強迫性障害の全貌

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汚染恐怖の人はなぜそんなに汚染が苦痛なのか?/汚染恐怖だと掃除ができない?

汚染恐怖は、強迫性障害で一番多い症状ですが、これが重症の人は、汚染や感染恐怖での接触拒絶があり、病院などに行けずに、ほぼ引き篭もりになりやすいので、そんなに多くいることが知られていません。

汚染される不安とか、汚染への恐怖や嫌悪が浮かんで、それがなかなか離れないのですが、未来への不安が強いだけでなく、実際に汚されることも多くなります。

強迫症状による苦痛は、

現実による直接的苦痛・・・現実のストレス対象による直接の苦痛。強迫観念を浮かばせたり、強迫観念を煽られる物事による苦痛。

強迫観念による苦痛・・・不快な強迫観念が強まり離れないことによる苦痛。

強迫行為の苦痛・・・強迫行為をしないといけないことでの苦痛。

症状での苦痛・・・強迫症状や関連症状で日常生活が困難になってしまう苦痛。

対人面での苦痛・・・親しい人間関係さえ維持できなくて孤立する苦痛。

社会的経済的苦痛・・・社会適応できなくなって収入が得られない苦痛。それなのに汚染された物を捨てたり、長時間洗浄しないといけない苦痛。情報汚染恐怖で情報を避けないといけない苦痛。

健康面での苦痛・・・病気になっても症状で病院に行けない苦痛。接触拒絶で適切な検査や治療が受けられない苦痛。

衛生面での苦痛・・・掃除などが困難になってしまう苦痛。

その他、いろいろありますが、汚染恐怖の人が一番苦痛も多くなり、生活も孤立化しやすく不自由にもなりやすいです。
汚れなんて実際には害は無いというのは勘違いで、強迫症の人であると、これらの苦痛が実害になり人生を台無しにすることもあるのです。
思考にせよ、何にせよ、すごく嫌なものが離れなくなったら、誰でも嫌でしょう。普通の人ならそうならないことでも、強迫性障害であると、そうなってしまうのです。

そういう苦痛を引き起こすのが汚染ですから、汚染を恐怖したり心配したり嫌悪し続け、その苦痛で精神異常にもなりまから、それを正常にしようとする行為が強迫行為です。
強迫行為自体はまともなことですが、苦痛の強迫性が強いので、時間がかかったり、度が過ぎてしまいそれも苦痛になります。

神経過敏=些細なことでもダメージを受けやすく、不安や恐怖、嫌悪などが長く残ってしまう→強迫状態

普通の人は、不安や恐怖があっても、強迫状態にはならないので、不安や恐怖にとらわれ難い。

嫌悪対象の汚れは、嫌悪している物事そのものですから、不潔恐怖の場合、それが不潔自体であることもありますが、汚染恐怖は、多くの場合、汚れ自体の不快感だけでなく、その汚れが耐えられないほど嫌悪していることと結び付いているので、その物事による汚染が苦痛で耐えられないのです。

汚染の強迫観念は現在過去未来の時空間のどこにでもありえますから、今現在の実際に体験する汚染だけでなく、トラウマで過去からも汚染されるし、未来が汚染されることも防がないといけなくなります。

汚染されると、その嫌悪している物事に接して蝕まれる状態になり、トラウマにも触れてしまいます。
その苦痛を引き起こすことは、本人には実際に危害のあることですから、避けないわけにもいきません。

過去による恐怖強迫・・・トラウマ強迫→強迫性が強いとトラウマ汚染になります。

不快な体験の記憶、トラウマ記憶の想起が苦痛なのは、不快な記憶には苦痛な感情も結び付いているからです。
記憶であって現実そのものではないのですが、現実にあったことであれば、現実と結び付いているし、それが頭に浮かんで離れないと苦痛も続いてしまうから嫌なのです。
強迫観念自体も記憶に残り、強迫症状による苦しみも記憶に残り、それが何度もフラッシュバックすることで、強迫観念が強固になり、強迫症状も悪化して行きます。

