強迫性障害の全貌

強迫性障害の知識の普及 Link Free

統合強迫/思考の分断/治らないタイプ

症状が表面化される統合失調症と違い、強迫症はその症状が内面に向かう病気です。
強迫症の内面の思考を知るには、統合失調症の表面を見れば分かりやすいのです。

強迫症の人は、そういう統合失調状態の思考が不快なので、それはほとんど語りませんが、不快であるからこそ、拒絶反応的にそれをまとめ上げて、表面的には理性的で真面目でまともになっているのです。
強迫症は言い換えると、強迫性統合症です。内面が病んでいるのに、表面化されない。苦痛を抱えながらもそれが人から理解されず治せずに、普通の人として生きないといけない。
これはすごくエネルギーがいりますから、何年かすると、うつ病になりますが、それでもこの統合強迫状態が何十年と続きます。
精神病にならない病気なので、抗精神病薬も効かず、これといった治療法もありません。

病んだ思考と現実のストレスが結び付いたのが、強迫観念です。
基本的には考えたくないような嫌な断定的イメージや思考、過去の嫌な記憶の想起などのことですが、そういったことに拒絶反応が強ければ、拒絶対象を思い浮かびやすい状態になりますので、不安なこと嫌なことや、反社会的な狂気思考、危険思考が自分の意に関わらず思い浮かびます。

思考世界の狂人は、心の奥で眠っているわけではなく、患者と一体になって、考えイメージし、共に生活をします。
その心の中の狂人は患者本人であり、思考世界では気の狂ったことをしています。

社会的に不適切ではあっても、頭の中だけのことだと思えれば、強迫行為には繋がりませんし、強迫性障害の人の場合、正常な思考も維持され、反社会的な狂気思考や危険思考は実行しないほうが良いと判断して、それをしないということができます。
ですので、狂人的行為が、頭の中では頻繁に起こっても、そんなに恐怖感は起こりません。
ただ、あんまり頻繁に思い浮かんでしまう場合、正常な思考や行動の邪魔になり、気が狂ってしまうのではないか?という不安も強まると思います。
本当の強迫症であれば、一生強迫症のままですから、おそらく大丈夫です。

強迫性障害であると、不快な話に非常に敏感になり、見聞きすると実際に深刻なショックを受けます。
それはすでに心の中の闇にあるそういった情報が刺激されて表面化する恐怖があるからです。
情報による汚染恐怖のある人は、そういったことで汚れたりしますから、他人の会話やテレビ、新聞、雑誌などを拒絶する人もいます。

きれいときたない、良いことと悪いことをきっちり分けないといけなくなってしまうのは、実は分裂症状でもあるのですが、強迫性障害の人には多く見られます。
強迫症の人は、正気と狂気を併せ持つことになりますので、思考も二分してしまうのです。

強迫性障害の人は、イメージや思考がいくら狂っていようと、それを正常な思考判断でしないということができるので、社会的には安全な病気ですが、一般の人とは内面的に違い過ぎるため、社会適応が困難になります。
基本的に苦しいのは、本人だけですが、同居していたりすると衝突も多いし、嫌なことを無理やりさせられたり、強迫行為を妨害されたりすると、防御的に攻撃性が強まる人も多いです。
あくまでそれも防御なのですが、危険を避けるために、一人で引き篭もりますから、できればそうしておいたほうが良いのです。
それでも自閉することはなく、感覚過敏により、常に意識が身の周りや人に向かって気にしないことができなくなります。

強迫症自閉スペクトラム症(自閉症スペクトラム障害)には、いくつかの共通点(感覚過敏、こだわりの強さ、パターン化行動、関連付き、嫌な記憶の想起、興味の偏り、社会的コミュニケーションの問題)などがりますが、強迫症の人はそういった傾向で不安が強まり、それを改善しようと試みますので、表向きはまったく逆のように見える面もあり、そのことは強迫症の人のストレスにもなっています。
強迫症でも自閉傾向はありますが、それを自覚できるので、周りのことを過剰に気にするようになります。例えば、人のことを分かろうとし過ぎる、人に気を使い過ぎてしまうなどです。共感力が妄想的になって、あれこれと余計なことまで考えて、人との付き合いに疲れ、やはり引き篭もります。

