこと)が分かっている、恐怖対象が非現実ではない(妄想は対象そのものが非現実にある)という点で、一見、妄想的であっても、普通の強迫観念です。

マスメディアで汚染される症状がある人もいますから、病院などの待合室からは不快な内容の新聞、雑誌などを撤去してください。
それらは共用物ですから、感染症(接触感染)対策としても撤去が一番です。
テレビを置く場合は、テレビ番組の垂れ流しではなく、環境映像や癒し系の映像などを流してください。
テレビ番組の内容(言葉、映像など)で汚染される人の身にもなってください。
強迫症だと、雑誌の表紙などでも汚されてしまうのです。

電車内の広告、駅などの貼り紙等も、無理やり見せ付ける物ですから、過敏性の精神障害者に配慮して恐怖や不安を煽るような内容の物は止めましょう。

視覚的暴力も普通の暴力と変わりません。
病的に敏感な人は、そういうことでもトラウマになり、強迫症にもなります。

敏感な子供達が、精神障害にならないようにするためにも、体にも心にも衛生的で優しい社会にするべきです。


強迫行為は症状なのか?

強迫行為をすることにも苦痛がありますから、症状ではあるのですが、実際には現実のストレスやそれと結び付いた強迫観念などの対処であり、一時的な治療行為です。

強迫性障害で病気なのは、強迫観念のほうであり、強迫行為を止められなくなってしまう病気と考えてしまうと、依存症などの止められない行為との区別があいまいになり、治療のアプローチもうまく行きません。
強迫性障害ではない病気の治療法で、強迫性障害を治せそうすることになってしまうのです。

強迫観念の対処として、強迫行為をするのですから、強迫行為をしなくなっても、強迫観念の苦痛は残ったままなのです。

その苦痛は、放置していれば、消えるということではなく、そうならないから強迫観念になって、それに耐えられるストレス耐性がないからこそ、強迫行為をしないといけなくなってしまうのです。

通常は強迫行為よりも強迫観念のほうが苦痛なのですが、強迫行為も苦痛ですから、その苦痛が起こるようなストレス状況を回避するようになります。
しかし、日常的な些細なことで強迫観念が強まるので、回避し切れませんし、ストレスの少ない環境にいても、内面症状として強迫観念は続きます。
回避行為自体もそうしたいのではなく、ストレス反応ですから、それにも苦痛があり、それで何かをしようとするのですが、何かをすれば、頻繁に強迫症状が邪魔するのです。

ストレスフルな生活よりは、ストレスが少ないほうが悪化し難いのですが、何もしないことも何かすることもその中間も、過敏である限り、どこにでもストレスがあり、どうやって生きようとしても、その環境レベルでの強迫症状が続くのです。

過敏だから強迫観念が浮かび残りやすく、その対処として、強迫行為をするのです。
強迫観念が先にあり、強迫行為をすることで、強迫観念が浮かぶわけではないので、強迫行為を止めれば強迫症が治るということではありません。

強迫行為をするほど、その安心感を求めて、益々、強迫症状が悪化するという考えは間違いです。

安心感を求めて強迫行為をしているのではなく、ストレス耐性が低いことで、苦痛に耐えられずに、そういう実際の危害への生理的反応として強迫行為をしているのです。

人は、痛みを感じれば、その痛みを何とかしようと対処するようになっています。
それは安心感を求めてする行為とは別の話で、ストレスに対して反射的に行われる正常な生理反応です。

例えば、痛み止めを飲んで、その痛みを消して、安心できたからといって、どこも痛くないのに、また痛み止めを何度も飲もうとするでしょうか?
もしその痛み止めで、幸福感とか爽快感が得られるなら、そうするかもしれませんが、そうでないならば、飲んでも意味がないので、依存することはありません。

もし何度も痛み止めで痛みを消したとしても、痛いから飲むのですから、そのことで余計に痛みを感じやすくなったりもしません。

強迫行為自体も、それで対処をしようとする苦痛が無ければ、それをしたからといって、安心できるわけではないのです。
それは楽しくもないし、幸福感とか爽快感が得られることでもありません。
むしろ、苦痛で、やらずに済むなら、やりたくないことなので、強迫行為自体に安心を求めることはできませんし、初めから苦痛が無いなら、わざわざ繰り返そうとはしません。

安心感を求めていなくても、危害のあることはそうならないように避けようとするし、実際に苦痛で耐えられないことは、その痛みを消そうとします。
人間の仕様として、そうするようになっているのです。
敏感な人は、その程度が一般とは違うことで、正常な反応が過剰になって症状になってしまいますが、本人としては正常な生理反応なのです。

ですから、強迫行為をするほど、強迫観念が浮かびやすいという考えも間違いです。
強迫行為をする前から、強迫観念があるので、強迫行為をすることによって、強迫観念が浮かびやすいのではありません。
強迫行為をするしないとは無関係に、強迫観念は過敏性によって浮かびやすいのです。

強迫行為をするほど悪化するという考えは、依存症での行為と強迫行為の区別ができていないのです。

欲求的行動とかの快楽を得るための行動は、止められないにしても、それをすること自体には苦痛が無いので、強迫行為ではないのです。
その場合の苦痛は、それができないことでの苦痛であり、行為を本当は止めたいという気持ちがあるとしても、止められないこと自体が苦痛なのではなく、欲求的行動とか快楽を得るための行動ができない時に苦痛があるから、(もし止めたいとしたら)それが嫌で止めたいのです。
快楽的なことをすると、それをしない時の精神的反動が強く、それが苦痛なので、余計に快楽を求め続けてしまうのが依存症です。
苦痛を対処しようとする強迫行為ではなく、行為を求めるからこその苦痛なので、行為を求めなくなれば、苦痛もなくなります。

依存症ではなくても、強迫行為をするほど強迫観念が浮かびやすいとしたら、強迫行為が欲求的な行為の人などです。

例えば、ハンドモデル(手のモデルさん)とかやっていて、日頃から手をきれいに維持する気持ちの強い人は、些細な傷が付いても大きなショックを受けますが、これは敏感だからではありません。
「こうでないといけない」という気持ちが強いことで、そうでないとショックを受けやすくなります。
完全に心理的問題です。

毎日マスクをして生活していれば、マスクを取った時に匂いを強く感じますが、これも敏感だからではなく、マスクをしていたことで、どん感になっていたから、差によってそう感じるのです。

そういう感じで強迫症状が出る人もいることはいますが、あくまで一部の人であり、本来は強迫症ではないのです。
そのタイプは、強迫症に含めるとしたら、強迫行為先行型ですが、神経過敏が原因の強迫ではないので、強迫行為を求めなくなれば、強迫観念も浮かび難くなります。

しかし、強迫行為しなくなっても、刺激への過敏性による強迫観念は無くせません。
実際に神経過敏の人の場合、強迫行為をすること(求めていること)によって、(心理的に)敏感になっているわけではないのです。

例えば、実際に肌が敏感だと、些細な刺激で傷付き、なかなか治らずに、ダメージが長引きます。
だから、肌を守ろうとするのですが、肌を守ろうとしているから、敏感なわけではなく、敏感だから、肌を守らないといけなくなってしまうのです。

同じように実際に匂いに敏感な人は、マスクをしなくなっても、敏感なままなのです。

そういう感じで過敏性により、強迫症状が出る人が本来の強迫症であり、このタイプは、強迫行為をするから、強迫観念が浮かびやすいわけではなく、強迫行為をしなくても、過敏性が解消されない限り、強迫観念は静まりません。

同じように、巻き込みをすると強迫症状は悪化するというのも間違いです。
強迫観念が生じることも、強迫行為をすることも、強迫行為や巻き込みが原因にはなりません。

強迫症の人が人と共同生活しようとすると、(特に汚染の場合)巻き込みは避けられませんが、重症の人は、人との共同生活(同居)ができないので、巻き込みさえできません。
それでも悪化するし、そもそも巻き込みに関係なく、最初から苦痛があるのです。

そもそも、巻き込み型の強迫症なんて言うのはありません。
そういうタイプは、大丈夫かどうかを人に聞いて、大丈夫と言ってもらえれば落ち着き、その安心感を求めて、巻き込み症状が悪化すると言いますが、上に書いたように、普通の強迫症は、安心感を強く求めることで、強迫観念が浮かぶわけではないのです。
巻き込みで強迫観念が悪化するとしたら、依存する欲求の強さが原因であり、それは強迫性障害ではありません。
そもそも、なんらかの不安や恐怖があっても、付き添いがいれば大丈夫とか、身内とかが大丈夫と言えば安心できるとか、そういうレベルであれば、普通の人の不安思考やの恐怖観念に近く、強迫症的な強迫観念は最初からないのです。
確認などの強迫行為を身内にやってもらったりする巻き込みも、そういう人の依存行為が悪化するとしても、安心を求めているから、強迫観念が浮かぶわけではないので、強迫性障害強迫症状とは関係がないわけです。

本来の強迫症であれば、強迫行為をする前から、実際に大丈夫ではないから、強迫行為をするので、強迫行為をしなくても大丈夫ですよという説得が通じません。

安心する強迫行為をするから、反動で苦痛があるわけではないのです。
強迫症であると、強迫状態によって、刺激の苦痛が増強され長引くことで、余計に耐えられない刺激になり、ストレス対処として強迫行為をするのです。

自閉、解離、統合失調症などは、症状自体で現実のストレスを回避します。
ストレスへの鈍感化が起こるのですが、器質的に敏感な人は、どうしても鈍感になれないので、そういう症状が出ません。

統合失調症になりやすい脳の人が、統合失調症になっていると考えられていますが、そういう症状を体現できる器がないと、その症状は起こり得ないのです。

解離はストレスへの防衛的な症状だと考えられていますが、一種の自閉(現実逃避)症状です。
鈍感になれる素質があるからこそ、そういう症状が出せるので、敏感だから、解離するのではなく、元々から鈍感になれるからこそ、解離できるのです。
自閉や統合失調症の人も同じですが、現実のストレスへの鈍感性の強さから、他人の苦痛へも鈍感になってしまうことがあり、周囲の人に迷惑をかけることもあります。

敏感な人は、解離とは真逆で、どうしても鈍感になれないので、鈍感化による現実逃避的な症状が起こらず、嫌なことを切り離す(忘れる)ことができません。
苦痛となっている記憶などが忘れ難くなって、そのすべてを昨日のことのようにはっきりと想起してしまうし、統合失調症のように現実を無視しして妄想に逃げ込むこともなく、ストレスが強くても、現実を把握し続けることになり、現実の記憶や現実のストレスから逃れられません。

敏感だからこそ強迫観念が浮かぶので、HSP・HSCのような人は、解離性障害統合失調症には、なり難いのですが、強迫性障害にはなりやすいのです。
HSP・HSCの敏感性から、もしPTSDになっても、解離が起こる複雑性PTSDにはなりません。

HSP・HSCや強迫症の人の器質的な神経過敏は、自閉症児とかの感覚過敏と違って、自閉が原因で、簡単な刺激を敏感に感じるわけではなく、実際に過度に敏感なのです。
その過敏性により、現実的な外界の刺激だけでなく、不快な思いとか記憶などの内面的な刺激にも過敏反応して、強迫観念などの刺激が消えなくなります。

現実逃避できないからこそ、現実を正しく理解する普通の思考もできるのですが、ストレスへの生理反応的に、強迫観念が浮かびやすくなり、それを対処する行為をしないといけなくなります。
それは過敏であれば、当たり前のことですが、一般的ではないので、障害になります。