今現在の現実のストレスによる強迫観念には、当然苦痛な感情も結び付いていますが、過敏であることで、強迫性が強まり、ストレス対象から離れて時間が経っても、そのストレス対象の記憶と苦痛が頭から離れなくなります。
そういう強迫観念は、思考であって現実そのものではないのですが、現実の何かに反応しての思考であり、現実と結び付いていますから、それが頭に浮かんで離れないと苦痛も続いてしまうから耐えられないのです。

例えば、汚染恐怖の場合、汚される不安や汚れることでの苦痛だけでなく、汚れの元にある嫌悪対象(トラウマ)が頭の中から離れなくなってしまう苦痛も重なっています。
現実面や肉体面だけでなく、精神的にも汚れ(トラウマ)に蝕まれる苦痛があるのです。

ありえない事を心配するのが強迫観念と思っている人もいますが、不安や嫌悪や恐怖などの思いの「強迫性が強いこと」が強迫症特有の症状なのです。
心配の場合は、その心配に慢性的に強迫され強迫症状が出ますから、単に心配が強まるだけでなく、強迫症状によって様々な苦痛を受けてしまいます。
その強迫性により、ありえない心配も強まりますが、当然、実際にありえることの心配にも強迫され、どちらにせよ強迫されるのが苦痛なのです。

普通の不安よりも強迫性が強くいことで、強迫性障害特有の症状が出るのですが、強迫性が強いことで不安も強まり長く残ってしまい、ほとんどありえないようなことでも、その思いに強迫され続けることで、ありえるように思えたり、ありえないと思っているにしても、そういう不快な思いが離れないこと自体(不快な強迫観念に付着されること)が苦痛なのです。

そういう強迫観念は未来への不安や恐怖で起こりますが、未来への恐怖(不安、心配)だけが強迫観念ではありません。
現実による実際体験の恐怖、過去による恐怖にも強迫され、その恐怖も強迫観念となり、そういう恐怖体験により、未来への不安が強まり、回避や対策などで悩まされるのです。
現実にそれがほとんどありえないことでも、未来への不安が強まり離れないことも苦痛なので、そういう現実が起こらないようにと、同時に、そういう「不安自体(強迫観念)」が起こらないための対策として強迫行為をすることもあります。
繰り返し確認などもそうです。
強迫観念が残ってしまうと、不安なそれが起こるように思えますから、確認したと分かっていても、不安な強迫観念が続く限り確認しようとします。

不安が強いと、自然と、「何から」身を守るべきかをイメージすることになり、それが強迫観念化すると、その思いが固着して離れなくなります。
本人にとっては、あってはならない嫌な内容なので、思いたくないし、考えたくもないのですが、その強迫観念がないと防げなくなってしまうので、強迫観念が消えないのです。
ですから、不安や恐怖、嫌悪などが強いほど、その対象からのダメージを防ごうと、強迫観念も強まるのです。
頭で考えてそうしているのではなく、過敏性の強いストレスに弱い人は、生理反応的にそうなっているのです。

普通の人なら気にしないことでも、強迫症だと強迫観念になって、その心配が離れなくなります。
そんなことないと思っていても、その思いに関わらず、強迫観念はあり続けるので、ありえるイメージや考えが残るのですから、どうしてもとらわれてしまいます。

ただ、ありえないことへの不安が強迫観念なのではなく、不潔への接触とか、汚れることへの心配は普通にありえることで、実際によく起こることでもあります。

汚染恐怖の強迫観念は、接触したかよく分からない時などに、汚れたかもと思うことはありますが、大抵の場合、「汚れた」という確信なのです。
ありもしないことへの不安ではなく、実際に汚れているから強迫観念ではないとかではなく、その汚れに強迫されて、汚れが離れない状態が、強迫観念化した汚れなのです。

ありえない事の心配だけでなく、現実に起こっていることでの恐怖や嫌悪なども、それにより強迫されることで、強迫症状が出るのです。
不安や嫌悪や恐怖などの思いが離れない状態が強迫なので、汚されてしまうかもという不安や心配も強迫観念になれば、汚されたこと自体の体験や嫌悪も強迫観念になります。
ですから、普通は汚れないことで「汚れた」と確信しているとしても、妄想ではありません。