統合失調症強迫症と関連性はありますが、表面的には真逆のことも多く、変になっていることに気付けるので、人前ではまともに振舞おうとするし、現実への意識の強さも全然違います。
統合失調症の前駆症状(初期症状)と考えられているの数々の症状は、強迫症では慢性症状ですから、表面的にはそこまでは似ているのですが、その段階でも後に統合失調症を発症する人とは、微妙な違いもあります。
例えば自生視覚表象(頭の中に自然と浮かぶイメージ)があるにしても、統合失調症では現実よりもそちら側に意識が向かうことに対し、強迫症では現実のこともはっきりと意識できるわけです。
統合失調症では自閉が起こるので、自生視覚表象への過集中で、強迫症の人よりはっきりと見えていることが考えられます。

自生思考というのは非現実であったり、不快ではない内容も含まれるので、強迫症の人だとそれよりも現実反応の強迫観念のほうに意識が向かい、強迫観念のイメージを現実と同じように反応して取り扱う表象幻覚状態になります。
強迫症であると現実への意識が強い分、そのイメージも現実のようにはっきりと見えるわけではなく、あくまでイメージとして見えるのであり、しかも自分だけのイメージであることは分かっている状態ですから、幻覚ではなく、表象幻覚なのです。
これが統合失調症の場合であると、自閉により、現実よりもそちら側へ集中して、後にほとんど現実に注意が向かわないレベルになってくると、幻覚に近くなっていくわけです。
本当は内にある非現実の思考を、外の現実にあるように認識することで、「自分の思考であることに気付けない状態」が幻覚妄想状態です。
強迫症ではイメージを現実と同じように扱いますが、イメージと現実の区別自体はできているのです。

統合失調症の初期症状が強迫症では慢性症状として見られるにしても、強迫症の人が統合失調症になっていくという意味はなく、統合失調症に向かわないから強迫症になっていると考えるべきなのです。
統合失調症を発症しないからこそ、統合失調症の初期症状が慢性的に何十年も続くのです。

前駆症状(初期症状)以降に本当の統合失調症があるのですが、それが強迫症の人は内面に向かい、思考として気の狂ったようなことをし始めますが、それは表面には出ません。
表面化しないから統合失調症にならずに、強迫症なのです。

統合失調症の初期症状は精神病的なノイローゼ状態であり、それは強迫症でもよく見られる病状ですから、その状態だけでの判断で抗精神病薬での治療をするべきではないのです。

抗精神病薬が効きやすいのは、幻覚妄想や非現実的な強い思い込みなどです。
つまり非現実の思考であれば脳内だけの問題ですから、脳活動を全体的に鎮静させれば良いのですが、現実への反応である強迫観念には向いていません。

しかし、軽症の強迫症の人に見られる「かもしれない」というようなまだ起こってない(現実にはない)不安思考には向いている場合もあります。
このタイプの不安が強い人は、強迫症に見えて軽い統合失調症(妄想)であることも考えられるのです。

幻覚妄想や非現実的な強い思い込みが完全に消えなくても、弱まれば、患者の言動を狂わせたりはしませんので、薬の調整などで適度な状態が維持できるようになれば、ほとんど問題はなくなります。

逆に効かないのは、強迫観念と現実(もしくは現実的記憶)がしっかりと結び付いている人です。
薬では、現実や現実にあった記憶は変えられないからです。
強迫観念がしっかりと現実の恐怖と結び付いていると、重いトラウマと同じ事で、治療という形でもそれに慣れる事は不可能で、無理をすれば悪化します。
非現実反応の思考(幻覚妄想)には薬が効きますが、現実反応の思考(強迫観念)には効きません。
強く鎮静させて誤魔化せたとしても、現実が意識できるようになれば、強迫観念も戻ります。

認知行動療法も治せる人は限られます。
一般的な不安とか恐怖観念と、強迫症的な強迫観念はまったく違うのです。
簡単な見分け方は、時間が経てば消える(忘れる、気にならない)のかどうかです。
何度か書いていますが、恐怖症的な恐怖観念は、ストレス対象から離れて時間が経てば、自然と消えて、ストレス対象がなければ、日常生活においては特に問題ないという感じになります。
強迫症であると、ストレス対象から離れても、そのことが嫌な思考や嫌な記憶の想起といった強迫観念となって、継続的反復的に、ほとんど消えることなく、ずっと続くのです。
ストレス対象が日常的にあるというだけでなく、そうでない状況でも頭からその思考が離れなくなってしまうので、回避や対策や強迫行為に明け暮れるわけです。

例えば、外出して、汚い感じの人が横を通って、汚されたように思うという場合も、その後何らかのことをしている間にそのことを忘れてしまうようであれば、強迫観念というほどではありませんが、家に帰るまでずっとそれが頭から離れなくて、全部洗濯したり、全身洗浄するまで汚れが落とせない、そうした後もその体験が嫌な記憶となって忘れられなくなってしまうのでしたら、強迫観念です。
つまり強迫観念の嫌な記憶は、どんどんとたまって、消えていかないのです。それでその後も同じようなことに恐怖や嫌悪反応が出るのです。