過敏性による強迫観念の症状を先に治してこそ、強迫行為もしなくて済むようになりますが、今のところそういう治療はできません。

そのことの1つの問題として、強迫性障害は適切な治療で治せるようになったという認知行動療法ビジネスによる宣伝が広められたことです。

治せるのなら、新しい治療法は必要なので、その宣伝がまかり通ってしまうと、本当の強迫性障害は治せないままになってしまいます。

実際には治せなくても、認知行動療法が適切な治療ということにできれば、ライセンビジネスとしては潤います。

曝露反応妨害が受けられるということは、当然、過敏性の強迫の人ではなく、最初から治しやすい(心理的問題だけの)強迫の人などであり、その範囲の軽症患者のデータとか、実際には強迫症ではない人(強迫症状のある統合失調症や強迫性パーソナリティ障害の人など)に抗精神病薬を使って、一時的に症状を誤魔化した人も、治った人に含めて、治せるようになったことにしているのです。

カウンセリングや森田療法認知行動療法などは、器質性の神経過敏には当然効きませんので、それらで、過敏性の強迫症を治すことはできません。

治りましたと言う話はほとんどが、それらのビジネスとしての宣伝です。
この宣伝手法の一つが、強迫症とか神経質とか、行為依存症(きれい好きとか)、不安の強いの人達にも、みんなに該当するような細かいことを気にする症状などを具体的に書き並べて、それに当てはまる人を共感させて、ひき付けることです。
これは、森田が元祖で、本を売るために考えた商法ですが、そうすることで、神経質の範囲に、強迫症患者を取り込もうとしたのです。
神経質は確かに病気ではありませんが、強迫症をそこに含めて、病気ではないと言うのは良くありません。
強迫症は病気ですから、症状が出始めたら、できるだけ早めに適切な対処をしないといけないからです。
適切な対処といっても、もちろん、認知行動療法などのことではなく、強迫や鬱が悪化しないような生活に変えることです。
表面的には、共通する面があっても、どうしてそれが起こるかは、神経質とは全然違いますから、森田療法などやっても時間の無駄です。
森田の勘違いな思想本とか、認知行動療法ビジネスの宣伝のために書かれた本を読んでも、本当の強迫症の人には、まったく役に立ちません。
強迫症のことが書いてあっても、それは違う病気について書かれた本ですから。

認知行動療法は、強迫性障害を理解できないまま考え出された理論が元になっているので、それで治せるわけがありませんが、ライセンスビジネスとして普及しているのです。
この宣伝には、抗精神病薬も利用されます。
認知行動療法で重症患者が治ったという話には、ほとんどの場合、抗精神病薬が使われていて、それを使った時点で、大きく改善しているのです。
その場合、強迫観念ではなく、妄想によって、強迫症状が出ていた人であることが考えられ、それは強迫性障害を治したことにはなりません。

不安障害に近い強迫症状のある人を、抗精神病薬で不安や恐怖反応を弱めて治しやすくなったことも考えられますが、それは、一時的な誤魔化しでしかなく、強迫観念というのは現実反応の思考ですから、感情やそれと結び付いた思考を薬で鎮静させても、現実を意識できる限りは、強迫観念も現実反応の感情も再発します。

過去の現実の苦痛であるトラウマ記憶が抗精神病薬では治せないことと同じです。

脳を直接コントロールして不安や恐怖を抑える治療機器もあることはありますが、正常範囲の不安や恐怖なども弱めてしまう危険があり、一時的に治せても長期的な安全性の面で現実的ではありません。

正常な範囲の不安や恐怖などがあることで危害から身を守れるのですが、強迫症の人であると、過敏性によって、普通は危害にならないことが危害になってしまうので、危険回避が過剰になりますが、実際に(一般的には些細な刺激でも)ストレスに耐えられないのですから、そうするしかないのです。

双極性障害の躁症状でも過剰行動は起こりますが、これは過敏性のストレス回避行動ではなく、逆にストレスを感じ難くなっていることで、危険をかえりみない行動をしてしまいます。
そのことで本人だけでなく、他人にも迷惑な病気なのですが、強迫症の過剰な強迫行為とはまったく内容も原因も逆ですから、強迫行為がどれだけ過剰でも、双極性障害ということではありません。

躁症状と鬱は対極的なので、通常、同時には起こりませんが、強迫症状と鬱は、共通する面もあり、鬱で億劫になっても、強迫行為はしないといけなくなります。
強迫は慢性的で、躁症状は周期的であることからも、強迫を躁が強めることは考え難く、仮に併存している場合も、躁ではなく、鬱の時にストレスに弱くなり強迫症状が強まるはずです。

双極性障害の薬を使ってみるのも悪くは無いと思いますが、強迫症状に効くほどの力はありません。


ではどうすればいいか?

ストレスでボロボロになっても積極的に社会に関わり生きていく。
それができる内は、それも構いませんし、特に若い内はそうするしかない社会になっています。

ですが、強迫症の人は、ストレス耐性が低いので、そうすることに無理があり、長くは続きませんし、社会に潰されて、うつ病にもなって、そういう生き方ができなくなります。

自然と回避的な消極的人生になりますが、そういう生き方でも日常の些細なことで強迫症状が出て疲れてしまうし、人との関わりもなく社会的自由も得られませんし、そうしたいわけではないので、人間的幸福感や充実感も得られません。

そうなってからどうするかが、強迫症の人生の難しさです。
強迫症という病気は、医学的にはほとんど放置されていて、今後も治療薬などは期待できませんし、誤解された情報の普及で、社会的にも理解されておらず、社会適応が困難になります。

バリアが張られていますが、社会の側はバリアを張っていることにも気付けないのです。

気付いてもマイノリティな障害ですから、対応しようとしないのです。

そうすると、そういう社会から少し離れて、生きるしかありませんが、離れすぎると人間的な生活が出来なくなり、それもストレスになります。

どん感な人達には、逃げるから嫌に思えるとかいう人もいますが、本人にとって実際に苦痛のあることは、逃げなくても最初から耐えられない苦痛があるのです。
逃げずに立ち向かっても、ストレス耐性が低い人は、その苦痛に慣れることができないのです。

ストレス回避が症状そのものとして出るのが、解離や統合失調や自閉などの現実逃避型の病気です。
これらは、鈍感になって、ストレスから守られるのですが、そうならないからこそ、ストレスが対処できずに、強迫観念が強まり、強迫症になります。
正常な処理もできないし、症状も出ないので、強迫行為で対処するしかないのです。

神経質の不安治療では、「単に気のせいだから、そう思わなければ、なんともない」という前提が通りますが、実際に苦痛で耐えられないことによる症状は、気のせいとか考え方の問題ではないのです。

森田の言う「気のせい」の神経質症状というのは、人前で緊張すると思っているから、余計に心配が強まって、実際に緊張して、その緊張感から何らかの症状が出たりすることです。
あるいは、その緊張を抑えようとする気持ちが強過ぎて、緊張することを余計に意識してしまい、実際に緊張してしまうことなどです。
「こう思っているから、こうなってしまう」という完全に精神的な症状です。

森田自身がそういう神経質だったので、みんなもそうに違いないと、森田療法を考えたらしいのですが、そこに精神障害的な不安障害とか、強迫性障害も含めてしまったのが間違いなのです。

森田療法によって神経症全般の誤解が広められたこともあり、強迫神経症という病名も強迫性障害に変わったのですが、いまだに森田の妄想を信じ込んでいる人も多く、病名以外はこれといって変わっていません。

森田療法では、強迫観念(なくせない生理反応)をなくそうとするから苦しむ、なくそうとしなければ、気にならないと言います。
煩悩(欲やこだわりによる苦しみ迷いなど)を無くそうとし過ぎると、逆にそれが欲やこだわりを強めて苦しみ迷うという、仏教の転用ですが、確かに煩悩(欲やこだわり)というのは、苦しみ迷いなどの苦痛の元になっても、それ自体はなくそうとしなければ、それほど苦痛はないのです。

神経質やその治療である森田療法は、そういう仏教ノイローゼ(悟りを得ようとして煩悩を強める状態)になっていた完全主義の神経質者の妄想的思考の産物に過ぎず、森田は実際には煩悩に過ぎない勘違いな悟り得たつもりになり、何でも仏教的に解釈して、その悟りを万能薬のように妄想してしまいました。
単に「そう思う」という神経質教ですから、実際に神経質であり、その思想を信じ込める信者にしか効果はありません。

神経質はその人の完全に精神的問題なので、心理療法が間違った理論でも、本人さえ納得できれば、効くことはあるのです。
本人の心さえ改善されれば良いので、方便(正しい方向に導くための作り話)でも通用します。

しかし、実際に神経過敏な人は、違和感に弱く、現実反応で症状が出るので、実際のことではないデタラメな情報とか、うさんくさい情報に嫌悪反応が出るし、「そう思う」からこうすれば良いという、お話とか、方便では通じません。
強迫行為は、行動の癖でもないし、行動の問題で、精神症状が出ているわけでもないので、こうすれば良いという行動の訓練でも、まったく解決できないのです。

森田療法では、苦痛(強迫観念)をあるままに、気にしないで他のことに取り組めば、気にならないとも言いますが、その苦痛を気にしないことができる人は、強迫症状が出ないので、最初から強迫症ではないのです。

悟りとは、心を自然にあるがままにすることではなく、心があっては悟れないのです。
あるがままにしている限り、それはあるので、諸行無常から解放されず、煩悩にとらわれます。

悟りは「何でもない」から、悟りなのです。
それは、感じることも、表現することも、意識することもできません。
実在しないからこそ、悟りは、完全な平安のままなのです。

ですから、人が悟りを得れば、悟りを得たなどとは思いませんし、悟りを得たとは言いません。
実現できたら、悟りではないので、悟りを得たと言っている人は、単にそう思われたい人であり、妄想状態に過ぎません。

当然、悟りで何かをコントロールすることなどできません。そうしようとすれば、煩悩にとらわれます。

悟りは、病気を治す技とか超能力ではなく、そういったことに関わらないから、悟りなので、悟りで何かをしようとするのは、勘違いで、それは煩悩が起こすことです。

完全主義の神経質者だと、そういう勘違いを起こしやすいのですが、その勘違いを根拠に物事を解釈してしまうので、様々な勘違いを起こします。
森田は仏教を理解できないまま仏教を利用しました。

仏教には諸行無常という言葉がありますが、これは悟りを表した言葉ではありません。
諸行が無常だと分かっていれば悟れるというのは誤解であり、諸行無常である限りは悟れないので、諸行無常から解放しようという試みが仏教なのです。

仏教上は、不変で常に安定した状態こそが正しく定まった状態であり、諸行は無常であるから、それにとらわれるのは間違いだとしました。
簡単に言うと、諸々の物事は変化したり消えてしまうことなのに、そこに幸せを求めてしまうと、無理が生じて煩悩が強まるということです。

俗的な幸せはそうして得られるのですが、仏教的には、不変で常に安定した状態にこそ平安があり、それこそが真の幸せなのです。
これはもちろんハッピーな高揚した気持ちになれるとかではなく、そういう気持ちさえも無い静寂した状態ですが、正確には静寂もありません。

何かがあれば、それは無常であるというのが、諸行無常の意味です。
諸行無常であるからこそ、諸行を完全に安定させることは不可能であり、諸行でなければ、常に変化が無く、そこには真の平安があると言うのです。