強迫状態の苦痛を引き起こす現実のストレスは、それにより強迫を受けるという実害があり、実際の危害ですから、避けないわけにもいきませんから、強迫行為で防いだり、害を受ければ、強迫行為で対処することになります。
防ぐための強迫行為も、対処するための強迫行為も、それをしなくてはいけなくなってしまう苦痛があり、それも実害なので、根拠もなく、ありもしないことを心配しているわけではありません。

新型コロナが手についているかも、または、手に付いていると確信して、過剰に手を洗うとしても、現実の何かへの恐怖ですから、妄想による行為ではありません。
妄想の場合は、現実の何かとは無関係の「妄想上の現実」=「非現実のこと」に恐怖します。

強迫観念は過敏反応による過剰思考という意味で妄想的になりますが、これも現実の何かへの恐怖などですから、妄想ではありません。
強迫性障害の人は、感性、感受性が強いから、思考も違ってくるのですが、感性、感受性が強いからこそ、現実をよく分かることになり、「強迫観念の現実」=「現実のこと」なのです。

強迫観念は嫌な内容の思考や記憶などですが、今現在のストレス体験によって浮かぶだけでなく、そのことへの未来的な不安、そのことでの過去の記憶も強迫観念になります。
現実には起こっていない、起こり難いことへの心配であっても、その心配が浮かんで離れないこと自体も苦痛なのです。
トラウマの想起が苦痛であることと同じです。

普通の不安や恐怖思考とも違い、強迫性が強くその心配が強迫観念となって離れないことで、頭ではありえないと考えていても、その考えに無関係に強迫観念は浮かぶため、どうしてもありえるように思えたり、その思いが離れないこと自体も苦痛となり、現実にそうならないようにすると同時に、そういう不安が浮かばないようにしようして、強迫行為をするのです。
ですから、強迫行為をしても強迫観念が残ってしまえば、また強迫行為をすることになり、繰り返し確認したり、長時間洗浄したりします。

この強迫性の強さは、ありえないことをありえるように思わせるだけでなく、強迫性により付着性も強まりますから、本来、感染しない病気が感染するように思えたり、一般的には汚れとして付着しないものでも汚されるようになります。
例えば、新型コロナへの恐怖が強迫観念化すると、そういうニュースを見聞きするだけでも、強迫的に関連付きが起こり、その恐怖情報が離れなくなってしまう=情報の付着(情報汚染)となって、洗浄強迫に繋がります。
普通の人でも何か嫌なものがあって、その写真、映像とか、その話だけでも嫌悪感が強まることは普通にありますが、通常は時間が経てば恐怖反応も弱まりますから、それに付着を感じることはありません。
その恐怖や嫌悪が強迫観念となってしまうと、強迫性が強い=付着して離れない状態になって、それが表象幻覚となり、見聞きしたり接近しただけの情報であっても、物質的な汚れの汚染と同じ状態になってしまうのです。
例えば、テレビの悪いニュース映像などでも汚れてしまう人もいます(テレビ汚染、情報汚染)。

物質的な汚染を恐怖する傾向は普通の人にもありますが、強迫性障害の人は、その恐怖が強迫観念になってしまうことで、精神的に汚染されることにもなります。
精神的汚染は、感性による汚染で、恐怖や嫌悪が強迫観念として離れなくなってしまうことで、恐怖対象や嫌悪対象に汚染される形になってしまうのですが、現実の何かの汚れなので、同時に物質的汚染でもあります。
例えば、汚らわしい物事などに嫌悪したり恐怖する→嫌悪や恐怖が強迫観念として残り続ける→不幸感を感じその思いが離れなくなってしまう(強迫観念に感染)→嫌悪対象に感化され自分という存在が蝕まれてしまう怖さが強まる(精神への物質的汚染)→嫌悪対象による強迫観念が離れないことで、それが汚れとなり、そのイメージが表象幻覚となって身の周りから離れなくなってしまう(肉体、物質の精神的汚染)→汚染された物を捨てたり、自分自身を洗浄することで汚れを切り離す→汚染された場所は洗浄できなければ回避し続ける→その汚染区域からの汚れはその後ずっと防ごうとし続ける。

