強迫性障害の全貌

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強迫性障害と自我//完全強迫と悟り強迫

前回、強迫症の人は嫌なことが記憶から消し難いことを書きました。
自分を忘れることができないのです。

普通の人でもボーっと空想に耽ることはありますが、空想に入り込んで、現実と同一視したり、そのことで幻覚様の体験をすることはありません。
ところが、解離傾向の強い人は、そういうこともあり得ると考えられていて、例えば、小さな子供です。
「お空にダンゴ虫がいっぱい飛んでるよ!」などと空想めいたことをよく言うのですが、通常は大人になれば、そう言っていたことさえ忘れてしまいます。
生まれてしばらくの間は、そもそも自我がはっきりとは確立してないので、空想や夢と現実の区別や昨日と今日の区別などがあいまいで、記憶も忘れがちでチグハグになりやすいのです。

解離は、転換なども含まれますが、分離とか分断とかに近い意味があり、自分(自我)とかその記憶が分かれたり、一部だけ消えたりすることです。
普通の人はずっと同じ自分で、その記憶も同じ自分の記憶で、ストレス感情なども自分で抱えて処理するのですが、解離があるとそういう同一性が困難になります。
辛い体験だけ忘れたり、ストレスの強い時に起こったりもするので、トラウマ記憶や現実的な強いストレスに対する防御機能だとも考えられていますが、それだけでなく、幼少期や子供の頃にありがちなことが大人になっても続くという意味では、発達障害の面もあるはずです。

強迫性障害の人でも、強迫観念が浮かばないように、トラウマ記憶や現実の不快な刺激を緩和しようと空想に耽ることも多くなりますが、自分の思いや記憶に現実の嫌なこと(強迫観念)がしがみついているので、空想に没頭しようにも入り込むことはできません。空想と現実を同一視することもありません。
解離してストレスをかわそうにも、自我に強固に付着している強迫観念がそれを許しませんから、強迫症の人は、PTSD症状を併発しても解離は起こりません。
ストレスは全て真に受けることになりますが、強迫観念が自我(自分の存在意識や人格、その記憶など)の同一性を確固にしますから、普通の人と同じように正気もあり続け、解離や自我の分裂や崩壊なども防止して、他人に危害や迷惑をかける危険性は少なくなります。

強迫観念は自分の意志ではコントロールできませんが、自分(現実)から解離しているわけではないし、現実の嫌なことと結び付いていますから、強迫症の人はそれが自分の心の内にしかない自分だけの思いであると認識します。
強迫症には多かれ少なかれ妄想的思考があり、一般の人なら思わないことを思って、それを振り払えずに信じて強迫行為をせずにはいられませんし、人によっては、嫌な思いが離れないので、想像が病んだり歪んだりして、それが強迫観念と結び付いてほぼ妄想になります。
ただ、自分の思いが別の何かに変わることはなく、強迫観念であろうと、妄想であろうと、自分の内にあることだと認識しますから、その妄想的思考に入り込んでしまうことはないので、完全な妄想にはならないのです。
妄想的思考に入り込んでしまうと、自分の周辺が妄想になって、現実と自分の思考の区別がなくなり、これが精神病です。
その場合、内面的には統合失調症の陽性症状や双極性障害躁状態に近い面もありますから、それを抑えることで、余計に妄想様観念やネガティヴ思考などが活発になり、頭の中だけの強迫観念(病んだ思い)も増えていきます。

一貫して同じ自分であるというのが、強迫症のまともな面で、強迫観念や妄想様の思考がありながらも、心の一面では一般と同じ基準で物事を把握することもできます。
周りからどう見られて、どう思われるかも見当が付き、恥ずかしいことは、恥ずかしいと思えます。
統合失調症の陽性症状や双極性障害躁状態などでは人前でも変なことをするようになりますが、強迫症では何をすれば変に見られるかも分かるので、それを気にして強迫行為の症状などもできるだけ人前では隠そうとします。
通常なら狂ってしまうほどのストレスを受け続けて、内面的に狂人のようになっていても、表向きはある程度まともに振舞えるということです。
いくら強迫観念が強まろうと、その分、正気も強まっていき、その正気と、強迫観念(病気、狂気)の葛藤を緩和するために、強迫行為をせずにはいられません。
重症の場合、それをせずに我慢し続ければ、酷く病んだり狂ってしまうからです。

話は少し変わりますが、インドに古くからある宗教的思想で、解脱(ゲダツ)という言葉があります。
これは日本にも仏教とともに持ち込まれまして、元々の意味としては、修行により、執着や欲望、さらには、肉体的苦痛などの感覚までも無くして、完全に自我のなくなった状態(大我とも言われます)を得ることです。
得るというよりは、涅槃(完全な平安)に入るなどと表現され、仏教ではそうするための普遍的真理を理解することや、自我を解放し涅槃に入ること自体を悟りと表現しました。
人間性が残っていると、身が滅んでもまた人間界に生まれる=苦が始まるという輪廻転生の考えがあり、この輪から逃れるには、我を人として存在できない状態にしないといけなかったのです。