諸行にとらわれないようにすることで、悟りは得られるという人がいますが、諸行にとらわれないようにすることも、諸行にとらわれている状態であり、そういうこともしようとしない諸行に関わりのない状態であることで、平穏が得られるのです。

ですが、無関心であることとも少し違います。
無関心とかは対象があって、それに関わらないことなので、実際にはその対象に関わっているから、無関心でいられるのです。

無とかも有に対して存在するし、絶対とかも相対に対して存在します。

ですから、諸行に関わりのない状態を人間の言葉では表現することは困難です。

その平安状態を、仏教的には涅槃とも言いますが、それはこの世に実在しません。
この世の諸行に含まれないからこその涅槃なのです。
涅槃は諸行無常から解放された状態で、この世に実在しない涅槃をこの世で得ることを悟りといいますが、正確には悟りも人間が得られることではありません。

思想上とか精神状態としての涅槃を得ることならできますが、それは完全な悟りではありません。
完全な悟りは、この世では何にも関わらないので、人間がそれを得ようにも得られないし、何の役にも立たないし、何の力もないので、悟る意味がなくなります。
意味がないからこそ、悟りなのですが、それを実用化しようとしたのが、仏教(特に大乗仏教)の教えです。

原始仏教では基本的には世俗(欲求の強まる人間社会)から離れて、そういう欲求の束縛や諸行無常のこの世から解脱する人への(涅槃に入るための考え方や生き方の)教えだったのですが、涅槃に入ることはこの世からの解放を意味しますから、普通の人はそういう完全な平安よりも、人間的な幸せを得たいのです。
ですから、後期仏教では、涅槃に入ることよりも、悟りを得るための仏教思想そのものを社会的に役立たせることを考えました。

煩悩に塗れて生きている人の心を少しでも悟り(安らいだ状態)に近づけられないかという感じです。
それが現代仏教ですが、基本的には実用性がありませんし、そもそもこだわることを良しとしない教えなので、仏教自体への関心も自然と弱まり、一般的には習慣的行事などとして残っている程度になっています。

現代的に言う悟りの場合は、普通の人には無い知恵と物事の把握力があり、何事にも動じない安定した心でスマートに生きている人という感じでしょうか。

そういう意味での悟りであれば、得られる人もいるし、精神的(心理的)な原因の病気ならば、それを治すための知恵も出せるでしょう。
しかし器質的な神経過敏とかそれが原因での精神の障害は、悟ってもコントロールするのは、難しいことです。

本来の悟りというのはこの世ではありえない事を考えると、普通に社会的能力があり、精神的にも安定していれば、現代的に言う悟りは自然と身に付くはずです。

現実的には悟りは平安のシンボルのような感じですから、不安の強い人には、悟りにロマンを感じる人もいるし、ピュアな清浄された状態が悟りで、煩悩は汚れとも言えますから、特に不潔恐怖や汚染恐怖のある人は、神聖な感じとかにも惹かれやすく、実際にそういう環境や精神状態でいたほうが、生きやすいのです。

しかし現実社会はそうではないことが多く、うまく適応できないので、強迫行為をしないといけなくなります。
過敏性とストレス耐性の問題で、汚れなどのストレスの苦痛に慣れることができないのです。

汚れに慣れることとか、思い込みでの不安解消とか、汚れを洗うことによる清浄は、世俗的な安心や浄化であり、悟りはストレス反応ではないので、強迫行為でもありません。
悟りは何とも接点や関連性がないので、何もしなくても最初からピュアなのです。

涅槃は何にも反応せずに関わらないので、だからこそ汚れませんし、きれいなままなのです。
人間である限り、そうなりませんが、それを世俗的な形で一時的に疑似体験したり、思考上や精神状態として、悟りに近付くことはできます。

精神の安定に仏教とか禅とかヨガとか瞑想が適していると思うなら、それも良いし、他の宗教でも良いし、あるいは知恵者の思想でも良いし、自分で考えた方法でも良いと思いますが、精神によって、神経の感度をコントロールするのは難しいことです。
瞑想とかで一時的に精神が安定したとしても、それを日常で維持できなければ、あまり意味がありません。

それができるのは心理療法ではなく、薬とか治療機器を使わないと無理なのですが、そういった物がない。
だから、強迫性障害は治しにくい状態が続いているのです。
そもそも強迫性障害は神経の過敏性とは無関係な病気(ありもしない不安な思考に惑わされる病気)とされているので、その誤解がある限り、治療も的違いになります。

強迫症の苦痛は、欲やこだわり自体にとらわれて、それが得られないことで生じる苦痛ではないので、仏教思想や勘違いな森田療法では治せません。
本来の悟りは強迫症には関われませんし、現代的な意味の悟りでも強迫症に関わりのない安定した精神状態ですから、それよにって強迫症は治せないのです。

過敏性による強迫観念の場合は、それ自体が最初から苦痛なので、それを強迫行為で対処しないといけなくなってしまうのです。
ストレス耐性が低いと、苦痛に耐えられずに、なくそうとするわけで、なくそうとしなくても、その苦痛はあるのです。
ですから、なくそうとしないで、放置すれば、苦痛は自然と消えるという考えは間違いです。

実際の苦痛を気にせずに放置できるようなストレス耐性があれば、強迫症にはなりません。

過敏でストレス耐性が低く、苦痛に慣れることができない(鈍感になれない)。
だからこその強迫症状なのですから、森田療法認知行動療法で治せるとされている強迫性障害は、最初から強迫性障害ではない病気なのです。

器質性の神経過敏を除外した上での療法ですから、その範囲が治しやすいのは当たり前で、森田商法や認知行動療法ビジネスによって、心理療法では通用しない範囲の本当の強迫性障害は、存在しないかのように隠されています。

それならそれで、過敏性による強迫症状のある人のために、過敏性強迫症などという病名を作り、普通の強迫性障害(不安障害の強迫症状)とは分けて治療するべきです。

実際に不安障害の大分類には含まれなくなったのに、強迫性障害という病気の定義自体は、何も変わっていません。
不安障害に含めなくなったのも、強迫行為先行型の人とかで、強迫観念がないように見える人もいるからであり、強迫性障害が理解されたからではないのです。

森田療法によって、強迫性障害についての間違った情報が普及してしまい、認知行動療法ビジネスによって引き継がれ、それを書き換えることができなくなっています。

曝露反応妨害のように、それができない障害の人に、それをすれば治るというのは、症状を悪化させる危険もある横暴な行為であり、治療ではありません。

実際に神経質の人とか考えの癖程度の人とか、単に不安の強い人が、そういう治療をするなら良いのですが、そこに強迫性障害を含めるのは、止めるべきです。

本当の強迫性障害を隠すことで、認知行動療法強迫性障害の適切な治療ということにできましたが、強迫性障害の適切な治療から認知行動療法を除外しない限り、本当の強迫性障害は治せないままになります。

どの治療法も強迫性障害がほとんど治った人なら、治せることは可能ですが、すでに治っているから効くというのは、病気を治療したことにはなりません。

そういった療法に出てくる強迫症の説明を鵜呑みして、間違った情報が拡散されます。
せめて、正しい情報の普及を邪魔しないようにするべきです。

認知行動療法などに出てくるような勘違いな強迫性障害がなくならない限り、強迫性障害であることの苦痛も理解されない状態が続いてしまいます。

現在の精神障害の重症度は、何がどれだけできなくて、どれだけ援助が必要なのかが基準になっていて、症状で過剰にしなければならないことがある人とか、症状で援助が受けられない人のことは考えていません。
寝たきりで誰かにめんどうを見てもらっている状態が重症で、症状で孤立して、症状によってなんでも一人でやらないといけない状態は、どれだけ苦しくても、精神障害としては重症とは思われません。
強迫性障害は、他の精神障害とはまったく違いますから、同じ考え方では、重症度は計れません。

強迫性障害がどんな病気かも理解できずに、何を治せるというのでしょう?
その状態で、治療薬なども開発できるわけがなく、今使える薬が長期的に効くとしたら、その人は強迫性障害ではない別の病気です。
強迫症状による精神的苦痛に効く薬もなくはないのですが、麻薬類扱いになって、使えないのです。

よっぽど軽症段階でない限りは、今後もしばらくはどうしようもありませんので、強迫性障害のまま生きて行ける道を探すことになりますが、社会的変化がない限り、かなり困難です。

強迫性障害の患者の援助とか言って、森田療法認知行動療法を宣伝していたり、あるいは、そういう療法をしている自称専門家や自称第一人者の書いた思想本を読んで、鵜呑みして情報を拡散している人もいますが、そういうのは邪魔にしかならないので、すぐに止めてください。

強迫性障害の苦痛を和らげるためには、まずこの病気を社会の人達に正しく知ってもらうことが大事です。
そうしないと、社会が変わらないし、適切な治療も始められません。


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強迫観念(現実反応)は強迫行為で一時的に洗浄できるが、妄想(非現実反応)は強迫行為では洗浄できない

不快なことは誰にでもありますが、そういう不快なことが強迫観念として離れなくなってしまうのが、強迫状態です。

神経過敏によって、気になったら、気になったまま、気に止まったことが、気に止まったままになってしまうのです。

その多くは普通の人なら気にならないのですが、普通の人が気にすることでもそうなりますから、神経過敏であると、普通の人よりも、不快なこと=苦痛が多くなります。

環境を調整すると良いのですが、ストレス耐性が低いと、そういったことをするのも困難で、その環境の中での刺激に過敏反応してしまうし、肉体的な神経過敏といっても、脳内の神経回路も関わっていますから、感情や思考や記憶などへの過敏性による強迫観念の問題もなくなりません。

特にトラウマがあると、強迫症の人は、それも強迫観念になりますから、余計にトラウマが消え難くなり、反復するトラウマ強迫によって、年々傷(ダメージ)が深まり、強迫症状が強固になります。

不快なことを気にして考える癖があるからではありません。
過敏性により、ショックな思い、ショックな記憶が消え難いのです。

強迫症は強迫状態になりやすい病気ですから、例えば、ある状況で緊張をすれば、その状況が終わっても、長々と緊張状態が続いてしまいます。

神経そのものや脳に緊張感が残ってしまうので、その記憶もなかなか消えなくなり、そのことを反復的に思い返してしまったりします。
その強迫状態は苦痛ですから、そうならないようにと不安や心配も強まり、その思いも長々と残って強迫観念になりやすいのですが、当然、不安や心配だけではなく、様々な強迫観念があります。

特に、HSP/HSCのように敏感な人は、様々な刺激によって強迫状態になりやすいわけですが、気質的に敏感というだけなら、違和感や不快感などが続いてしまうという感覚的な強迫状態(強迫感覚)が多くなり、強迫観念にはなりにくい状態です。

ですから、敏感な気質だからといって、強迫症状が出るわけでもありませんが、主に思春期の頃に、感受性が強くなってくると、感覚的な強迫状態の苦痛も強まり、同時に物事について考える思考力も発達しますから、苦痛を受けたことについて考えたり思ったりすることが増え、過敏性により、その考えが消えなくなってしまいます。
それが続くと、精神的に病んでしまい精神病のようにもなりますが、統合失調すれば、強迫観念からは解放されます。
そうならない人は、現実のストレスや強迫観念にとらわれ続け、強迫性障害になります。

HSP/HSCで刺激を受けやすいこと自体、刺激による強迫状態にはなりやすいのですが、その上、神経過敏になってしまうと、その刺激が長々と残るようになり、それを対処しようと、強迫行為をするようになります。