これはPTSDの人がトラウマ関連の物事を避ける症状に似ていますが、強迫性障害の人は、トラウマ体験も強迫観念になって、離れなくなりますから、トラウマ=汚れとなり、トラウマ汚染恐怖になってしまうのです。

嫌なこととか怖いことにまとわり付かれるのは誰でも苦痛なのです。
例えばカエルの嫌いな人がカエルに飛び付かれたりすれば嫌でしょうし、それを離そうにも離れなくなれば、その状態で普通の生活はできません。付着したことで汚されでもしたら、もっと嫌いになります。
そういう苦痛が日常的慢性的に続くのが強迫状態ですから、日常生活が困難になってしまうのです。
神経過敏だと普通はストレスのないことも危害を受けますから、嫌なこととか怖いことが増えて、それに対する心配、不安も強まります。
そうなってしまうかもというような、心配、不安も強迫観念になりますが、それだけではありません。
特に汚染の場合は、心配だけでなく、実際に汚される苦痛も多いのです。
それは普通の人にとっては汚れではない(付着しない)ことでも、強迫観念となってしまえば、付着してしまう実際の汚れになります。
強迫観念として嫌な思いが離れなくなってしまうのも心の中での汚染なのですが、それは現実の何かなので、物質的な汚染にもなって、強迫性が強く離れないことで落とし難くなり、普通の汚れよりも苦痛が長く強くなり増倍するのです。

不潔恐怖の人で不潔は嫌でも汚染はあまり気にならないということはあるかもしれません。

汚染恐怖の汚れは、普通の不潔な汚れだけでなく、不正な不道徳な物事とか、暴力であったり、トラウマの汚れであったり、何らかの嫌悪するような物事が汚染源となっていることが多いのです。
その意味での汚染は、嫌悪していることへの関連付きや、嫌悪していることへの感染恐怖などですから、本人にしか分からない汚れである場合が多く、精神的物質的に時空間の広範囲に渡って汚染への嫌悪があります。
遠い場所の汚れ、近くの汚れ、付着した汚れ、心の中の汚れ、という感じで、本人の経験や感性による基準で汚れがありますが、他人には分からなくても、本人には実際にある汚れなのです。

汚染恐怖の人は掃除ができない?

新型コロナは空気感染しないとか、紙とか物の上では長生きし難いと言われています。
空気感染しないとも言われますから、空気中にとどまるのではなく、感染者から直接または間接的に運ばれることになります。
触ったり体の表面への付着だけでは発病しないのですが、体内に入ると感染し、普通の人なら軽症で済みますが、体の弱い人などは重症になります。

強迫性障害(不潔恐怖、汚染恐怖)の人は、すでに発病しているので、不潔や汚れが付着するだけでも実害があり、(精神的な汚れも含めれば)気付きだけで感染して精神的ダメージを与えます。
精神があるのは体ですから、精神的ダメージは、体へのダメージでもあり、実際に強迫行為をしないといけなくなってしまう苦痛は体へも実害なのです。
不潔は紙とか物の上でも洗わない限り付いたままになりますから、汚染恐怖が強いと紙とか物の扱いも困難になり、そういう不便することでの苦痛も汚染による実際の害なのです。

不潔の苦痛自体は普通の人でも起こることはありますが、強迫性障害であると強迫症状があるので苦痛(汚れ)が強く長く残って離れなくなってしまうのです。
その症状で、憂鬱気分、過剰警戒心、ネガティヴ思考なども悪化するというのも実害です。

新型コロナに感染しても無症状の人、軽症で済む人は多くいます。その範囲では大したことなくても、感染者が増えると、重症になりやすい人に感染させる確率が増えますから、そこが危険なので、休校とかしているのです。

不潔に感染しても(特に見えない汚れの場合)ほとんどの人は無症状です。強迫症の人は元々から不潔感染症強迫症状があるので、不潔程度でも実害としてダメージを受け、苦痛が強まって、強迫行為も過度になります。