強迫観念も感情的なのか、イメージが浮かぶのか、過剰なのか、一般的にあり得ない内容なのかで、いくつかの種類があり、不潔恐怖で言うならば、一般的に言っても、誰もが多少は避けたいと思ってしまうような、不潔な物事。それを一般の人よりも過剰に恐怖するタイプもいれば、一般の人が汚れない物事(特定の言葉や文字など)で汚れる人もいます。
その場合の、強迫観念は、不潔への恐怖感や、汚い対象物のイメージなどですが、特にイメージが浮かばずに、恐怖感で感情的に拒絶しているタイプは、それで汚染されていくイメージも浮かび難いので、恐怖症の恐怖に近いわけです。
具体的に汚れのイメージが浮かぶ人は、表象幻視状態になって、それを追跡してしまい、物質的汚れと同じように扱うことになり、強迫行為(洗浄)しないと落とせません。
なんにせよ、イメージで汚れるというのは、一般的ではないので、明らかに病的強迫観念です。

強迫行為をしなくても、時間が経てば不安や恐怖や嫌悪などが気にならないという場合は、強迫症ではありません。
認知行動療法は、強迫症(強迫観念)を、不安症や恐怖症(不安や恐怖観念)にして、治しやすくするのであって、強迫症強迫症のままいきなり治せるわけではないのです。
ですから、強迫症でも、最初から不安症や恐怖症に近いレベルの人であれば、治せる可能性も強いのですが、本当に強迫症状態の人は、強迫観念の強迫性が強いので、こういう治療方法では治せません。

強迫観念には、どうしても治せない性質があるからです。
治そうにも何をしようにも、それを無視して思い浮かぶ強迫性があるので、特に強迫観念主体型であると、どれだけ頑張っても、どれだけ頑張らなくても、強迫観念は、そんな意向や熱意など無視して思い浮かび続けます。
精一杯頑張って、勇気出して、我慢を続けても、治らないタイプの人は治らないのです。
むしろ我慢して治そうとするのは逆効果で、我慢が強迫症を悪化させるのです。

強迫性障害がどんな病気か分かっている人は、少なくとも治し難い病気であることが分かっているし、重症であると、治らないことが多いことも分かっています。
患者も誰も強迫観念に触れられないので、どうしようにもコントロールができないのです。
症状で適切な治療が受けられない病気なのですから、適切な治療というも、あってもないに等しいのです。
治せるのは、強迫観念の強迫性が弱い人=一般の不安な思いに近い人=軽症の人とか、強迫観念が非現実的な思い込みの人です。
ほとんど精神的に病んでない健康な人とか、強迫症的な統合失調症の人は治せても、本当に強迫症であるとなかなか治せないのです。

精神分析で治せるとか、心理療法で治せると言っている人はいますが、少なくとも強迫症には、実際に効かないことが分かっています。

強迫症の場合、潜在意識に本当の問題が隠れていて、それを抑圧しているから症状が出るということはなく、そもそも抑圧できるぐらいなら、強迫症にならないのです。
強迫症の人の問題(強迫観念)は常に意識できる状態であり続け、潜在意識はまったく関係ありません。
仮に潜在意識というのが本当にあるにしても、現実なのか非現実なのかの区別もできないような前世でもなんでもありの状態ですから、現実反応である強迫観念とは関係ありません。
強迫症は、一番表面的な範囲の現実的思考と現実による症状なのです。

強迫症であると、ストレスになっていることを忘れたり、切り離すことができないので、意識できない部分に問題が抑圧されることはありませんし、解離も起きませんし、自閉による現実逃避もできませんし、発狂もしません。
何らかの問題を抑圧抑制しているにしても、それは意識できる範囲にあって、むしろその問題が潜在意識には抑圧されないから、強迫症状が出ているのです。

森田療法では、強迫性障害は病気じゃないので薬で治せないとして、仏教や禅の思想をマネた理論を書いた本を山ほど売っていました。
今売られている本の内容は、薬で治しながら、認知行動療法で治しましょうに変わりました。
しかも自宅で自分で治そうみたいなのが増えているようですが、そういった本はあくまで軽症の人向けです。

治すにしても、強迫行為主体型なのか、強迫観念主体型なのかによって、本当は、別のアプローチをするべきなのですが、このタイプ分けも全然されずに、この本で強迫症は治せますというのは無理があるのです。

