強迫性障害の全貌

強迫性障害の知識の普及 Link Free

精神病は他人に良く見えるが、強迫性障害は他人に見え難い

強迫性障害の人は感覚過敏で刺激やショックをストレートに受けやすく、ストレスを避けたり抵抗するのが困難で、そのまま受け入れてしまい自身の内側にため込みます。
それは内面の思考を悩ませ、病んだ思考は強迫観念になりますので、それを解消しようと強迫行為をします。

強迫性障害ではパニック状態なども内側に向かいます。
危険な状況でも混乱しないように理性が強まり、内心はパニックになっていても、表向きは冷静で落ち着いているという状態になります。
それだけではなく、躁や妄想幻覚にもなりませんし、自閉も解離も起こらないので、嫌な思い、嫌な記憶といったことが、表面化されたり、分解されたり、ブロックされたり、切り離されたり、忘れたりできずに、いつまでも消えずに自身の内側にどんどんためこまれます。
悩みを抱えても人に話すこともしません。話すことで表面化する怖さがあるのです。
PTSDであれば、トラウマ体験を人に話せる人もいますが、強迫性障害ではトラウマ体験を人に話せません。

他の精神障害でも強迫観念はよくあるのですが、現実のストレス、トラウマ記憶の想起、不安、恐怖、狂気、嫌悪などを伴う強迫的思考、こういったことを脳がどう対処するかで、どんな精神障害なのかが決まります。

躁というのはストレス耐性が強まる状態で、ストレスを感じ難くすることで、ストレスを回避します。本人も本当は無理をしているのに、気分が高揚してストレスに気付けないので、その状態が治まると、どっと疲れが出て、反動的に鬱になります。

解離による健忘は、トラウマ記憶などが思い出せないという症状で、複雑性PTSDでもそれが起こると考えられています。
脳がストレスに鈍感になって、切り離そうとする、忘れさせることで、トラウマ記憶の想起を防げるわけで、それだけなら便利なのですが、これが完全ではないと一部だけ記憶していたり、ある時急に思い出したりしてしまうそうです。
思い出せば、普通のPTSDのように、トラウマ記憶を想起するような物事を過剰に避けるようになり、この過覚醒の反動で鬱のようになります。

強迫性障害では、PTSD以上に、トラウマ記憶が強迫観念になって何度も想起されて忘れたいのに忘れられなくなります。
同じ自分、同じ記憶と共に、強迫観念があり続けようとして、解離をさせません。

パニック症の人はストレスにうまく対処できずに、急激に不安や緊張が強まり、パニックになり混乱します。その不安にまた不安になります。
予期不安と言う強迫観念に近い思いがありますが、パニック症であると、強迫行為ではなく、パニックになりそうな状況を回避をするようになります。

基本的に不安障害の人もストレスを回避します。回避しきれないと、ストレスにやられて鬱になります。

統合失調症の脳ではさらにストレス回避が過剰になり、現実からの逃避が起こります。
自我が強まり、現実的なストレスや現実反応の強迫観念は拒絶されます。
強迫観念を拒絶して非現実化されると、内側の病んだ思考の表面化(曝露)が起こり、幻覚妄想に変わります。
これが陽性症状で、他人から見ると発狂しているように見えます。

この状態であると、他人や現実のことがよく分からなくなりますから、現実のストレスも弱まります。
うまく考えられないので、人のことを考えなくていいようになり、理性も弱まり、人間らしく振舞うというストレスからも逃れられます。

陽性症状の時期はまだ現実から逃げている途中で、陰性症状になり自閉して、現実反応を鈍くすることがストレス回避のゴールなのです。
ですから、特に活発な陽性症状の段階を経なくても、直接、陰性症状になれればそれが一番スムーズで、ノイローゼ傾向の弱い人には、そういうタイプの人もいるのです。

統合失調症でも発症前に何らかの社会的能力があった人は、うまく治療すれば、その状態に戻ることもできます。
しかしノイローゼタイプで、ストレスで発症した人は、ストレスに弱い面があるので、治療をしてもストレスで再発しやすい傾向があり、軽症化してもストレス回避を続けます。

統合失調症は軽い段階になっても、テレビや食事を楽しむことはできるが、労力を使うことはしようとしない人はいっぱいいます。
現実の苦痛を感じることに、素直に抵抗しますので、できないことは無理にしようとはしません。
うつ病であれば、申し訳ない気持ちになったりしますが、精神病であると他人の気持ちなどがよく分かりませんので、人からそれを不満に思われても気にしません。
子供のように難しいことはできなくなってしまうのですが、実際の子供のように難しいことにトライすることもしません。

統合失調症の人は特別ストレスに弱い(ストレスの影響を受け易い)とは考えられていませんが、脳の素質の関係で、ストレスに正直に反応して、拒絶をあらわにします。
ストレスを激しく拒絶することで、ストレスにやられないようにしているのです。
それで本人はストレス回避できますが、周りの人が困惑します。
迷惑をかけようが、持ち物や身だしなみも汚くなっても、自閉して気になりません。