不潔で強迫症状が悪化するのは、強迫性障害の人ですから、ごく一部の人であるために、騒ぎにはなりませんから、ひっそりと自分で防ぐしかないのです。

今はドアノブとかエレベーターのボタンなどは危険物扱いされています。
お金とかペットなどを汚く思う人も増えたかもしれません。
強迫性障害は元々触れない物も多いのですが、認知行動療法では、それはそんなに汚くない危険ではないと思わせようとするのです。
不潔自体で症状が出るのですから、大丈夫なわけがないどころか、病気の感染リスクも高める不潔で危険な療法なのです。
多くの人が触るものは実際に汚い。それで苦痛を受けるのですから、汚れないようにしたり、汚い物が付着すれば洗うのは当然です。
普通の人ならともかく、強迫症はストレス耐性が低く、苦痛に慣れないから強迫症なので、過敏性を治せないまま、ストレスに我慢させれば悪化するだけです。

新型コロナに感染するように思える恐怖とか心配(感染恐怖症)は、普通の人にも起こります。
強迫性障害でなければ、不潔や汚れで危害を受ける人は少ないのですが、本人にとっては実際に危害があるからこそ避けようとするのです。
汚されそうな状況とか、汚された状況になれば、強迫観念となっている汚染恐怖が強まり、それによる苦痛も強まり、回避や強迫行為をしないといけなくなってしまう苦痛も重なります。

新型コロナとかは感染することで症状が出るから自分でも気付けるのですが、不潔とか汚れの場合は、慢性的に強迫症状が出ていることで、どうしても気付いてしまい再感染するのです。
汚染の強迫観念がない普通の人は気にならないので無害なのですが、汚染恐怖や不潔恐怖の人だと、汚れに強迫され強迫観念が浮かんで、見えない汚れでも気づいてしまうのです。

見える汚れとか、分かりやすい汚れなら、普通の人でも気付けますから、気にする人は洗ったりします。何かに汚されれば精神的にも嫌でしょうし、汚れて捨てることになったら嫌でしょうし、洗うことになったらめんどうなことになりますから、汚されるというのは確かに実害があるのです。
強迫症の場合は、普通は気にしないような見えない汚れも気付いてしまい、それが強迫観念(汚れの表象幻覚、不快な記憶の付着など)として強く長く残りなかなか消えなくなりますから、普通の人の見える汚れよりも苦痛も実害も大きいのです。

見える汚れでもまったく気にならない人は、最初から汚い格好をしていますから、そういう人にとっては汚れも無害です。
そういう人は、不潔が気にならないとか、周りの人の迷惑を考えられない病気である場合もありますが、強迫性障害はそういう病気とはまったく逆で、鈍感になれない人達なのです。

不潔恐怖や汚染恐怖にも、きれい好きのように好き好んで清潔にしていたい人も含まれていて、そういう人も不潔な状態を嫌悪します。
ただ、これは、不潔嫌悪に先行して、きれいにしていたいという欲求が強いことで、きれいにできないことで不満が浮かぶので、本来の強迫観念ではありません。

強迫観念は強迫行為ができないことで生じるのではなく、先行して強迫観念があることで、その苦痛を解消しようと嫌でもしないといけなくなってしまうのが強迫行為なのです。
強迫行為は自分で選択してすることではなく、強迫症状があれば、そうするしかないのです。

強迫行為の安心感に依存することで、強迫症状が悪化する、強迫行為をしなければ、強迫観念も解消できるという考えは間違いです。
強迫行為をするから安心を求めて繰り返してしまうというのは、依存症のことです。
求めてしていることができないから苦痛というのは、依存症的な苦痛なのです。

強迫行為はそれをしたいという欲求へのとらわれではありませんから、強迫行為ができないから強迫観念が浮かぶわけでもなく、強迫行為に関係なく先に強迫観念がありますから、強迫行為ができなければ苦痛が続くだけです。
安心感への依存でしている行為ではなく、神経過敏でストレスに弱い限り、その苦痛を対処しようと、強迫行為をするのです。
その苦痛の強さの分、強迫行為も過剰にするしかないのです。

強迫症であると、できれば強迫行為をしたくないからこそ、強迫観念の特定の汚れさえ解消できれば良く、好んで清潔にしていたい人とは違い、あまり気にならない汚れは放置するのです。