強迫行為主体型、強迫観念主体型の分類を正式にどう決めれるのかは分かりませんが、関係者の方が読んでいましたら、このブログの意見も取り入れて欲しいところです。

強迫観念主体型でも危険回避がパターン化して、作法やルールが決まっていきます。
それを自分の意向で求めてやっている傾向が強いか、そうしたいわけではないが、強迫観念を解消するために、仕方なくやっている傾向が強いか、という感じで、分類していくわけです。

強迫性障害の症状を一番良く分かるのは、患者自身の自覚ですが、強迫行為主体型なのか、強迫観念主体型なのかを判断するのは、子供や強迫行為主体型の人には難しいかもしれません。

強迫行為主体型でも「こうあるべきこと」ができない状況では、強迫観念のように思える不快な思考が浮かぶからです。
「こうしなければならない」という思考が過剰で、何らかの行為を繰り返すならば、その思考自体も、強迫観念と考えられなくもないのですが、本来的な強迫観念は本人の意思に関係なく浮かぶので、完璧主義のように自分の意思として、「こうしなければならない」などと考えている場合は、強迫観念とは言い難くなります。

「こうしなければならない」が頭から離れないという面では、そういう願望タイプの強迫観念とも言えますが、「こうしなければならない」を不適切や過剰に思わないならば、ただの願望ということにもなります。

強迫観念主体型でも「こうしなければならない」という行動パターンが決まっていきますが、それは強迫観念や現実の問題を解消する目的で仕方なくしなければならないのであり、強迫観念より先にその行動を求める気持ちが強いわけではないのです。

認知行動療法で治しやすいのは、強迫行為主体型で「こうあるべきこと」ができない状況での、強迫観念のように思える不快な思いのことで、このタイプは、強迫行為を我慢する治療がしやすいのです。

強迫観念主体型の強迫観念は、イメージとしての幻覚妄想ですから、具体的ではっきりしています。
強迫症での表象幻視や妄想的思考を理解してから治療法を考えるべきです。

強迫性障害の人は言動が狂うことはなく、強迫観念を人に話すときは、正常な思考で話しますから、「そんな気がして」とか「かもしれないと思って」とか言いますから、強迫観念とは、~かもしれないという不安であるとの説明が多くなりました。
しかし、ほんとうにそうならば、頭の中から簡単に振り払えますので、過剰な強迫行為で悩むこともありません。
少なくとも強迫観念が浮かんだ時点では、「そうである」「そうなってしまう」「そうなってしまった」などと現実として思えてしまうからこそ、現実を変えるために強迫行為をしないといけないのです。

汚い物に触れたかもしれないと思うときも、それは正常な思考であって、強迫観念としては、「汚れた」と判断しているので、洗浄するわけです。
そうでないとしたら、強迫行為主体型です。強迫観念よりもとにかく洗浄してすっきりしたい願望が強いのです。

強迫状態では、強迫観念自体は、妄想のように断定的に意識するのですが、ほぼ同時にそれを正常な思考で、「そうじゃないかもしれない」「過剰な思いかもしれない」とか把握して、それが「自分だけの思いである」ことも分かっています。
だからと言って、強迫観念は現実との結び付きが実際にあるし、それに対する生理反応的拒絶がありますから、その嫌な思い、嫌な現実を気にしないわけにもいきません。
強迫観念も現実的思考=正常な思考ではあるが、一般的ではない思いという意味では、妄想的ということになります。

強迫行為は、強迫観念と現実の問題を一時的に解消しようとする行為で、実際にはそのこと自体は病気ではないのですが、あまりにも過剰になってしまうので、日常や社会での大きな障害にはなります。

強迫行為主体型にとっては、強迫行為が病気と言えますが、強迫行為主体と強迫観念主体型を分けずに重症度を決めることはできません。
少なくとも、経済状況や生活環境などで左右される強迫行為の長さや回数は、重症度の目安にはできません。
強迫行為主体型の人であれば、そうしたくてそうしている傾向が強いので、経済状況に恵まれていれば、好きなだけ強迫行為も長くエスカレートします。
行為の苦痛も少ないため、強迫行為が人よりも過剰なのか分からなくなったり、強迫観念が強いわけでもそれを消すためでも無いので、どのぐらいすればいいかの手加減が分からなくなってしまう人もいるようです。
そのため、非常に強迫行為が長くなりやすく、その疲労感はあると思いますが、心はあまり病んでいないタイプです。

