強迫性障害の全貌

強迫性障害の知識の普及 Link Free

強迫性フラッシュバック/心的外傷後強迫症

強迫性障害でも転換のようなことはあり得ると思います。

強迫症だとヒステリー転換(解離)も起こらないので、それとは違いますが、過去の体験で感じた怒りとか憎しみとか不安な気持ちを心に閉じ込めて、それが消化されずに(忘れられずに)、後々、身の周りの不快な刺激にその気持ちをぶつけて、それをなくすことで、元の不安などを消化しようとします。

例えば、いじめられたりして、我慢して耐えて、相手に汚されたような気持ちを心に閉じ込めた場合、後々、その怒りが身の周りの不潔なことなどに方向転換することで、強迫症状が出ていることもあり得ます。
もしくは、受験などで間違えてはいけないという強い不安が続いて、後々までその不安が消化されずに、過失恐怖などとなって、繰り返し確認などの症状が表れたり、やることなすこと慎重になったり、やり直しが増えたり、緩慢になり、周りからはノロマな人だと思われます。

一番怖いのは、暴力などで受けた苦痛を、相手とはまったく別の他人に暴力をし、憂さ晴らししたり、苦痛を与えることで自身の苦痛を薄めようとすることです。

苦痛を解離しようとするわけですが、強迫症の人は解離にならないので、攻撃的な思いが浮かんでも、その分、正気も強くなり、理性や自制心も強くなります。
神経過敏で人の痛みにも敏感なので、暴力的なことは自分の痛みになってしまうので、そういう状況や情報を過剰に避けて、実行する可能性はほぼないのですが、そうしてしまうかもしれないという不安があれば、加害恐怖などの強迫観念が強まることはあり得ます。

過去に危害を受けた時に、相手を正せなかったという思いから、不正なことや不道徳なことに対して不快感が強くなり、潔癖強迫になったり、身の周りの不正に攻撃的になってしまうこともあり得ます。

それらは、転換というよりは、過去の嫌な体験と同じような嫌な気持ちになってしまうことに過敏反応して拒絶したりしているだけかもしれませんが、それが強迫観念を強めることにもなります。

PTSDではトラウマ記憶の想起が強迫観念になり、トラウマを刺激する物事を避けてしまうようになりますが、一部のPTSDの人は、現実のようにはっきりとした幻覚様のフラッシュバックが起こるそうです。
強迫症では解離性のフラッシュバックもありませんが、脳内で嫌な記憶が度々はっきりと想起されるようにはなります。
自分の思いの中でのみ起こる強迫的な記憶の想起は、解離による幻覚様のフラッシュバックではなく、強迫観念ですから、強迫性フラッシュバックと言えます。

強迫観念主体の強迫症の人には、トラウマ的な体験があることも考えられますが、症状の元になっている体験はもう過ぎたことですから、危害を受けたことなどを許すか忘れるかできるまでは、強迫症状も続いてしまいます。
ところが、自分が悪くないのに、自分を苦しめた体験を許すとか忘れるということはなかなかできることではありません。

そのことで、人類は昔から悩んでいたのですが、その症状の大元の原因となっている体験が、実は前世にある場合はどうでしょう?

これも古代インドの宗教的思想で、カルマなどとも言いますが、もしかすると生まれる前の過去世では、人に危害を与えてしまい、そうすることでの苦痛を知るために、今生では、人から危害を与えられる立場になった。などと考える思想です。
自分の身に起こったことは、元々は自分で撒いた種の結果だと考えれば、許したり忘れたりもしやすいからです。

前世とかは確かめられないことで、あるとしてもまったく別の肉体ですから、それを自分と考えて良いのかという疑問もありますが、方便(良い方向に導くための作り話)としては、そういう思考方法も1つの解決策かもしれません。

大体の人は普通に生きていれば、与える受けるという関係をし合うことになってしまうので、釈迦などは輪廻転生の輪から逃れることで人間的な苦しみからも逃れられると考えました。
輪廻転生の輪から逃れるには、因果関係から逃れることで、そうするための生き方を教えたのが仏教の始まりで、その生き方は、簡単に言えば善行で、正しい知識を持ち、良いことをして、悪い考えをなくし、悪いことはしない。ということです。
怒りとか憎しみなどは持たずに、この世の仕組みを理解した正しい考え方をして、無私欲の奉仕的な生き方をする。
ある意味、悟りはその中の一項目に過ぎなかったのです。

それを続けることで、輪廻転生の輪から離れて行き、最終的には、究極の平安である涅槃に入ることを目標としたようです。

釈迦の時代の仏教の出家者(俗世間から離れ解脱を求める修行者)は、欲を出さないようにしていましたが、それでもお腹は空くので、定期的に俗世間の家にお布施(食べ物とか)をもらいに行くのです。
出家者にお布施を与えた者には徳が積まれることになっていたので、お布施をもらってもお礼は言いません。
お布施をもらうという行為をすることで、相手に徳を「与える」からです。
出家者は与えられることはせずに、与えることだけができる社会システムがあったのです。
それで求められれば、悟りの知識のような話を説法したりして、また相手に徳を積むのです。

現代日本には、人助けしようにも自分が病んでいてそれができないとか、ほぼ引き篭もりで、何にも良いことができないという人も多いと思います。
良いことが出来ないなら、すでに誰かの役に立ってるのではないかと、考え探してみると何かあると思います。
例えば、他のダメな人がそのダメな人の存在を知れば、反面教師にして、「ああはなりたくない」と、ダメにならないようにするかもしれませんので、存在するだけでも少し役立つわけです。

人助けをするには、助けられる立場の人もいないといけません。その両者があっての善行です。
本来的には徳を積みたいとか、感謝されたいとかでなく、無私欲の奉仕精神で困っている人を助けたいわけですから、助ける側も無私欲のピュア気持ちを持つことで、お互いに善行ができるのです。

寝たきりの人と、社会的なエリート、表面的には大差があるが、本質的には同じ1つの存在である。
そうは言っても本質は社会にはほとんど表れないという現実があるので、この現実への執着が強いほど、一体性(無我、平安)から離れて、自我が強まり、苦しみが増える。
俗世間から離れたインドの出家者でも悟りを得るのは大変なのに、現代日本の社会の中ではさらに困難です。
それで現代では、生きている人というよりは、亡くなった人が涅槃に入れるように、お経を読むことが多くなったようですが、それは地上に残された人を癒す目的もあります。

悟りを求めるのは、必ずしも不完全恐怖があるからではなく、そうすることが人類の目的だと考えられていたからです。
苦しみを完全になくして、完全な平安を得る。そうしたいならそれでいいし、物質的に恵まれず社会的に不自由の多い人は、そういう方向にしか希望を持てません。
不完全恐怖が強くて、そうせずにいられない人もいれば、不安を少しでも減らすために、そういう考えを取り入れる人もいると思います。

健康な精神状態の人なら瞑想もいいし、無心に近い状態になれるかもしれません。
ただ、強迫観念の強い人は、自我が強固なのでなかなか困難だと思います。
意識しなくても少々であれば人はすでに悟っています(本質を得ている)から、あえて悟りを求めることは時間の無駄(不合理)に終わる可能性もあります。
どうしようと自由ですが、ダメならダメで見切りを付けて、現実の社会的な仕組みを理解し、WinWinの関係を探し、気付き、作るべきです。


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