強迫性障害であることの刺激には、自分の外側の刺激だけではなく、思考、イメージ、記憶、感情などの自分の内面からの刺激も含まれます。
それらが長く停滞して、消えなくなってしまうのが、強迫の苦痛です。

前回書いた森田療法の森田の言う神経質による不安思考とか強迫観念は、実際にはないことを、あるかのように思ってしまう思考のことで、不潔恐怖で言うと、実際には汚くないことを、汚いと思ってしまうから、症状が出る状態です。

しかし、この場合の実際には汚くないというのは、誰の基準なのでしょう?
おそらく一般的には汚れとされないことの意味だと思いますが、何をどの程度汚いと思うかは、経験や感受性などによって、人それぞれです。
感覚や知識によっても違いますから、例えば、小さな子供はそもそも汚れを知らない子もいますから、子供の内は汚染恐怖にはなり難いです。

病気を知らなければ、それを怖がることもありませんが、違和感とか不快感とか苦痛、不安感、恐怖などは体験しますから、感覚的には子供でも感覚的には強迫症になり、それが強迫感覚主体型です。
はっきりとした強迫観念はないのですが、違和感などの不快感に強迫されます。
特に敏感な子であると、嫌なことが多くなり、そういう感情や記憶も消え難くなりますから、不安や心配も浮かびやすく、感覚的には強迫状態になりやすいのです。
善悪、きれい汚いなどの分別意識が強まってきた頃に、嫌な感じ、感情、不快な記憶(トラウマ)などが付着してしまう苦痛が続くと、それが汚れのように思えて汚染恐怖になります。

強迫性障害であると、過敏性によって、様々な汚れを感じやすい上に、それが強迫観念となって消え難くなります。
精神的な汚れであっても、肉体的な神経過敏による表象幻覚によって、本人の感覚では実際に物質的な汚れと同じように汚染されることが多くなります。

それが何の汚れなのか、その汚染源となっていることへの恐怖や嫌悪、または、その汚れで何が起こるのかという強迫観念があっての汚れなので、その強迫性の強さで、普通の人によりも汚れることが苦痛になってしまうのです。
そして、その苦痛に耐えられるストレス耐性が無いからこそ、強迫行為で対処しないといけなくなります。

不潔恐怖や汚染恐怖には、一般的にも汚いことを過剰に嫌がる人という人はいますが、その範囲であると、神経過敏であっても、強迫観念は弱いこともあります。
神経過敏によって強迫観念も浮かびやすいと、一般的には全然汚くないことを汚れと思えたり、普通は汚れないこと(精神的な汚れなど)で、物質的な汚れと同じように汚されたりします。

強迫症の場合、汚いと思えるものを触っていなくても、接近したことに気付けば、その記憶や反応による嫌悪感も強迫観念として長々と残ってしまい、その付着性によって、接触していなくても汚染されてしまうのです。

強迫性の思考には付着性や反復性があり、汚れを感じてしまうと、その嫌な「感じ」が、思いとか考えとか記憶と共に、長々と残って、その汚れに強迫(付着)される。
それが強迫症的な汚染です。

強迫観念の付着性によって汚れが消え難くなり、その強迫観念が離れないことで、汚染されてしまうのです。
これは、強迫観念があるからなので、一般の人にはそうならなくても、強迫性障害の本人としては、実際にそうなっているのです。
不快な強迫観念となって消え難いからこそ、長時間過剰に強迫行為をしないといけなくなります。

普通の人は汚れが強迫観念にはならないので、適度に効率よく洗えるわけです。

強迫性障害の人は、普通の考えも持ちあわせているので、本人も、視覚的に確認できる汚れのようには汚れていないことは分かっています。
だからといって、実際には汚れていないわけではありません。

強迫観念としての汚れは、汚れの考えやイメージが離れなくなってしまうことですから、それは本人の心の中でしか分かりませんが、汚れが実際に付着していないわけでもないのです。

例えば、公共の建物のドアノブや、販売機のボタンなどを触って、手にコロナが付着したか分からなくても、付着したと思って消毒をする。
この行為は、実際にはないことを、あるかのように思ってしまうことで、起こるのでしょうか?

実際に付着している可能性もあるのですから、付着したと思えても精神異常ではありません。

強迫症であると、そういう不安な思いが強迫観念となってしまうので、普通の人よりもそう思えてしまうのですが、その汚れは、妄想(非現実)ではなく、現実の何かの汚れです。
一般的ではなくても、本人にとっては過敏性の強さで汚く思えてしまうし、強迫観念としてその思いが離れないのですから、実際に汚れているように思えてしまうのです。

他の人にとっては、汚れではなくても、本人の感覚では実際に汚されてしまうのです。

もちろん、強迫観念がなければそうなりませんが、強迫観念があるから強迫症なので、どうこう考えようと、それに関係なく強迫観念が浮かび、そうなってしまうのです。

依存症や精神病の繰り返し行為を強迫的と言ったり、強迫の意味の多様性が強迫症を分かり難くもしていますが、強迫性障害の強迫は過敏性の症状です。

不快な思いなどが離れなくなってしまう病気なので、強迫症であると強迫観念を強めるような不快な言葉を言ったり聞いたりすることを拒みます。

逆に思い浮かんだ不快なことを口にしないといけないとか、強いこだわりにとらわれてその通りにしないと気が済まないというのは、自閉症や精神病の可能性があり、強迫性障害の強迫性とは別のことです。

こうと決めたことがあると、それに従わないといけなくなってしまうタイプには、完璧主義や几帳面、きれい好きなどのように、ごだわり自体にとらわれてしまう人もいますが、違和感に弱いからそうなってしまう場合は、過敏性の症状です。

過敏性というのは、ストレス耐性が低く刺激に過度に敏感であることですが、それであると、身の周りに強迫的な事が多くなり、不安や恐怖、嫌悪、心配なども浮かびやすくなります。
現実の刺激だけでなく、それと結び付いた思考上の刺激も残り続けてしまう。
それが強迫性障害での強迫観念で、器質的(神経的)な過敏性が原因で、脳を含めた体質に問題があるので、対話での心理療法などはまったく効きませんし、薬もまだありません。

強迫観念は過敏性の症状なので現実と結び付いています。
強迫観念が離れないとこで、現実のストレスも離れなくなり(汚れであれば付着したままになり)苦痛が続いてしまう。これが強迫状態で、現実のストレスと共にあるのです。

妄想のストレスは頭の中だけにあり、元々現実には問題がないので、薬で妄想を鎮静させれば、ストレスも消えますが、強迫観念の苦痛は現実が意識できる限り続いてしまい、その苦痛に耐えられなければ、強迫行為をするしかありません。

強迫症の人の共通点は、過敏で違和感に弱く、違和感が強いほど、苦痛を感じるのですが、そのことが原因で、不安や恐怖や嫌悪なども感じやすいのです。

強迫観念が離れなくなってしまうこと=強迫観念が付着してしまうことです。
不快な嫌なことに染まることで、感染とも言えますが、強迫観念が付着したまま落ちなくなってしまうので、強迫症には汚染恐怖が多いのです。

汚れに不快感が無ければ、気に止まりませんから、汚れの強迫観念は浮かびませんが、強迫症的な汚染は、嫌なことへの関連付き恐怖であり、何かに汚染され、嫌悪していることが強迫観念として離れなくなってしまうと、そのまま他のことをすれば、それが他のことに印象付いて離れなくなり、汚染が拡大してしまいます。

その汚染の強迫観念があるままだと、その嫌悪対象の思いとか記憶も想起され続けます。
それによって何らかの不安や恐怖が煽られれば、その強迫観念の付着が強まり、どうしてもそう思えてしまう状態が続きます。
強迫観念として不安や恐怖していることが、普通に考えてそうならないにしても、強迫観念の付着によって、そう思えてしまえば、そう思わないことはできませんから、(不安や恐怖していることに)ならないようにと、汚染(強迫観念の付着)を洗浄するのです。

そういう意味での汚染ですから、精神的なことでも汚されるし、良い考えが汚染されるのを避けて、汚染されている間は、良いことが考えられなくなったりもしますから、汚染の場合は、単に良いことを考えて中和するといったこともできなくなります。

良いことが悪いことと関連付くこと=汚染なので、汚れを洗浄してやっと、良いことができるわけです。

確認強迫の人も何らかの不安や恐怖を避けようと、確認するのですが、確認することで、強迫観念の汚染(不安や恐怖の感染)を洗浄するのです。

いろんな強迫行為がありますが、強迫症の人は、みんな洗浄強迫(強迫観念の洗浄)をしているのです。

汚染恐怖や不潔恐怖の人には、確認強迫もする人が多いのですが、確認強迫の人の場合、汚染は気にならない人は多くいます。

これはやはり、汚れというのが、人それぞれで基準が違うことと、関連付きの症状(関係強迫)の程度の違いではないかと思えますが、汚染恐怖の場合、内側のことだけではなく、現実面への過敏性の強さが関係しています。

汚染恐怖と不潔恐怖も本当は違うことで、比較的、女性は不潔恐怖だと自覚する人が多いのですが、(生理的嫌悪感などの)強迫感覚による洗浄行為が多いようです。

社会適応できないレベルに重症化しやすいのは、強迫的汚染症状のある男性が多いのです。

汚染の元になっている関連付き強迫(関係強迫)は、過敏性によって起こるのですが、それだけでなく、論理的思考と立体的思考(多面思考)が、汚れの追跡力と具体化を強めているのです。
そういう男性脳の思考の特性により、強迫観念が表象幻覚化して、具体化することで、感覚的な汚染の強迫観念よりも、イメージの現実感が強まり症状が強固になってしまうのです。

強迫観念はイメージですが、現実の汚れ(不快な嫌悪対象)のイメージなので、具体性が強いほど、嫌悪感も現実性も強まり、余計に強迫観念が離れ難くなってしまうし、そのイメージと一緒に論理的に「考え」でも汚れを追跡してしまうことで、時空間の隔たり(範囲の制限)も無くなり、何年経っても汚染が続くのです。

重症化にはトラウマがあることも関係しますが、このトラウマというのは、解離の人のように、忘れてしまうことはできず、忘れられないからこそ、強迫され続けるのです。
慢性のトラウマ記憶の想起によって、それに関連する全てに、汚染の強迫症状が出てしまうのです。

汚染恐怖の人は付着性のあること全般に恐怖を持ちやすく、感染しない病気でも感染するように思えますから、感染症恐怖にもなります。
ですから、感染症が流行ると、その症状も悪化します。

過敏性によって、悪い意味で感化されやすく、人の不快な感情などにも強迫されやすくなり、汚染の人はそういった感情などでも汚されます。

過敏であるとうつ病などでも他人の不快な感情に同調してしまうことがありますが、それは感情汚染ではありません。
汚染されたら、洗浄をしないといけなくなりますから、洗浄しようとしないなら、汚染されたわけではないのです。
強迫症の人は感情による汚染であっても、物質的な汚れと同じように汚されますから、現実行動で洗浄しないといけなくなります。
強迫症の場合、「気のせい」の範囲では済まないので、強迫行為が起こります。
汚染されたような気がするというだけなら、強迫行為が起こらないので、うつ病や不安障害であっても強迫症ではありません。

強迫観念は実際には起こっていないことに対する頭の中だけの不安や恐怖であるから、強迫行為は現実問題の解消ではないという説明が多いのですが、これは誤解です。

例えば、今、頻繁に手を消毒したり、洗ったりしている人たちのほとんどは、実際にはコロナが手に付着していない人達がほとんどなのです。
だからと言って、その人達の消毒や手洗いが現実問題を解消する行為ではないと言えるでしょうか?
「手に付着したかもしれない」「感染するかもしれない」それは、実際にそうなっているわけではなくても、現実のことに対する不安や恐怖であり、現実問題の直接的な解消として消毒手洗いをしているわけです。