悟りは、不可知(現象以外は人には知り得ない)、肉体を離れないとできない、無にはなれないなどと、獲得し難いことのようにも解釈されますが、言葉では語れないが無我の境地は得られる、何事にも動揺しない心、涅槃の心境を得ることが悟りのようにも考えられています。
禅定やヨーガなども基本的には肉体を持ったままでも、肉体的感覚を忘れることで悟りは可能という考えのようです。

悟りこそが真の自由なのですが、この自由というのは、したいことをするというわけではなく、なにもないわけでもなく、この世界の仕組みをよくを知り、それに基いて思考し、調和的に生きていくことを意味します。

また人には元々仏性(慈悲、思いやりのある優しい心など)があり、無欲、無執着、無我などを心がけて生きると、自然とそういう面が表れ、悟り(平和な心)を得るなどの説もあります。
たぶん、そういう奉仕的なことで得られる幸福感のほうが、エゴの強い欲望を満たそうとするよりも苦しまず行えるし、快楽的な多幸感よりも反動も少なく、持続的平安が得られるからではと思います。

あとは、何事にも過剰にならず、偏らず、善悪の真ん中、執着と無執着の真ん中あたり、丁度、天秤が吊り合った状態のように、ほどほどを維持することで、平安があるという考えもあります。

そのように、いろんな解釈がありますが、自我をなくすことは、エゴを抑える意味であり、苦境、窮地に立たされても生きていけるようにする知恵なのです。
たぶん、昔のインドの一部の人は、そういう宗教的な生き方をするしかなかったということもあるのではと思います。
実際のところ、日本の現代社会では、本来的な意味で悟れる人はいないかもしれませんが、現代的には、執着や束縛のない心境になって、解放感を感じるとか、その方向に向かうことで、エゴや欲望などが削がれて、落ち着き(静寂、平安)、自分の精神性に合った道を得ていくということはあるかもしれません。

解離は自我が分断するようになりますが、自我はあるので、解脱とは違います。
精神分裂や自我崩壊は自我が変になりますが、自我はあるし、薬で鎮静しないと落ち着けません。
人として生きれば不安や苦しみがあり、悟りは、自分の存在(自我)を維持するというストレスに対しての究極の防御であり、人という不完全な存在に対する強迫行為(完全強迫)とも考えられます。

強迫症の人は、病的に執着やいろいろなしがらみに苦しめられていますから、自由を強く求めます。
一部の人は詮索症状で分からないこと、はっきりしないこと、気になったことは気が済むまで調べまくりますから、それが内に向かい、人によっては、精神世界探求の旅に出たり、普遍的真理や悟りを求める傾向もあります。

ですが、強迫観念(現実の嫌なこと、嫌な記憶)がしがみ付いた自我があり続けるので、無心や、それに近い心境を得ることは、なかなかできません。
トラウマ体験などの嫌な記憶もしっかり憶えていますから、それを繰り返し想起してしまったり、ネガティヴ思考が多くなり、現実逃避的な楽しい明るい空想さえもなかなかできません。
思考上だけで悟りを得ても、実際には地に足付かずで、社会適応ができなくなって、解脱症、フーテンのようになってしまいます。

日本の文化背景には、古代インドの宗教的思想、その流れの1つである仏教思想の影響がありますが、元々は、解脱を求めて出家した人とか、その時代を生きる人への教えであり、現代日本では、世界と自分の区別をなくして一体性を得るとか、一元論的思想(全ては1つ、私は神などの考え)を誤解したり誇大解釈すれば危険思想にもなり得るし、逆にそれで反社会的になったり、社会的不自由になっているなら意味がありません。
自我があったほうがいい社会で生きるなら、世俗的、現代的な考えも取り入れないと活かせないと思います。

強迫観念自体は役にも立たないのですが、それがあることで、葛藤により、知恵、アイデアが豊かになっていく面もあります。
ただの変わり者、無能力者になってしまう可能性もありますが、それは社会的にマイノリティーなだけで、内面が本当に無能なわけではありません。
強迫症の症状はピンキリで人それぞれですが、特殊な生き方を探さないといけないかもしれません。

汚染恐怖、不潔恐怖などの人は、自分の家以外でクツを脱いで何かすることが困難で、ヨガマットを敷こうと床に寝たりもできませんから、ヨガ教室とかも行けませんし、障害を抱えて生きるのは、なかなか難しいことですが、まずは強迫性障害がどういう病状なのかを知ることで、何がどこまでできるかの見当も付けやすいと思います。

たぶん、次回は精神(心)や精神的苦痛はどこにあるのか?の話です。

 

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