表情や態度や状況から普通は分かるような相手の気持ちや立場が分からない状態を自閉といいますが、統合失調症の陽性症状は、現実へのブロックで、周りの現実が全体的によく分からないわけですから、他人のことが分からないのも当たり前です。

引き篭もってだんまりする自閉ならまだ良いのですが、興奮状態だとそれができなくなり、人の多い場所に言って、妄想的なことを一人で話したりします。
それが他人に迷惑をかけていることが分からないので、だまらせようとしても、お前に言っているわけじゃない、知ってるみんなに言ってるんだ、などと反抗します。
妄想状態の人の、知ってるみんなというのは、現実のみんなのことではなく、妄想世界のみんなのことです。
Aさんがどうのこうのと話す場合、そのAさんは現実のAさんではなく、妄想(本人の内面世界)にいるAさんのことなのです。
現実のAさんのことは、分かる範囲でそのまま認識できるのですが、それとは別に、妄想による見当違いな判断でAさんについて自己中心的に決めてしまいます。
それは、現実のAさんとはほとんど無関係です。
みんなにとっての現実(周りの世界)以上に、妄想のほうが確かに思えるのです。

強迫性障害の人は自閉しないので、周り(現実)のことが普通に分かりますから、強迫観念も非現実ではなく、現実との結び付きが強いわけです。
自分にはこう思えるが、周りの人はそうでもないということが分かります。
強迫症状があると、思考がどれだけ病んでも、危険回避でそういうまともな面が強まり、病んだ思考が曝露されないので、発狂しないのです。

統合失調症でも何もかもが分からないとか、まったく理性が無いとかではなく、よほど興奮状態でなければ、社会的にやってはいけないことは自分で止めることもできます。
危険な人もいますが。

統合失調症の陽性症状というのは、過剰自我の状態であって、ストレスへの拒絶で自我が異常に強まり、自我世界に浸れるからこそ、幻覚や妄想にとらわれるのです。
それで、身の周りの本当の現実のことがよく理解できなくなります。
脳がストレスから守るために現実を理解できないようにするのですが、内面の病んだ思考(強迫観念)が残っていると、それが妄想になって直面します。

統合失調症では、外の世界から思考が操作されるように思えたりするようですが、その外の世界というのは、妄想内の外の世界であり、現実の外の世界ではありません。
自我障害で、自我の内側の世界が混乱しても、自分と他人の区別がないわけではありません。

例えば、睡眠中の夢では自分の世界に入り込み、現実的思考ができなくなりますが、そんな状態でも自我があり、自分と他人が区別できないと言うことはありません。
それと同じように、統合失調症では、思考障害で、他人の思考が分かり難くなりますが、多くの場合、他人と自分の区別ぐらいはできています。

そうでないと、自分の家に帰ることもできませんし、自分の物、他人の物の区別さえできなくなりますが、そこまで分からなくなってしまう人はほとんどいません。
自我がありますから、他人の自分の区別もできますが、現実の物事をうまく考えることができないので、他人の自分の思考の区別が付き難いというだけです。

ですから、統合失調症では自他の区別が無いとか、自我が無いという考えはまったくの間違いで、真逆の過剰自我の状態なので、それに対する他人の存在も必ずあるのです。

真性の幻覚妄想は周りを遮断して過剰に自我が強まった状態で起こります。
自我が強まり過ぎて、自我に入り込み、現実への意識が薄まることで、妄想幻覚を意識してしまうのです。

幻覚や妄想というのは、自我世界であり、自我が無い人からは、幻覚や妄想は消え去ります。
その中間に強迫観念があります。

つまり自我が無い人には、強迫観念もありません。世界をそのまま正しく理解することができます。
物事の表面だけではなく、本質も把握できるようになり、どうすれば良い、こうすれば良いという知恵が浮かぶことで、迷い悩みが減ります。
これが悟りで、悟りによる世界の解釈が仏教となりました。
肉体を持つ人であれば、悟りでも完全に自我が無いわけではないのですが、無(普遍世界と調和した状態)に近い自我になっているのです。
自我がないというよりは、違うタイプの質の良い自我になっているので、自我がないに等しいのです。

仏教思想や古代インド思想などでは、自我は無いほうが良いとしている面があるのですが、ただ単に無くすのではなく、本来的な姿に戻ることをゴールとしています。
人間個人と言うのは、大きな一つの存在の一部でしかなく、本来はそちらが自分であって、その状態になってこそ、真の平安と自由を得られるが、人間個人である限りは、制限付きの安心や自由しかないという考えです。
大きな一つの存在自体に完全に同化することを涅槃に入ると言い、完全な平穏の境地です。
個人でありながら、その状態を得ることを、無我とか大我とか悟りと言い、これが自我のない質の良い自我です。

正しい知識は精神を安定させますが、この世界は理論だけではなく様々な現象がありますから、それにとらわれ過ぎると、心を乱します。
悟りは求めすぎると、逆に不安や迷いが増えてしまうので、悟りへの過剰な欲求を断つ技も悟りと考え、絶妙なバランス感覚で平安を得られるようにするわけです。
もし悟りが不安や迷いを認識しない状態なら、精神異常であり、不安や迷いをなくすことはできません。
悟りは完全に正常な意識であり、トランスのような変性意識状態であると困るのです。