強迫性障害の人は、恐怖対象への感受性が過剰に強く、そういう不安が強まりやすかったり、その恐怖対象自体が普通の人達と違ったりもしますが、本人にとっては現実の問題なのです。

強迫観念は妄想ではなく、現実のことでの不快な思いだからです。

強迫観念が汚染であれば、その強迫観念が浮かびやすいことで、当然、汚染されやすくなります。
強迫性=付着性ですから、その汚れをさらに強めて落とし難くなり、汚れによる不安や恐怖や嫌悪なども強迫観念化して付着が強まり、なかなか離れなくなります。
洗ってもまだ汚れている、まだ汚れている、となって洗浄が長くなり、(普通が分かっていることで)過剰に思えますが、強迫観念が消え難いことで、その対処行為もどうしても過度になってしまうのです。
汚染対策や洗浄で時間を使ってしまうし、他のことができなくなって非効率な生活になってしまうのに、めんどうで嫌でも洗わないといけないという意味では不合理にもなります。
それが苦痛ですから、その苦痛を引き起こすストレス対象への不安も強まり、それも強迫観念となって、対策や回避も余計に過剰になります。

この不安は、コロナの感染不安と同じように、現実のことの不安なので、強迫行為も現実の問題の対処として行っているのです。
ただ、普通の人の不安と違って、一度浮かんだ強迫観念は過敏性によって、神経や脳から離れなくなってしまうので、不安は不安でも普通の不安よりも消え難くなります。
だから不安ではなく、強迫観念なのですが、これは放置しても消えませんし、それ以前に放置が困難です。

頻繁に安全確認をする場合も、コロナ不安の消毒のように、現実への不安からの行為なのですが、そんなはずないのにと思えても、その不安が強迫観念化して消え難くなってしまうことで、強迫観念としてはそう思えてしまうのです。
強迫観念があるとそう思えてしまうのですから、強迫行為をして、そうならないようにすることで、強迫観念を抑えるのです。

強迫観念は現実のことだからこそ、強迫観念を抑えることが、現実を変える事になり、(不安としていることが)そうならないようにと、確認したことで変えられた現実への反応で安心できるのです。

強迫観念は現実反応なので、心の中のことであっても、現実と繋がっているのです。
ですから、現実に強迫行為をするしかなくなります。
不安を起こす現実状況(確認していない状況など)を変えるわけですから、現実問題の直接的対処です。

統合失調症と違って、強迫症では、普通(一般)がどうかが分かるからこそ不合理感や過剰感があります。
一般的には小さな汚れなのに、こんなにしつこく長時間洗うなんて、という意味でも過剰なのですが、反面、強迫観念があることで本人にとっては、ただの汚れではなく、耐え難い苦痛な何かが結び付いているので、実際にすごく汚く思えてしまうのです。

汚れのその度合いに合った洗浄をしているのですが、汚れの強迫観念が離れないことで、普通の汚れの洗浄よりも過剰になってしまうし、普通の人達の洗浄よりも時間がかかってしまう。
そういう意味での過剰です。

強迫観念=過敏性思考とも言えますから、一般の人よりも刺激に過敏であれば、強迫観念は浮かびやすく、感覚の違いにより、思考内容も一般的ではなくなりますが、非現実反応の頭の中だけの妄想とはまったく違います。

強迫観念を思考だとは分かっていても、その対象は現実のことだし、その現実とそれと結び付いた強迫観念の刺激への過敏性で、強迫観念が離れなくなれば、その対象である現実の苦痛も離れなくなりますから、その苦痛に耐えられずに、強迫行為をしないといけなくなります。

妄想は非現実なので、現実の強迫行為をしても、何も解消されませんが、それで妄想が消えるとしたら、その行為で妄想が消えたという妄想による力です。
それも妄想なのですから、実際には妄想で妄想は消せませんし、通常の妄想は、そうやって自分の意思でコントロールして役立たせることはできないので、妄想であれば、強迫行為をすることはありません。

ただ、妄想の人にそれとは別で強迫観念もあれば、強迫行為をするはずですが、それは統合失調症の範囲ではなく、強迫症が併存していることになります。
統合失調症を治す段階で、強迫症状が出る場合もありますが、統合失調症強迫症に対して治療的なので、統合失調症であったことで、重度の強迫症にはなりません。
そもそも神経過敏が原因で統合失調症にはならないので、統合失調症であった人は、神経過敏の病気である強迫症にもなりにくいのです。
逆に強迫症の人は、神経過敏過ぎて、統合失調しないので強迫症なのですから、統合失調症にはなり難いのです。

両方が混ざったような人もいなくは無いのですが、症状の違いは明らかで、統合失調のほうが薬で治しやすいので、そちらを優先治療するべきです。
そのタイプの強迫症状は、現実の過敏反応ではなく、妄想状態による過剰反応が関係していることも考えられますから、妄想を治すことで、強迫症状も治せるかもしれません。
つまり、実際には併存ではなく、強迫症に見える症状のある統合失調症の人もいるので、そういうタイプは、抗精神病薬強迫症状も治せるのです。

逆に、統合失調症に見える症状のある強迫性障害の人はいません。
統合失調症の症状は、強迫症の人の内面にはあったとしても、(理性が強固なフタとなり)恥ずかしくて表現ができないのです。
狂気が表面化されないからこそ、統合失調することがなく、内側だけ狂ったように病んでしまい強迫症状が続くのです。

統合失調していませんから、妄想が起こらないので、非現実の妄想には強迫されませんが、強迫症の人の脳内には、実は強迫行為でも対処できない強迫観念も多く、それらに慢性的にとりつかれて、異常思考が浮かび続けます。

それを現実だと思う妄想状態とは別で、本人はそれを妄想的で変わった考えであると分かっているのですが、雑念的に頻繁に浮かんでしまうことで、精神的に疲れて気持ちが晴れませんし、正常で前向きな考え方がし難くなってしまうのです。

強迫行為でも対処できないのですから、その雑念で強迫行為をすることもありませんが、脳内がそういう状態になっているので、強迫観念も振り払い難くなります。

うつ病の人が、前向きな言葉を言われると、それができないので、逆に不快になってしまうことと同じで、できないことが増えるほど、一般的には前向きで楽しいことも不快に思えるようになります。
楽しむことができない。これがうつ病にも強迫症にも共通する苦痛です。
楽しめないことで、益々、ネガティヴ思考が増えて、強迫観念も浮かびやすくなりますから、鬱が強いと強迫も強くなります。

正しいこととか、現実でなくても良いので、楽しめることができると、少しは改善しますが、それができないから困る病気なので、なかなか難しいことです。

前向きなことが書いてある話を読むのも精神的には良いと思いますが、それを読んで、こうしよう、ああしようと思っても、そういう精神活動だけでは、なんともできないのです。
できる人は、過敏性ではなく、完全に精神的問題の強迫症ですから、重症にはなりません。

一時的にでも楽しめるなら、それも良いのですが、それが冷めれば、むなしさが残ります。
あいにく、良い感情や思いや考えや記憶は、強迫的にならないので、長くは続かないのです。
悪い感情や思いや考えや記憶だと、不快な分、強迫的になり、なかなか消えなくなります。
それが強迫の苦しみです。

そういう病気の事実を知り、その上で、どう生きるかを考えたほうが、現実的です。

このことはもちろん、神経質とか性格での強迫症状範囲の人には関係ありませんし、軽症の人がこのブログを読めば、違う病気のようにも思えるでしょう。

実際に、症状も原因も様々で、軽症か重症かでも全然違いますが、このブログでは、基本的に重症の強迫性障害の説明をしています。

この病気は、まずどれが本当の強迫性障害なのかを知らないと、いくら研究しても、何の研究なのかが分からなくなり、それは治療にも理解にも結び付きません。

ですから、まずは、強迫性障害とは何かを説明しているのですが、その次に、どう生きたらよいかの話になります。

 

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精神は気質を変えられるのか?/強迫性の強さは、過敏性の強さに比例する

敏感気質(HSP/HSC)・・・実際に神経が敏感な気質。この範囲だと精神障害の症状がないので、精神障害には含まない。
敏感だからと言うだけでは、発達障害精神障害に含めないが、AD/HDや強迫性障害の人には先天的な敏感気質の人も多い。

神経質・・・脳や神経など器質的には異常がないが、自身の心の問題で敏感になってしまう気質。
一般の人にも多いが、そういう気質による精神(心、考え方など)の問題とされているので、精神障害に含まれる場合もある。
精神障害の範囲では、神経症とも言われていた。

神経過敏・・・神経が過敏(過剰に敏感)な状態。
過覚醒、易刺激性などとも言われ、先天的な敏感気質が強まって起こったり、普通の人でも後天的にストレスなどで起こることがある。

普通の人と同じように、神経質もストレスなどで神経過敏になったり、神経過敏が神経質を強固にすることも考えられるが、定義上、神経質は神経の過敏性とは関係が無いので、神経質の範囲には器質的な神経過敏や敏感気質は含まれない。

発達障害精神障害の人にも神経質な人はいるが、神経質は、健康人に起こる過敏状態のことを指し、神経質のみが原因となって、重度の精神障害にはなり難い。

神経質であるかどうかを問わず、神経過敏はストレス反応性の精神障害を重度化することは考えられる。

強迫症はストレスで悪化するが、ストレスから離れれば治るということはなく、ストレスから離れても、そのストレスが続いてしまう。
これが強迫状態なので、特定のことへの恐怖症的なストレス反応と違って、ストレスの持続性や反復性が強迫の特徴である。

強迫症の人は、物理的にストレスから逃れても、過敏性によって、感覚や精神的には、そのストレスから逃れられなくなってしまう。
結果、物理的にもストレスから逃れられないので、強迫行為で対処するが、過敏性によって、感覚や精神的には、ストレスが続き、そのストレス対象や同様のストレス対象への不安が残って消えない。
そういうのが、本来の強迫症的な強迫症状です。

森田療法では、強迫症状というのは、単に気のせいだとしています。

森田の説によると、神経が過敏とかではなく、神経質という気質が、神経質な精神(心、考え方など)を作り出し、それが原因で、過敏症状がでるそうで、強迫性障害もその神経質が原因としています。

神経質は器質には問題がなく、完全に心の問題であるならば、この場合の気質というのは、精神的気質のことで、敏感気質とかの器質の性質を含めた気質とは別のことでしょう。

そう考えると、神経質という気質は、精神の性質のことであり、簡単に言うと敏感な考え方感じ方をする思考や反応の傾向で、この場合、先天的な気質とは限らず、ある時から、そういう気質に変わることも考えられます。

気=心で、気の質=心の質とした場合、精神を正すことで、気質も変わるかもしれませんが、実際に神経過敏(器質的)な気質は、精神的にどうしようと治せません。

森田療法の場合、(器質的)な神経過敏は、治せないからこそ、それを除外して、療法に合わせた都合のいい病気(神経質)を作り出したのです。
これが強迫性障害神経症と言われていた病気の誤解の元になりました。

実際には神経過敏ではないが、神経質な性格だから、神経過敏になっているとしていますが、そういうことにしないと、森田療法の考えが通用しないからです。
確かに、それなら治せるとは言えるでしょうが、それはごく一部の限られた人達です。
器質的な過敏性のあるほとんどの強迫性障害の人は、森田療法とは無関係です。