きれい好きの人であれば、徹底的にそういう汚れもきれいにしようとしますが、それは汚染恐怖や不潔恐怖の強迫観念がないからこそできるのです。
汚染恐怖や不潔恐怖が強い強迫症の人は、不潔や汚染への抵抗が強すぎで、触れなかったり、効率よく扱えないので、掃除や整理整頓などが困難になってしまいます。
特に汚染することへの恐怖、嫌悪が強いと、汚い物を触った手で、きれいな物を触れなかったり、汚い物(洗えない物、不快な記憶が染み付いている物など)ときれいな物を一緒に保存することなどもできませんから、ゴミのビニール袋などで大雑把に分けたまま、部屋の中に物を放置しやすく、見た目、汚い部屋のようになります。
そこに捨ててしまうことでの不安も重なれば、とりあえずキープすることになり、そのままため込み部屋になります。

ただ、汚染恐怖や不潔恐怖が強いと必ず汚部屋になってしまうとは限らず、ある程度元気のある人でしたら、部屋に汚い物がある恐怖によって、きれいにするということもあり得ると思います。
汚染は気にならないが、散らかっていると気になってしまうとかであれば、強迫行為として掃除や生理整頓が捗ることもありえます。

しかし、重症の強迫症の人は、抑うつが強いことも重なり、自分に付着しやすい特定の汚れだけ気にして、他のことは放置したままになりやすいのです。
病的(強迫的)な衛生は、そもそも好きできれいにしているのではないのですから、鬱も重なっていれば、掃除にやる気が出るわけもなく、自分の体とか、特定の服とか、布団の周りだけきれいにするとかで精一杯なので、それ以上は無理なのです。

何かの恐怖に強迫されるというのは、恐怖対象から離れて時間が経っても、その恐怖が強迫観念となって残ってしまうことで、その恐怖体験の記憶、そのイメージ、その感情、そのことへの心配、不安が頭から離れなくなって、現実の恐怖対象だけでなく、その強迫観念に対しての嫌な気分も続いてしまいます。

強迫観念が強い状態は、人にとって精神不安定で異常な状態ですから、その状態では、掃除や生理整頓というまともなことができません。
神経過敏でストレスに弱い人は、些細な刺激でもダメージがありますから、正常な状態を維持し難く、異常な状態を正常にしようと強迫行為をするのですから、強迫行為は病気ではありませんが、選択して求めてしているのではなく、それしかないのです。
ストレスに我慢をすれば、異常なままになってしまうので、生存本能として無理があるのです。

神経過敏による強迫状態は、脳の神経回路の問題だという研究発表がありましたが、治療に結び付くことはまだまだ先で、簡単なことではありません。

神経過敏でも元気のある内は、危害によるダメージをある程度受け入れられますが、ストレスに弱いのにそれを続けると鬱になります。
鬱も同じですが、ストレスに弱い状態だと、ポジティヴになったら危険なので、ネガティヴなのです。

過敏でストレスを受けやすいと、ダメージを受けることが多くなり、警戒心が強まり、ネガティヴ思考になります。
ポジティヴに行動すると、ダメージを受けることが増えるので、それを防ぐのが、ネガティヴ思考による消極性なのです。
ネガティヴな強迫観念が浮かぶことで、危険、危害を回避しやすくなりますが、過剰になって、普通のこともできなくなります。

回避もしたくてしているのではなく、強迫行為としての回避ですから、それ自体楽しくないのです。

ただ何もしないのもストレスは強いので、そのストレスへの強迫行為として何かしようと焦ります。
ですが、強迫症状により、できないことが多くて、どうやって生きようかと悩む人生になります。

重症の人は、強迫観念が強過ぎて、憂鬱気分、抑うつにも強迫されます。
自殺願望は頭の中での仮の強迫行為ですが、強迫症の人は、人生の苦しみ、抑うつの苦しみでの強迫行為としてそれがありながらも、自殺恐怖が強迫観念となって、葛藤で苦しみながらも生きようとします。

その状態では、幸せを感じることこともできませんから、ネガティヴ思考にしかなれません。

鬱を治したり、悪化を防ぐために治療を受けることも大事です。
福祉や医療を受けることが、社会の輪に入ることに繋がり、孤立を防ぎます。

そういう社会の輪に入るまでが大変で、そこに行くまで、人によっては、躊躇したり心配したり考え込んだりして、何年かかかると思います。
その間に悪化してしまうので、最終的にはそうせざるを得なくなりますが、本当は重症化する前にそうしたいのです。