現実世界では悟りを得ても、不安や迷いはあって当然で、感じて正常なので、動揺することもありますが、それでも平安でいられることで、不安や迷いはすぐに沈静していくわけです。

だから悟りを得れば精神障害(神経症)は治せるというのが森田療法ですが、悟りというのは、実際には想像上にしかないので、想像上の存在にしか悟れないのです。
現実に置いては、完璧妄想みたいなあり得ないレベルのことで、健康な精神状態の人にも難しいので、精神障害の人にはもっと難しいことなのです。
悟れなくて当然なので、悟れば治せると言われても非現実的なのです。

現代には、病気になりやすい脳の素質があるという説がありますが、森田療法には、神経症は薬が効かないから、(脳の)病気ではないという前提がありました。
何冊も本を書いて、病気ではない、性格とか考え方がどうこうだから、森田療法しか治せない。
と言いふらしました。
当時の強迫神経症についても、治そうとするから苦しむんだというタイプの理論だったので、病気じゃないし、治さなくてもいいかと考えて、治そうとする人が減りました。
実際には、治そうとしないことで、治ることもなく、治らないので、苦しむわけです。

本当は病気ですから、せめて悪化を防ぐために早期に治そうとさせないといけないのですが。

森田療法の仏教的な思想に共感できる人であれば、ある程度の効果はあり得ますが、実際には妄想的な理屈でしかなく、神経症強迫神経症の誤解を招くことになった面が強いのです。
神経症という考えがなくなってから、強迫神経症も改名されて、森田療法もほとんど語られなくなりましたが、宗教みたいなものなので、今でも財団などが布教活動を行っています。

現代の認知行動療法は、自分ではコントロールできない強迫観念でも、人と一緒ならどうかということなのですが、一時的に治ったようにすることは患者の一時的な協力があれば簡単です。
心理的な療法は、催眠による暗示効果と同じで、患者がその療法に同意(共感)して、それで治せると信じれば、効果は出るのです。
考え方や気の持ちようで症状が出ている人であれば、考え方や気の持ちようを改善すれば治せるのは当然です。
ただその範囲の患者はごく一部なので、強迫性障害と言ってもいろんな病状の人がいますから、他の病状の人も同じように治せると考えるのは間違いです。

心が病んでいても精神病にはならないようにしているのが、強迫症状です。
心が病んでいる内は強迫症状も治せません。

心が病んでいるというのは、すでに本当は精神病になっている状態ですが、強迫症状がそれを表面化しないようにしているという意味です。
精神病というのは心の病みが表面化されている病態を指します。

強迫性障害では気が狂いそうなノイローゼ状態が続いても発狂が起こりません。
危険回避の強迫症状により、狂気が内面に向かって、思考世界が精神病のようになります。
病んだ思考を表に出すことができないので、表向きはそんなに病んでいるように見えません。
強迫行為も基本的には人に知られないように行いますから、他人には見え難い病気です。

統合失調症は、大袈裟な表面化が起こりますから、他人によく見える病気です。
精神病がなぜ精神病と言うか、これは幻覚妄想が実在していない(現実にはない)からです。
実際には精神病も現実のストレスなどが関係している場合もありますが、少なくとも活発な幻覚妄想状態の最中は、現実との結び付きがほとんどなくなった、非現実世界の出来事であり、患者の精神のみが病んでいる病態ですから、精神病状態というのです。
現実への反応ではなく、一人の内の世界で病んでいるので、みんなと気の違う人に見えます。

その精神病に対して、神経症は、「思い」を病んでいるのですが、それは、神経によって現実と結び付きがあって、現実的なストレスなどの影響が強いので、神経症と呼ばれました。
性格や考え方や気質、現実のストレスなどの問題だから、精神病ほどは病まないし、現実の問題を解消すれば、治せると考えられました。

ところが神経症でも精神病レベルで生活の質が低下したり、ストレスを回避しようが、何をしようが治らない人はいます。
そして、精神病でも偽薬が効いたりストレスで再発する人がいるし、本人の心理状態や現実のストレスによる影響も症状に関係していることが分かりました。

現代では、幻覚妄想によく効く薬がいっぱいできましたから、現実と結び付きがある神経症の重症患者のほうが治し難いという時代になりました。
精神病の人は、元々は普通の人であることが多いので、症状が緩和すれば、薬を飲みながら普通に社会適応もしやすいのですが、神経症であると症状が治せない上に、元々からストレスに弱い面があるので、社会適応が困難なのです。

ただ神経症に様々な誤解があった上に、神経症といっても程度も病状も様々ですから、神経症という大雑把な考えを捨てて、病気ごとに分けて、病気ごとに考えて治療するようになったのです。

そして、同じ病名でも程度や病状によって治療も変わるはずですから、まだ強迫性障害のタイプ分けもできてないのに、強迫性障害はこれで治せますなどと言うのは、無理があって、治せるのはどういうタイプの強迫性障害なのかを示さないといけないのです。

それをしやすくするための分類を次回以降にして行こうと思います。


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