森田自身は、悟りを得たと勘違いしている誇大妄想に近い完璧主義の神経質者でした。
おそらく、悟りを得て、完璧主義のこだわりが取れたとでも思ったのかもしれませんが、森田療法というのは森田の完璧主義への巻き込み症状なのです。

宗教をまねて、本人は教祖になったつもりで生まれた宗教療法が、森田療法です。
森田自身の完璧主義によって療法で治せない範囲は、認めたくなくて除外したのです。
というより、それらも単に神経質(そういう気質が原因の気のせいの症状)であるとして、強引に不安の強い人達をみんな神経質者にしてしまったのです。
全か無かという考えです。

森田療法では、健康で長生きしたい欲が強いから、過剰に危険回避をするのだとも言いますが、この森田の勘ぐりも妄想です。
うつ病で自殺したい人は、健康で長生きしたい欲が強いとか、トラウマ記憶の想起を回避する人は、普通よりも生存欲が強いからと言っているようなものです。

避けるから苦痛なのではなく、実際に、ストレス対象や強迫観念や症状自体が苦痛だから避けるのが強迫症です。
生存本能は誰にでもあるからこそ、人生が苦しくても、人は生きようとするようになっています。
その上での苦痛に耐えられないから、そういう危害とかそのことへの不安などを回避しようとするだけです。
その程度は、人それぞれですが、過敏であると、些細な刺激とかも大きなストレスになってしまうので、ストレス耐性が低い限りは、どうしても一般よりも過剰な危険回避が続いてしまうのです。

過敏であれば、刺激が多くなり、その刺激の度合いも強くなり、危険回避も過剰になりますが、それは当然、欲が強いからではありません。
深い意味はなく、強迫行為は痛いことを避けるのと同じで、正常な生理的防御反応なのですが、普通の人が苦痛にならないことに苦痛を感じるので、一般と比べれば過剰な反応になってしまう病気なのです。

何がどの程度のストレスになっているかは、経験や感受性などの違いで、人それぞれであり、本人にとって実際に危害のあること避けようとするのは、欲とは無関係です。
当然、誰だって幸せに生きたいのですが、特別にその欲求が強い人は、そうしようとします。
強迫症であると、むしろそのことをあきらめて、幸福感や充実感の無い人が多いのですが、強迫症状は続きます。
このあきらめは、ストレス耐性の低さが関係していて、現実のストレスや強迫観念や症状自体を乗り越える力がないのです。

欲求の反動とか心理的問題ではなく、過敏性により様々なことが実際に危害となって苦痛を受けるので、過敏である分、危険回避も過剰になってしまうだけなのです。
普通は害にならないことで、ダメージを受けて、そのダメージが残って離れなくなります。
そうなれば、不安も浮かびやすく、不安が浮かぶと、それも強迫観念として離れなくなってしまいます。
ストレス耐性が低く、現実のストレスや強迫観念の苦痛に耐えられないので、できるだけそういう強迫状態にならないようにするのです。
それが過剰な危害回避の症状です。

普通の人と感覚が違うことで、普通の不安レベルではなく強迫観念になってしまうし、思考や行動も普通一般と違うことで、障害になってしまうのです。

強迫性障害(強迫観念主体型)を性格の問題として考えると無理があります。
強い不安などが強迫観念化して離れないことで、そうなったら困る、だから、こうあるべきという思いも強くなりますが、こだわり自体にとらわれる病気なのではありません。
例えば、トラウマのある人が、その想起を嫌がったり、それを想起するような物事を避けるのは、こだわりが強いからではありません。
強迫性障害の人も、現実の刺激や不快な強迫観念によって、強くこだわらないといけなくなってしまうのですが、本人らとって実際に危害的なことへの防御反応による行為は、性格的なこだわりの強さの問題ではないのです。

問題は過敏性の強さでストレスに弱いことですから、それを無視して強迫症を語ることはできません。

森田療法は仏教は禅の思想の転用で、言っていることはほぼ仏教ですから、思想本としては、それなりの内容になっています。
仏教は禅の思想は、煩悩(簡単に言うと迷いや不安など)を無くすことが目的ですから、理屈で考えるタイプの人には共感させることができます。
だからこそ、そういう思想がある程度普及して、日本の文化背景に根付いているのです。
最初から布教しやすいようになっている思想なのです。

それを利用したビジネスですから、思想に共感した信者が増えて、本が売れたり、レクチャーできればビジネスとしては潤います。
実際には治せなくても、思想や療法を布教させられればいいのです。
それをするのは自由だし、信じるのも自由ですが、精神障害としての強迫性障害をそこに含めるのは止めるべきです。

それは今も続いていますが、それをまねたのが、現代の認知行動療法ビジネスです。
これらにはライセンスビジネス(患者ではなく治療する側への商売)の面もありますから、鵜呑みしないように注意してください。

不潔恐怖や汚染恐怖の認知行動療法(曝露反応妨害)なんかはとんでもないことです。
まだやっている所があるのでしょうか?
ストレス耐性の低い人には大変危険な行為なので止めてください。

汚染恐怖の場合の曝露というのは、汚染させることで、妨害と言うのは、汚染させたまま我慢させることですが、そんなのは治療ではありません。
だからこそ、普通の医師はやろうとしないのですが、ビジネスとして認知行動療法を宣伝している人達がいるのです。

重症患者でも治ったという話は、軽症患者の内の重症の人のことです。
そういう範囲だけのデータで、現実を軽視したり歪ませると、本当の強迫症から離れて、強迫性障害ではない病気になります。
その病気であれば、当然、治しやすくなりますが、強迫性障害が誤解される上に、本当の強迫症患者は治せないままになります。
止めてください。

その療法に適するように病気の内容を変えてしまうことで、理論上は治せることにできるのですが、そうしてしまうと、本当の強迫性障害患者には無関係どころか、ストレス耐性の低い患者には(受けようとしないとは思いますが)、療法自体がトラウマになって鬱も強迫も悪化してしまいます。
不適切で危険な行為です。
症状が悪化したら、どうしてくれるのでしょう?
ライセンスビジネスですから、そんなことは考えていません。

過敏でストレス耐性の低い人の精神症状は、普通の人の鬱病のようにしばらく休めば治るとかではありません。
悪化しない生活をするほうが大事です。


強迫症精神障害と言うより、精神神経障害である。

精神には感覚や神経による現実や思考への反応が関わっている。
妄想幻覚のように、現実に無関係の精神のみの病気もあるが、そこにも神経は関わっている。
だから、妄想幻覚の人も現実の簡単な刺激に過剰反応することがある。

自閉症統合失調症の人のように、周囲に鈍感な症状のある人は、刺激への反応がオーバーになりやすいが、それは刺激に過敏ということではない。
そういう行為で刺激を誤魔化すことができるが、本当に過敏な人は、そういうオーバーアクションができない(そうする刺激にも耐えられない)ので、周囲からは過敏には見えない。
だから強迫症の人は、過敏には見えない人も多いが、刺激に敏感であるほど、疲れるような反応表現はできないのである。
だから、それを避けて、静かで感情表現の少ない回避的な生活になっていく。

気の流れは神経を経路としているはずで、神経が過敏になっていると、気にも問題がでて、それは精神にも影響を与える。

強迫症の人の場合、不快な刺激や情報が神経や脳に長く停滞してしまう特徴があり、それがあって強迫症状が出る。


妄想的思考と妄想の違い

妄想というのは、妄想している対象が非現実にあり、強迫観念の対象は、現実のことである。

妄想の場合、それを現実に起こっていること、現実にあったことだと確信しているが、それは現実にはない。

現実に反応して、「自分の」考え、思い、イメージ、記憶、感情、感覚、などが停滞して離れなくなってしまうのが強迫観念や強迫感覚などであり、妄想は現実に無関係に、脳が自動的に作り出しているので、自分で考えているとかは思っていない。

現実のことに対して、妄想的な場合、妄想的思考とも言うが、それが自分だけの考えと分かっている(周囲の人達にはそうではないと分かっている)ならば、思考であることが分かっている状態なので、妄想ではない。

神経過敏でも普通の人とは感覚が違うので、変わった思考を持つが、それは統合失調症の妄想状態ではなく、過敏性の過剰思考なので、それこそが強迫性障害としては普通の強迫観念であり、その場合は、本人が人とは違う変わった考えを持っていると分かっています。
統合失調症の妄想だとそうは思えません。

長く強い痛みがあれば、それに違和感を持つのは当たり前で、強迫性障害の人が自身の症状が分かることも自然なことです。
しかし、強迫観念は考えたくも思い出したくも無いことなので、その症状を人に伝えるのは苦痛な場合も多いです。

普通の人のコロナ恐怖ならカウンセリングも可能かもしれませんが、本当にコロナ恐怖ならこの状況の中、カウンセリングに行くのも怖いでしょう。

本当にトラウマが苦痛だと、それを話すことができないので、PTSD症状があっても、治療も診断も受けられません。

それと同じように、強迫症的な症状は耐えられない嫌なことなので、話せない人も多く、特に汚染恐怖や感染恐怖が強いと、病院に行くことさえ困難な人も多くいます。

統合失調症のように症状が全部表面化される病気と違って、強迫性障害は他人には見えない病気です。
他人に見えないから、分からないなら、病気ではないと言う人もいますが、それは共感力や理解力が無いだけです。

神経や精神の障害は、分かり難いからこそ、強迫性障害という病気の内容も誤解されたり、ビジネスとしての療法に合わせて都合よく解釈されてきたのです。

統合失調症は本人が決める病気ではありませんが、強迫症の場合、患者本人が一番分かっている病気なので、患者の言うことがそのまま本人の症状です。

それもあって、様々な強迫性障害があるのですが、一般的にはステレオタイプ化され過ぎて、本当の強迫症ではなくなっています。

何度も確認したり、過剰に清潔にしたりする、「かもしれない」という不安が浮かんで離れない、そうなってしまうのは、強迫性障害だけではありません。

強迫性障害の特有の症状は、神経の過敏性による強迫状態であり、それを切り離してしまうと、強迫性がなくなって不安障害になったり、行為依存症や強迫性パーソナリティ障害、うつ病、性格の問題などでも起こる強迫状態と区別ができなくなります。

少なくとも、
強迫行為先行型(欲求や強いこだわり自体にとらわれて、その行為ができないことで強迫観念が浮かぶタイプ)
強迫観念先行型(現実のストレスや強迫観念の対処として強迫行為をするタイプ)
ぐらいのタイプ分けはしたいところです。

強迫観念先行型が過敏性の強迫症であり、本来の強迫性障害です。


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強迫性障害でも芸能人になれるか?/強迫観念の汚れは現実と精神を区別しない/強迫行為とポジティヴな心掛けの違いは?