身近に助けてくれる人がいればそれで良いのですが、症状で孤立して、付き添いが得られない人は、自分でいろいろと手続きしたり、一人で通院したりしないといけません。
重症だとそれは大変なことで、孤立していれば、誰も無理強いはしませんから、孤立したままになりやすいのですが、孤立した状態だと何のサポートも受けられずに、苦しい人生になります。

社会保障は、社会にいられるようにする保障なので、完全に引き篭もったり、社会から完全にドロップアウトしてしまうと対象外になります。
崖っぷちでも医療や福祉を通じて社会の輪に入れば、精神障害があってもなんとか生きられるようになっています。

重症であると共同生活も集団行動も困難なのですから、あくまで一人の患者としてですが、自分から頑張って福祉や医療との繋がりを持てば、孤立した個人ではなく、精神障害者という枠組みに入りますから、精神障害者用のサポートが受けられて、その分、無理なく生きやすくなります。

最低限、そこまでできて、病状と生活がある程度安定してから、何をするかなのです。

強迫観念はなくそうとしないであるがままに放置するとか、強迫行為をしてはいけないとか、ストレスを我慢して慣らすとかの行為は制約があり、逆にストレスになります。
強迫観念はあるがままにしたら苦痛ですからなくそうとして良いし、そのために強迫行為をするのも仕方がないのです。
強迫症状はどうしようもないので、それ+αで何ができるかです。

その内容によっては、強迫症状が弱まることも考えられるのですが、強迫性障害を治すために、するのではありません。
+αで強迫性障害を治すわけではないので、+αをして強迫性障害が治らなくても当然なのです。
+αをすること自体に、人生の質を向上させる価値があるのです。
他の何かのためではなく、それをするためにそれをするのが自由なので、症状を治すための行為だけではなく、それに関わりのない自由でいられる時間を作れると良いのですが、自由は危険もありますから、強迫症の人は重症であるほど危険回避で自由になれないのです。
自由にすることは、制約がありませんから、それによって安心できることもあれば、苦しむこともあります。
自由の束縛が苦しみですから、自由にすることで苦しめば、自由が束縛されます。

制約のない自由時間を作ると言っても、安心できる状況を作りながら、つまり危険は回避しながら、という制約からは離れられません。
ですが、その制約を強迫症状が強迫的にさせてくれるわけで、本人としては多少危険性があっても自由を意識するだけでバランスが取れて丁度良いのです。

自由な行為は、違和感のない、しっくりする行為ですから、自由な行為をすることが、自然と違和感への感受性を弱め、ストレス対象も気にし難く、強迫観念も浮かび難くなります。

逆に、重症だと自由な行為ができなくなって、違和感を気にしやすく、ストレス対象も気になって、強迫症状が悪化して行きます。

強迫症状が悪化するほど、自由で愛のある行為ができなくなり、益々、悪化して行くのです。

そういう難しい状況でも自由で愛のある行為を意識することが改善に向かう一歩ではあります。

何かのための行為とは無関係の+αであることで、制約がなくなり、自由になれるのです。
自由なれば愛せることも増えるでしょう。

何にもできなければ、それはそれで仕方ないのですが、何かをするというよりは、どういう人間であるか、どういう人間性でいるかという感じです。
それができれば、何かできるようにもなります。
それが意識できるのであれば、少しでもできたら良いでしょう。

具体的になにをすればいいかは人によりますが、愛のある人でいることが基本です。
そういう人は、結果的に温和でいられますから一番ストレスが少ないからです。
もちろん単にお人好しでは、だまされたりすることになりますから、いろいろと知識を身に付けて守らないといけませんが、たぶん、強迫症であれば、危険回避の強迫観念で症状が自然と守ろうとしますから、そんなに意識しなくても、強迫的に嫌でもしないといけなくなります。
そういう強迫症状が得意なことは、症状に任せて、それだけで終わらずに、+αとして愛のある人間になれれば良いのです。


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