強迫性障害の全貌

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強迫観念は昇華できるか?

前回書いた、違和感を気にしての運動性タイプも、「こうでないといけない」みたいなこだわりが強いことで、そうでない状態が違和感になってしまう人と、実際に違和感に弱いから、どうしても気になって、その苦痛をなくそうと、なんらかの行為にこだわってしまう人は、タイプが違うのです。
認知タイプと運動性タイプに分けるだけではなく、なぜ強迫観念主体と強迫行為主体に分けたほうが良いかというと、治療方法がまったく違うからです。

強迫行為主体型は、表面的には強迫性障害でも、実際には、強迫性パーソナリティ障害(病的完璧主義)の人とか、強迫行為の依存症の人などですから、強迫観念による強迫行為ではありません。
強迫行為を強く求めていることで、強迫観念のような不快な思考が浮かんでしまうのです。
実際には、強迫観念ではなく、なにかをしようとする欲求や願望の衝動自体にとらわれている人なのです。
欲求的な衝動で、なにかをしなければいけないという状態は、強迫観念による強迫行為とは別のことなのです。
このタイプは、普通の説明に書いてあるような療法でも問題ありません。

強迫観念主体型は、実際に神経過敏で病的に感受性が強いことで、強迫観念が浮かんで、それを解消しようと強迫行為をしないといけなくなります。
過敏であることで、不安や嫌悪、恐怖などを感じやすく、それがなかなか消えない強迫状態になって、それを回避しようと衝動が起こり、その衝動にも強迫されて強迫行為をするのです。
ストレス反応での衝動ですから、ストレスを対処しないと、衝動も治まりません。
不安や嫌悪、恐怖、それを浮かばせる現実のストレスだけではなく、衝動自体もストレスになりますから、ストレス耐性が低いと、それらに耐えられなくて、強迫行為をするしかなくなり、その強迫行為もストレスになって、鬱になってしまいますが、神経過敏のままですから、どれだけ鬱で不活発になっても強迫行為はしないといけないという苦痛状態が続きます。

強迫観念主体型が、本来の強迫症で、認知とか行動の問題ではなく、神経過敏でストレス耐性が低いことによる症状です。
元々の過敏性を治せないままに、表面的に症状だけ治せば、本人には実際に危険な状態になりますから、表面的に症状だけ治すということさえできないのです。

子供はうつ病になりにくいのですが、敏感な子供は、不安や嫌悪、恐怖などを感じやすいので、思春期ぐらいになってくると、強迫症を発症しやすくなります。
通常は、大人になって何らかの強いストレス体験が続いても、強迫症にはならずに、単にうつ病になります。
強迫症は、元々からストレス感受性が強い敏感な人がなりやすい病気なので、25歳以降までストレスに持ち堪えることができないのです。
それができる人は、強迫症にはなりませんから、25歳以降の発症が少ないのですが、何らかの原因で、急に神経過敏になって発症する人もいます。
特に女性は20代に社会に出てからとか、妊娠出産の前後にも発症しやすいことが知られていますが、子供の頃から過敏な人よりは治しやすい可能性があります。

強迫性障害は、強迫観念の反復性があるので、重症化していくのが普通で、よほどの軽症段階(不安症に近い状態)でない限り、今のところ治療できません。
根本問題の神経過敏を治す方法がないから、強迫性障害も治せないのです。
強迫行為をするのは仕方ないとして、それだけではなく、+αで何をするかが大事になります。
もちろんそれもできなくなってしのうのが強迫症なので、せめてそれができるように治療をすることになります。

ですが、不潔恐怖、汚染恐怖、伝染恐怖などのある強迫症患者にとって、病院は行き難い場所であり、医療機関側が安心して入れるような工夫をしない限り、病気になっても病院に行けない問題があります。
清潔で刺激の少ない安心できる空間になれば、なんとか行けるようになります。
不安を煽ったり、恐怖ごとなどをイメージしてしまう情報でも症状が出ますから、そういう貼り紙とか、新聞、雑誌、テレビはいりません。
子供用絵本や癒し系、健康関連などの刺激の少ない内容の物なら置いてあっても良いでしょう。

