強迫性障害の全貌

強迫性障害の知識の普及 Link Free

強迫症とトラウマ

トラウマに悩んでいる人は、トラウマのことを人にまったく話せないこともありますから、トラウマに触れたくなくて、治療に向かえず、病名も付け難いことになります。

トラウマによる精神障害はいくつかありますが、一般的な意味で言うトラウマ(精神的に傷付いた体験の記憶)も強迫観念になりえます。

トラウマが強迫観念になっていると言うのは、そのトラウマによって、何らかの強迫行為をしないといけない症状があることです。
頭の中でトラウマを振り払おうとしたり、トラウマ関連の物事を回避しようとするのも強迫行為ですが、トラウマ以外の強迫的な思いが浮かびやすいということがなければ、PTSD/複雑性PTSDとも考えられます。

複雑性PTSDでは、トラウマが原因で解離症状なども出るようですが、強迫性障害の範囲では嫌な記憶や感情が残り続けますから、トラウマ記憶が脳に常にあることになり、解離は起こり難いはずです。

強迫性障害の症状とトラウマが合併すると、トラウマを想起してしまう物事を見聞きするだけでも汚されて、全身洗浄しないといけないとか、トラウマによる過剰な心配で確認が増えるとかの症状が出ます。

習慣的な癖での強迫行為とか、依存症傾向の強迫行為の範囲であれば、治しやすいのですが、それは本来の強迫性障害の治療にはなりません。
本来の強迫症状は好きなことへの欲求が抑えられない依存症とはまったく違い、強迫観念が強いほど、強迫行為も苦痛になりますので依存症にはなりませんし、癖のようになんとなく強迫行為を繰り返すこともありません。
強迫行為を行いたくないので、回避が増えますが、それも強迫行為ではありますから、回避症状も回避するようになり、人生を楽しむことができなくなります。

トラウマや強迫観念の内容は、できれば考えたくも思いたくもない嫌なことですが、それがなかなか消えないのはなぜでしょう。

行動療法などでは、嫌な思いを振り払おうとすればするほど、嫌な思いにとらわれるという考えがありますが、その起源は大乗(後期)仏教の教えにあります。
悟りを求めて、煩悩を無くそうとする気持ちが強いと、余計に煩悩が強まり悟りが得られないというような考えが元になっています。

禅なども含めて仏教的な思想では、無執着であることが真の自由で、何かに強くこだわったり、善/悪、浄/不浄などの分別意識が強過ぎたりするのは、悟りの獲得のための心の平安の邪魔になってしまうというような考えがあります。

日本の文化背景などには、そういう仏教的思想の影響が強くありますから、強迫性障害で出るような症状は、精神的に未熟という感じで思われる場合が多く、日本では余計に強迫行為を人に見られるのが恥ずかしいこととなってしまいます。

後期の仏教では、煩悩があることで悟りに繋がるのだから、煩悩も悟りの内にあるように考えて、煩悩を過剰に否定したり抑制しようとして余計に煩悩を強めることがないようにしました。


現実的に考えると、一般的なこだわりや執着や悩み事と、強迫症状での強迫観念は同じようには扱えません。

腕に傷ができて、それがしばらく治らないとしても、こだわりがあるから傷やその痛みがなくならないわけではありません。
同じように、トラウマとか嫌な記憶、強迫観念というのは、自分の意志でこだわってそれがあるわけではなく、意に反してあるので、こだわりたくなくてもそうしないといけなくなります。

感情だけなら時間とともに弱まりますが、体の表面だけの傷と違い、トラウマや強迫観念は、恐怖や嫌悪感、不安などの感情と一体になっていて、そこから嫌な感情だけ切り離すことはできません。

強迫観念としてのトラウマは、現実にあった記憶と恐怖感などが結び付いている心像などで、しばらく放置して弱めようとか、しばらくあるがままにして弱めようとかしても、そういう意に反して存在してしまい、その思いと苦痛を抑えられるまでどうしても強迫行為をしないといけなくなります。

トラウマと強迫観念は治し難いので、その周りにある精神的、環境的問題を改善することに目標を定めると良いでしょう。