強迫観念主体型では強迫行為がとても億劫で疲れるので、それが過剰に思えるし、強迫行為は強迫観念や現実の嫌なことを回避するためにしていることも分かるので、それに合わせて、自分でどう手加減すればいいかも分かります。
強迫観念が強ければ、強迫行為も過剰にはなりますが、それを避けるための、回避や対策が多くなり、拒絶、警戒心、行為を我慢している時間などでも苦しむことになります。
強迫性障害の本来の形は、強迫観念主体型であり、強迫観念に悩まされる病気ですから、強迫行為をしなくなれば良いというわけではありません。
強迫行為ができない状況の中にいれば、強迫行為の時間はゼロになりますが、だからと言って強迫観念による苦しみは消えないのです。

もちろんその強迫観念が「かもしれない」「そうなってしまうかもしれない」のような未来的でまだ現実ではないことの不安であれば、強迫観念も時間と共に静まりますが、本来の強迫観念は、現実反応ですから、不安や恐怖や嫌悪が未来にあって、まだそれを体験していないという状態ではありません。

強迫行為をしないと何か悪いことが起こるのでは、という思いは、軽症の範囲の一部の人であって、普通は強迫観念が浮かぶ時点で、すでに何らかの悪いことに伝染または汚染されているので、その実害(現実の害)を解消しようと、現実的な強迫行為をするわけです。
強迫行為をする前に、すでに実害を受けているタイプは、強迫行為をしないようにする訓練をしても強迫観念と現実にある障害は消えないのです。

実際に多くの患者は、強迫行為をする前に、すでに心配の実現が起こっているのです。
例えば、何らかの一文字に近付くと汚れるという症状の人は、一文字を見てしまえば、強迫行為をする前にすでにもう汚れているのです。
すでに汚れているのですから、強迫行為をしなくても汚れは消えるかといえば、何時間何日待っても消えないわけです。
汚れると悪いこと(実害)が起こるという意味ではなく、汚れることがすでに不快な耐えられない実害なので、強迫行為をするのです。
強迫観念(表象幻覚、妄想的思考)の汚れは、現実の物質的汚れに等しいので、その嫌悪感や恐怖感なども現実的なので、一般の人の未来的な不安とはまったく違うのです。

無理に嫌なことに慣れようとしても、PTSDの人にトラウマに慣れさせようとすることと同じで、むしろ悪化してしまいます。
治らない人に、大事なのは治そうとすることではなく、悪化を防ぐための(できる範囲の)治療を受けることと、悪化をしない生活をできるようにすることです。
それが続けられるようになれば、適切な治療が受けらるレベルまで改善できる可能性もあり、そこからやっと、治すことも考えられるのです。

ストレスをため込まないようにしたいところですが、日常の些細なことでもストレスになってしまうので、生きるための最低限のことをしているだけでも、ストレスフルになります。

治らないタイプの人は、30年も40年もずっと強迫性障害のままです。
何十年も強迫症の人は、治したいと思おうが、どう頑張っても治せないことが、本人の内で身に染みて分かっているし、治せる方法も、治せる人もいないことも分かっているし、その治療も悪化を防ぐためであることが分かっています。

頭がモウロクし始めると、忘れていくことが、強迫観念を少し緩和しますが、その時にはほとんど人生は終わっています。

強迫適応のSSRIは、認知機能をやや低下させる作用があり、それが強迫性障害にはプラス作用になっていますが、重症の人は、発達障害の影響で、脳が思春期のようになっていて、認知力が低下し難く、あまり薬も効きません。

強迫性障害が記憶障害の面があるというのは、やや正しくありません。
確かに、確認したことを忘れたりしますが、正常に記憶はされているが、強迫観念によって、その記憶があいまいになってしまうのです。
ですので、例えば、確認したことをはっきりと憶えていても、強迫観念が浮かべば、確実に確認した記憶がありつつも、確認できていないように思えて、また確認してしまうのです。

記憶力自体は正常なのですが、嫌なことが強迫的に想起されて「忘れられない」という意味では、記憶(過剰)障害の面はあります。

我慢が強迫を悪化させますので、極力、我慢をしないように素直に生きたらいいのですが、汚染恐怖の接触拒絶でなんでも一人でやらないといけない人は、ストレスが強くても最低限のことは自分でしないといけなくなります。
そのストレスで全然軽症化しません。

心の底から楽しいことを続けていれば、心の病みも晴れていきますが、汚染恐怖で日常生活も困難な人は、テレビを見たり雑誌を読んだり映画館に行ったりという一般的には楽しいことをするのも困難なのです。
その上、うつ症状で、心から楽しむことができなくて、どこでなにをしていようが安心できません。

なので、強迫性障害であると、ほぼ一生強迫性障害なのです。
廃人よりはできることは多いのですが、その分、苦しみも続くという現実。

次は、その苦しい人生の中で、悪化させない生き方について。

 

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