強迫性障害は、ストレス過敏性障害とも言えます。
本当は危害ではないことを恐怖するなら、間違った認知ですが、本人にとって本当に危害があることを恐怖するのは間違った認知ではありません。
実際に敏感でストレスに弱いので、些細なことが危害になってしまうから、強迫症状が出ているのです。
過敏な分、不快な思考、感情、気分などが浮かびやすいし、過敏な分、不快な思考、感情、気分自体からもダメージを受けて、長く残ってなかなか消えてくれません。
その症状が過剰になって、日常生活や社会での障害になります。

現実のストレス反応なら恐怖症ではないかとなりますが、強迫症の場合、その恐怖が長く強く残って、なかなか消えないという恐怖による強迫状態(恐怖が離れない状態)に悩まされるので、恐怖症ではなく強迫症と言うのです。
もちろん恐怖だけではなく、不快なことであれば、現実のストレス、思考のストレス問わず、なんにでも慢性的に強迫されています。
ただし、過敏であるだけで、現実は把握できますから、妄想(非現実)に強迫される病気ではありません。

治せないにしても、悪化を防ぐために治療は受けたほうがいいですが、強迫観念主体の強迫症の場合、一般的な説明に出てくるような心理療法ではなく、薬物療法と自宅での療養生活が向いています。

瀧に打たれながらの瞑想とかは、健康人向けです。
日常生活も困難な人は、曝露される状況に慣れる必要はありません。それは無理なのです。
我慢したり、嫌なことをする治療は向いていません。
ストレスに曝露される状態にして、そこで安心を得ることなど絶対にできません。

完全に安心できる状況の中でも、強迫観念が浮かぶのですから、何も考えないようにするという練習も困難です。

強迫行為をしてはいけないわけではありません。しなくてはならなくなってしまう病気ですから、症状は仕方ないとして、その上で、安心できる状況で、ポジティヴな考えを持てるようにする練習のほうがしやすいはずです。
強迫観念はそのポジティヴな考えを無視して浮かび続けますから、強迫観念があるのも強迫行為をするのもどうしようもないのですが、それだけで終わらずに、それプラス、何ができるかになります。

森田療法とか認知行動療法は、強迫症には不向きです。
そもそもまったく勘違いした強迫症を作り上げて、それを治せると言っているだけです。

森田療法では、恐怖とか嫌悪の生理反応はなくせないのに、強迫行為でなくそうとするから苦しいのだ。そして、生理反応としての強迫観念が浮かぶのは、健康で幸せに生きたい欲求が強いからで、強迫観念はあるがままにして、強迫行為をせずに、その欲求を満たすようなことに取り組めば良いと言っています。

これは勘違いで、強迫観念をなくそうとするから苦しいのではなく、強迫観念が苦痛だから、なくそうとするのです。
トゲが刺さっているのに、その痛みをあるがままにして、他のことをしていれば、自然とトゲが抜けて、痛みが消えるということはありません。
他のことができなくなってしまうので、痛みをなくそうとトゲを抜くのが強迫行為です。
痛みをなくそうとするのは、健康で幸せに生きたい欲求が強いからではなく、単に苦痛が耐えられないからです。

健康で幸せに生きたいというのは生存本能ですから、大体の人にあるのですが、強迫症の人が普通の人よりも特別に強いということではありません。
もし、健康で幸せに生きたい欲求がなくても、逆にもう生きたくないと思っていても、そういう欲求とか意思に関係なく、ストレスへの生理反応として自然と強迫症状が起こるのです。
強迫症の人は、過敏でストレスへの感受性が強いので、実際に些細なことでダメージを受けやすく、そういうストレス反応が起こりやすくなりますから、それを対処するために強迫行為も過剰になっているのです。

強迫観念はなくせないから、それをあるがままにして、強迫行為はさせない(他のことに取り組む)というのは、現実のストレスとか強迫観念自体からのストレスは我慢しなさいということですから、ストレス耐性の低い人には無理があるのです。

もちろん神経質な性格が原因での強迫症状でしたら、実際には神経過敏ではありませんから、その範囲なら治せる可能性はあります。
療法の理論に適した病気(神経質)を作り上げて、その範囲であれば治せるというだけで、その範囲でない本当の強迫症患者は除外してしまっているのです。