わがままな言動は、人に迷惑をかけることがありますが、自閉症統合失調症だと、そういうことに気付けなかったり、人がどう思おうと無関心だったりしますから、自分の症状を隠そうとしないことで、周囲に対して平気でわがままを言うことがあります。
症状でそうなってしまうのですが、そういう病気でなくても、自己中心的で周囲に対して鈍感な人は、そういう傾向が強くなります。

HSP/HSCや強迫性障害の人は、周囲に対して敏感であるからこそ、人に迷惑がかからないようにと、気質や症状によって周囲と違和感が強くても、あまりわがままにならずに、本人の側が我慢をすることが多くなります。
無理して周囲に合わせるか、何か対策などを考えたりしますが、我慢することでストレスが強まりますから、どうしてもできないことは、回避をします。
強引に我を通せるほど神経が太くないこともあり、わがままにすることでの人との衝突のストレスや、それ以前に周囲の人のネガティヴな反応などの刺激にも耐えられないので、そういうことが起こらないようにと、調和的な行動を取ろうとします。
しかし、何かすれば、強迫観念や何らかのストレス対象に邪魔されて、強迫症状が強まりますから、良いこともし難くなり、できることが限られてしまいます。
気質や症状によって周囲の人と感じ方や考え方が違うので、みんなが平気でできることができなかったり、みんなと同じようにはできないことが多いのです。
強迫性障害の人は違和感に非常に弱く、症状による人との違いで、変に思われることが恥ずかしくて、そのギャップを隠そうとしますが、それが本人にとってはストレスの強いことで、症状が悪化したり、うつになったりします。

強迫観念として、「こうなってしまうかも」という未来の不安が浮かぶ人は多いのですが、それがほとんどありえない事ならば、そういう強迫観念とは別の普通の思考として、「そうでないかもしれない」などと思うことになります。

だからこそ、強迫症の人は、強迫観念を不合理だと思っているという説明が多いのですが、強迫観念に対してそういう面もあると言うだけで、強迫観念そのものは、「こうなってしまうかも」という不安なのですから、それが離れなければ、「そうでないかもしれない」などと思えたとしても、強迫観念によって、「こうなってしまうかも」と、どうしてもそう思えてしまいますから、不安や苦痛も続いてしまいます。

強迫観念を不合理だと思っているという説明が多いのは、妄想だと「そうでないかもしれない」などと思わないので、それとの区別と考えられますが、現実に体験しているストレスでも強迫観念は浮かびます。
「汚れたかもしれない」ではなく、「汚された」という思いとか汚染のイメージのように、現実のこととして確信している強迫観念もありますが、「かもしれない」ではないからと言って、それが妄想というわけではありません。

その場合の不合理感は前回書いたように、「そうでないかもしれない」などと思うことではなく、普通の考えや普通のレベルが分かっていることでの、不合理感や過剰感ですから、それがあるということは、統合失調していないわけで、妄想様の強迫観念であっても、統合失調症での妄想とはまったく違うのです。

強迫観念に対して「そんなの気にするな」と思えても、強迫観念が離れなくなってしまう障害なのですから、強迫観念が離れないことで、どうしても気になってしまうし、「ありえないのに」と思えたとしても、強迫観念がある限り、ありえるように思えてしまう。
それは、不安などの苦痛を強めますから、その強迫観念が現実の何かに対する思いであれば、そのストレスの対処として、現実行動の強迫行為をしないといけなくなります。

強迫観念や強迫行為は、常に普通の思考との対立があり、その葛藤も強迫症での苦しみなのです。

統合失調の場合、妄想や幻覚などの間違った非現実側に普通の思考が統合してしまっているので、正常な考えができなくなります。
それは、周りから見れば、支離滅裂で統合失調しているように見えますが、ある意味、本人的にはまとまっているので、妄想や幻覚と普通の思考との葛藤の苦しみがありません。

強迫観念は現実反応ですから、非現実に没頭することで、強迫観念の苦痛から逃れられます。
統合失調症や解離、自閉などの現実逃避的な症状は、強迫症には治療的ですが、そういう症状が出ないからこそ、強迫性障害なので、長年強迫症の人なら、そういう病気にはなりません。
意識的に現実逃避しようにも、現実のストレスから離れられずに、強迫観念も浮かびやすいままになります。

妄想や幻覚には苦痛があるとは限りませんが、あったとしても架空世界の苦痛であり、その苦痛は薬で消せます。

強迫観念には必ず不快感があり苦痛が結び付いていて、幸せな強迫観念というのはありません。
そして、強迫観念は現実の何かに反応して浮かびますから、薬で現実は変えられないので、薬で強迫観念は治せずに、強迫行為をするしか対処方法がありません。

強迫症は自然と治っていくのではなく、敏感でストレス耐性が低いことで、その症状を止めることができませんので、反復性により、自然と悪化して行きます。

一時的なストレスで過敏になって、一時的に強迫症になっている人なら、治せる可能性もありますが、長い期間症状が続いている人は、特に治しにくい病気です。

器質的な過敏性によるストレス反応の強さと、妄想によるストレス反応の強さは別のことで、妄想反応での大げさな反応は、架空の過敏ですから、妄想を治すことで、過敏も治せます。

強迫症の過敏は器質的な原因であり、過敏性によるストレス反応の強さで、強迫観念も強まり、ストレス耐性の低さから、その強迫観念がダメージとして長く残り、なかなか消えなくなります。

それを対処しようと仕方なく強迫行為をしますが、それも苦痛なのです。
そういう一連の強迫症状による苦痛(現実のストレス、強迫観念のストレス、強迫行為のストレス)は、過敏性が強く、ストレス耐性の低い人であると、うまく処理できません。
そういったストレス(刺激や情報など)が神経や精神に残り続けてしまうからです。
だからこそ、強迫性障害と言う病気があります。

強迫性障害から、過敏性の問題を切り離すと、強迫性障害という病気の範囲に、本当の強迫症患者が含まれなくなります。
強迫性障害ではない人(パーソナリティ障害や不安障害、統合失調症の人など)や軽症患者の範囲だけで、治せると言っても、それは強迫性障害の治療とはいえません。

器質的な神経過敏は、心理療法認知行動療法では治せませんから、器質的な神経過敏によって生じている強迫観念も治せません。

認知行動療法では、汚染のように、今現実に起こっているストレス反応での強迫観念も、強迫行為をしなければ、自然と消えることになっていますが、苦痛から逃げると、苦痛が強まるという考えは、過敏性の強迫性障害には当てはまりません。

過敏性が強く、普通の人がストレスを感じないことで、強いストレスを感じて、過敏であることで、そのストレスをうまく対処できなくて、その反応としての強迫観念も浮かび続けてしまうのです。
強迫観念と苦痛は一体であり、それへの対処として強迫行為をするので、強迫行為をしないようにしても、強迫観念の苦痛は消えません。

認知行動療法は、強迫行為を止めて、ストレス対象の曝露に慣れれば平気になれる、という依存症の治療に似た考えです。
止められない行動が欲求的なことである場合は、それができないことで苦痛が生じるので、欲求的行為を求めなくなれば、苦痛もなくなります。

しかし、強迫性障害の強迫行為は、何らかのストレスへの拒絶反応的な行動ですから、強迫行為を止めても、強迫行為を起こさせるストレス対象が消えないのです。
それを我慢して慣れさせようとしても、ストレスへの感受性が強いので、強迫観念が浮かぶのですから、強迫性障害であれば、そのストレスに耐えられるほどのストレス耐性がありません。
強迫性障害向けとされている認知行動療法は、過敏性を無視した、まったく無茶な理論なのです。

無理にでも我慢してやったほうが本人のためとか言っている人がいますが、そういう人の言っている強迫症は、性格的な考え方の歪みが問題での強迫症のことですから、それはごく一部の人に過ぎません。
そういう人は、そういうのが全ての強迫性障害だと誤解しているか、ビジネスとしての認知行動療法を普及しようと、強迫性障害をわざと誤解して宣伝しています。
認知行動療法で治せる範囲の強迫症しか語れなくなってしまうのです。

敏感でストレス耐性が低いために、様々なストレスで強迫状態になりやすいのが、本来の強迫症で、そういうタイプの人に曝露反応妨害をすれば、余計に症状は悪化します。
ただ、それ以前に、そういう療法には取り組めませんから、そういう話が少ないだけです。
治りましたと言う症例は、取り組めるレベルの人達なので、軽症とか不安障害レベルの範囲の話しであり、本当に強迫性障害なら、曝露反応妨害のストレスに耐えられないので、それで治せるわけがありません。

ストレスに反応して、強迫観念が浮かび、その強迫観念が離れない状態も大変なストレスになります。

強迫症の人は、元々から現実や強迫観念によるストレスに晒され続けていて、それに慣れるどころか、曝露の連続で、逆に強迫観念の反復性が強まり、強迫症状が強固になってしまうのです。

強迫観念は現実の反応ですから、強迫観念が離れないと言うことは、現実の苦痛も続くことになります。
意識的に空想したりして、現実逃避しようとしても、強迫観念が離れませんので、空想に没頭できず、その空想が強迫観念で病んだ内容になり、妄想様強迫観念になります。
妄想のように風変わりで異常な強迫観念になりますが、現実との結び付きが強く、統合失調症での妄想や幻覚とは違い、薬が効きません。

以前に書きましたが、強迫症であると、狂気的な思考が内面には浮かびやすくなりますが、それは表面化されません。
ネガティヴな気持ちや感情の刺激に弱く、そういう思いが表面化できずに、社会や他人に対するそういう思いも、内側に向かって、自分自身を傷付け、思考が病みます。

非現実的(実際にはありえない事)だけど、さほど不快ではないなら、強迫性は低く、心に頻繁に浮かんでも単に雑念的な思いとして、それほど気に止まらずに、自然と消えていきます。
非現実的(実際にはありえない事)だけど、不快な内容なら、強迫性も強く、それが頭から離れないことは苦痛ですから、頭の中だけでの強迫行為をすることになります。

強迫症の人は、そのような頭の中だけでの強迫行為も頻繁に行っているのですが、それだけでは解消できない強迫観念も多いからこそ、現実行動の強迫行為をすることになります。

強迫観念は何分か放置すれば、自然と消えるという考えは間違いです。

何分か放置すれば消えるなら、強迫症の人は、みんな最初からそうします。

嫌な思いには、なんであれ少なからず強迫性がありますが、自然と消えるなら強迫性は低く、それは普通の不安思考や雑念などのことです。

不安な思いであれば、その強迫性が強いと強迫観念になり、強迫性が強ければ、苦痛も強く、放置することができません。
それを放置できるようなストレス耐性の強さがあれば、そもそも強迫症にはなりません。

放置ができなかったり、放置しても自然と消えないのであれば、それが強迫症的な本当の強迫観念なのです。

トラウマ記憶の想起と同じように、強迫観念そのものが苦痛で、それがなかなか消えなければ、気にしないわけにはいきませし、実際に苦痛なのですから放置もできません。

例えば、映画などのバイオレンスなシーンが苦手な人が、その場面だけを無理やり何度も長々と見せつけられたら、慣れて平気になれるでしょうか?
その映画を見終わった後に、その苦手なシーンが強迫的に頭の中に浮かび続ければ、それが実際のことではなくてもその人は苦痛なのです。

強迫症であると、記憶であれ思いであれ考えであれ、そういう考えたくも思い浮かべたくもないことが、なかなか頭の中から消え難くなっているのです。
トラウマと同じで、苦痛だからこそ忘れられずに、繰り返し思い浮かんでしまうのです。
強迫症的な強迫観念の場合、それは現実の何かへの不安や恐怖や嫌悪なので、そうならないようにと確認などの強迫行為をすることもあれば、その思い自体が苦痛で、不安を消すために強迫行為をすることもあるし、汚染などのように、実際のストレス対処として、強迫行為をすることもあります。

強迫観念は、何らかのきっかけ(ストレス対象の曝露)で強まったり、強迫行為で弱まったりしながら、慢性的に続きます。
強迫観念はもちろんのこと、その反射で起こる強迫行為もめんどうで苦痛ですから、強迫症の人の現実のストレス対象は、強迫症状を引き起こす(強迫観念を強めたり、強迫行為をしないといけなくなってしまう)物事になります。

強迫症の人にとっては、不安にさせることが、実際には起こってないことであろうと、ほとんど起こらないことであろうと、強迫観念や強迫行為の苦痛も実害ですから、強迫症状自体を引き起こす物事に対してストレスを感じて、それを避けようとします。

ただし、汚染のように頻繁に起こりえることとか、実際に起こっている問題の対処として、強迫行為をすることもありますから、強迫行為は直接的には実際の問題の解消にはならないと言う説明は不適切です。

強迫観念というのは基本的には嫌な思いなのですが、嫌な思いは誰にだってあります。
ですが、普通の人は、慢性的にそれが消えなくなったりはしないので、強迫観念にはならないのです。

強迫観念は、ほっといても消えないからこそ、強迫行為をしないといけなくなって強迫症状が出るのですから、何もせずに何分か待ってれば消えるようなら、そういう不安思考では強迫症にはなりません。
そういう不安思考に近い普通の人の強迫観念が治せるのは当たり前ですが、それは強迫症の治療ではありません。

例えば、手に泥汚れが付いて、何もせずに放置していれば、自然と洗浄されるでしょうか?
その手で、何かを触れば、他のきれいな物も汚れてしまいますから、汚れたら実際に洗浄するしかありません。
そちろん手とか他の物が汚れようと気にならない人は、洗わなくて済みますが、強迫症であると、過敏で違和感自体に弱いので、小さな汚れとか、直接は見えないような汚れも気になってしまうのです。

そして、強迫観念には、なかなか離れない付着性がありますから、強迫症の人はほとんどみんな強迫観念の汚染恐怖になっています。
様々な強迫行為がありますが、強迫観念を洗浄しようとすることは、みな同じです。

何が不安で何が恐怖で、どの程度それが苦痛なのか、それは感受性などによって、人それぞれですが、強迫症の人は敏感でストレス耐性が低いので、不安や恐怖を感じることが多く、それを神経や脳がうまく処理できずに、強迫観念や強迫感覚として長々と残ってしまいます。

強迫症状は身近な日常のことで起こりますが、普通の人はその範囲では平気なことが多くても、過敏性が強いことで、その安全な範囲でも危険が多くなってしまうのです。
「汚れ」への嫌悪というのは、一種の違和感なのですが、具体性がありますから、何が汚れでどの程度の嫌悪や苦痛があるかは、人それぞれです。

汚れに苦痛を感じるのは、その汚れ自体の不快感だけではなく、その汚れの元となっている物事に嫌悪や恐怖がある場合が多いはずです。
ですから、汚されることの不安や、嫌悪や屈辱感も強くなり、人によっては、その汚れによって、病気になったり、汚れの対象と縁ができてしまうのではとか、そういった不幸ごとへの恐怖にも繋がっています。
汚染恐怖と言うのも強迫的な関連付き(嫌なことと良いことが関連付いてしまう)恐怖なのです。

不道徳なこととか、残酷なこととか、グロテスクな物事とか、そういう不快な刺激を感じることが苦手な人はいますが、それに汚い感じが結び付くと、強迫症の場合、関連強迫によって、その感じが離れなくなってしまいます。
そうすると、その不快な物事への同化恐怖(そうなってしまうのではとかの恐怖)が強まり、それが強迫観念として離れなくなれば苦痛なので、洗浄して無関係にしようとするのです。

そういう症状があるので、避けるべきこととして、考えたくも思い出したくもない嫌なことが常に思い浮かんでしまうのですが、それは実際に本人にとっては危害のあることなので、気にしないことはできないのです。

感受性の強さによって、そういう苦手なことの記憶や思いなどが強迫観念になり、強迫観念の付着性で、そういった物事でも汚染されるようになります。

グロテスクな物が苦手な人は多いし、テレビや新聞の不快な(不幸事の)ニュースなどが見れない人もいることはいるかもしれませんし、PTSDであれば、症状としてそういったことを避ける人はいます。
強迫性障害の情報汚染や精神的汚染の症状がある人だと、そういったことに汚されて、汚された物を捨てたり、洗えるものなら長時間洗浄しないといけなくなります。
だからこそ、テレビ、新聞、雑誌、会話などに拒絶反応が出るようになり、そういう情報に晒されやすい場所(コンビニ、本屋、休憩室、病院の待合室など)に入ることも困難になります。
そして、テレビ局や新聞社、出版社などの近くにも行けなくなり、そういった汚い場所に出入りする人とも接触できません。

なので、汚染恐怖の強い人だと、マスコミに関われませんし、本の出版なども困難です。
芸能人に潔癖症の人は多くいますが、強迫症だと芸能界を汚く感じるので、芸能人にはなりにくい病気です。
もし芸能人が重度の強迫症(情報汚染恐怖)になってしまったら、芸能界にはいられません。
いるとしたら、やはり、一般的な意味での潔癖症か、一般的な説明に出てくる軽度強迫症の範囲か、(病気ではない)完璧主義による強迫傾向のある人でしょう。

精神障害レベルの強迫性障害だと、日常生活だけで精一杯な人が多いので、日常生活のめんどうを誰かにやってもらえればいいのですが、汚染恐怖があると、そういう手伝いで汚されてしまうので、何でも自分一人でやることになり、日常生活以上のことに取り組むのが困難になります。
芸能人に限らず、社会的活躍が難しい病気です。

強迫症の場合、汚れのイメージが(強迫観念として)何かに付着すれば、それがなかなか離れなくなりますが、強迫観念は、現実反応なので、それはイメージであっても、妄想ではなく現実の何かの汚れです。
感覚と強迫観念による、間接的、または、直接的な接触があっての汚染です。
現実と精神の区別はあっても、強迫観念は、現実と精神が同化しています。
イメージだとしても現実との結び付きがあるので、妄想ではありませんが、精神的な汚れでも、物質的な汚れに等しくなります。

視覚的汚染+精神的汚染なのですが、強迫観念自体に、付着して離れない性質があるので、汚れが強迫観念化していれば、その汚れが付着して離れなくなり、強迫的に汚染されるのです。

例えば、不快なテレビ映像が自分に向かって映し出されれば、その映像が普通の一時記憶ではなく、強迫観念化して、強迫観念の付着性により、映し出された映像が自分から離れなくなり、そう思えてしまうと、その思い(強迫観念)が離れなくなりますから、物質的な汚れと同じように汚染されてしまうのです。

ただ、これはもちろん、それを汚れだと感じているから、それが強迫観念になってしまうのであり、汚れだと思わない人なら、映像を不快に思っても、そういう症状は出ません。

汚染恐怖の症状は、普通の人でもある程度は汚いと思う物事を、普通よりも過剰に汚いと思って、強迫症状が出るというだけなら、まだ一般に近い軽症範囲(不潔恐怖)であり、普通なら汚染されないことで汚染されて洗浄しないといけなくなってしまうのが、精神障害範囲の汚染恐怖なのです。

汚染の強迫観念があると、汚い物に近付いたり、そういう言葉聞いたり、そういう文字を見たりでも物質的な汚れと同じように汚れる人は多いのですが、それは、物質の光の反射とか、映像の光とか、音(言葉)による空気の振動とか、そういうレベルでも接触を感じてしまう過敏性があることと、強迫観念自体の付着性による症状です。

汚染恐怖の強迫観念は、時空間的に広範囲にあり、どこどこの汚染区域やどこどこの汚らわしい建物への恐怖があれば、いつまで経っても、そこからの汚れを頭の中で追跡して、汚染されないように警戒してしまいます。

その汚れの程度は、視覚ではなく、強迫観念の嫌悪感や付着感の程度によりますから、嫌悪感が強いほど、洗浄が長くなったり、汚染が取れないと思えれば、捨てることも多くなります。

汚れの考えイメージなどが強迫観念となって何かに付着すれば、それは汚染として認識され、その強迫観念が消えないからこそ、汚れも離れなくなりますが、その汚れも大抵の場合は、不幸なことへの恐怖と繋がっていて、不幸になってそれを対処できないことでの恐ろしさが汚染恐怖を強めるのです。

しかし、強迫症の人の場合は、ストレス耐性が低くて、実際にそうなればダメージが大きいので、妄想的な心配ではありません。
実際に、日常生活さえままならない症状があるのですから、大変な状況になれば、さらに生きるのが大変になり、そうならないようにと、自然と強迫症になってしまうのです。

強迫観念はネガティヴなので、強迫行為というポジティヴで中和、浄化したりするのですから、強迫行為は楽しい気持ちで積極的にできれば一番良いのですが、現実のストレスや強迫観念への拒絶反応的(生理反応的)な行為なので、そのように意識的で自発的なポジティヴ行動として強迫行為をすることができません。

ポジティヴ行動というのは、強迫観念を解消しようと仕方なくすることではなく、そういったことに関わらず、自由な意思で行うことです。

上に書いたように、強迫症の人は、何かをしようにも強迫症状に邪魔されますから、ポジティヴ思考やポジティヴ行動が難しくなります。

できなくてもそれを心がけることで、多少は強迫症状にも良い影響があるかもしれませんが、それも難しいのです。

ポジティヴ思考で行動すれば、何らかのストレス対象に曝露されやすくなり、反射的に強迫症状に邪魔されれば、ポジティヴの反動(落差)で、その時のダメージや落ち込みを大きく感じます。
強迫観念を持ったまま慎重に用心しながら行動したほうが、不安なことが起こり難いし、ダメージも減らせますから、ポジティヴ思考やポジティヴ行動が怖く感じてしまうのです。
ただ、慢性ネガティヴが続き、うつにも良くありません。

何らかのストレス対象に曝露された時に、ポジティヴ思考でポジティヴ行動を取れるようなら、そもそも強迫性障害にはならないので、強迫性障害である限り、そういう前向きな人生を送れません。

強迫性障害が治れば、それもできますが、強迫性障害であれば、ポジティヴ思考でポジティヴ行動をし難いので、ポジティヴ思考やポジティヴ行動で、強迫性障害を治すことはできません。

心理的な原因の病気なら、ポジティヴな心掛けが効きますが、強迫性障害は器質的な病気なので、ポジティヴな心掛けとかに関係なく、強迫症状は続いてしまいます。
むしろ、ポジティヴに生きることが怖くなってしまう病気なのですから、ポジティヴ思考やポジティヴ行動というのは、強迫性障害を治してから、できることなのです。

その逆は強迫性障害であれば、できません。
どんなダメージも受け入れる覚悟があればできますが、そういう人は強迫症にはなりません。

しかし、まったくできないことはないし、多少でもそうできるのであれば、強迫性障害を治すためではなく、それとは別の意味で、できる限りはしたほうが幸せが増えるはずです。

少なくとも、強迫性障害(強迫症状)だけの人生よりは、そうしたほうが充実します。

強迫性障害は治せませんから、強迫行為が増えるのは仕方ないので、症状で落ち込んでも、強迫行為を済ませたら、またポジティヴに物事に取り組めるようにすることを、できるだけ意識するのです。

当然、強迫性の抑うつ症状(神経に触れることを避けての不活発状態)のある人にも難しいことなので、無理なく休みながら、少しだけでもポジティヴになれることを増やす程度で良いのです。

何で幸せを感じるかは、人それぞれの面もありますが、強迫行為とは別で、自発的に心地良くなれることに素直に心開ければ、心の闇にも光が差すでしょう。

そうすれば、今までよりは安心して未来に向かいやすくなります。


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