認知行動療法も同じで、療法に適した強迫症を作り出して、それが全ての強迫症であるかのように言っているのですが、本当の強迫症は除外しています。

製薬会社にとっては薬が商品でもあるように、認知行動療法も商品化されて、それを売るビジネスをしている人達がいます。
このビジネスの場合、売る相手は、患者ではなく、認知行動療法をする立場の人達ですから、実際に患者の病気が治せなくても、治せるという話を作り上げて、治療法として研修などで布教できれば良いのです。
ビジネス的には当然治しやすい病気であるほうが都合がいいので、病理の内容自体を療法の理論に合わせることで治しやすくして、治療率を上げているのです。
認知行動療法の治療率には、途中でやめた患者とか、取り組めない患者は含まれていませんから、ほとんどが不安症に近い人とか軽症患者になります。
それであれば、ある程度治せる人がいるのは当たり前ですが、その数字だけで、適切な治療法と言っているだけで、実際にはほとんどの人達が取り組んでもいないのです。
途中でやめた患者、拒否している患者、受ける気もない患者にこそ本当の強迫症の人達が多いのですから、そういう人達を認知行動療法で治せない患者に含めれば、認知行動療法は、実際にはほとんどの人達を治せていません。
本当の患者が取り組めないような認知行動療法が適切な療法であるわけがありません。

しかも、多くの症例で、抗精神病薬を使っていて、その時点で、大きく改善していますから、強迫症患者を治しているわけではなく、妄想(非現実反応)に近い強迫観念の人とか、統合失調症の軽い強迫症状だったり、完璧主義的な誇大妄想による強迫症状などを治していることも考えられます。
大雑把には抗うつ薬抗精神病薬ぐらいしかありませんから、抗うつ薬が効かなければ、抗精神病薬ぐらいしかないのですが、それが適切というよりは、今のところ他にないから、それを使うぐらいしかないということなのです。
抗精神病薬は非現実の幻覚妄想を鎮める薬なので、それが効くのであれば、本当の強迫症ではありません。

強迫観念は現実反応なので薬は効きません。現実に強迫観念を浮かばせるような問題があるので、その現実を変えないと、強迫観念は消えません。
もちろん、こうなってしまうかもみたいな未来の不安であれば、時間が経つと消えていく場合もありますが、それができるのは、普通の不安であり、それがなかなかできないからこそ、強迫観念なのです。
そして、実際に起こっていることでの恐怖、嫌悪による強迫状態は、未来の不安ではありませんから、強迫行為でそのストレス対象の現実を変えないと、強迫観念は消えません。

強迫行為をするほど強迫観念が浮かびやすいとか、強迫行為を止めれば、強迫観念も消えていくというのは間違いです。
社会にいれば、強迫行為ができない状況は多々あるのですが、そうなれば苦痛を我慢するしかなく、そのストレスで鬱が悪化してしまうのです。
強迫行為を止めても、不安、恐怖、嫌悪などが続いて強迫され続けるから、強迫観念なのです。

本当の強迫症患者はストレス耐性が低いので、適切な療法として考えれば、当然、侵襲性のない療法でないといけません。
神経過敏は鍛えられることではなく、無理に慣らそうとすると、逆に脆くなりますから、ストレスに曝す曝露反応妨害はまったく不適切です。

強迫性障害であると、ストレス対象のない本来なら安心できる状況でも、強迫観念が浮かんで、まったく安心できないのです。
普通の不安とか恐怖観念と違って、ストレス対象から離れて時間が経っても、その嫌なことへの嫌な思い、嫌な記憶、不安な思い、心配などが、強迫観念として残りなくならないのです。
これは神経過敏症状ですから、考え方が悪いと言うよりは、基本的には脳機能とか神経の問題です。
ですから、それを修正するような考えを持とうとしても、人からどう言われようと、そういう意向に関係なく、そうなってしまいます。
言葉での思い込みとか、心掛けとか、そういうレベルでは通じない病気なのです。

強迫観念主体型の場合、神経過敏の問題があり、根本からは治せません。
強迫観念を頭の中で振り払ったり、強迫行為をすることは、不合理で役に立ちませんが、それは治りませんから、その上で、もう少しポジティヴなこともしたいのです。

ただ、強迫観念が強いと、それもできないから、悪化するのです。
悪化すると、益々、ネガティヴになり、さらに悪化します。

まずは、ストレスの少ない生活環境にしたいのですが、それは孤立しているとできません。

ある程度、巻き込んで、迷惑をかけてでも、人との繋がりがあったほうが良いのですが、巻き込んで、迷惑をかけるのは嫌でしょうし、巻き込んで、迷惑をかけていれば、嫌がられて孤立します。
そもそも汚染恐怖があると巻き込みさえできませんから、孤立するしかなくなります。

特に、物質的/精神的な不潔恐怖や汚染恐怖の強迫症状があると、触れない物が多くなったり、行けない場所が増えたり、人との人間関係が維持できなくなり、孤立しやすくなります。

そういう強迫症状で、病院に行けずに、ほとんど孤立しているような人も、なんとか患者になったほうが良いです。

患者になったほうが、その範囲での人との繋がりができて、社会の輪に入っている感覚が得られます。

病気や障害のある患者が生きやすいようにするのが医療とか福祉なのですが、症状がそこへの繋がりもブロックしている場合、それを受けるまでに何年も何十年もかかってしまいます。

神経過敏であると、いろんなことが危害となってしまいますが、汚染恐怖などの強迫観念があると、人と接することもできなくなり、結局、愛を受け取れないとか、人を愛せないという状態になります。
そのことが余計に不安を強めて、益々、愛が持てなくなります。
そうするとなかなか安心できませんから、強迫症状も悪化します。

強迫性障害で一番の問題は、愛が少なくなってしまうことで、癒されない楽しめない安心できないという慢性不安で、それが恐怖や嫌悪なども強めます。
強迫観念は基本的に本人にしか分かりませんから、感覚やものの考え方の違いにより、生活作法も普通ではなくなり、人との繋がりが困難になってしまうのです。

強迫症の人も愛はあるのですが、精神的にも孤立しやすいので、愛を使えません。
愛は受け取ったり、伝えたりしないと少なくなっていきます。
少なくなってしまうと、その愛を守る意識が強まり、使えなくなります。
強迫観念が強いと、どうしてもそうなってしまうのですが、間接的にでも愛を受け取ったり、愛を表現したり、伝えることで、愛が増えて、その分、安心もできるようになります。

そういう意味では、愛することは強迫観念に対する強迫行為になりえるのですが、あいにく、強迫観念はそういう愛にも関わりなく浮かんでしまうようです。
もし好きな人に大丈夫だからと言われても残り続けるのが強迫観念です。
洗浄とか確認とかで、強迫観念を一時的に抑えられるにしても、やりたくもないという意味でも愛らしくありません。
強迫行為は神経過敏でしないといけない症状であり、それは愛することとは別のことです。
愛する行為は、自発的なことで、強迫観念に強迫されてやらされることではありません。

強迫観念には愛も勝てないぐらいですから、強迫症の人は、強迫症状の昇華もできません。
強迫症の人の強迫行為は、単に現実のストレスや強迫観念に弱いことでの症状なので、現実のストレスや強迫観念の対処にしか役に立たないのです。
強迫観念は現実反応なので、特定のストレス対象が決まっていて、それを他のことに転換することはできませんし、強迫行為もほんとはしたくないので、そもそもその欲求がなく、その行為を他のことに昇華することができません。

逆に強迫行為主体型は、ほんとはその行為を求めているので、社会的行動で昇華できる可能性もあります。
実際に完璧主義の人は社会的に活躍しやすいし、スポーツ選手や芸術家など、キッチリ感、完全感などへのこだわりを活かせることは多くあります。
きれい好きなら、不潔が嫌できれいにしたいという欲求を、なんらかの社会的行動で昇華することができます。
こんまりさん(病気ではありませんが)のように生理整頓しないと気が済まない人は、それを役立たせることができます。

強迫症の症状はどうしようもありませんし、その症状による人間性の変化も避けられませんが、それプラス、何ができるかが課題です。
その範囲で、愛することも増やせれば、不安も軽減する可能性があります。
それは一時的かもしれませんが、良いことをすれば心に残りますから、多少、後々にも良い作用が続くはずです。

何もできなければ、症状が強まらないある程度は安心できる状況の時に、どんな人間でいられるかという感じになります。


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